45 ダブルピース
事務室に戻ってきて昼食を食べ終わり、弁当箱を鞄に仕舞う。
男子選抜二百メートルリレー予選、俺のチームはギリギリ八位で何とか予選を突破し、決勝に進むことができた。
これで、花櫻学園を一度ぶっ壊す為の準備は整った。だから気持ち的に少しだけホッと一息つくことができ、調子良く箸を進めることもできた。
「そろそろはるちんのハードル始まるね」
「もうそんな時間か」
事務室の時計に目を向けると、針は十四時丁度を指していた。女子六十メートルハードル決勝が始まるのは十四時十分。そろそろ移動した方が良さそうだ。
「じゃあみんな、行きましょうかっ!」
何故か一番張り切っている雪葉さんが勢い良く立ち上がった。
「じゃあ、おねーさんも行こうかな」
続いて未来先生が立ち上がり事務室の扉に手を掛けた。
「あっ……」
「ん?」
有紗の方から微かに声が聞こえた気がして目を向けると、不安げな表情を浮かべていた。
「無理しなくても、まだ休んでても良いんだぞ?」
外に出ればありとあらゆる嫌な視線だったり言葉が有紗に向けられるのは必然だし、それが怖くて足が動かないのは理解できる。
クラス対抗リレーが始まるその時、外に出てきてくれれば俺はそれで良い。
もちろん、その時になっても外に出たくないと言えばそれを否定したりはしない。だって、それほどの精神的ダメージは確実に負ってしまっているから。
「いいえ、有紗さんも行きますよ」
杠葉さんが有紗の前に立ちそう言った。
「そうは言っても、今そんな無理する必要は――」
「――行く、から。はるちゃんに観に来てって言ってもらえたから、私も、行くわっ……!」
弱々しくも最後には強く宣言し、有紗が立ち上がり、杠葉さんが有紗の肩を支えつつ事務室の外に連れて歩き出す。
「じゃ、行こっか」
雪葉さんがポンッと俺の肩に手を当て笑いかけてきた。
だから、いちいち美人なんだよ……。
なんてことを思いつつ、陽歌のハードルを観に行く為に事務室を後にした。
※※※※※
「あ、ちょっとやることあるんで先行っててください。追いつけなくてもハードルはどっかでちゃんと観てるんで」
グラウンドに出たところで並んで歩いていた雪葉さんにそう言い残し、本部に向かう。
目的はクラス対抗リレーの走順の入れ替え。十五時に始まる二年生のクラス対抗リレーまで残り五十分強。事前の入れ替えは四十五分前迄と決められているから、今がギリギリとタイミングと言って良いはずだ。
曽根が近くにいたりしないか周囲の視線を警戒しつつ、本部のテントに足を踏み入れる。
「あのー」
「どうしました?」
「二年三組の体育祭クラスリーダーの椎名です。クラス対抗リレーの走順の入れ替えをしに来たんですけど」
「わかりました。どなたとどなたを入れ替えますか?」
「姫宮有紗と椎名佑紀を入れ替えで」
「あぁ……姫宮さんね。はいはい、わかった。入れ替えとくね」
有紗の名前を出した途端に嫌そうな顔をする実行委員の女子生徒。体操着の名前の横に二年七組とあるから同級生のようだが、普通に気分が悪い。
「椎名くんって姫宮さんと仲が良いって聞くけど、あの子に関しては縁を切った方が良いんじゃない?」
「――はぁっ?! んだっ……ふぅ」
当たり前のようにそんなことを言われるとムカついて言い返したくなってしまう。だが、こんなところで無意味な争いをするのも馬鹿げた話だし、何より、すべてが無駄になりかねない。
今にも飛び出しそうになった言葉を必死に飲み込み、深呼吸をする。
「……ご親切にどうも。でも、今日が終わればそんなことも言えなくなると思うんで、お楽しみに」
「んんっ……? 何それ?」
「まぁ、そうゆうことです。それじゃ、また後でもう一回来ますんで」
最後にそう言い残し、本部のテントから出た。
「さてと……」
有紗や杠葉さんはどこら辺にいるのだろうか。こうも人が多いと探すのが大変だ。
なんて思いつつ辺りをキョロキョロしていると、女子の集団が悪意の表情を浮かべ、ある方向に目を向けつつコソコソと話をしているのに釣られ、そちらの方向に目を向ける。
「お、いたいた」
どんな悪口を言ってやがるのかは知らないが、認めたくないけど女子の集団が役に立った形だ。
「ちょっと、お兄ちゃん」
有紗たちの元に向かおうとしたその時、背後から話しかけられた。
「ん? なに?」
「お母さんが呼んでる。あと、彩歌おばさんも」
「はぁ? 今じゃなきゃダメなん?」
もう間もなく陽歌のハードルが始まってしまうから、マザーズの元に行っていたら有紗たちと合流なんてできなくなってしまう。
「伝えたいことがあるんだって。今日が、終わる前に」
渚沙は何やら真剣な表情をしているから、大切な話なのかもしれない。しょうがない、行きますか……。
「わーったよ」
俺がそう答えると、渚沙は俺の腕を掴み歩き出す。
「連れてきたよ」
「ご苦労様。それでね、佑紀――」
「――あ、始まるから終わってからにして」
『八レーン、御影陽歌さん』
たった今、女子六十メートルハードル決勝、選手の名前がコールされ終わった。後はスタートの瞬間を待つのみ。
静かなる静寂の中、号砲と共に一斉に選手がスタートを切った。
良しっ……! 良いスタートだ!
ベストなスタートを切った陽歌だったが、流石は決勝ともあって横一線の状態が続いていく。
そんな中、二台目のハードルを超えた辺りで一人の生徒が先頭に躍り出た。
その選手はグングン加速し他の選手を徐々に引き離していく。
三台目のハードル付近で、更に横一線が崩れていく。現時点で先頭の選手を筆頭に、二位、三位と目に見える形で差がで始めた。
そしていよいよ俺たちの目の前、五台目のハードルを先頭の選手が飛び越え、そこから更に二位、三位の選手もやってくる。
そしてその二メートルほど後方から、俺にクラスの学年順位の命運を握らされた毒吐き女、本日は僅かにウェーブがかかった栗色の髪をポニーテールに束ねている陽歌が今まさに、俺たちの目の前を通過しようと――。
「――陽歌ぁっ! 俺の幼馴染ならこっから一人くらい抜かしてみせろやっ!」
――生まれて初めてちゃんと声を出して陽歌を応援してやったかもしれない。
今までの運動会、小学校時代とか中学校時代とか含めて声を出して応援するのは気恥ずかしいとか、そんな言い訳ばかりしてばかりだった。
陽歌の口元が僅かに綻んだように見えた。
もしかしたら、陽歌から見た俺もこんな感じだったのかもしれないと、声を出して応援する側になって初めて気付いた。
無論、試合中はボール以外の音が聞こえなくなる事も結構あったから確証があるわけじゃないけど、それでもどこかで陽歌の声は聞こえていたんだと思う。
それが力になっていたと、だから今の俺の応援だってきっと陽歌の力になっていると信じて――その瞬間を見逃さない。
時の流れは絶対に止まらない。だからその瞬間がやってくる。
向けられた左手のピースがやけに眩しく、別の場所に向けられている右手のピースもきっと眩しく――幼馴染の笑顔は最も眩しく。
両腕を突き出したダブルピースとその笑顔が、御影陽歌の二位の証。
自分を称え、誰かに勇気をもたらす笑顔とダブルピースはきっと、体育祭終幕の時にクラスを学年一位に導いてくれている。
「思い出すわ、あの時のことを――」
彩歌おばさんがポツリと呟き、目に涙を浮かべている。
「『お母さん、私はもう大丈夫っ!』って、ピースしながら言ってきたあの日。佑紀くん、私はあなたに本当に感謝したのよ」
「あっ――」
すぐに気付いた。彩歌おばさんが言うあの日がいつなのか、それは陽歌が言う、『影』から『陽』に戻れた日。
その『影』から『陽』の意味は未だにわからないけど、降り頻る雨の中、学校をサボって図書館にいた陽歌を連れ帰った日のことだ。
「でも今日は、あの日とは少しだけ違う気がするの。だって、右手のピースはあの子、有紗ちゃんの方に向けてたから。……もう、有紗ちゃんとの過去にも、けじめが付いたのね」
二人の間にどんな過去があったのかは知らないし、別にこれからも俺から聞こうとは思わない。
でも彩歌おばさんが今言ってたことで一つだけ勝手に推測するとすれば——俺たちに向けられたピースは『もう大丈夫』で、有紗たちに向けたピースは『絶対大丈夫』。
陽歌のことだから、そんな感じだろうとつい分かった気になってしまう。
「……だからこそ佑紀、陽歌ちゃんを見習ってあなたもそろそろ大好きなママを安心させてくれるかしら?」
「俺がマザコンと勘違いされそうな言い回しやめてくれる? ……で、それが俺に伝えたいこと?」
「あらぁ? 違ったかしら? ママのこと大好きでしょ?」
「はいはい、好き好き大好きやっぱ好きっ……! ……これで良い?」
言わないと話進めてくれなさそうな予感しかしなかったから、妥協して言ってやった。
「うっわ……ガチ恋口上。ついにマザコンを超越じゃん……」
渚沙がドン引きといった表情で俺を見てきた。
俺の遊び心に良く気付いてくれたな、クソがっ……!
「佑紀、お話があります。あなた、お母さんがせっかく見に来てるっていうのに全然本気出してないじゃない。強いて言えば長距離のラストスパートくらい……お母さん火曜日にはアメリカ戻るのよ? 良い加減本気を出しなさい。でなきゃお父さんに報告できないでしょ? もう肩は大丈夫って」
ほんのちょっとだけガチ恋口上までして親子愛を伝えてあげたのにお説教されてしまった……。
あの、ついさっきの二百メートルリレーもちゃんと本気出したんだけど。
まぁ、一走でもアンカーでもなかったから、速さが伝わりにくかったのかもしれないが。
それに、白熱するトップ争いにみんな注目しがちで、五位でバトンを受け取った俺には特に注目も集まってなかったんだろうがね。
誰も気付かない俺の速さ、ちょっと虚しい。
「それからあなた、聞けば姫宮有紗って子、あの子に仲良くしてもらってるみたいじゃない。加えて渚沙まで良くしてもらってるって」
「はい、おっしゃる通りです」
「ちゃんとお礼もしたいから、明日か明後日うちに呼んで頂戴。その為にも、それまでにあの子を元気付けておくこと。良いわね?」
やはり、そこら中から悪口とかが聞こえてくるから母さんも気付いていたのか。
有紗との関係性は渚沙が伝えたのだろう。
「大丈夫だよ、母さん。最後の最後にはちゃんと本気出すからさ。それで有紗のことも、俺が絶対にどうにかしてみせるから」
「うぅ……彩歌さんっ、佑紀が頼もしいこと言ってるわぁ」
母さんが彩歌おばさんの胸に顔を埋めている。
「そうねぇ、あの佑紀くんがねぇ……」
「あの、騎馬戦で瞬殺された佑紀が、何とも頼もしいこと言ってるわぁ」
……もう良いか? さっきから視界に入り込んでくる人物が気になって仕方がない。
「構ってる暇無いからもう行くわ。……母さん、先に謝っとくけど何があっても絶対に最後の種目で一着にはなれない。でも、勝つのは俺だから」
「ふふっ、そう。楽しみにしてるわね」
そんな母さんの激励を背に受け――。
「おいおい、どうして俺に付いてくるんだ? もうすぐ恋焦がれる幼馴染の百メートルの決勝が始まっちまうぞ?」
「キミこそ、クラスのエースの応援をしないわけ? それって最低じゃない? 誰のおかげでクラスが一位になれると思ってんの? ……ねぇ、何でキミ、立ち直ってるわけ?」
――向かった先、第二体育館前にて曽根紫音と対峙する。




