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41 誰かの為に

 渚沙は俺たちが気付いたことを確認すると、階段を一段、また一段と上がってきて目の前までやってきた。


「おいおい、母さんのとこにいろって言ったろ?」

「お母さんが『行ってきなさい』って言ったから」


 渚沙は何やら真剣な顔つきで口を開いた。


「助ける手立ては、あるの……?」


 まだ、思いついていない。だから、いつまでもここで世間話をしている暇は無い。

 曽根とのやり取りと、それで虚無感に襲われて無駄な時間を使ってしまっていた。

 タイムアップを迎える前に、早急に考え始めなくてはならない。


「今から考え――」

「――なぎね、来年は花櫻の制服を着るのを楽しみにしてたの」


 まだ俺が助ける手立てを思いついていないことを最初からわかっていたのか、渚沙は俺の言葉を遮りそう言った。


「陽歌ちゃんもいるし、綾女さんもいるし、有紗さんもいるし、弥生さんもいる。あと、一応お兄ちゃんも。だからきっと、楽しいとこなんだろうなって思ってた。けど――」


 渚沙から続きの言葉が出てこない。今にも泣き出しそうな顔で、俯き、唇を噛んでいる。


「お、おい、渚沙――」

「――やっぱり、こんな学校嫌だよ……。おかしいよ、こんな学校……」


 渚沙は顔を上げ、涙を溢し、声を震わせ、今日ここまでの体育祭で生まれてしまった新しい気持ちを告白した。


「来年の春から陽歌ちゃんと一緒に登校して、帰りは綾女さんと有紗さんと陽歌ちゃんと弥生日和に行って、そんな高校生活を想像してた。でも、もう花櫻に行く気、どこかに消えて無くなっちゃったよ……」


 転校してきたその日、藤崎先生がクラスメイトに向かっていた言葉が脳裏を過ぎる。俺が、教室の外で聞いていた言葉――。


『下級生のお手本となるよう、その自覚を持って行動し』


 全然、お手本になんてなれてないじゃないかっ……!


 表面上は俺たち二年三組も一年生のお手本にはなれているのかもしれない。けど、そんなのは偽りだ。


 虚構の世界を、あたかも真実かのように錯覚させているだけ。やっていることは本当に浅ましく、醜い人間の自己満足に他ならない。


 けどそれは、花櫻の三年生や二年生が悪いかと言われれば一概にはそうは言い切れない。彼らもまた、虚構を真実と錯覚させられているのだから。


 でも結局、錯覚してしまっているから本当の意味で下級生のお手本にはなれない。一年生は、そっくりそのまま二年生や三年生を写した鏡そのものだ。

 だからこそ、一年生もまた、下級生のお手本になんかなれていないんだ。


 だって、中学生の渚沙の目には、花櫻学園が良い学校には映っていないのだから――。


 この負の連鎖は、俺たち二年生が花櫻学園から卒業すれば無くなるだろう。

 だが、そんな日まで待ってやるわけにはいかない。だって、それでは渚沙が花櫻に入学することなく終わってしまうから。本当は、期待を胸に想像を膨らませていたほどに、花櫻に入学したいと思ってくれていたのにも関わらず。


 だから、この負の連鎖は終わらせなければならない。この虚構の世界、花櫻学園という小さな歯車をぶっ壊さなければならない。


 渚沙がもう一度、花櫻学園に入学したいと思ってくれる為に。

 それだけじゃなく、花櫻生が本当の意味で一人の花櫻生となる為に。


 何よりも、今、あの子たちのことが大好きな渚沙の涙を見てやっとわかってしまったんだ。

 きっと、偽りの歯車をぶっ壊すことが、あの子たちを救う唯一の方法だってことに――。


 けど、どうすればそれができる……? やるべきことはこれだって気付けたのに、その方法がやっぱりわからねぇっ……!


「――だからお兄ちゃん。もう一度なぎに花櫻学園に通いたいって思わせてっ……! そんなことはもう、他の誰でもない、お兄ちゃんにしかできないんだからっ……!」

「渚沙……」


 こんなにも真剣な表情、態度、声で渚沙にお願い事をされたことなんてこれまでにあっただろうか。いや、無い。普段は雑で舐め腐った態度で当たり前のようにわがままを言いたい放題してきているだけ。

 だからこそ、初の出来事に言葉が詰まってしまった。


「だって、お兄ちゃん言ったから。陽歌ちゃんも、有紗さんも、綾女さんも、みんな大好きだって。なにより――」


 渚沙は人差し指で涙を拭き――。


「――なぎのお兄ちゃんは絶対負けたりしないからっ……!」

「――あっ」


 ――それでも頬に涙を伝わせて、俺が気付けなかった全ての答えをぶつけてきた。


 そうか……。そうだったんだ……! どうしてこんなに簡単なことに気付けなかったんだ。あるじゃないか、この状況を打破するたった一つの方法がっ! この偽りだらけの世界をぶち壊す術が、俺にはあるじゃないかっ……!


 けど、この方法はきっと誰もが望むものなんかではない。多くの花櫻生は失望し、落胆し、見ない方が幸せだったと思うかもしれない。

 でも、それ以上にいつまでも虚構の世界に身を委ね続けるのは良くない。少なくとも俺はそう思う。


 何よりも、俺は決めていた。一番最初に思いついた方法で、あの子たちを救ってみせると。


「杠葉さん、もしも今の偽りだらけの世界が壊れたとして、それでいて多くの花櫻生が傷付いたとしたら、どうする?」

「えっ? どうするって……私に何ができるかなんてわかりませんが、時間を掛けてでも傷を癒して、それで新しく作り直すしかないですよ、全員で。新しく入学してくる、新入生の為にも」


 杠葉さんは言い終わった後、渚沙を見て微笑んだ。

 何とも前向きな答えが返ってきた。この様子なら、心配はなさそうだ。


 だがこの方法は、誰かしらの協力無しでは不可能だ。そしてこの方法の協力者になってほしい人物がいる。

 

「そっか。じゃあ次、春田。もしも今の偽りだらけの世界が壊れたとして、それに自分の彼氏が関わっていたとしたらどうする?」

「壊れる前提なら、良くやってくれたって思うけど? 但し、失敗したら椎名っち、許さないからね」


 仮の話をしていたつもりだったのだが、どうやら春田には俺が花櫻学園を一度ぶっ壊そうとしていることが見破られているようだ。

 だが、彼氏に協力してもらう許可を得たも同然。だって、失敗なんてするつもり、更々ないし。


 頼って良いのかわからない。何を頼れば良いのかわからない。それがわかった時、本当に頼っても良いのか、そんな思いがずっと俺の中に揺れていた。


『椎名、俺は何があってもお前の味方だ。それに御影たちや涌井だってきっとそうだ。だから自分の処理できる領域を超えたら遠慮せず周りを頼れよ。必ず力になるからよ』


 相沢に言われた言葉。それに対する答えが今、生まれた。


 頼ったって良いんだ――。


「はぁ……しょうがねえな。ホント、お前はどうしようもなくわがままで、でもどうしようもなく俺の妹だ。やってやるよっ! もう一度渚沙が花櫻に入学したいって思えるように、そのわがまま、聞いてやるよ。……ありがとな、渚沙。お前のおかげでやっと思い付くことができたわ」


 渚沙の頭にポンッと手を置くと、確かな熱を感じた。


「わがままじゃねーし。それに、何のことか知らねーけどおせーよ、バカッ」


 渚沙は俺の手を振り払い、悪態を吐く。


「素、出てるぞ? 猫被んなくて良いのか?」

「――もうやめたのっ! クソ兄貴に似て口が悪い、これがなぎですよっ! そこのお二人っ!」


 完璧なる開き直り、渚沙は春田と杠葉さんに向かってそう言い放った。


「うんうん、知ってたよっ!」

「――な、な、な、渚沙さんっ?! 嘘ですよね? 嘘だと言ってくださいっ……! それじゃまるで、佑紀さんですよっ?!」


 春田は当たり前のように気付いてたみたいだが、杠葉さんは気付いてなかったらしい……。ある意味凄いぞ。


「まぁ、俺の妹なんで口が悪いのも当然かと……。それより渚沙、もう一度言うけど杠葉さんとかと同じように渚沙のことだって好きだぞ。なんなら渚沙に関しては好きとか通り越して愛してるまであるからな?」

「オェェ……今日何度目のシスコン発動だよ……。マジでキメェ……」


 なんて、またまた渚沙は悪態を吐いているわけだが、これも一種の兄妹愛だと都合良く受け取っておこう。


 ここ最近の俺は、自分の為にばかり行動していた。周りに目を向けず、自分を守ることだけに捉われ過ぎていた。


 結果、事態は悪い方に転がった。


 目立ちたく無いとかはもう辞めだ。そんなこと言ってる場合じゃ無い。元々、大舞台では目立つ側の人間だったんだ。ちょっとそこから離れて、ゆっくりしたかっただけ。

 もう充分ゆっくりしたと思う。何せ、もう一年近く公式戦からは離れているんだから。


 今日はテニスの公式戦でも何でもない。ただの体育祭だ。でも、目立たないことは不可避。


 だって、俺はこれから、杠葉さんと有紗、それから陽歌の世界をひっくり返すつもりなんだから。

 渚沙がもう一度、花櫻学園に入学したいと思えるように虚構の世界をぶっ壊すつもりなんだから。


 自分の為なんかじゃなくて、誰かの為に――。


 全ての花櫻生、それからこの先の未来で花櫻生になる子たちの為に、花櫻学園という歯車を壊してみせる。

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