37 二者択一/わがままを言っても許されるのなら
「佑紀くんっ! ちょっと待ちなさいっ!」
急いでいるというのに、誰かに腕を掴まれた。振り返ると俺の腕を掴んでいるのは雪葉さんだった。
「離してくださいっ……! 急いでるんで」
「もう、遅いよ。既に、事は起こり切ってしまったんだから」
「そんなことわかってますっ……! でも、早く行かないと――」
「――行って、どうするの? 今の佑紀くんに状況を打開する案があるとでも?」
俺は、行ってどうするんだ?
そもそも、騎馬戦において何が起こったのかも知らない。だったら俺に、何ができるって言うんだ?
「その様子だとやっぱり無いみたいね」
雪葉さんは見透かすようにそう言ってくる。
「そんな佑紀くんに、良いことを教えてあげる」
「な、何ですか……?」
それが本当に良いことなのかどうか、恐怖を感じつつ恐る恐る聞いてみる。
「まだ、佑紀くんなら間に合う。ここから逆転する手立てなんて、佑紀くんにならいくらでもある。他ならぬ、佑紀くんだけにしかできない方法がね。でも、その方法は私からは教えてあげない」
「――なっ?! 何でですか? 方法がわかってるなら、教えて下さいよっ……!」
方法を教えてくれたのは有難い。でも、その方法自体を教えてくれないのではどうすることもできない。
「私はね、あの時綾女があんなにも泣きじゃくったことに負い目を感じてるの。でも、その負い目が本当に負い目であるのか、その答えが、知りたい――」
何のことを言ってるのか全くわからない。いきなり俺の知らない話をされても理解なんてできっこない。
それに、そのことと方法を教えてくれないことがどう関係しているというのだ。
「――椎名佑紀くん。私にとってはその答えが、あなたなのよ」
「はぁ……?」
その上、あたかも俺が関係しているかのような口振りだ。身に覚えがないから益々理解が遠くなってしまう。
「佑紀くんが本当の意味で誰かに手を差し伸べられる人なのかどうか。それが例え、他の誰かを傷付けることになったとしても。方法まで教えちゃったら、それが見抜けないでしょ?」
「二者択一を迫るんですか?」
「そうよ。だって私の妹、そしてそのお友達を傷付けるのなんて、姉として許せるわけがないでしょ?」
二者択一の意味はわかった。それなら二者択一を迫ってくるのも納得がいく。
杠葉さんたちか、それとも二岡たちか、どちらかを選べということか。そんなの、最初から答えは決まっている。
「はぁ……。とりあえず、方法があることを教えてくれたのはありがとうございます。猶予はなさそうですけど、何とか考えてみますよ。言っときますけど俺ってバカなんで、雪葉さんみたいに何個も方法を思い付くのは無理です。一つ思い付いたら迷わずそれを選びますから、自分が思い付いた方法じゃなかったからって怒らないでくださいよ」
「怒ったりしないよ。だって、佑紀くんが思い付く方法なんて、私が思い付かないわけがないでしょ? おバカさん」
こ、この野郎……。こうなったら何としてもこの人も思いつかないような方法で――。いや、そんなことを考えてる余裕なんてない。
雪葉さんに思い付けることが俺には思いつけなくても別に良い。俺に思い付けることは雪葉さんにも思い付けることだとしても別に良い。
今の状況を変えられるなら、なんだって構わない。
――今の状況っ?!
ふとメイントラック側の生徒が集まっていた所に目を向けると、丁度今、人がゾロゾロと散らばり始めた。
「これを持っていきなさい」
そう言って雪葉さんが渡してきたものはタオルと花櫻のジャージ。ジャージは多分杠葉さんの物。
「は? なんで?」
「まったく、参っちゃうわぁ。タオルはともかく、ジャージは日焼け対策で持ってきたっていうのに、ホント、やってくれたよ、曽根って子はさ……」
どうやらこのジャージが必要になる程の何かを曽根がやりやがったらしい。
となると、今朝は無意味に思えたこの人との会話も意味はあったということになるのか。
いや、あの時最初に見せた真剣な顔付きに俺は胸のざわつきを覚えたんだ。もしかしたら、この人はこれが必要になる何かを予感していたのかもしれない。だとしたら、ある意味凄いしちょっと怖い。
「佑紀くんがそれをどうするかは自由よ。誰に渡すかも自分で選んでごらんなさい。なんなら、自分で着るのも選択肢の一つよ。但し、その場合はあそこにいる私の母の目も光ってるから、気を付けてね」
「え……?」
雪葉さんの視線を追うと、そこには先程雪葉さんの隣にいた、杠葉さんの母親と思われる人がいて目が合ってしまった。
綺麗なお辞儀をされたから、できる限り最大限の全力のお辞儀を返す。
「……いや、着ませんから。というか今は、おふざけに付き合ってあげてる場合じゃないんで」
それでも匂いは嗅ぎたいけどね……。リコーダーペロペロとか、サドルペロペロ並みにキモいな、俺……。
「ふふっ、冗談。さぁ、行きなさい。あ、私は事務室にいる未来ちゃんのとこにいるから、用があったらそこに来て」
雪葉さんに見送られ、水道付近に向かって歩き出す。
人の流れを逆らって、ゆっくりと歩いていく。一歩、また一歩と進む度に、何があったのかわからないからこその震えが足を襲う。
二岡と曽根の姿が目に映った。二人一緒に引き上げている。俺より歩くペースが早いからその姿は徐々に遠くなっていくが、二岡の右腕にはジャージが抱えられており、左手にも何かを持っているのがわかる。
人波を逆らえば逆らうほどに聞こえてくる女子どもの二岡を称賛する声、及び有紗を非難する声。そして男どもの変態じみた用語の数々。
それだけで状況を察することはできた。
有紗がびしょ濡れになり、二岡がジャージを貸そうとしてそれを拒絶したらしい。
間違いなく有紗に水を掛けたのは曽根だ。それもびしょ濡れってことは相当な量の水を。
そこに当然のように現れる二岡。動画にあった通りのシナリオだ。
でも、二岡も動くとしか動画にはなかったから、何をやろうとしていたのかは定かではなかった。だが、俺の左腕に抱えられたジャージが答えを教えてくれる。
何とも用意周到なことに二岡もジャージを抱えていた。こんな猛暑日にジャージを持ってきている奴なんて生徒では二岡くらいしかいないだろう。
先程女子どもが二岡を称賛していた通り、びしょ濡れになった有紗にジャージを貸す素振りをして、良い人アピールが目的といったところか。ついでに、消毒液やら絆創膏も貸そうとしていたようだ。恐らく左手に持っていたそれがそうだろう。
それより、有紗はまたどこかしらに怪我を負ったことになる。半端じゃない苛立ちが俺の中に渦巻いてくる。
どうしてそんなことまでして称賛を集めようとするのか。花櫻学園での人気なんて青天井なんかじゃないんだから、もうとっくに頭打ち、超人気者ではないか。
だから考えられることは一つ。そもそもの目的は称賛を集めることなんかじゃなくて、何か他に別の目的があるということだ。
その目的とは一体何なのだろうか。気にはなるが、そんなこと一々考えている暇はない。
陽歌がこちらを振り返ってくる。その横で渚沙が怒りの表情を浮かべている。
我が妹に、実に醜い光景を見せてくれたものだ。怒りが倍増してしまう。
有紗は噂通りの有様で、また更に怒りが膨れ上がってしまう。
杠葉さんは目を閉じ、それでも涙が流れているのがはっきりと目に映る。
二者択一、俺はあいつらには手を差し伸べたりなんかしない。
……あいつらを、どうにかしてぶっ潰してやりたい。でも、その方法がまだ思い付かない。
それに、今はこの場を何とかしなくてはならない。
このジャージを俺が有紗に羽織らせるべきかどうか。違う、俺が羽織らせるべきじゃない。
有紗の親友である、杠葉さんが羽織らせてあげるべきだ。
そう思って――。
「杠葉さん。これ、雪葉さんから」
――目を閉じ、涙を流し続ける杠葉さんに声を掛けた。
□□□
『綾女、全ては君が悪いんだよ? 変わろうとするから。相沢や涌井を見てわかっていたことじゃないか。それでも懲りずに変わろうとするから、こうなったんだ』
そんな風に二岡さんに耳元で囁かれ――。
『今回は君が大好きな姫宮を潰したけど、まだ懲りてないなら次は御影だ。でも、俺だって鬼じゃない。この意味が、わかるよね……?』
――続けられた言葉が何度も何度も頭の中で繰り返されて。
私が自分自身を閉じ込め続けてきた殻から出たい、変わりたいなんて願ったから。わがままを言ってしまったから、有紗さんをこんな目に遭わせてしまって。
私のせいで、こんなことになってしまいました……。
悔しさとか、情けなさとか、無力さとか、色んな感情が込み上げてきて、流れてしまう涙を止めることができません。
もう一度、大人しく殻の中に戻っていくしか、ないのかな。
過去の過ちも今置かれた状況も、全部受け入れてあの日のままでいるしか、ないのかな――。
ごめんなさい、佑紀くん。
あの日のことをちゃんと謝りたいって思って生きてきたけど、返ってくる反応が怖くていつもいつも陰からチラチラ見てるだけしかできなくて、ずっとウジウジしている内に君を見ることも叶わなくなって。
ホントはずっと、近くにいたのに――。
それでも君は、再び私の目の前に現れてくれて、もう一度私を見てくれたから。
だから今度こそと思って、私自身が君の前に出ても恥ずかしくないように、あの日から私も変われましたって胸を張って言えるように、ちゃんと全てを打ち明けて謝れるように、その為に決意して今日まで頑張ってきたけど、やっぱり私、ダメみたい……。
また諦めてしまったはずなのに、どうして涙だけは枯れてくれないのでしょうか。
そんなことわかってます。ホントは諦めたくなんかないんです。
でも、私が諦めなければ次は陽歌さんが有紗さんと同じ目に遭わされてしまいます。それに、陽歌さんだけとも限りません。
弥生さんだって、希さんだって、それに佑紀さんだって同じ目に遭わされるかもしれません。
そんなの嫌です。
私が諦めれば、全て終わってくれるから。
これ以上、私以外の誰かが悪夢を見る必要なんてありません。
これ以上、私のわがままにみなさんを付き合わせるわけにはいきません。
悪夢を見るのは、私だけで良いんです――。
目を閉じると、そこには私の住処が浮かんできます。
物心ついた時から住み慣れた、何もない場所。家にいる時以外は、この中でずっと過ごしてきて。
あの日この場所から一歩外に踏み出してから、何回外に出たでしょうか。
有紗さんと出会ってから、有紗さんの前では外に出ました。
陽歌さんと出会ってから、有紗さんと陽歌さんの前では外に出ました。
今年の春、佑紀さんが目の前に現れてから、もうずっと使ってなかった私の住処。
もう一度、そこに入るだけ――。
「杠葉さん。これ、雪葉さんから」
「――っ?!」
――殻に足を踏み入れようとした瞬間、入り口に彼が現れて、私が殻に入るのを許してくれなかった。
目を開けると、目の前には入り口に立っていた彼と同じ人、佑紀くんが立っていました。
後一回だけわがままを言っても許されるのなら、私はもう、殻には帰りたくなんかない。
だから――。
「――助けて。もう、これ以上のわがままは言わないから、助けてっ! 佑紀くんっ……!」
――気付けば私は、わがままを口に出していた。
□□□




