第三十四話「不死身の魔獣」
右前腕が唸りを上げながら振り下ろされる。風を切裂き、暴風を巻き起こしながら襲い来るそれを、棘の付いた鉄の塊で真正面から殴り合い、弾き返す。だが体重の差か、一方的に鉄塊を持っていた者が後ろへと跳び退った。
ビリビリと、モールを持った腕が痺れる。それほどまでに強い衝撃だったが、しかし虎の頭をした女は獰猛に嗤った。それに応えるように、眼前の獅子も嗤う様に吼える。まだまだ始まったばかりだと、獅子は女に飛び掛かっていった。
それは信じられないものを見るような光景だった。獣の獅子よりも二回り以上は大きな巨体の獅子が縦横無尽に跳ねまわり、暴威を揮っている。そしてその化け物に対して、たった一人で戦っているのだ。
その人物は、ベルンの街の冒険者の中でも最強との呼び声の高い、シルバープレートの地位にある女性、ヘルガ。直立した虎とも言うべき姿に、重い鉄の塊とも言えるモールを、しなやかで細く長い指と鍛え抜かれた腕力で以って、繊細かつ豪快に操って見せる姿は、その場に居る冒険者達を魅了した。
巨大な獅子の攻撃に、真っ向からぶつかり合っているのだ。体格の差、力の差から彼女が不利なのは一目で分かる。それなのに堂々と、力強くも卓越した技術で以って彼女は獅子と渡り合い、拮抗しているのだ。
「……はっ。流石に強いね!」
ヘルガを押さえつけるように獅子が飛び掛かり、それを横っ飛びで避けたところを、獅子は追撃するように突進する。それをヘルガは愛用のモールで、思い切り叩き潰すように振り下ろす。
鈍い音を立てて獅子の額に直撃するが、しかしその一撃さえ獅子の突進を僅かに止めたに過ぎなかった。オーラを込めて放たれたヘルガの攻撃など利かぬとばかりに、獅子は前足で彼女を横薙ぎに爪を揮う。それを紙一重で躱しながら、ヘルガは再びモールを構え直した。
(ったく、なんて硬い頭なんだ。いや、毛皮に傷一つ付いていないってことは、こちらの攻撃が通じてないのか? 昔聞いた不死身の魔獣……だとしたら分が悪いね)
先程の衝撃に、モールを持つ腕が痺れる事を覚悟していた。だが想定していた反動は訪れる事は無く、すぐに気功スキルのお陰だと思い至る。ユウリに正しい使い方を教わったお陰なのだが、このような効果まであることに驚いてしまうのも仕方がない。
しかし同時に相手には対して碌に痛痒を与えていないと感じ、ヘルガは心の中で吐き捨てる。これがあの不死身の魔獣だとしたら、自分に打つ手はない。ダメージを与えられない相手では、どれほどの実力があろうとも意味を成さないのだ。
(あの子達を残して来て、正解だったと思うとしようか)
獅子の激しい猛攻に防戦一方となっているヘルガは、残してきた仲間たちのことを思う。まだまだ危なっかしくて目が離せないが、それでも彼らとの時間はとても楽しいものだった。そんな彼らを、この不死身の魔獣の脅威に晒さずに済んだことだけが、せめてもの救いだと感じる。
振り下ろされる爪を再びモールで殴り返し、互いに距離を取る。まだまだ、戦いは始まったばかりなのだ。
「……とんでもねえな」
先の獅子の咆哮で弾き飛ばされたダグが、身体を起こしながら呻く。自分達では到底敵わないような、そんな強力な魔獣と一騎打ちを演じているヘルガを見て、彼女との実力の差を肌で実感する。
恐らく自分達では加勢する事さえ出来ず、足手まといになる可能性の方が高い。
「これが、シルバープレートの実力ってやつですか。なんと恐ろしい……」
「あー。これ完全に、ボク達の出番ないよね」
「……オークを、今のうちに潰す。急げ」
仲間たちが口々にそんなことを言いながら立ち上がり、同じようにまだ無事だったオーク達に向かっていく。こちらの戦いもまだ始まったばかりだ。何故違う魔物同士が一緒にいるのかは理解に苦しむが、重要なのはそこではない。
こいつらの野放しにすれば、必ず多くの人命が弄ばれ、無意味に失われる事は明白だ。自分達のやるべき事は、その可能性の芽を出来るだけ摘み取る事。
ダグ、アラン、キールがそれぞれオークに襲い掛かり、ノノラはまだ倒れている冒険者を助け起こしたり、傷の応急手当てをして、自分達の戦いを始めるのであった。
オーク達との戦いは、互いに思うようにいかないものであった。
まずヘルガと巨大な獅子との戦いが激しすぎ、迂闊に近寄ればオークであれ冒険者であれ、巻き込まれて悲惨な事になるということ。
また獅子の衝撃を伴う咆哮によって、各自がバラバラに吹き飛ばされており、少なくないダメージを受けている事。
その上オークも冒険者も味方から離れていたり、敵対する相手の中に吹き飛ばされていたりと、酷い混戦状態になっている。
ただ幸いにも、一人と一頭の戦いが激しいお陰で互いに手を出しづらく、今すぐ危機的な状況だと言う事ではない事だ。ある程度は態勢を立て直し、負傷者を離脱させる程度の時間は稼げるだろう。
「相手が見逃してくれれば、だけどね!」
強大な魔物と高位の冒険者が戦う横で、オーク達は徐々に統制を取り戻しつつある。すぐにぶつかり合う事になるだろうと、アランは手にした盾で、敵を殴りつけながらぼやいた。
そこへ姿勢を崩して隙を晒したオークの鼻面に、容赦なく先端を鉄で覆った棒が叩き込まれる。キールの棒術は相手に致命傷を与える事は苦手としていても、確実にダメージを積み重ねられるのが強みだ。
そこへアランがトドメとばかりに喉元に剣を突き刺し、一匹ずつ確実に屠る。
時折、風を切る音と小さな悲鳴が聞こえるが、ノノラが背後からスリングで、石を投げつけているのだろう。彼の使うスリングは中央に石などを包むための幅広い部分と、その両端から伸びる紐で出来ている、非常に簡素なものだ。
ヒト相手であれば十分に戦闘不能を狙えるだけに、防具で身を固めていないオーク程度ならば、魔物にもある程度は効果が期待できる。
「こいつらも、さっき山中で戦った奴ら同様、いい武装してますねー。ワタクシのスリング程度の威力じゃ、そろそろ足止めする事すら難しくなりそうです」
その言葉通り、先程ロクセイル山で奇襲を受けた際に襲ってきたオーク達と同様、良い装備をしているオークが混ざっている。盾で射線を防がれてしまえばどうしようもないと、ノノラは愚痴を零した。
「そんなことより、ダグはどうした?」
「ダグなら向こうで暴れてるよ。ヘルガに対抗意識でも燃やしてるんじゃない? 無駄なのに」
後ろでチョロチョロと騒いでいるノノラを無視するように、キールとアランの二人は未だ合流してこない、パーティメンバーのダグを気にかけていた。
アランが言った通り、一人オーク達の中で大立ち回りを演じており、孤立した冒険者を助け出す為の突破口を開いている。とは言えその大立ち回りも、ヘルガの戦いの余波でしばしば中断を余儀なくさせられているところが、格の違いなのだろう。
「お互いにそろそろ打つ手なし、かな」
誰かがそう呟いた。その言葉が示す通り、獅子とヘルガの一騎打ちは激しさを増し、木々は薙ぎ倒され、うっかり巻き込まれた冒険者やオークの血風が舞う。
最早オークと冒険者達は完全に分断され、互いに近付くことも不可能な状態だ。その結果、このとてつもない戦いを繰り広げる者達の行く末を、見守る事しか出来なくなっていた。
彼らがヘルガを残して逃げなかったのは、彼らが撤退するようなことがあれば、オークが獅子に加担するであろうことを警戒しての事だ。獅子には攻撃が通じない以上、巻き添え覚悟で飛び道具を使って来る可能性がある。
それに対処する為にも、彼らはオークから目を離す訳にはいかなかった。
モールが唸りを上げて振り抜かれるが、獅子はそれを寸でのところで躱し、防御がガラ空きになったヘルガへと飛び掛かっていく。そうはさせじとモールを振り回した反動を利用し、オーラを込めて獅子を蹴り上げた。
獅子はまともに蹴りを受けて、宙へと浮かぶが、すぐさま身体を反転させて着地する。そこを狙ってモールが振り下ろされ、再び獅子の頭を砕きにかかるものの、やはりこの相手には彼女の攻撃は通じていないようだった。
「本当に厭らしい相手だねっ、不死身の魔獣ってのは!」
雄叫びを上げるようにヘルガは吐き捨て、平然としている獅子から距離を取る。それを逃がすものかと獅子は鋭い爪で襲い掛かり、ヘルガは咄嗟にモールで払い除けながら身を低くし、横に転がりながら間合いを離してすぐさま立ち上がった。
相対する一人と一頭は、真正面からのぶつかり合いで決着をつけるのは難しいと判断している。
すると獅子は突然、戦い方を変えた。
一度こちらに真っ直ぐ襲い掛かると見せかけ、斜めに軌道を変えてヘルガの背後を取るような動きを見せた。流石に彼女も歴戦の猛者だけあって、相手の動きに惑わされる事なく冷静に対処している。
しかし相手の体力は無尽蔵であると言わんばかりに、あちこちを跳び回って様々な角度から彼女へと襲い掛かって来る。その速さと攻撃は、まだまだ本気ではなかった事を強調するように激しさを増していく。それは余計な介入を許さぬと、風が吹き荒れているようでもあった。
この戦いにヘルガが対応できているのは、間違いなくユウリと一緒に居たお陰だと彼女は感じている。研ぎ澄まされた気功スキルによって、相手の動きを目で追えずとも、気配とこれまでの経験によって、的確に迎撃出来ているのだ。
また手にしているモールも、幾ら金属製とは言えど所詮は普通の鉄の武器だ。あんな魔物の強力な爪や牙を受け止め、更に頭部に全力で叩き込んでいれば、普通ならとっくに使い物にならなくなっていた筈である。
気功スキルを正しく習得したことで、オーラを全身だけでなく武器まで覆い、威力と強度を底上げしつつ、こちらに掛かる反動や負荷を軽減しているのだから、これまでの彼女からすれば、反則としか言いようがない。
しかしこれほどの反則のような力を重ねなければ、この不死身の魔獣とは到底切り結ぶな事など不可能だった。ユウリと出会う前のヘルガでは、確かに戦えはしただろうが、肉体も武器も、この戦闘に耐える事が出来なかったであろう。
(まったく。これだけの力を得ても、傷一つ負わせられないバケモノがいるんだから、世界は広すぎる)
思わず愚痴が浮かばずにはいられなかったが、そうでもしなければ、気持ちの方が折れてしまいそうだった。打開策は見つからず、自分以外にこの戦いについてこられる者はいない。
もしこの相手に負ければ、ベルンの街や周辺の村々は、どうなってしまうのだろうか。
国や領主が軍を率いて、討伐できる相手なのだろうか。
まともに武器も通じない相手だと言うのに。例え魔剣を持ちだして来たとしても、気功を纏った打撃さえ通さぬ肉体を持つ相手に、どれほどの効果が期待できるのであろう。
幸い気功スキルのお陰で、体力的には問題ない。時間は存分に稼ごう。その間にユウリ達が、街を離れてくれることを願って。
そして少しでも、眼前の化け物への対策を引き出すために、あえて捨て石になる覚悟を、彼女は決めた。




