第二十九話「嵐の前の静けさ」
抜けるような青空を横切るように、大きな雲の塊がゆっくりと流れる様は、空を泳ぐ魚のようだ。そんな風に思いながら空を見上げていると、不意に誰かに後頭部を掴まれて強制的に前を向かせられてしまう。
「ほらユウリ、ぼんやりと空を見てないで、少しは警戒しながら見張りをしな」
そう言われて、グシャグシャと頭を弄られた。少しして、細くしなやかな指がそのままユウリの頭を優しく撫でる。不服そうに頬を膨らませて振り向くと、直立した虎とでも呼ぶべき女性、ヘルガが居る。
「ちゃんと気配察知はしてるってば。それよりヘルガさんはどうなのさ?」
「こっちも教わった通りにやってるよ。しかし気功ってのは便利なもんだね、本当に」
ヘルガはそう苦笑して、辺りを見回す。気功を使った気配察知使うと、そこかしこに生命を感じることが出来る。その情報量の多さに最初は面食らったものの、必要な情報とそうでないものに選り分けつつ、自分達と敵対しそうな相手の気配だけを感じ取るのだ。
ユウリはそんなヘルガを見て満足そうに笑って、再び前を向いた。
彼らは今、ギルドからの依頼でロクセイル山へと赴いている。準備に二日、そして移動に三日ほどかけて、漸く最寄りの村に辿り着いたのだ。
そこから更に一日、村での休息と消息を絶った冒険者達の情報を集める事に使い、今まさにロクセイル山へと足を踏み入れようとしているところであった。
ユウリ達のパーティはダグ達のパーティに請われ、合計八人の混成チームを組んでおり、今回の依頼では互いに力を貸す事になっている。それと言うのも、ロクセイル山に居ると言う強力な魔物が麓に下りて来ているらしく、領主の兵や幾つかの冒険者パーティが行方不明になっているらしい。
そんな危険な場所に赴くのに、四人組のパーティでは戦力が足りないと判断した事、そしてヘルガと言うシルバープレート冒険者の実力を見込んでの申し出であった。
非常に危険な依頼だと言うのに、駆け出しに過ぎないノービスプレートのユウリ達まで一緒に居るのは、ヘルガに勝ったと言うユウリの戦闘力と、魔法と言う未知の力を使う、エルフ族であるステラの能力も期待されているからだ。
不安要素はまだ戦闘そのものに慣れていない、小人種族であるリリルト族のマットだが、彼もユウリの指導によって初歩的な気功スキルを習得している為、極端に足手まといになると言う事は無いだろうと、ヘルガは判断している。
スキルや魔法と呼ばれる力は、遥か昔にその知識や技術が失われた事で、習得する事自体が非常に困難なものへと変わったとされている。故に現在ではこの力は希少なものであり、それらの能力を得ることが出来た者、特に魔法の力を得た者は権力者が積極的に保護していると言う。
魔法は知識の集積と継承が可能ではあるが、魔法を使う者の殆どが、それらを他者に奪われないように秘匿している。それを権力者が自らの物にするために保護しているのだ。古い貴族や王家ほど、秘伝の魔法が存在すると言うのはこの為である。
道中そんなことをヘルガから聞かされたユウリは、大変だなという感想以外思い浮かばず、適当に聞き流している。また精霊の力を借りる魔法は、エルフと偶然精霊に好かれた者のみが使える魔法という認識になっており、更に特殊なものであるとされていると言う。
「だからこの、気功ってスキルは便利すぎるのさ。魔法みたいな事が出来ちまうんだからね」
「うーん。一応、秘密にしろってのは分かったよ」
「軽々しく、誰かに教えない方がいい。ユウリを手に入れようと、争いが起きるのは確実さ。貴族や国に仕えたいってんなら止めないけどね。でもアンタの使命は、それが許されないだろう?」
「……うん。なんか凄く面倒臭い気がするから、ヘルガさんの言うとおりにする」
面倒臭い。理由としてはあんまりかもしれないが、それで十分だろう。ユウリがスキルを使え、それを他人に教えられると言うだけでも、破格の存在だ。少しでも彼に自身の特殊性と希少さを理解してもらい、厄介事を避けるために実力を隠す事は、今からでも決して遅い事ではない。
「……ユウリが本当に隠す気があるのかと言う方が、わたしは心配だわ」
「そいつを言ったらお終いだよ、ステラ」
後ろからそんなことを言われて、ヘルガは大きく肩を落とした。そんな彼らの様子を見ながら、マットはやはりユウリは凄いのだとご機嫌になるという、ある意味でいつも通りの一幕となっている。
気をつけなければならない筈の彼らが、普段通りの気楽さでいられるのは、チームを組んだはずのダグ達のパーティが、暫し別行動をしていてこの場に居ないからだ。それと言うのも、今回の依頼でロクセイル山に来ている冒険者パーティは他にも幾つかあり、ダグ達はそちらと探索する場所の分担や、緊急時の連絡方法などを話し合いに出かけている。
ユウリ達はその間、仮のキャンプ地としているこの場所で、待機と言う事になっていた。何故なら彼らのパーティは、冒険者になりたてのノービスプレートが三人もいる、一般的には実力や経験があるとは、お世辞にも言えない面々で構成されているからだ。
幾ら全冒険者に向けられた依頼であり、シルバープレートに位置するヘルガが居るからと言って、本来ならこの場に居てはいけない者達でもある。だからダグ達が気を使って、彼らに余計なトラブルが起きないよう積極的に動いてくれているのだ。
ヘルガは彼らの気遣いに感謝しつつも、目の前に広がっているこの山の、異様な空気を敏感に感じ取っていた。
「あんちゃん、なんかこの山、すごく怖い」
不意にマットが零す。それを聞いたヘルガも、同意するように頷いた。ステラはあえて何も言わない。彼女はいざと言う時の為に魔法を温存しなければならず、また目立つ事を避けるためにフードを深く被って、周囲を警戒していた。
「マットの言う通り、この山はどうにもヤバい気配がするね。もしもオーガでも出ようものなら、普通の冒険者なら全滅もあり得る」
「オーガ程度なら、ヘルガさん一人でも余裕じゃない? でも怪我したらいけないから、僕がやっつけるよ」
「……まあ、その時の状況次第だね。マットは上手く逃げられるだろうし、ステラは何かいい手は持ってるかい?」
仮想敵を想定した話し合いを始めたユウリとヘルガだったが、そこへステラにも話が振られる。同じパーティとして行動するのだから、危険な相手と対峙した時の個々の対応策はあった方が良い。
周囲を注意深く確認し、誰かが潜んでいる心配が無い事を確認してから、ステラは口を開いた。
「ただのオーガなら精霊に頼んで、魔法で多少の足止めくらいは出来るわ。ただ攻撃力は期待しないで欲しいわね。元の肉体が頑強過ぎて、今のわたしの腕じゃあ、風の刃で首を落とすなんて出来ないもの」
「ハハッ、流石魔法士は言う事が違うね。足止めが可能なら、やりようはあるさ。頼りにしてるよ、ステラ」
「ユウリの事を隠すつもりなら、貴女に頑張ってもらわなきゃいけないんだし、精一杯サポートはするわよ」
自称保護者の二人の会話は、気安くもどこか緊張を孕んでいる。仮想敵が強力であることもそうだが、自分達以外の者と一緒に行動する事への警戒が、そうさせているのだろう。
「そんなことより、僕はお風呂に入りたい……野営も退屈なだけだし。僕たちだけなら楽なのになあ」
「これを機に普通の冒険者がどういうものか、しっかりと慣れておきな。用を足すだけで大騒ぎしてるようじゃ、この先思いやられるよ」
今回の旅で、ユウリは初めて冒険者らしい生活をしている。壁も屋根もない場所で眠り、交代で夜の見張りをする。簡素な、そしてあまり美味くもない食事を、胃に流し込む。食事にはさほど時間を掛けず、さっさと食べる事を優先するのは、冒険者は危険な野外に居て、いつ魔物や獣、盗賊などから襲撃を受けるか分からないからだ。
また用を足すときは穴を掘ってそこに出すのだが、当然周囲は何もない。そこそこ背の高い草が生えているなら多少は身を隠せるが、それでも青空の下で尻を丸出しにするのは抵抗があった。更に尻を拭くのに使うのは、その辺に生えている柔らかな葉っぱや木の棒だ。
葉っぱも迂闊にその辺の物を使う訳ではない。何処にでも生えているようなヤツではあるが、うっかり毒性のあるものを使えば、デリケートな部分だけに、地獄を見る事になると散々脅された。
近くに川などの水場があれば手も洗えるが、常に都合よくあるわけではないので、衛生面的な意味でもユウリにとっては苦難の連続であったのだ。
「うう……皆よくあんなこと出来るよね」
「慣れるしかないんだよ。それに街のヒトも村に住むヤツも、そんなに変わらない生活をしてるんだから、気にする方がおかしいのさ」
「ヘルガさんたちがヒトの裸を見ても、平然としてる理由がよくわかったよ……」
「あんたはまだまだお子様なんだから、色気づくにはまだ早いよ」
「僕そんなに子供じゃないし!」
じゃれ合うような問答をしながらでも、この二人は一切警戒を解いていない。ユウリは元々気功スキルにも熟達している、最高峰の戦士。ヘルガもまた経験豊富なベテラン冒険者。こんな雑談をしながらでも、彼らは自然と出来てしまうのだろう。
嵐の前の静けさの如く、彼らの時間は穏やかに過ぎて行った。
その後ダグ達が戻って来て、ユウリ達は簡単に説明を受けた。打ち合わせ自体は比較的スムーズに済んだとの事だが、探索する場所の変更があったとの事だ。
「オレ達が受け持つ場所は、ここから少し西に移動した先から登るルートになった。なだらかで見晴らしのいい場所のようだから、ちゃんと警戒していれば不意を突かれると言う事もないだろう。だからって油断はするなよ。特にガキンチョども」
「はーい。ってことは、他の人が森の中を進むんだね?」
「ああ。あっちもこちらの事情を汲んでくれてな。探索しやすい場所を譲ってくれたのさ。こういう時は冒険者同士、持ちつ持たれつってやつだな。覚えておけよ?」
「はい!」
「……どうにも気が抜けそうになっちまうな。ヘルガ、お前よくこいつのお守りが続くなぁ」
ユウリの無邪気な様子に、思わず毒気を抜かれたような顔をするダグ。話を振られたヘルガは、微妙な表情を浮かべた。
「私の苦労が少しは分かってくれたかい? それでも腕だけは確かだから、興味の種が尽きない坊やなのさ」
そう言っておどけるヘルガに、どこか不服そうに頬を膨らませるユウリを見て、一同は思わず笑い声をあげるのであった。
魔法の習得には才能も大きく絡んでくるので、秘匿された知識を得たからと言って、必ず全てが使えるようになる訳ではないのですけどね。
逆に気功は効果の大小の差はあれど、初歩程度なら訓練次第で子供でも習得出来てしまいます。だからユウリの存在はとても危険なのです。




