終 幸せは君の形をしている
秋の外気は澄み渡り、無数の星々が瞬いている。虫の声と山から響く梟のささやきは夜の訪れを告げ、欠けた月だけが光源の世界は柔らかな色彩で満たされていた。
エルネスタが王城へと帰還して丸一日。その間イヴァンは何かと忙しくしているようで、殆ど顔を合わせる機会がないまま二度目の夜を迎えることになった。
今日のエルネスタは機織工房でイヴァンが選んでくれた、若草色の織物を使ったアークリグを身に纏っている。それなのに披露する時間も、礼を言う機会もないままだ。そろそろ入浴しなければならないが、そんな気も起きずに自室のバルコニーへと出る。
そこには満天の星空の下、銀色の狼が体を休めていた。ミコラーシュは戻ってきてから特にエルネスタの側にいてくれているようだ。
「ねえ、ミコラはどうしてそんなに良くしてくれるの?」
[そりゃあ、エリーのことを気に入っているからさ]
問いかけに対してあくび混じりの鳴き声が返ってくる。どんなことを言ったのかはもちろんわからないが、嬉しいことを伝えてくれたような気がした。
エルネスタはバルコニーにしゃがみ込んで、銀色の毛並みを撫でさせてもらうことにする。
「優しい子。どんなに救われたか知れないわ」
[俺もエリーが戻ってきて良かったよ。あの女の撫で方は酷かったからな]
「ミコラは身代わりに気付いたのかな? 鼻が良いし、気付いていたかもね」
[そりゃすぐにわかったけどよ。あの時はほんとびっくりしたんだぜ]
一方通行の会話は続く。しかしどちらも不快に思うことはなく、穏やかな時間が流れていく。
「ねえミコラ、私でいいのかな。どう思う?」
エルネスタは遥か彼方で瞬く星々を見上げた。夜空は普遍的で、一つも変わることなくそこにある。
「みんなね、騙したことを何一つとして怒らなかったの。けど、私はやっぱり本物のお姫様じゃない。教養もないし、威厳もないし、身分もない。こんな私で、みんなの優しさに報いることができるのかしら。恩返しが、できるのかしら……」
それは取り止めのない思考だった。
一人の時間があるとつい考えてしまう。返せるか返せないかではなく、絶対に返すのだと思い込もうとしても上手くいかない。
「イヴァンはすごく忙しいみたい。あなたなら昼間の様子を知っている?」
何でも無いことのようにわざと明るく問うと、ミコラーシュはピクリと耳を震わせた。
思えばこの狼には、誰にも言えないことを相談させてもらったことがあった。人の言葉など解らないと知ってはいたが、どれ程気が楽になったことか。
「何か手伝えることがあればと思って執務室に行ってみたけど、断られてしまって。ずっと働いてばかりで、全然休んでいない気がするわ」
イヴァンは大丈夫なのだろうか。やっぱり人間の王妃なんて頼りないのだろうか。
国王の役に立てることなんてたかが知れている。そんなことは解っていたはずだったのに。
[……エリーあんた、不安なんだな?]
狼の鳴き声の意味は相変わらず知ることができない。しかしエルネスタは儚く微笑むと、偶然にもその答えを口にする。
「ちょっとだけ、不安なの。情けないわね」
ミコラーシュの毛並みは温かく、不安に淀む胸中を和らげてくれた。星空から視線を鳶色の瞳に移して、しばしの時間をそのまま過ごしていると、だんだん瞼が重くなってくる。
そういえば昨日はイヴァンを待って遅くまで起きていて、結局会えなかったのだ。旅の間も彼と相部屋になってからは緊張して眠りが浅かったし、いい加減に寝不足なのかもしれない。
エルネスタがそろそろ睡魔に負けて、銀色の毛並みに倒れ込みそうになった時のこと。
扉を叩く音が暗闇に響いた。返事を返すのと同時に狼がしなやかな動きで立ち上がって、入室してきた男の元に駆けていく。
現れたのはイヴァンだった。いつもの黒いチョハを身に纏い、疲れを感じさせない立ち姿でそこにいる。
彼は何か言おうとしたようだったが、相棒がなぜか尻尾で叩いてくるので訝しげに眉をひそめた。
「ミコラ、何をするんだ」
[うるせえ! もう俺は行くから、しっかり慰めろ! いいな!]
どこか苛立ったように唸ったミコラーシュは、颯爽と王妃の部屋を去っていった。
やっぱり狼は気まぐれだ。ひとに寄り添ったり寄り添わなかったり、とても自由に生きている。
「……イヴァン、どうしたの? こんな時間に」
エルネスタは俄かに眠気を吹き飛ばして立ち上がった。こうして二人向き合うのは、随分と久しぶりのような気がする。
「君に会いにきた」
「何か、あったの?」
「いいや。会いたかったんだ、ずっと」
暗闇から告げられた言葉は驚きと喜びが同時にやってくるもので、エルネスタは頬を薄紅に染めて破顔した。
「……嬉しい。私、私もね、会いたかった」
バルコニーと部屋の境目に立ったイヴァンの表情は半分が陰に隠れてよく見えなかったが、口元を押さえて顔を逸らした事くらいはわかる。
何かおかしな事を言ったかと思案したが、彼は気を取り直したようにこちらを向いてくれた。
「そのアークリグは……」
「あ! あのね、覚えていないかもしれないけど、イヴァンが見立ててくれた織物で仕立ててもらったの。本当にありがとう」
エルネスタは星空の下で一回転して見せた。若草色の布地が翻り、ハーフアップにした髪が夜天を舞う。
「忘れるはずないだろう。よく似合っていて、綺麗だな。夏の精が帰りそびれたのかと思った」
エルネスタはもう頬を染めるどころではなかった。
今夜の彼はどうしてしまったのだろうか。こんな風に女性を賛美することなんて、しないひとだと思っていたのに。
「今は何をしていたんだ?」
「え、ええと……ミコラを撫でながら、星を眺めてたわ」
「まさか、何か嫌なことがあったのか?」
低く問われた意味がわからず、エルネスタは呆けたような顔をしてしまった。
しかしすぐに思い当たることがあって微かな声を漏らす。そうだ、あれは八年前のこと。金色の狼を助けたあの時に、苦しい時は星を数えるのだと教えたのではなかったか。
「ううん、違うの! 私、あの時はあんなこと言ったけど、星はいつ見たっていいのよ」
本当のところ、今は少し寂しい気持ちで眺めていたけれど、それについては口をつぐむことにする。エルネスタはイヴァンの手を取ると、軽い力で引いてバルコニーへと導いた。
月明かりに照らされて彼の姿が露わになる。二人で天を仰ぎながら、エルネスタは自然と笑みを浮かべた。
「見て、本当に綺麗。悲しい時はそれを忘れられるし、嬉しい時は何倍にもなる。心が落ち着かない時は落ち着いて、沈んだ時は浮上することができる。私は星が好きだから、いろんな感情を夜空に分けるの。その方が嬉しいでしょう?」
この数ヶ月は苦しい時にばかり星を眺めていたような気がするが、本当はそんなことでは勿体ない。
何故なら、晴れた日の星空はいつだって包み込むように優しいのだから。
ちらりと横に視線を滑らせれば、同じように夜を見つめる横顔があった。星空をそのまま写した藍色の瞳が綺麗で、エルネスタは目を細めてその輝きを見つめた。
「エリーは、凄いな」
やがてイヴァンは淡く言った。
唐突な賛辞の出所がわからず、エルネスタは首をかしげる。
「君はいつも、俺の愚かさを教えてくれる。どれほどに視野を狭め、助けてくれるはずのものから目を背けてきたのか。慈しむべきものが何なのか。守りたいものへとどう向き合うのか」
イヴァンの瞳は遠くを映しているようでいて、その心は今までで一番近くにあった。
私はそんなことを貴方に教えられるような者ではないのに。エルネスタはそう思ったが、彼が告げた真心を否定する事はしたくなかった。
ーーねえ、イヴァン。私も貴方にはたくさんのことを教えてもらったの。助けてくれるひとの存在。自然と共に強く生きる彼らの美しさ。そして貴方が笑ってくれた時の幸福感。それから、それから。
ふとこちらを向いた彼と視線が絡み合う。伝えたいのに、胸が詰まって言葉が出てこない。
星が綺麗すぎるから。月明かりに照らされた微笑みが、とても愛おしいから。
「……その、エリー。今日は、月が綺麗だな」
「うん、そうね。いつもより大きく見えるみたい」
エルネスタは声が震えないように精一杯の力を込めた。
山影のわずか上に登る欠けた月は、気まぐれに星の海を漂う船のようだった。くっきりと夜空を切り取るそれは金色に輝いて、イヴァンの髪の色によく似ている。
「月には女神が住む。シェンカの建国を告げた唯一神は、民が死ねば迎えに来て、月の楽園に誘ってくれる」
「いつも見守ってくださっているのよね」
「ああ。そうだ」
イヴァンの声は何故だかこわばり始めていた。シェンカの神を紐解くことが、どうして緊張をもたらしたのだろうか。
「つまり……つまりだな。証人は今も月におわす」
言葉の意味を問い返す前に空気が揺れた。それはこの国で最も尊いひとが、エルネスタの左手を取って片膝を突いたからだった。
あまりのことに目が眩む。それと同時に脳裏にある記憶が蘇って、深緑の瞳を大きく見開いた。
緊張しすぎて殆ど覚えていない結婚式でのこと。あの時はあくまで儀礼的に、冷たい瞳のまま、イヴァンはこの姿勢を取った。エルネスタはその姿を見て、人狼の戦士は国王ですら愛を誓う時は跪くのだと驚いたものだ。
「先祖に役目を与えた女神の名の下に、俺は君を生涯に渡って愛し、支え、守り抜くと誓う。エルネスタ・ウルバーシェク殿」
紙面に現れる事は一度として無いであろうその名前を呼ばれ、息の仕方すら忘れてしまった。エルネスタは瞬きもしないまま、玲瓏な輝きを宿した藍色を見つめ返していた。
「君を心から愛している。どうかこれを受け取ってほしい」
イヴァンがチョハの懐から取り出したのは木でできた小箱。エルネスタはその中に収められていたものを、信じられない思いで見ていることしかできなかった。
自らの左手の薬指。労働で節立ち、お世辞にも綺麗とは言えないその場所に、誓いの証がゆっくりと嵌められる。
それは金でできた指輪だった。華奢な造りをしていて、繊細な意匠の中央に白く輝く宝石が収められている。
「これ、は……」
「結婚指輪、なるものだ。良い職人が多いバジャント領で依頼してきたんだが、今日ようやく届いてな。俺のもーー」
どうやらイヴァンは絶句したようだった。しかしその表情は、溢れ出る大粒の涙のせいですっかり覆い隠されてしまっていたけれど。
こんなにも幸せなことがあるのだろうか。
幸福というものが星に変えられるなら、この夜空を昼間のように明るくすることができただろう。
先程まで確かに巣食っていたはずの不安すら、嘘のように霧散していく。
嬉しくて息が止まりそう。切なくて叫び出してしまいそう。
この気持ちを伝えようとすると、涙が邪魔をして喉につっかえてしまう。
「エリー⁉︎」
上ずった声で名を呼ばれた。イヴァンを動揺させたことがわかっても、壊れた涙腺を持て余したまま何も返すことができなかった。
「すまない……! 指輪が気に入らなかったのか、それとも何か悪いことをしてしまったか。文献を参考にしたんだが……エリー頼む、泣かないでくれ」
弱り切ったような言葉と共に温かく大きな手が伸びてきて、涙に濡れた頬を拭い始める。その手付きがあまりにも優しいことにも涙腺を刺激されて、エルネスタは小さくしゃくりあげた。
「ち、ちが……っ、うれ、しい。嬉しいの」
藍色の瞳が驚きの後に喜びを映す。イヴァンは安堵の溜息をつくと、親指でそっと丸い頬をなぞった。
「良かった。なら、笑ってくれ。俺はエリーの笑顔が見たいんだ」
そして、自身の考えと同じようなことを言うから。
「はい。……ありがとう、イヴァン」
エルネスタは初めてイヴァンの前で心から笑った。我ながら現金だと思うがいつしか不安は消えていて、それがまたおかしくて、幸せで、心の底から微笑んでいた。
星のようと形容すべき笑顔。その様がどれほど男の目に眩しく、愛おしく映ったのかは知る由もない。
「イヴァンのもあるの?」
「ああ。一応な」
「それなら私、付けてあげたい。よろしいでしょうか」
畏まって、どこか茶目っ気を含んだ笑みを浮かべる妻に、イヴァンもまた溶けそうな微笑みを浮かべる。
彼は立ち上がると、同じ小箱から二回りは大きそうな指輪を取り出して、エルネスタに手渡してくれた。
そっと引き寄せた左手は剣だこや小さな傷が目立っていて、だからこそ美しかった。沢山のものをすくい上げようと努力してきた手。儚くも強い王様の手。
「私も、女神様に誓います。貴方を生涯愛し、支え、守ることを」
誓いの言葉は透き通って夜空に溶けた。薬指に指輪を通した瞬間、エルネスタはゆっくりと手を引かれ、愛するひとと唇を重ね合わせていた。
そっと目を瞑る。それはただ想いを交わすだけの、優しい口付け。
少し離れては、また触れる。心臓の音がうるさくて仕方がないのに、唇に感じる熱ばかりが胸を満たしていく。
時は早いような遅いような速度で過ぎて、二人はどちらからともなく身を離した。林檎のように熟れた顔を見られないよう俯いていると、程なくしてたくましい腕に抱きすくめられてしまった。
「ようやく触れられた。何度約束を忘れそうになったか知れない」
「約束?」
「こちらの話だ。……なあエリー、君が俺を守ってくれるのか」
人狼とは比べるべくもない非力のくせに。そう言わんばかりの苦笑がつむじをくすぐった。
先程の誓いをしっかり聞いていたらしいと知って、エルネスタは広い背中にそっと腕を回す。
「そうよ。貴方の道は、私が守るの」
そう、どれほどの苦難が待ち受けていようとも。
いばらを裂いて、小石を蹴飛ばして、枯れ枝を放り投げてやる。
エルネスタはこの人狼王の全てを愛した。彼が進むというならば、地獄へだって付いて行く。
イヴァンが息を飲む音が聞こえた。それは気のせいかと思うほど、微かな空気の揺らぎだった。
「……降参だ。勝てないな、君には」
抱きしめる腕の力が強くなる。山の冴えた空気はどこか遠く、寒さを感じるには至らない。
秋が終わり、冬が来て、いくつもの季節が過ぎ去ろうとも、このひとの側にいる。
支え合い、笑い合い、時にはぶつかり合って、それでもこの場所に帰ってくる。
二人手を取り合っていれば、何も怖いことなどないのだから。
穏やかな星空だけが見守る中。
エルネスタは彼の背に回した手に力を込めて、先ほど返せなかった想いを囁いた。
星は瞬く。
***
イヴァンは腕の中の細面をそっと覗き込んだ。すると想像通り、エルネスタは深緑の瞳を閉じて安らかな寝息を立てている。
以前にもこんなことがあった。この状況で眠れるとは、やはり妻はかなりの大物らしい。涙ぐましいほどの我慢をした上でのこの結末に、イヴァンは口元を引きつらせてしばしの時間を過ごす。
酷い。生殺しだ。男という生き物をわかっていないのか。
「君は、よく眠るな……」
それでもつと溢れた恨み節は、自分でも嫌になるほど溶けきっていた。
短期間で二国間を往復した上で昼間も忙しく動き回っていたようだから、随分疲れてしまったのだろう。
何度見ても愛らしい寝顔だ。飽くことなく何時間でも眺めていられる。この寝顔は己の特権。この人の全てを守るのも、己の特権だ。
イヴァンはエルネスタを抱き上げた。腕の中の重みは柔らかく、愛おしさばかりが募っていく。
寝台に寝かせても身じろぎひとつしない体に布団をかけ、額にかかるブルネットを払って口付けを落とす。オイルランプが照らし出した唇が笑みを深めたように見えて、イヴァンはひっそりとした苦笑を浮かべた。
半開きになったバルコニーから金に輝く月がのぞいている。
星の海を泳ぐそれが天高く登っていっても、寝台に腰掛けた影がその場を動くことはなかった。
『要らずの姫は人狼の国で愛され王妃となる!』 完
長い間お付き合いくださいました皆様、まことにありがとうございました。
孤独な王様が幸せを見つける物語でした。これからは二人で幸せに過ごしてくれることでしょう。
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よろしくお願いいたします。




