懐かしき故郷 1
三週間の時をかけ、エルネスタはヴァイスベルクに帰郷した。
北極星に着くなり家族にもみくちゃにされ、同時にイゾルテの無事を確認することができたので、道中では引き締め続けた涙腺が決壊してしまう。
イゾルテには今回の計画がすっかりばれていて、随分怒られてしまったのだが、後半からは涙を流す母に無言のまま抱きしめられることになった。
その後すぐに帰還祝いのパーティーが始まった。久し振りに味わう母の手料理は沁み渡るように美味で、エルネスタは自然と笑顔を浮かべた。
久しぶりの家族団らんの時はあっという間に過ぎていく。気付いた時には男達はリビングで寝てしまい、静かになった会場には母娘二人が取り残されたのだった。
イゾルテが毛布を引っ張り出して、ソファの上に転がる男どもに掛けてやっている。木造の室内は相変わらず温もりがあって、家族の光景と合わせてとても懐かしい。
エルネスタがお土産のワインを二つの木製マグカップに注ぐと、イゾルテは興味深そうにダイニングテーブルへと近寄ってきた。
「あら、何それ?」
「シェンカ名産の赤ワイン。私も驚いたんだけど、エンゲバーグ伯爵が馬車に積んで下さってて」
パーティではブルーノとコンラートが飲めないので出さなかったのだ。まだ子供のコンラートは仕方がないとして、ブルーノはエールだけで寝てしまったのだから、その判断は正解だったと言える。
イゾルテはといえば、嬉々として愛用のマグカップを引き寄せているところだった。
「へえ、エンゲバーグ伯ったら気が利くのね。私の機嫌を取ってるつもりかしら」
「母さん、エンゲバーグ伯爵を知ってるの?」
「知ってるわよ。教育係仲間だもの」
イゾルテが残りの料理を適当に盛り合わせてテーブルの上に置いた。二人はダイニングテーブルに着き、改めて乾杯をする。
身代わり中は殆ど口をつけなかった酒は、エルネスタの喉を容赦なく焼いた。せっかくの高級品も美味しいと感じることができず、すぐにマグカップを卓上へと戻す。
「そうだったのね。全然知らなかったわ」
「エンゲバーグ伯は歴史の講師で今の皇帝陛下担当。私は地学の講師で姫様……今の皇后陛下担当。当時はお世話になったけど、流石に今回のことは許せないわよねぇ……」
イゾルテは禍々しい何かを背負っていた。どうやら挨拶もせずに娘を連れ出したことを、大層怒っているらしい。
「か、母さん! エンゲバーグ伯爵は、いっつも助けてくれたのよ。それに母さんに何も言わないことにしたのは私だから!」
「あの方に悪意がないのはわかってるわよ。だから怒りのやり場がないんじゃない」
怒り。イゾルテがその単語を口にした心境は理解できるが、エルネスタにとってはあまりしっくりこない感情だ。
身代わり期間中から、今日この瞬間までずっと苦しい。けれどそれは怒りという感情だけは無縁の、果てのない暗闇だった。
いや、強いていうならば自分自身にはずっと怒っていた。何も考えずに謀事の当事者となった愚かな自分に。
「酷い顔ね」
不意にイゾルテが苦笑を浮かべるので、エルネスタは虚を突かれてしまった。
「あなたは何でもそつなくこなしてしまうけど、今回は取り繕えていないわね。帰ってきてからずっと、ふとした瞬間に見たことないような顔してるわよ。それに、美味しいって言いながらぜんぜん食べてなかったしね」
「……気付いてたの?」
「ええ。言いたくないなら何も聞かないから、それ飲んでお風呂入って寝ちゃいなさい」
イゾルテはザワークラウトを口に運んでは、何気ない動作でワインを傾けている。パーティの時からエールを飲んでいたのに、未だに酔う気配がないとは大した酒豪振りだが、血の繋がりのないエルネスタは母からこの特性を受け継いでいない。
だからこそワイン一口で頭の中がふわふわしてくる。感情が高ぶったせいだと心の中で言い訳をしながら、エルネスタはポツリポツリと胸の内を吐露し始めた。
「母さん、私ね……酷い裏切りを、したの。皆が優しくて、親切で。人と争ってきた歴史に囚われることなく、私を受け入れてくれたのに」
要領を得ない語り口だったが、イゾルテは静かな瞳で耳を傾けてくれた。オイルランプが頼りの空間を乱すのは、震える声と野太いいびきだけだ。
「私は嘘をついてた。お礼も言うこともなく黙って出てきちゃった。酷いわよね。こんなの、謝って済むことじゃない。……けど、もう謝ることすらできない。信じてくれたのに。待ってるって、約束したのに。戦に行ったあの方を、置いてきてしまった」
エルネスタが持たないのは後悔のやり場だった。
こんなに苦しいのに、彼らに会わなければ良かったとは思えないのだ。
短くも長い冒険を通じて、エルネスタは人と人狼族の間に横たわる悲しみを知った。簡単には払拭できないほどの隔たりと、それを解消するために努力するひとたちに触れ、彼らの心と素晴らしい文化を知った。
そして、生まれて初めての恋をしたのだ。
「こんなこと言ったら母さんが自分のせいだって気にするの、わかってる。けど、苦しい。どうしたらいいの……!」
赤い水面に映る顔は醜く歪んでいた。なるほど確かに酷い顔だ。これでは心配をかけるに決まっている。
それなのに止められない。恥ずかしい。こんなに甘えたりしてーー。
「あなたが甘えてくれるのなんて何年ぶりかしらね」
とても優しい声に促されるようにして顔を上げた。イゾルテは笑みを増すばかりで、その表情は慈愛に満ちた母親のものだった。
「頑張ったわね、エリー。忘れなくてもいいし、忘れたっていいのよ。その気持ちは自分のものなんだから、好きなようにするのが一番だわ。苦しいならこうして私に話せばいい。父さんやコンラート、お友達にも、相談しちゃえばいいの。もっと周りに頼りなさい」
「……母さん」
「ん?」
「抱きついてもいい?」
それは殆ど無意識のうちに出た言葉だった。唐突な願い事に、イゾルテは快活に笑って両腕を広げて見せる。
「おいで!」
エルネスタは遠慮のない勢いで母の胸に飛び込んだ。その途端に抱きしめ返してくれる腕は、床に伏せっていた頃とは比べ物にならないほと力強い。
「あなたは優しい、良い子に育ってくれたわ。全然手間がかからないどころか、昔から随分と助けてもらっちゃった。ごめんね。ありがとね……」
イゾルテの声は優しく、暗い室内にひっそりと滲むようだった。
この想いが失われる日はこないと思う。けれどいつかは、心静かに祈ることができるようになるのだろうか。
*
「姉さん、姉さんってば」
己を呼ぶ声が聞こえる。
この呼び方をするのは一人しかいない。それにしても弟はなぜこんなにも苛立っているのだろう。
「ねえ、いい加減起きなよ。もう十二時なんだけど」
十二時? それは夜のだろうか。それともーー。
「昼の十二時っ⁉︎」
「起き抜けからうるさ。だからそう言ってるじゃない」
振り子のような勢いで起き上がったエルネスタは、まずは呆れ顔の弟と対面する羽目になった。
彼の背後には見慣れた自室の風景が広がっていて、すぐに昨日の記憶が蘇ってくる。
イゾルテに話を聞いてもらって、泣いたのと酔っ払ったせいで眠くなって……そこからは記憶がない。
「体調は?」
「大丈夫みたい」
「あそ。なら良いけどね」
ぷい、とそっぽを向いたコンラートは、いつものごとく素っ気ない。思春期特有の可愛らしさに心の中で笑みを浮かべつつ、エルネスタは弟の優しさを受け取った。
「ありがとう、コンラート」
「俺、何にもしてないんだけど」
「そんなことないわよ。感謝しなくちゃね、本当に」
いつもの態度に、いつもの表情。両親が泣いて喜んでくれたのは嬉しかったが、弟の平常運行ぶりを見ていると安心する。
よく母を支えてくれた。本当にいつのまにか大きくなった。この三ヶ月でまた背が伸びたのではないだろうか。
「もしかしてコンラートが私を運んでくれたの?」
しかしその質問には、心底迷惑そうに顔をしかめられてしまった。
「はあ? 勘弁してよ、普通に父さんが運んだんでしょ。俺に大の大人が運べるはずないじゃない。まだ寝ぼけてるわけ?」
「そ、そっか……! そうよね!」
エルネスタは真っ赤になって視線を逸らした。まるで自分の体重がさも軽いような言い草だ。人狼族でもないのに、一人で人間を運べる者なんてそうそういるはずがーー。
ああ、そうか。よくイヴァンが運んでくれていたから、変なことを思いつくんだわ。
そこまで考えついてしまったエルネスタは、羞恥の浮かんでいた顔から表情を消した。
ふとした時に思い出す。それは何の前触れもなくやってくるので対処のしようがなく、いつも無防備な胸中を掻き回して去っていくのだ。
「……まあ、なんでも良いけどさ。その顔、辛気臭くて嫌いだよ」
「うん、ごめんね……」
「謝られると余計イライラするんだけど。ねえ、誰が姉さんにそんな顔させてるわけ」
コンラートはイゾルテとよく似た目元に怒りを滲ませていた。
相変わらず正義感が強い。困っている人や悲しむ人を放っておけないところは、両親から受け継いだ彼の美点だ。
「俺がそいつぶっ飛ばしてきてやるよ。ねえ誰なの?」
「気持ちだけもらっておくわ。私が暗い顔をしているのは、誰のせいでもないもの」
「ふーん……あっそ。それなら勝手にすれば」
コンラートは苛立ちのまま立ち上がって、扉の取っ手に手をかけた。こちらを振り返らず、憤りを隠しもしない声で言う。
「べつにどうでもいいけど、無理やり笑ってるほうが腹立つよ。せいぜい落ち込むだけ落ち込めばいいんじゃないの」
コンラートは音を立てて扉を閉めた。次いで廊下を踏みしめる音と、「昼ごはんだってさ!」という八つ当たり紛いの報せが届いて、エルネスタは思わず笑みを零すのだった。




