君が何を望むとしても
イヴァンは有言実行だった。本当に援軍到着からあっという間に戦を終わらせてしまったのだ。
そして本当に珍しいことに、此度ばかりは臣下を頼ることに決めた。恥を忍んでシルヴェストルに先に帰っていいかと尋ねたら、彼は朗らかな笑みで勿論と返したのだった。
*
「お前は誰だ」
それが己の声だと自覚するのに幾ばくかの時間を要した。イヴァンは思考を全て燃やし尽くす程の怒りに支配され、苛烈な輝きを宿した藍色で目の前の女を睨みつけていた。
「……忘れてしまったの? 私はエルメンガルトだよ」
歴戦の戦士でも怯えて蹲るような気迫を前にしても、女の淡々とした表情は揺らがない。
その様子がさらなる怒りを呼び醒ます。世界中でただ一人愛した女性と同じ顔をして、あっけらかんと嘘をつくなど到底許せるものではなかった。
「その下手な芝居でよくも今まで騙し通していたものだ。いつから入れ替わっていた? ……俺の妻を、どこへやった」
掴んだ文机が悲鳴を上げて亀裂を走らせる。その不穏な音にも動じる事なく、女は深緑色の瞳でこちらをじっと見返している。
凪と烈火がぶつかり合い、室内に重苦しい静寂をもたらした。先に溜息をついたのは女の方で、目をそらすとやれやれとばかりに肩を竦めて見せた。
「……まさか一目で見破られるとは思わなかった。そう、私はあなたのエリーではありません」
命がけの嘘を見破られた割に、女の態度は相変わらず飄々としたものだった。その泰然とした様子に焦燥感を煽られつつ、イヴァンは無言で文机から手を離して居住まいを正す。
「私の名はエルメンガルト。正真正銘、ブラル皇帝の第一王女として産まれ生きてきた、本物のエルメンガルトです」
その告白を頭が理解すると同時、扉が凄まじい勢いでノックされた。許可を与えていないのに開いたと思ったら、何者かが息切れをしながら雪崩れ込んでくる。
「ちょっと待ったぁ! イヴァン駄目ですよ、その方に手を出したら一生後悔しーー」
ヨハンはメガネがずり落ちるのをそのままにしていた。しかしそれ程に狼狽していても、二人の間に漂う冷え切った雰囲気を感じ取ったらしい。
「ああ……お気付きになったのですね。ではこれを。つい昨日、密偵が持ち帰った報告をまとめてあります」
イヴァンは差し出された羊皮紙を受け取ると、端から端までざっと目を通していく。そこに記されていたのは、到底信じられないような横暴の記録だった。
ブラルの帝室では、双子は忌むべきものとされていること。
エルメンガルト王女は実は双子の姉として産まれたこと。
妹だけが殺されたかに思われたが、実は一人の学者に引き取られ、庶民として育てられたこと。
妹の名をエルネスタということ。
今回の結婚に際してエルメンガルト王女が出奔し、エルネスタが身代わりに立てられたこと。
身代わりに際して、エルネスタの養母の治療を約束したらしいこと。
妻がとった数々の行動が姫君らしく無かったことも、その正体を知れば納得がいった。
うなされながらも母さんと呟いた夜。拒む理由は聞かないと言った時の安堵した顔。誰に対しても分け隔てなく接する朗らかさ。人狼族に怯えなかったことも、農作業や虫にも嫌悪感を示さないことも、果物を剥いたり飴を作ったりと庶民じみた器用さを披露したことも。
そして何より、いつも何処か悲しそうにしていた理由がこれか。
イヴァンは彼女を信じると言った。それは自らへの暗示のためではなく、信じられると思ったからこそ告げた言葉だ。
羊皮紙を握りつぶしたいような衝動を堪えて、どす黒い怒りを宿した顔を上げた。良くここまでの情報を集めてきたものだが、今は友人を労う余裕など無い。
「……吐き気がする。貴様らは畜生以下だ。実の家族に対して、よくもここまでの非道が働ける」
「ええ、その通りです。返す言葉もございません」
その時初めてエルメンガルトは後悔するように目を伏せた。今更のように「双子である」という事実が胸の内に浸透し始め、イヴァンは目の前の女を睨むように見つめた。
「それにしても、どうしてお気付きに? 私達はそっくりでしょう。確信を持って問い詰められるような隙はお見せしていないつもりでしたが」
「見くびるな。何もかもが違う、ただそれだけのことだ」
イヴァンには一目でわかった。それは言い表すことのできない差異ではあったが、別人であることは明らかだった。
何より、妻はそんな風に笑わない。もっと素直に慌てるし、思い遣りに溢れた言葉を話す。何の前触れも無く夫が戦から戻ったなら、あの可愛らしい瞳を丸くして、すぐに無事を喜んでくれるはずだ。
「もう一度聞く。エリーをどこへやった」
その声は低く、絶対的な力に満ちていた。
謀られた事などどうでもいい。ただもう一度彼女の顔を見て、伝えたい事があった。
「さあ、存じません。知っていても教えて差し上げるつもりはありませんが」
「何だと」
「あの子は育ての母親の為に、こんな遠くまで来てくれただけの、無辜の民の一人なのですよ。全ての責は私が負いますので、私だけを罰してください。あの子に手出しをさせるわけには参りません」
今までの雲のような態度は鳴りを潜め、エルメンガルトの全身から王女たる品格が滲み出る。
なるほどこの女はあのブラル皇帝の娘にしては、上に立つ者としての自覚を備えているらしい。だが的外れなことを言われても苛立ちが募るだけだ。
「面倒な押し問答をさせるな。俺はただ彼女に会いたいと、そう言っている」
ヨハンは完全に気配を消していたのだが、この時ばかりは息を飲んだ。
それ程に人狼王の放つ圧力は凄まじく、エルメンガルトのこめかみにも汗がにじむほどだった。
「……成る程。ですが、あなたが会いたくてもあの子は? この国で王妃として生きることを、彼女は望むのでしょうか」
その指摘はイヴァンの胸の奥深くに突き刺さるものだった。
彼女はただの善良な民の一人だったのだ。いくらイヴァンが共に歩むことを望んだところで、故郷での暮らしを選ぶのかもしれない。
だが、それでも。
「ならば、戻ってきてほしいと乞うまでだ」
何もできなかった。苦しんでいることを知っていて、助けてやることができなかった。
いつからだったのかはわからないが、この気持ちが心に住み着いてからは、むず痒いような温かさがいつも胸の中にあった。
愛おしかった。失いたくないと思った。だからこそ怖くて、踏み込むことができなかった。
とんだ臆病者だと自嘲をこぼす。こんな情けない男など、彼女からすれば願い下げかもしれない。
「拒絶されるかもしれないが、それでも会いにいく。……大事な人なんだ」
胸を裂くような想いで言い切った時、エルメンガルトの瞳は静謐な光を湛えていた。ややあって妹にそっくりなその色を逸らした姫君は、柔らかい苦笑を浮かべたのだった。
「まったく、本当に参るよ。あの子を守ろうとしたら、とんだ悪役になってしまった。どうやらお節介だったみたいだね」
エルメンガルトが噛みしめるように零した言葉は要領を得ず、訝しんでいる間に一冊の本が放り投げられた。イヴァンはそれを難なく受け取って、投げてよこしてきた相手を注意深く見返す。
「この本は」
「そちらは私には持つ資格がないので差し上げます。お読みください」
言われるままに本を開いてみる。その1ページ目には、読みやすい文字でこう記されていた。
『◯月◇日
今日から日記を書き始めました。理由はいくつかあります。見たことや習ったことの覚え書きのため、私自身の勉強のため。……二つしかなかったわ。とにかく、頑張って書いていこうと思います』
イヴァンはその一文を読み終えるなり瞠目した。これを書いたのが誰なのかは、考えずともわかる事だったから。




