本物の姫は対面する
未だ馴染みのない自室の窓からは、冴えた三日月が顔をのぞかせている。
エルメンガルトはページを繰る手を止めて顔を上げた。この日記、本当に良く書いてある。
日々の勉強の内容から誰とどんな会話を交わしたのか、そのひとの外見的な特徴は何か。ただし添えられた似顔絵は下手くそで、あまり役に立たないところが微笑ましい。
似顔絵の出来を抜きにしても、これが無かったら酷いミスを連発してしまっただろう。本当にいくら感謝しても足りない程だ。
「……元気かな。気に病んでいないといいけど」
妹の人となりなどよくは知らない。それでもほんの少しまみえただけで、彼女の気性の優しさは伝わってきた。
だからこそ酷い企みに巻き込んでしまったことには罪悪感を感じざるを得ない。できることならここでの事は忘れて、心安らかに暮らしてくれたらいいのだが。
エルメンガルトは考えを巡らせたが、あまり人の心配をしている場合ではないのも確かだった。エンゲバーグによれば、そろそろ周囲からの疑惑が高まってきているらしい。特に近しい者相手では誤魔化すのに苦労しているのに、国王まで帰ってきたら流石にまずいのではないだろうか。
重いため息を吐き出した時、扉がノックの音を響かせた。
姿を現したのはルージェナだった。この侍女長は王妃の様子に不信感を抱いているのだが、今の彼女はいつもの鉄面皮を焦燥に崩していた。
「どうしたの、ルージェナ」
「王妃様! 陛下が……!」
まさか。
エルメンガルトは続く言葉を想像して息を飲んだ。しかし、すぐにその想像が間違いだったのを知ることになる。
ルージェナをやんわりと、しかし有無を言わさぬ強固さで押しのけて入室してきたのは、見覚えのない金髪の男だった。
一目見ただけで彼の正体は察することができた。凍てつくような美貌は真冬の夜を連想させ、日記の中で夜空のようだと表現された藍色の瞳は深い輝きを宿している。黒いチョハはややくたびれていたものの、その存在感は覆い隠せるものではない。
この男はシェンカ国王イヴァンだ。特徴が一致する以前に、彼の堂々たる風格がそう告げている。
「何で……」
エルメンガルトは最近でも一番の動揺を示した。
聞いていない。戦が終わったとも、帰ってくるとも、何の一報も届いていないのに。
「ルージェナ、下がれ」
「は、はい。陛下」
珍しくも狼狽えたままの侍女長は、それでも主君に逆らうことはしなかった。二人きりになった部屋で、エルメンガルトは藍色の視線をまともに浴びる羽目になった。
この目、まるで全てを見通しているようだ。彼が持つ威厳は父のそれなど遠く及ばない。よくもまあこれ程の男を謀ろうなどと、無茶な計画を実行する気になったものだ。
ーーしかし、これは困ったことになったな。
なにせエルメンガルトはあまり演技派ではない。ここまで急に帰ってきたとあっては心の準備などできようはずもなく、再会の感動と驚きを同時に表現しろだなんて無茶にもほどがある。
もういっそのこと呆然としたふりをしておくのが上策か。諦めて座り込んだままでいると、不意にイヴァンが動きを見せた。
彼は迷いのない足取りで歩み寄ってくる。藍色の瞳は明確な意思を宿して燃え盛っているようだ。
それは一瞬の出来事だった。
イヴァンは側までやって来るなり跪いて、妻と目の高さを合わせるようにした。そして長い腕が伸びてきたかと思ったら、その手のひらはエルメンガルトを通り抜けて背後の文机を捉えたらしい。
男の張り手を食らった文机が大きな音を立て、精悍な面立ちが眼前に迫る。唐突に発したこの非常事態においてなお、エルメンガルトは冷静だった。
ーーうん。これは本当に困ったことになったな。




