豆知識 動的平衡
川って、実はそこにあるわけじゃないのですよ。
あるのは、谷であり、地図上の川すじののたくりだけ。
そこに水が流れ込んで、はじめて川という現象になりますが、水は常に動きつづけて、ひと所にとどまっていられません。
ゆく川の流れは絶えずして元の水にあらず・・・なんて昔のひと(鴨長明さん)は諸行無常をうまく表現しました。
今日ある川は、昨日あった川とはまったくの別もので、内容がすっかり入れ替わってるのです。
つまり川の実質は、文字通りに流動的です。
生物も同じです。
常に摂取と排泄、新陳代謝によって中身を入れ替えつつ、体系と機能と姿かたち・・・すなわち、わたくしとしての体裁を保つのみです。
今現在の自分の肉体は、半年前に存在した(そして今はもうない)自分の肉体のコピーにすぎません。
ところが不思議なことに、生物は川のように、空間上に鋳型を持っていませんよね。
なにもない座標に、どうしたわけか物質が集合し、わたくしは超然と存在しつづけます。
ではそこにあらかじめになにがあるのかというと、遺伝子なのである・・・とするのが福岡ハカセの動的平衡論です。
どこにおわすとも知れぬ遺伝子が「せよ」と命じると、その指示に生命機械が従い、物質世界から素材を集めて、自らを組み立てます。
生物は、鋳型の代わりにゲノムという「設計情報」を与えられておりまして、その情報に物質が流れ込むと、生命機械が立ち現れます。
情報は生命機械の内部に組み込まれてるのですが、その生命機械をつくり上げるのは情報です。
昔々、そんな循環のメカニズムが忽然と出現し、設計と具現のフィードバックサイクルが開始されました。
それにしても、このニワトリと卵とはどっちが先だったんでしょうね?
物質世界から素材を取り込み、生命機械にタンパク質をつくらせるようにDNAが指導するセントラルドグマは、知性の仕事としか言いようがありません。
その知性なるものを、いったい誰がつくったんでしょうか?
とりあえず、知性ある何者かがわれわれの知性をつくった、としましょう。
とすると、その知性ある者とはなんなのかはさておき、そこにはさらに本質的な問題・・・つまりその何者かの知性をつくった先にさらなる知性が存在するはずだ、という疑問が生じます。
それは最初の霊魂がつくったのだ。(だったらその霊魂は誰がつくったのか?)
それは宇宙人がつくったのだ。(だったらその宇宙人は誰がつくったのか?)
それは大いなる宇宙意思がつくったのだ。(だったらその宇宙意思とやらは誰がつくったのか?)
それはわたしがつくったのだ。(だったらそのわたしは誰がつくったのか?)
すべては夢想だ。(だったらその夢想とは誰のものなのか?)
・・・
多くのひとはここで万能者(神さま)の存在に逃げますが、だったらその神さまとやらは誰がつくったのか?という、やはり無限後退の曼荼羅の迷宮をめぐることになり、はっきりとした答えを示すことができません。
結局は科学も宗教も、この最初にして根本的な難問、すなわち「なぜなにもないのでなく、なにかがあるのか?」というところに行き着くしかないのでした。
なにも解決しないまま、今回はおしまいです、ちゃんちゃん。




