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科学コラム  作者: もりを
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死んだらどうなるか?問題・27

ぼくの脳みそはタンパク質でできていて、その内部に張りめぐらされた細線(神経系)を電気が走り、線の間の節部が科学物質のやり取りをすることで、ぼくの「想と記憶」をつくり出す。

ニューロンとシナプスというやつだが、ここに「想と記憶」が刻印され、形を持って残るわけではない。

かと言って、DNAのように物質が配列されてデータとされるわけでもない。

「想と記憶」、つまりぼくのアイデンティティは、非物質から構成されている。

とは言え、そこに物質が関与していないわけでもない。

脳内に巡らされたシナプスとニューロンの経路・・・それらによる、言葉通りの道すじそのものが記憶回路となり、コードされるのだ。

タンパク質のかたまりである脳みそは、新陳代謝によって部品交換をくり返し、ひと月もすれば物質的にすっかり違った別ものに置き換えられる。

脳自体が、というよりもむしろ、形状を持ったぼくそのものが総取っ替えされるのだ。

なので、消えゆく運命である物質的なものは、記憶媒体とはなり得ない。

しかし、だ。

物質は消えゆくが、経路の配置は前物質を踏襲して保存される。

鉄道の全路線のレールを完全に入れかえてもルートが失われないのと同じ理屈で、脳みそを含めた肉体がひと月で失われても、新しい素材が経路を引き継ぐため、ぼくがせっせと構築した「想と記憶」は相変わらずにそこに同じ状態で居座りつづけることができるわけだ。

こうして、物質でないところに「内的なぼく」、すなわち永続的なアイデンティティの存在と継続が約束される。

さて、ぼくが所有するところのタンパク質でできた肉体は、内的なぼくが操縦する「外界をリモートで動くエージェントロボット」と言える。

これは、脳みそからつながる運動神経系へのアウトプット(感覚情報のインプットと逆方向のルート)で、外界へアクセスされる。

が、厳密に定義すると、「脳みそが動かす肉体の触れる世界が外界」なのではない。

また、「脳みそから外の神経系から先が外界」なのでもない。

形のないぼくの意思が起動させるあちらサイド・・・つまり形あるところである脳みそ・神経系という「内的なぼく」から先のパートすべてが外界なのだ。

わかりにくいが、物質界そのものが外界であるため、脳みそもまたぼくの外にあるというわけだ。

保存された「想と記憶」としての内的なぼく(操縦者)が、外界に存在する脳みそにアクセスし、神経系をコントロールして情報の獲得・・・つまり、見て聞いて触って外界の様子を感じ取り、それに対応したアウトプットで生命装置を操縦して、感覚を環境にフィットさせていく、という作業が生の営みというやつなわけだ。

そして逆に、ぼくの外側の世界に存在しているぼくの肉体の一部が、ぼくの「想と記憶」をつくり出してもいる。

ぼくの中に「想と記憶」があるわけではなく、ぼくはその「想と記憶」の中にいて、「想と記憶」そのものがぼくと言え、ぼくはぼくの肉体とは相互作用の関係にある。

内的なぼくを構築するのはぼくの外側にある肉体の活動だが、その肉体を操るものが内的なぼくであるため、この相互作用の関係は「脳の中に操縦者がいて、その操縦者には操縦者がいて、その操縦者の操縦者には操縦者がいて・・・」という無限の退行という批判を回避することができる。

さて、前説が終わったここで思い出してほしいのが、「肉体自体はマボロシのようなものだ」という量子論だ。

ぼくは、ぼくの肉体を「ある(在る)」ものとして感受しているものの、そこには実際にはなにもないと言っていい。

ここまでくどくどと説明してきた通りに、素粒子は「波という現象」なのであって、モノとしての実体があるわけではない。

波がどれだけおびただしく集まり、空間上であやを構成したところで、それはカタチなどにはなり得なく、したがって、ぼくの目に物質として見えているものが幻想でしかないことは自明だ。

この波の集まりを、ぼくが所有するところの生命機械は、スペクトルの反射や吸収という情報の色彩解釈や、電磁気力の反発としての手触り感によって、あたかもそこになにかが実在するように思わせてくれているだけなのだ。

まとめれば、この宇宙に物質などというものはなく、「波の濃淡の境界にラインを引く機能」を獲得した人類の目の構造が、ぼくに理解しやすい形で脳にデータを送って像を立ち上げ、また電磁気力の相互作用を利用した「イリュージョン→実在感」という感触への翻訳機能によってぼくをだまし、この目に、手に、世界を与えてくれているのだ。

そういう「発明」を、人類はしたのだった。

このマボロシという点を、次回は掘り下げてみたい。


つづく

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― 新着の感想 ―
[良い点] 新陳代謝がある以上、「私」は、物質ではなく、それが持っているマボロシ。そのマボロシ自体も、「私」をつくっていた物質がその都度、五感から送ってきた信号で、光なり音なり感触なりと思い込んでいる…
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