死んだらどうなるか?問題・24
常に新しい情報を得るために・・・すなわち、日々解釈が更新されていく「世界の真実性(の近似)」に接するために、科学の新刊本は見逃せません。
新しいページをめくるたびに、新しすぎる知見(アップグレードされた解釈)が殺到してきて、これがまた信じられないくらいにフレッシュで、知るたびに驚天動地!
なにしろ、それまでにコツコツと蓄積させてきた知識とはまるで別見解の宇宙が、まさしく日進月歩で上書きされ、一層上の説得力を持って目の前に展開するものだから、感動するとともに、当惑・混乱させられます。
なのにその本を読み終える頃には、新しく書店に並べられた別の本でさらなる知見の更新が行われているものだから、きりがありません。
この「死んだらどうなるか?問題」をちゃんと読み込んでくれているひとなら気づいちゃってると思いますが、章を経るごとに、筆者の限りある脳容量の中身が総取っ替えされたかのように、指が打ち込む世界の説明がコロコロと変わっていきます。
アウトプットの段階に至っても、おびただしいインプットによる脳内情報の書き換えがあるために、打ち込み作業が追いつかないのです。
ただ、筆者の指から新しく紡がれるものは「かつて書いたことの間違いの訂正」ではなく「知識の更新」なのであり、「より実相に近いものへの描写の細密化」「正確化」と理解してもらえたらありがたいことです。
というわけで、この長い長い一連の文章は、過ぎゆく風のような情報の中に置かれた、習作にすらも至らない「上書きされる運命にある、現時点での覚え書き」となっているので、みなさんにはななめに忘れ読みしてもらうことをお勧めします。
そんな軽〜い気分で、久しぶりにつづきを。
いきなりですが、時間は連続的なものではないようです。
びっくりしません?
つながっていないのですよ、昨日と今日とは、さっきと今とは。
時間が粒状で離散的なことは、場の量子論の計算式から確実とされていて、その刻まれた最小単位はプランク定数でも求められます。
時間は、ここでも何度も書いた通りに、空間と一緒くたになって「時空間」の形を取っていまして、その存在は伝統的に重力理論で説明されます。
重力なしには(われわれ人類が感知できるところの)時空間は発生できず、時空間なしには重力は存在できないので、このふたつもまた一蓮托生、一緒くたということになりますか。
そのへんを起点に、情報を頭の中で転がして宇宙創造の順序を整頓してみたので、ここに開陳します。
現世よ、生まれよ〜!
・・・さて、すべての前提として、さまざまな量子が展開する「場」があるのでした。
これは「電磁気」とか「重力」とか「物質」とか、あるいは「時空間」になりたがっている高エネルギーの「状態」で、まだ「特異点」という針の先ほどもない小箱に閉じ込められています。
これら「やがて粒になりうる波」が、それぞれに絡まり合い、重なり合って、なんというか、もやもやと浮遊しているわけです、どことも言えない場所を(「場所」「宇宙」「現世」自体がまだありません)。
・・・はやくも訳がわからなくなっていますが、ちょっとがまんしてね。
そこでまず、クォークの量子場を考えてみます。
クォークは、三つがくっつくと「陽子」「中性子」(要するに原子核)になる、物質の種と言える素粒子(波)なのでした。
宇宙創生前の煮えたぎる場において、クォークは対生成と対消滅を繰り返し、つまり、物質と反物質のペアで生まれたり、ペアごと消滅したりしていました。
ところが、あるときどういうわけか(この部分は未解明です)対称性が破れ、反物質よりも物質の方が多めに生成されたのですね。
すると、物質サイドが余るわけですから、相方(反物質)を求めて消える必要がなくなります。
ここですかさず、グルーオンの場と相互作用し(つまり、接着剤の役割をする素粒子が介入し)、クォークが三つくっついたわけです。
つまり、陽子(水素原子核)の誕生です。
陽子が生まれますと、今度はヒッグス場が相互作用し、粒に確固たる質量を与えます。
波という茫洋としたものが形と重みを持ちまして、いよいよ宇宙開闢の期待が高まります。
以前に重力理論の章で説明しましたが、質量のあるところには、重力が発生します。
ここで、重力場のグラビトンという未知の素粒子である重力子(まだ仮想的存在)が相互作用し、空間をゆがめるわけです。
・・・まてよ、わずか二行上で紹介した重力理論では、質量を持つ物質が時空間をゆがめて重力を生み出すのでした。
ところが、ここではまだ「時空間」そのものが存在していません。
だとしたら、これはどういう理屈なのか?
そこで、文脈を逆説してみます。
つまり、質量が時空間をゆがめて重力を生み出すのではなく、重力が質量と相互作用をしたゆがみこそが時空間なのでは?と仮説立てるのです。
わかります?
時空間における重力発生の話が、一周さかのぼって、重力による時空間の成り立ちの話にすり替わってしまいました。
要するに、アインシュタインが重力論の説明に用いた「フラットなゴム製マット」の状態は存在せず、その上に鉄球を置いた山谷こそが、時空間の正体(質量による発生)なのではないかと。
考えてみれば、なにもないフラットな場は、例えば人類の感覚器には引っ掛かりもなくスルーされてしまい、感知が不可能です。
そこ(時空間)は現世においては、トタン屋根のように波波でデコボコでなければならないのです。
そもそも、時空間のデコボコを光学的、電磁気的に受信して分析し、解像するのが人類の神経系だからです。
その時空間のデコボコをつくるものこそが、質量と重力場なのではないか?というのが、ぼくの新しいアイデアです。
つづく




