死んだらどうなるか?問題・3
生物の肉体を入れ物として、その内に宿る「タマシイ」とは、いったいなんなのでしょうか?
ひとは死ぬと、地獄か極楽浄土か天界か冥府か涅槃か(あるいは来世という言い回しの未来時空か)・・・とにかくジ・アザー・サイドに連れていかれ、前世の経験を噛みしめたり思い出にひたったりして次のステージを過ごす、ということに、まあどの宗教でもなっているようです。
が、科学者はそんな根拠のない想定に逃げることなく、率直なリアリズムで解答を導き出そうとします。
脳神経科学では、ひとの経験や思い出は、脳内に張りめぐらされた記憶回路にインプットされるとされます。
「回路」という言い方の通りに、記憶は、脳内の個別の物質に刻まれるわけではなく、神経コネクション、つまり情報を受容する際に脳内を駆けめぐる電気信号と、神経間の接触点で受け渡される化学物質でつながれた「通り道」そのものとして保存されるのです。
心細い一本の通り道は、別ルートを走る情報と結んでひろがりのある面となり、さらに奥行きのある塊へと絡み合って、記憶を多面的なふくらみを持ったイメージへと発展させていきます。
そういう反復作業を、脳は日々、果てしなく繰り返して、重要な情報を堅固に守ったり、あるいはどうでもいい情報を薄めたり、消去したりしているのです。
なんでこんなにめんどくさい方法を取るの?ひとつひとつの記憶を特定の場所に固定すれば楽なのに・・・と感じるかも知れませんが、それはできないのですね。
なぜなら、前述した動的平衡を思い出してほしいのですが、脳内の細胞は、月日がたつとすっかり入れかわってしまうからです。
「ゆく河の流れ」の一地点にインクを一滴落としても、次の瞬間にはすでにその位置にインク染みはなく、つまりそこは「もとの水にあらず」なのです。
「この細胞のこの部位に」と焼き付けておいた記憶が、細胞の短い耐用期間とともに流失してしまうなんて、切ないではないですか。
なので、われわれは記憶を、神経ネットワークを伝う電気と化学物質の「連結」「流れ」として保存しているのでした。
そんな脳は、おびただしい情報伝達の道すじとその絡まり、さらにはアウトプット神経との連動によって、意識の発生と主体的な運動能力!というところにまでたどりつきました。
脳が、生命機械(遺伝子を運ぶ装置としての生物)全体を支配し、操縦するメカニズムが誕生したわけです。
あなたも感じたことがありませんかね?
「わたしを、わたしの頭の中に乗り組んだコビトが動かしてる!」的なやつを。
パイルダー・オン。
ワタシンガーZ、発進!
この考え方が、要するに「タマシイ論」です。
ぼくの正体は、実はぼくの脳の中におさまった乗組員で、ぼくのからだは、ただぼくの言うことを聞いているマシーンなのかもしれません。
そしていくつかの宗教によって、たとえぼくの肉体装置が破壊されても、ぼくの乗組員であるタマシイはしかばねを離れ、あちらサイドの世界に移動する、という話になるわけです。
ところがこの説には、重大な論理欠損があります。
それは、「ぼくの中にいるぼくのタマシイを、だれが操縦してるのか?」、つまり「タマシイには、タマシイがあるか?」という問題です。
ぼくを動かすのにタマシイが必要なのだとすれば、タマシイを動かすにも、その内側に操縦者が必要なわけですよね?
タマシイを動かすのに内なるタマシイが必要ないのだとすれば、ぼくを動かす際にもタマシイの想定は必要なくなりますので。
さて、困りました。
ぼくの肉体をタマシイが操縦し、そのタマシイをまたワンサイズ小さなタマシイが操縦し、そのワンサイズ小さなタマシイをツーサイズ小さなタマシイが操縦し・・・としていくと、果てしないマトリョーシカのような無限後退が発生してしまいます。
つづく




