死んだらどうなるか?問題・2
生物は、あぶくのような無機物が変質し、どういういきさつでか「生気」的なものを胚胎して、自発的に動きはじめた奇妙な閉鎖系です。
けしからんことにこれは、宇宙の大原則であるエントロピーの増大にあらがう存在とも言えます。
生物は、体内で有機物を燃焼し、熱を発生させて、それを仕事に用います。
前の章で論じた通りに、エネルギー(熱の高低差)は仕事を終えると、使用不可能な定常状態に落ち着くはずです。
なのに生物は、いつまでも熱を失わないのです。
物質はエネルギーを失うことにより、時々刻々と滅形していくはずであり、この法則は宇宙開びゃく以来、絶対的と定められたものです。
ところが生物ときたら、絶えず外界からエネルギーを補充し、消失と生成、分解と合成をくり返し、形状の維持どころか、展開、増殖の過程で大進化まで遂げ、エントロピーが散らかすこの世の中を、整頓、構築、大発展させてしまうのです。
えらい学者であるシュレディンガーさんは、この不可思議を「負のエントロピー」と表現しているほどです。
物質である自らの肉体の消散を「意識」というマジカルな主体性によって防ぎ、組織を維持し、あまつさえ無から有をつくり上げ、時間を逆回転させるかのように混沌から秩序を築こうという生命現象は、エントロピーの増大を免れる奇跡なのでしょうか?
いやいや、エントロピーの増大は絶対的かつ不可逆で、その減少はあり得ません。
なにしろ、万有引力、相対性理論、量子物理学などの数々の理論が、未だ「仮説」の立場に置かれているのに対して、唯一「エントロピーの法則」のみは、科学界で「たぶん真理」とのお墨付きをもらっているのです。
生命の営みにも、エントロピーの勘定がぴたりと合うからくりが隠されているのですね。
なんということはない、生物は、エネルギーを使いまくって「自身」という狭く閉じた系におけるエントロピーの増大を事実上食い止めつつ、外界である宇宙のエントロピーを増大させているに過ぎないのでした。
プラマイ計算で赤字なわけです。
ただ、生命現象が、宇宙でも特別に奇天烈なシステムであることは間違いありません。
その営みは、突き詰めれば「食って」「出す」という作業に尽きます。
ところがこれこそが、エントロピーの法則に対抗できる、最善にして唯一的手段なのでした。
福岡ハカセが「動的平衡」で、あるいは古くは鴨長明が「方丈記」で書いているように、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。
生命体の本質とは、遺伝情報という「非物質的設計図」のみがそこに在り、それをコードした遺伝子が外界から物質を借り集めて情報護送システムをつくり上げ、後世にまで連綿と伝える存在にすぎません。
ぼくの肉体という「装置」は、一日たっては一部分が剥がれ落ち、二日たってはその部分をつくり直し、「ゆく河の流れ」のように、ひと月もたつ頃には、肉体のほんの一部もひと月前のものではなくなっています。
ぼくは、ぼく自身の血肉を常時入れかえ、入れかえ、入れかえつづけて、昨日のぼく、今日のぼく、明日のぼくという「別人(というか、別もの)」となりながら、ただただ独自の形状を保っているわけです。
肉体の構成物は外界からの一時的な借用品に過ぎないので、ぼくとは?という問いに対してぼくは、「ぼくとは、ぼくの中身のことだ」と言わねばなりません。
今いるぼくは、ひと月前のぼくとは物質的にまったく別もののそっくりさんであるために、ぼくが持ちうる唯一のものは、非物質である遺伝情報のみです。
そこでぼくが言えることはただひとつ、「いわゆるタマシイこそが、ぼくである」となります。
つづく




