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機械仕掛けの神(8)

 最新型の電化製品を見渡しながら、ファリスはダイニングの大きなソファーに腰を下ろした。

 することがない。ひとり留守番を任されてもファリスにはすることがなかった。

 ファリスはソファーの上に横になりながら天井を見つめた。

「はあ……」

 ため息が出た。

 ソファーの感触はとてもふかふかしていて、ファリスが使っていたベッドよりも断然いいものだった。そのことでファリスは少し腹が立った。

 夏凛のことは嫌いではないけど、なぜか腹が立つ。

 部屋の中は静かだった。何も音がしない。それがファリスにとっては寂しく感じた。

 窓の外に見える曇り雲もファリスの気持ちを憂鬱なものにする。

 少しでも気分を紛らわせようと、ファリスはテーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばした。

 テレビの電源が入り、巨大な液晶画面に映像が映し出される。

 チャンネルを適当に回し、ファリスはすぐにテレビの電源を切った。

 おもしろいとかつまらないとかいう問題の前に、ファリスはすることがないのではなく、何もする気がしなかった。

 テレビを消してしまうと部屋は静かな空間に戻ってしまった。

 テレビリモコンの横にはオーディオ機器のリモコンもあった。ファリスはとりあえずプレイボタンを押してみる。すると、部屋中に取り付けられたスピーカーからけたたましいハードロックが流れはじめた。

 ファリスはこういう曲は嫌いではなかったけど、今は耳障りにしか聞こえなかった。けれど、もう停止させるのもめんどうだった。

 ゆっくりと目を閉じたファリスは全身の力を抜く。身体が重く、すごく疲れたような気がする。何もかも突然に起こりすぎた。

 生まれ育った〈ホーム〉を失い、小さな家だったけど愛着のあった自分たちの家を失い、この世で一番近くにいてくれたひとも失ってしまった。

 ファリスは失って困るものはないような気がした。けれど、死にたくない。別に命が惜しいわけではなく、悔しくて死ねない。自分から〈ホーム〉を奪った奴らが憎い。

 しばらく目を閉じて考え事をしていたファリスは急に立ち上がった。特に何かをしようと思ったわけではない。ただ、じっとしていられなかった。

 ベランダに続く窓にファリスは手を押し付けた。

 空は灰色の雲に覆われ、ファリスの目で見る巨大都市エデンは倦怠な雰囲気を醸し出していた。

 雷光が雲の上を走った。

 激しい稲光。防音工事がされているので音は聞こえないが、だいぶ激しい雷だ。

 まるで空が怒っているように連続した雷が起こり、地面に雷光が落ちる。

 土砂降りの雨が降ってきた。強い風も吹き荒れ、雨粒がファリスの目の前の窓を濡らす。

 出かけた二人は大丈夫だろうかと、ファリスはふと思って再びソファーに腰を下ろす。

 まだ、二人は帰って来ない。

 早く帰って来て欲しいとファリスは心から願った。ひとりは嫌だった。誰もいいから側にいて欲しい。

 ファリスがすることもなく部屋を見渡していると、玄関の開く音が聞こえたような気がした。

 二人が帰って来たと思ったファリスは逸る気持ちが抑えられず、玄関に急いで向かった。

 玄関に立つ人影は一つだった。ファリスにとって見覚えのある人影。怒りが湧いてくるが、それよりも恐ろしさが優り、ファリスは身動き一つできなくなってしまった。

 人影はおぞましい笑みを浮かべていた。

 息を呑み込んだファリスは喉の奥から声を絞り出した。

「どうして……!?」

「ガハハハハ、どうしてだと?」

 高笑いをする大柄の男はまさしくハイデガーだった。

「俺が死んだとでも思っていたのか? 重症を負いはしたが、この俺に死などあり得んのだ。わかるか、わかるか愚かなノエル!」

「なんで、ここに……!?」

 きっと、自分ではなく鴉に関係あるのだろうとファリスは思った。けれど、その鴉は今ここにはいない。

 足を震わせるがファリスは逃げられなかった。逃げたいという気持ちはあるが、足が動いてくれない。

 巨大な手がファリスの首を掴んだ。ファリスは巨大な手を必死に振り払おうとするが、全く歯が立たない。

「は……なして……」

「どうやら鴉はいないようだな。残念だ、残念だ……。だが、それもおもしろい」

 ハイデガーはファリスの身体を壁に押し飛ばした。

「げほっ、げほっ……」

 床に尻をついたファリスは咳き込みながらハイデガーを睨付けた。

 立ち向かっても勝ち目はない。ならば逃げるしかない。ファリスは部屋の奥に全力で走った。

 必死に逃げようとするファリスとは対照的に、ハイデガーの動きはゆったりとしていた。

 逃げ場は部屋の奥しか残っていなかった。しかし、それ以上の逃げ場はない。そのために、ハイデガーは余裕の笑みを浮かべてファリスとの距離を縮めていく。

 後退りをするファリスの背中がガラス窓にぶつかった。後ろはベランダで、その先には巨大都市が広がっている。

 ファリスの目の前で止まったハイデガー耳が微かに動き、彼は素早い動きで後ろに振り返った。

 玄関のドアが開かれ、誰かが部屋の中に入って来た。

「ただいまぁ〜っ。ああ、もぉ、急に降り出すんだもん、濡れちゃったよぉ」

 衣服を濡らしながら歩いて来る夏凛は視線を上げた瞬間、ハイデガーと鉢合わせしてしまった。しかし、ハイデガーの視線は夏凛の後ろにある。

 夏凛の横を黒い影が擦り抜けた。思わず夏凛は床に手を付いてしまったが、すぐに体制を立て直して大鎌を構えた。

 黒い影はハイデガーを押し飛ばし、ファリスの真横のガラス窓をぶち破ってベランダまで飛び出した。

 ガラス片が飛び散り、強風と大粒の雨が部屋の中に吹き込んでくる。

 ハイデガーの上に覆い被さる鴉は硬質化させた腕を大きく振り上げ、ハイデガーの顔を抉るように力強く殴り飛ばした。

 首がへし曲がり、血反吐を鴉に向かって吐き捨てたハイデガーは、鴉の身体を掴んで柔道の投げ技のようにベランダの柵ごと空へと投げ飛ばした。

 空に投げ飛ばされた翼をもがれた堕天者ラエルは黒衣を大きく広げ、地上に落下していく。

 ゆっくりと立ち上がるハイデガーに夏凛は大鎌を振り上げた。

 大鎌がハイデガーの胸を抉る。血が滲み、床に紅い雫が滴り落ちる。だが、ハイデガーは薄く笑いながら夏凛との距離を縮めて来る。 

「下賎なノエルが俺に勝てると思っているのか!」

「う〜ん、勝てないね」

 あっさりと認める夏凛の表情はにこやかだが、内心は非常に焦っていた。

 勝てないと認めたのは真実だ。

 夏凛は部屋の隅で震えているファリスをちらっと見た。自分ひとりならば逃げられるかもしれない、だが……。

 悪魔と天使が夏凛の耳元で激しい論争をはじめる。

 悪魔は夏凛に逃げることを推奨する。天使も逃げることを推奨していた。そして、夏凛は決断を下した。

「生きるが勝ち!」

 夏凛は玄関に向かって失踪した。

 足音が激しく床を揺らす。夏凛は焦りの表情を浮かべながら背中越しに後ろを見た。

「マジっ!?」

 ハイデガーが追って来るではないか!

 玄関は近い。玄関を出れば少しは状況がよくなるかもしれない。

 夏凛の手がドアノブに伸びる。だが――。

 玄関がぶち壊せれて、飛んで来るドアの直撃を受けた夏凛の身体が大きく飛び、ハイデガーを巻き込んで夏凛は床に倒れた。

 黒い影が床に寝転がる夏凛の上を飛び越し、ハイデガーの上に飛び掛った。

 ずぶ濡れになった黒衣から水を滴らせ、鴉は鋭い爪を振り上げる。

 水飛沫が煌き、爪はハイデガーの心臓を狙っていた。

 ハイデガーが嘲笑う。

 天人ソエルが持つ特殊能力――組織構造変質能力(コーズエンシー)

 変化が生じた。ハイデガーの両腕が二丁の銃へと変貌し、すぐに銃口から魔導弾が発射された。

 黒衣が鴉の身体を包み込もうとするが、間に合う筈もなかった。

 胸を貫かれた鴉は後方によろめき、その胸には拳大の穴が二つ空いていた。あと少しずれていたら心臓を貫かれていたに違いない。

 ハイデガーの表情が急に強張った。彼は耳につけていた超小型通信機からの声に畏怖したのだ。鴉への復讐という私情でここにやって来たが、事情は変えられた。

 うずくまる鴉の身体を持ち上げたハイデガーはにやりと笑うと、鴉の胸に手を突き入れて何かを取り出した。

 鴉の身体から取り出されたそれは紅く輝く宝玉に似ており、心臓のような鼓動を脈打っていた。紅い宝玉、それが『核』と呼ばれているものだった。

 無造作に鴉を床に投げ捨てたハイデガーは、核をひと呑みにして胃の中に納めた。

 軽くゲップをしたハイデガーは地面に転がって動かなくなっている鴉を見下した。

 鴉の身体が枯れていく。それを見た夏凛はその場を動けずに、そこで起こった現象を凝視してしまった。

 萎みいく鴉の身体は黒い塊と化し、灰と化し、塵と化し、消滅した。

 鴉が消滅してしまったのを見て、夏凛は頭を抱えながら床に倒れ込んだ。

「……絶体絶命だね」

 翼を背中に生やしたハイデガーは夏凛を一瞥したあと、何も言わずにベランダの窓から外へと羽ばたいていった。

 ふらふらと歩いて来たファリスは床に溜まった黒い塵を見つめた。声は出なかった。何が起きたのか見ていなかったが、そこにある塵が鴉だったものだということを感覚的に悟った。

 ため息をついた夏凛は立ち尽くすファリスを見上げてすぐに視線を下げた。

「たぶん死んだね。鴉は死んだ……、そう、死んだよ」

「うそ、うそだよそんなの! そんなの……」

 死ぬはずがない、ファリスは信じられなかった。鴉は人間ではなかった――それを知るファリスは鴉が死なない生き物だと信じていた。しかし、それには根拠がない。死んで欲しくないから、死なないと信じていた。

 壊れた玄関から武装した数人の警備員が駆け込んで来た。

 床に溜まった塵が踏み荒らされ、ファリスは心から叫んだ。

「止めてよ!」

 警備員たちはファリスに銃口を突き付けた。

 銃口を突き付けられながら、ファリスは警備員を上目遣いで睨んだ。それを見た夏凛はファリスと同じく銃口を突き付けられながら、手を上げて吐き捨てるように言った。

「もう全部終わったから、帰ってくれないかな? いちよーここ、アタシんちなんだけど?」

 二人に向けられていた銃口は下げられはしたが、警備員たちが帰るようすはなく、夏凛は言葉を続けた。

「玄関はぶっ壊れちゃったけど、何もなかったから。被害届も出てないのに捜査を開始するほど、ヒマじゃないと思うし、キミたちも慈善活動がしたいわけじゃないでしょ?」

 夏凛の顔は多くの人に知れ渡っている。そのためか警備員たちは去って行った。しかしながら、後に通達か何かがあって、このマンションを追い出されるのだろうなと夏凛は心の中でごちた。

 立ち上がった夏凛はファリスの肩に手を回して無言で部屋の奥に導いた。


 三日以内に部屋を出て行くように連絡を受けた夏凛は、ため息をついてファリスが座る向かい側のソファーに腰を下ろした。

「引っ越して来て三ヶ月も経ってないのに……。別にね、鴉とファリスのせいだとは思ってないけどね、仕事が仕事だから部屋貸してくれるところが少なくて、しかも、襲撃を受けて部屋を追い出せれるのってこれで六回目だから、大きなマンションとかは、もういい加減部屋を貸してくれないかもしれないんだよねぇ〜」

「マンションじゃなくたっていいじゃん、住もうと思えば路上にだって住めるよ」

「アタシに浮浪者になれっていうの!?」

「あたしは浮浪者じゃなかったけど、〈ホーム〉育ちだから路上でも生きていけると思う」

 夏凛は頬杖を突きながらファリスをじっと眺めて呟いた。

「ふ〜ん、どーりで品の乏しいお嬢さんだと思った」

「どうせあたしは下品だよーだ!」

「別に下品とかじゃなくてさ、髪の毛ボサボサとか、着てる服とか汚いし、ああ、それを下品っていうのか」

 そう言って夏凛は悪戯な笑みを浮かべた。

 ファリスは顔を膨らませて、近くにあったクッションを夏凛に投げつけた。夏凛は造作なくクッションを受け止め、ファリスに投げるフリをして横に放り投げた。

「アタシはクッションを投げつけるような下品なまねはしないの」

「下品下品って、あたしだってあなたみたいにお金持ちだったら上品に振舞えるよ!」

「たしかに貧乏なせいもあるかもね。でもね、アタシは自分の力でここまで稼いだの、わかる?」

「スラム育ちは安い給料でしか働かせてもらえないの!」

「言ってなかったけ? アタシの仕事はトラブルシューターなんだけど、スラム育ちでも有名なトラブルシューターはいくらでもいるよ。ヤル気さえあれば、アナタだって大金持ちになれるってこと、ただ、それなりの覚悟がいるけどね」

 トラブルシューターの仕事は多種多様に渡り、トラブルシューターによって引き受ける仕事も違う。夏凛の引き受ける仕事は命がけの仕事が多い。だからこそ、夏凛は高級マンションに住むことができるのだ。

 ファリスは夏凛の言葉を受けて少し考え込み、真剣な顔をして言った。

「じゃあ、弟子にしてよ」

「はぁ!?」

「あたしトラブルシューターになるって決めたから、だから弟子にして」

「アタシがトラブルシューターで一流になれたのは特別な理由があるから。それは人に教えてあげられるものじゃないから、弟子になるなら他の人に頼んだ方がいいよ」

 夏凛は自分ひとりの力でトラブルシューターになったのではなかった。『彼女』は特別なのだ。

「じゃあ、家事手伝いでいいから雇って」

 ファリスはトラブルシューターになる気でいた。だから、せっかく見つけたトラブルシューターを逃がしたくなかった。夏凛の側にいれさえすればチャンスはある。

「アナタを雇うくらいなら、自動人形オートマタを買うね。そんなことよりも、〈ホーム〉に帰ったら?」

「あたしの住んでた〈ホーム〉はなくなちゃった」

「まさか、スラム三番街の住民だったの!?」

 スラム三番街でのニュースは夏凛の耳にも届いていた。

「だから帰る場所がないの……」

「しょ〜がないなぁ、弟子はダメだけど、住み込みの家事手伝いで雇ってあげる」

「ホントに!?」

 ソファーから身を乗り出したファリスは飛び跳ねて喜びを表現した。

 しかし、夏凛は少し困った表情をしている。そもそも彼は家事手伝いなどを必要としていなかった。

「でもね、別にアナタの仕事ってないんだよね。食事は出前か外で済ますし……」

「じゃあ部屋の掃除は?」

「掃除はアタシの趣味。言ってなかったけど、アタシ、トラブルシューターの副業で清掃員もしてるんだよね」

 別にお金に困っているわけではない。清掃員をするのは本当に彼の趣味だからだ。

 仕事がないと言われてファリスは少し困った表情をする。仕事がなければ夏凛が傍に置いてくれる理由もなくなるし、それでも夏凛がいてもいいと言われたとしても嫌だ。何もせずに人に養ってもらう気はファリスにはなかった。

「じゃあ、あたし、何すればいいの?」

「だ〜か〜ら〜、今考え中」

「だったらやっぱり夏凛のアシスタントになる」

 つまりそれは弟子にしろということである。

「それも考慮には入れておく。アナタの仕事内容については明日までに考えておく。それよりも――」

 と言った夏凛はファリスを指差して、そのまま話を続ける。

「まず、その服をどうにかする。そうだなぁ、今から買い物して、そのまま外で夕食で決定。アタシの決定は絶対だからね」

「服代は?」

「アタシが出すに決まってるでしょ。まあ、でも返す気があるなら、将来返して」

 将来返すという言葉を聞いて、ファリスの頭にあることが過ぎった。

「お金はあとで払うから、あたしの依頼を受けて」

「…………はぁ!?」

 まさか突然そのようなことを言われるとは思わず、夏凛は驚きの表情をした。

 ファリスは夏凛に詰め寄って、真剣な眼差しで見つめた。

「だから、夏凛はトラブルシューターで、あたしは依頼人」

「アナタお金ないでしょ」

「将来返すから」

「そーゆー不確定なことは信じない。アタシはチョー一流だから高いし、アナタが本当にお金を返せるとは限らない」

「だって、さっきは服の代金はあとでいいって!」

「それとこれは問題が別。さっきの服とか食事の代金は雇い主として、住み込みで働くアタナに施さなきゃいけない義務、そう義務だから」

 夏凛はファリスに説明しながら、自分にも説明をしながら話していた。つまり、それは言い訳だった。

 ファリスは夏凛の眼前まで迫って押し倒しそうな勢いだった。

「あたしの〈ホーム〉を奪って、鴉まで殺したあいつを殺して!」

「ちょっと待って今なんて言ったの……やっぱり言わなくてもいいから黙っていて」

 腕組みをして考え事をしはじめた夏凛は宙を仰いで何かを思い出そうとしていた。

 鴉を殺したのはあの男だった。そして、その男がファリスの〈ホーム〉を奪った。夏凛にはあの男の顔に見覚えがあったのだ。

「そうだ、あの男、ユニコーン社の社長のハイデガー!? あの地区の開発事業をしようとしていたのはキャンサー社で、住民の排除を委託されたのがユニコーン社。なるほどね、ユニコーンの社長さんがアタシんちに不法侵入したうえに、部屋を荒らしてくれちゃったわけね」

 不適な笑みを浮かべた夏凛はファリスを見つめた。

 夏凛は自分に害を及ぼした者に容赦しない。それに加えて相手が大物とあれば反発心がよりいっそう高まる。それに相手が大物であれば思わぬ金が自分に舞い込むことがある。

 ファリスが夏凛の顔を覗き込む。

「依頼受けてくれるの?」

「考えておく」

 この時すでに夏凛は事件に首を突っ込む気でいた。

 ソファーから立ち上がって歩き出した夏凛は途中で振り返った。

「雨に濡れたからシャワー浴びて着替えてくる。ファリスもアタシと一緒にお風呂入る?」

「なにバカなこと言ってるの!? あなた男でしょ?」

「今はね……。じゃ、アタシがシャワーから出たらすぐに出かけるからね」

 そう言って夏凛はバスルームに姿を消した。

 ファリスは夏凛の『今はね……』という言葉が頭に引っかかった。見た目も声も夏凛は女性だが、世間一般には男として通っている。だが、ファリスは夏凛の裸姿を見たわけではないのでなんとも言えなかった。もしかしたら夏凛は女性なのかもしれないとファリスは思ったが、ではなぜ世間では男と言われ、夏凛の言った『今は……』の意味はどういうことだろうか?

 結局考えが導き出せず、ファリスは再びソファーに腰を下ろして他の考え事をはじめる。

 夏凛が自分に見せた不敵な笑みの裏には何かがきっとある。自分の依頼を受けてくれなくても、夏凛が事件について何らかの動きを見せることは確信できた。ファリスはそう思うと少しだけ希望が見えたような気がした。

 しかし、まだまだだ。〈ホーム〉を奪った奴ら、そして、あのハイデガーに復讐しなくてはファリスの気はすまない。

 ファリスの心に渦巻く感情は悲しみよりも怒りの方が勝っていた。ここままハイデガーを放って置いては誰も何もしてくれないだろう。ならば、自分で復讐をするとファリスは誓った。

 今のファリスにできることは少ない。けれど焦る必要はない。時間をかけて復讐をすればいい。焦って犬死はしたくない。

 ファリスは命を賭けても構わないと思っているが、自分だけが倒れるのは絶対に嫌だと思っているのだ

 〈ホーム〉で亡くなった人たちに想いを馳せて、復讐の念を募らせるファリスの脳裏に鴉が浮かんだ。鴉は不器用な性格だったように思えるが、決して冷たい人ではなかった。 床に積もった塵が鴉であることはすぐに悟った。しかし、ファリスはまだ鴉が死んだとは思えなかった。どこかで生きているような気がする。

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