拾弐
運命の歯車によって誕生した怪物が戦った部屋は、その世界でもっとも身分の高い者が座する場所だ。人間では御しきれない力が振るわれた為、床や壁が壊れているが、元はバラの香りに包まれた神聖な雰囲気すら感じる場所だった。ただ、それは能力で削り出された大理石や、豪華な装飾品によって作られた、偽りの神聖性だ。
悲しみしか生み出さないその偽りを、三発の弾丸で粉砕することに失敗した怪物は、気力を使い果たしてひび割れた床に伏している。魂すら使って引き出した力の使用限界を迎えた省吾は、まだ目蓋を閉じていないが、意識が消えそうになっていた。混濁を始めたその意識は、主の根源となる過去の記憶を、今おこっているかのように映し出す。
……あれは、俺?
一人の少年が、度重なる武力衝突のせいで半分以上が瓦礫に変わった町を、一人で歩いていた。ひどく汚れ、ぼろきれの様な服を身に着けた少年は、頬がこけ、肋骨が浮き出るほどやせ細っている。
少年が育った国は大災害の被害が少なく、国としての形を最後まで保っていたが、それも少し前に終わりを告げていた。ヨーロッパに残っていた国と呼べる地域は、正義の仮面をかぶった悪意の武力によって、残らず戦渦に巻き込まれている。
自分達が生きるだけで精一杯な状況で、戸籍もない少年に慈悲を与えてくれる者は少ない。代わりに、奪おうとする者は増える一方だ。親と呼べる男性を失い、誰も守ってくれる人がいなくなった少年は、恐怖の対象だった大人達を避けて一人で生き抜こうとしたが、限界を迎えていた。
盗むという行為がどうしてもできなかった為、泥水や雑草すら飲み込んで生き延びてきた少年だったが、それだけで生きられないのが人間だ。銃弾や砲撃に晒され続け、震えながら世界の暗い場所でうずくまり続けていた事もあり、精神的にも少年は疲弊している。今にも倒れてしまいそうな雰囲気のふらふらと歩く少年は、町はずれにある教会へとたどり着いた。
育ての親である男性がその国では少数派の無神論者だった為、少年が神にすがろうとしたのではない。ほとんど人がいなくなってしまった町には、焼け焦げて半壊した教会だけしか、目立った建物がなかったのだ。もしそこに大人がいればと考えて少年は今まで近づかなかったが、もうどうなってもいいという自暴自棄になって近寄った。
扉もない礼拝堂に入った少年は、長椅子の半分以上が焼失しているその場所を、真っ直ぐに歩いていく。礼拝堂の一番奥にある、床に斜めに突き刺さっている大きな十字架の前で、少年はついに倒れ込んだ。
餓死とも衰弱死とも表現できる最後を待つしかなくなった少年は、泣く事もなくぼんやりと自分の何が悪かったのかと問いかける。愚かにも争いを続ける人間に神が愛想を尽かした世界では、脆弱な少年の問いに答えてくれるものなどいない。
憎しみ殺し合う事のない、誰もが平和に暮らせる優しい世界を少年は心底から願うが、祈るだけでは残酷な現実は変わらないのだ。ただし、特別な人間だけが受けられる奇跡ではなく、人間なら誰もが恩恵にあずかれる偶然だけは、少年に不運と同じだけの運を運ぶ。
少年の呼吸がそれまで以上に弱まり始めた頃、弾痕の刻まれた祭壇が、がらがらと音を立てて崩れ落ちた。そして、その祭壇内の空洞から少年の目の前に、硬くなりかびたパンが転がり出てきたのだ。
生唾を飲んだ少年は、最後の力で震える手をそのパンに伸ばし、口元へと運んでいく。硬く、普通なら美味いと感じられるはずもないパンだったが、少年は一口噛むごとに涙を流している。
生存に必要な、最低限の栄養を確保できた少年だが、すぐには動けなかった為、その場で眠りについた。月の光に照らされる時間になって目を覚ました少年は、ゆっくりと上半身を持ち上げ、崩れた祭壇へと目を向ける。
絶句した少年が見たのは、祭壇内で修道女に抱きかかえられた、三人の幼い少年少女だった。少量の食料と拳銃一丁だけを持ったその四人は、祭壇の裏側にあるスペースに逃げ込み、息を潜めていたらしい。だが、正義の旗を振りかざした狂人達の放った弾丸が、木製の白い祭壇を貫通し、四人の命を奪ったのだ。
両膝を突き、再び涙を流していく少年は、もう二度と動かないその四人をよく知っている。世界が混乱する中で、少年と似た境遇となったその三人は、教会のシスターにひきとられていた。幼い三人は、特別な事情で戸籍もなく隠すように育てられていた少年の、数少ない友達だったのだ。
悲しくて仕方ないだけでなく、残酷な現実と友達すら救えない非力な自分が憎くなった少年は、床を泣きながら殴りつける。一人で血が出るまで床を殴り続けた少年は、涙が止まると天を仰いでいたが、やがて口内に唾液が溜まった。それは、シスターの手に握られた底の破れているビニール袋に、食料がまだ入っていると気が付いたからだ。
その食料が四人の物だと食欲を抑えようとした少年だが、立ち上がるだけの体力すらなく、強い本能に抗えなかった。しばらく葛藤を続けた少年だが、最後にはビニール袋に入った食料を、むさぼるように食べつくしてしまう。
生きる為に、良心の呵責にさいなまれながらも、涙を流して食料を口に運ぶ少年を、責められる者はいないはずだ。育ての親である男性から、人として正しい在り方を教えられていた少年は、四人から奪った食料で生き延びた自分を恥じる。そして、浅ましく情けない自分がどうすればこの罪を償えるかと、幼いながらも必死に答えを探した。
少年だった省吾は、シスターの手から拳銃を取り、辛くても平和で優しい、四人が笑ってくれる世界の為に戦おうと、誓ったのだ。
自分の原点の一つである記憶を見た省吾の脳裏に、村や農園での悲劇により守れなかった人々と、今も苦しんでいる者達の顔が浮かぶ。消えたはずの強い意志を灯した主に、体内の金属生命体達は応えるべく、力を発現させていった。金属生命体達の力に、主の寿命を延ばす効果はないが、体を無理やり動かせる状態には出来る。
……まだ。まだああああぁぁぁ!
死んでさえいなければまだ戦えると思い出した省吾は、内部から能力で支えた体を立ち上がらせた。いくら寿命が少なくなっても、完全になくなるまでは魂を消費してでも、立ち上がる事が省吾には出来るのだ。
「ここで……。ここで終われるかああぁぁぁ!」
自分に向かって省吾が叫んだ言葉を理解できないらしいノアの王は、虚ろな目で瀕死の侵入者を見つめ続ける。ネイサンの傀儡でしかないノアの王は、感情や意志を抑制されており、自由意志などないのだ。
……惨い事を。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ノア全体の方針は参謀達が話し合いによって立案し、王がその承認を行う仕組みになっている。無論、その王に承認をさせていたのはネイサンだった。ずる賢いネイサンは、洗脳の道具でしかない者を矢面に立たせ、安全な場所からノアを使って世界を思い通りに操作していたのだ。実質的な全権限を持ちながら、頂点に立たない事で、万が一の場合に責任を取らないで済むと、ネイサンは考えたのだろう。それ以外の理由や思惑もあるかもしれないが、今の体を進ませるだけで精一杯の省吾には考えるだけの余裕がない。
「ふぅぅ……ぐっ! はぁはぁ……」
玉座へと続く少し高いだけの段を上るという誰にでも出来る行為ですら、今の省吾には重労働だ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ゆっくりと自分に近付いてくる省吾を見つめ続けるノアの王は、逃げる事も戦う事も容易いはずだが、どちらも行わない。ノアの首都が攻略されるなどと考えなかったネイサンは、敵が目の間に現れた時のプログラムを、王に入力していなかったのだ。
「はぁぁぁぁ……目を覚ませ」
……なるほど。ヤコブによく似ている。
十二の段差を上りきった省吾は、口から大きく息を吐きだし、虚ろな二つの瞳を真っ直ぐに見つめて声を掛ける。声を掛けられた事で、王の中にあったプログラムが反応し、ネイサンによって用意されていた定型文が発せられた。
「我は、この世界の中心たるノアを治めし王だ。頭が高いぞ。その方は、何者で……我に何用だ?」
省吾を前にして、王としての威厳ある対応にも見えるが、人間味は全く感じられず、洗脳の効果さえなければギャビンも不審を持ったはずだ。ネイサンの影響を受けなれば元に戻るだろうと考えていた省吾だが、その思惑は外れてしまっていた。
「ふぅぅ……俺は目を覚ませといっている」
感情があるとは思えない王の瞳を見つめていた省吾だったが、長時間待てるだけの余裕がなく、左手を振り上げていく。省吾の張り手によって、玉座の間に乾いた音が響き、赤くはれ始めた頬を押さえた王の目に涙が溜まる。
「う……うぅぅぅ……うあああああああぁぁぁぁぁ!」
王の目に感情の光が戻り、理由が分からない為に理不尽な暴力を振るわれたと感じたのか、大声で泣き始めた。もうそこには、ノアの王はいなくなっており、ヤコブの弟である十一才のダニエルだけになっている。
ネイサン達ノアの参謀が、王の世継ぎとなるダニエルを奪還する為、躍起になったのには理由がある。それは、ヤコブ達兄弟の父親が、五年以上前になるが病に倒れ、もうこの世にはいないからだ。
ノアに支配された者達は王の威光を常に感じてはいるが、顔や名前すら一部の者しか知る権利を持っていなかった。王の生死や世代交代の情報は、自分の大事な道具である存在を守ろうとしたネイサンが、宮殿外に漏らさない様に動いていたのだ。
ネイサンに操られていたせいで苦しむ素振りを見せなかった為、発見が遅れた先王の死因は心臓病だった。遺伝的な要因ではないが、心臓の弁に生まれながら障害があった先王は、三十才の若さでこの世を去っている。技術力の低下している未来の世界では、人工弁など作れるはずもなく、発見が早くとも長生きは出来なかっただろう。
「いぃぃ……いだいぃぃぃぃ! あああああぁぁぁぁぁ!」
両足をばたつかせて泣いているダニエルを見た省吾は、洗脳の能力が消えたのを感じ、玉座の裏にある隠し扉へと向かう。過去の世界で同じ作りの扉を見た事がある省吾は、すぐにスイッチを押したが、電動の扉は内部から壊されているらしく、スイッチを押しても開かなかった。ケースに戻していたナイフを抜いた省吾は、扉の隙間に差し込み、てこを利用して力を加えたが、扉はびくともしない。
……くっ! 駄目だ。今の俺では。
その扉に壊せないほどの強度はないが、今の弱った省吾には扉を壊すだけの力すら残っていないのだ。
……くそっ! 逃げした。くそ。
扉の奥に人がいないと感じ取れている省吾は、ネイサン達が転送等の力で逃げたのだろうと、すでに推測出来ている。
……くそ。落ち着け。作戦はまだ終わってない。
黒幕を取り逃がした事で、扉を殴りつけ、うつむいて省吾は悔しさから顔を歪めたが、時間がないと頭を切り替えた。
「ひっく……うぅぅぅ……」
泣き声が小さくなったダニエルの前に立った省吾は、相手の腰に手を回し、肩に担ぎあげる。
「ひぐっ! はぁぁぁなぁぁぁせえええぇぇぇ! マァァァァァマァァァァァァ!」
省吾に米俵であるかのように担ぎ上げられたダニエルは、恐怖から身を硬直させ、再び涙を流し始めた。ガブリエラの元から無理やり連れてこられたダニエルは、最低限の教育すら受けておらず、精神的にかなり幼い。フィフスである能力をダニエルが使えば、省吾はどうする事も出来ないのだが、自分より体の大きな相手に抵抗する勇気を、幼い少年は持っていないのだ。
「母さんと……兄さんが待っている。行くぞ!」
省吾の言葉はダニエルの耳にも届いたが、怖くて暴れる事さえできない少年は、泣く事を止められない。洗脳が解け、ざわつき始めた宮殿内にも、王である少年の大きな泣き声はよく響き、皆耳を澄ませていく。
片足を引き摺りながらも省吾は力強いとさえ思わせる双眸で前を見つめ、真っ直ぐに進んでいった。
「どう……する……つもりですか?」
省吾が玉座の間と通路を抜けた所で、看護師らしき服装の女性に手当てをされているギャビンが、声を掛けた。能力がまだ戻っていない事もあるが、すでにギャビンの声からは、敵意が消えており、省吾も身構えはしない。
「子供を届ける先など、一つしかない。親の元だ」
手当てをしてくれている女性が省吾を怖がり、自分の背中に隠れたのを鼻で笑ったギャビンは、哀愁の漂う笑顔をぼろぼろになった青年の背に向け続ける。
「国連軍エース……。井上省吾。私など……端から敵う相手ではなかったか……」
「ギャビン様?」
省吾のいなくなった出口から、視線を高い場所にある窓の外へ向けたギャビンは、笑ったまま涙の最後となる一粒をこぼす。洗脳によって狂わされていたが、元は善人であるギャビンには、色々想うところがあるようだ。
「あっ! あの人……」
宮殿内から堂々と王を担いで出て行く省吾を見た、廊下に寝かされているエミリは、悲しそうに眉尻を下げる。省吾の垂れたまま動かない右腕を見て、胸が苦しくなったエミリは、謝りたいと考えていた。
洗脳されていた事等をエミリはまだ理解できていないが、省吾は敵でも悪人でもないとだけすでに分かっているようだ。だが、まだ体内の情報処理が済んでいないせいでうまく動けず、四つん這いのままでしか進めない。
「あの……あのっ!」
……うん?
歩くだけで呼吸が荒くなっている省吾だったが、決死の覚悟で発したエミリの声に、足を止めた。
「ごめんなさい! 私、あの! 腕! 本当に……」
「些細な事だ。気にするな」
表情を変えず、腕を折った事を些細といい放った省吾は、再び宮殿の正門を目指して歩き出す。省吾から目が離せなくなったエミリは、自分に向いている王の顔ではなく、思っていたよりも大きな青年の背中を見えなくなるまで見続けた。
生まれた時から影響を受け続けた洗脳が無くなり、宮殿内だけでなく、首都内全ての者が我に返っていく。壊れた扉やトラップに足止めされていた兵士達が、能力で建物を破壊する音が首都内のいたる所で聞こえる。外に出る事が許されていなかった住民達は、戸惑いながらも自分の意思で外へと出始めた。中には、洗脳のせいではあるが、奴隷となった人を殺した事を思い出し、頭を抱えている者もいる。洗脳は受けていなかったが、世界が変わったと直感で知る事が出来た奴隷にされていた人々も、ゆっくりと地下から這い出していく。
外へ出る為の門へ続く大通りを、ダニエルを担いだままの省吾は、真っ直ぐに歩き続けた。町の中にノアの王である少年の泣き声が響き、歪んでしまった世界が変わった事を、知らせていく。
大通りにまで出た人々は、情報を得る為に近くにいる者と会話を続けていたが、省吾の姿を見て口を閉じていった。喋る事を止めた人々は、ただ歩くだけの青年から目が離せなくなり、胸に今まで感じた事のない気持ちが生まれている。
泥と血にまみれたぼろぼろの青年を、自分達が止めてはいけないと感じた人々は、大通りの端に移動し、奴隷、住民、兵士関係なく全員が道を譲っていった。
「あ……あああああぁぁぁ……エー……なんて……」
「エースお兄ちゃん……」
その信じられない光景を見たガブリエラ達は、思考が停止し、止められない震えの中で目頭が熱くなっていくのを感じている。省吾が失敗していれば死ぬしかないとまで考えていたガブリエラ達は、グレースが危険なので先に様子を見てくるといった提案を受けず、首都に向かった。そして、省吾が宮殿を出たのと同じ頃、爆弾によって壊された門の外まで、到着していたのだ。
「エースさん……おじいちゃん……見てる? エースさん……本当に……本当に……」
瀕死どころか、本当の死さえ乗り越えてしまった省吾の姿を見て、反乱軍と農園の者達全員が、心を激しく揺さぶられている。
「救世主様……。あの人こそ、神が俺達人間に遣わしてくれた……。本当の救世主様なんだ……」
泣いている子供を担ぎ、泥と血でひどく汚れている省吾を見た面々は、その誇り高い姿を美しいとさえ感じた。実際に高くなった太陽が省吾の背中に、光を注いでいる為、潤んだ瞳には後光にも見えるだろう。
「ママ……見える? 見えるよね? ダニエルだよ……。本当にダニエルだ。兄ちゃんが……兄ちゃんが……」
古株の男性と車椅子に乗ったガブリエラを馬車から降ろし終えたヤコブは、省吾の姿を見ながら母の手を強く握る。
(ええ……。見えます。見えますとも……はっきりと……)
自室で流していたのとは全く違う涙が、ガブリエラの頬を伝って、服の紫色を濃くしていく。人は悲しくても泣くようにできているが、嬉し過ぎても涙が止められなく様になっているらしい。
「最強……これが……最強の英雄……。ははっ……なんて……」
ガブリエラの車椅子を押していた古株の男性は、今も鋭い眼光を消していない省吾に、寒気さえ感じていた。十年もの年月をガブリエラと共に歩いた彼は、サードである自分の非力を呪わない日はなかったほど、力への執着がある。その古株の男性は、省吾の負った怪我の深さと炎を思わせる瞳に、力の意味を見出し、自分では英雄になれないはずだと大きな息を吐く。
「ふふふっ……。信じろかぁ……。ふふっ、貴方が怖がるほどの人は……嘘つきじゃなかったようね」
「やれやれ……。俺じゃ、返り討ちにあうはずだ。あんた……かっこよすぎるぜ……」
姉のような存在である女性の上半身を支えながら、第三世代の男性は馬車の中から、省吾を見ている。
「ダリア……母さん……それに皆……見てる? 本当の英雄はいたわ。未来が開けたよ。これで……これで……」
泣き顔をあまり見せたくないらしいオーブリーは、黙って泣きながら震えているカーンの胸に、顔を埋めた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
門を抜けた省吾に、跳びつきたいと思う者も少なくなかったが、それを血生臭い英雄の殺気が遠ざける。
……まだ、最終段階だ。気を抜くな。まだ、戦意を消すな。
ガブリエラとヤコブの前に移動していく省吾の進路から、反乱軍の者達は自然と避けていった。
「うぅぅ……う……うう……」
省吾の肩から地面に下されたダニエルは、泣き声を止めたが、どうすればいいかが分からず、涙を止めずに首を左右に振っている。しゃがんだままダニエルに目の高さを合わせている省吾は、相手が母親と兄に目を向けた所で、背中を軽く叩いた。
「忘れたか? お前の、母さんと兄さんだろう? 行ってこい」
涙を流しながら自分に両手を広げたガブリエラとヤコブを見たダニエルは、走って二人の胸に飛び込んでいく。ネイサンに傀儡として操られていたかわいそうな少年を、母親が正面から抱き留め、背中から兄が覆いかぶさる。
「作戦……最終段階への移行……完了。俺に出来るのは、ここまでか……」
泣きながら抱き合おう親子を見つめた省吾の顔に、仕事を終えた満足感は浮かんでいなかった。誰もが称賛する程の仕事をやってのけたとしても、出してしまった犠牲者の顔が省吾の頭からは消えないようだ。その上で黒幕に逃げられた事を悔やむ、己に厳しい省吾は、自分を英雄とは呼ばず、もう一度戦う為の種火を維持し続ける。
「エー!」
「エースさん!」
厳しい目つきのまま立ち上がり、再び首都内へと目を向けた省吾に、ケイトとグレースは歩み寄ろうとしたが、見つめ合って足を止めた。グレースの隣にいるアリサも含め、敵だと勘で感じ取ったケイトの目からは涙が止まり、目付きがきつくなる。
「おい……あれは……」
看護師数人に支えられたギャビンと、四人の参謀達が、宮殿から省吾達の元へ向かっている。最強と呼ばれるギャビンを知っている反乱軍の者達は動揺し始めるが、省吾は構える事なくその者達を待つ。
「ネイサン……で、間違えていないな?」
先頭を歩いてきたギャビン達は、省吾の前で立ち止まり、自分なりに考えた事の要点だけを問いかけた。
「ああ。名前は、知らないが、眼鏡をかけた東洋人だ」
頭が悪くないギャビンは、すでに黒幕が王を操作していた事まで分かっているのだろうと、省吾も短い返事をする。
「後は、任せたぞ」
ギャビンは自分を支えていた看護師の女性に一声かけると、ふらふらとはしているが、一人でガブリエラの元へ向かう。
「あの……先程は失礼しました。これを……」
看護師の女性は、ギャビンの手当てをしていた者で、怖がって隠れた事を謝罪し、持っていた医療品を分かり易い様に持ち上げて省吾に見せた。
「助かる」
「あ、あの手当てを……私共が……」
医療品の入ったカバンを奪われた女性は、手当てをすると申し出るが、省吾は首を左右に振って視線をガブリエラ達の方へ向ける。無言でも圧力を感じさせる省吾に、看護師の女性は食い下がる気も起きなかったようで、すごすごと下がっていく。
「ガブリエラ様。お久しゅうございます。数々の愚行……このギャビン……。いえ、参謀一同……猛省し、処罰は甘んじてお受けする所存です」
正常な思考に戻ったギャビン達参謀一同は、ガブリエラ達に片膝をついて頭を下げていた。再開した我が子の頭から顔を離したガブリエラは、喋れない為、ヤコブへとテレパシーを送る。
「立ってください。ぐすっ……皆さん。皆さんだけでなく、僕達も間違いを犯してきました。ですから……一緒に償っていきませんか?」
「兄王様……」
涙を拭き取りながら、うなずくヤコブと、笑顔のガブリエラを見た参謀達は、それぞれが自分の罪からか苦悶の表情を浮かべた。
……これで良い。いや、こうなるはずだったんだ。さあ、見せてくれ。
省吾からの鋭い眼光に気付いたガブリエラはうなずき、二人の愛する息子に真剣な顔を向ける。
(ヤコブ。ダニエル。ママに力を貸してちょうだい)
「ママ? うん! いいよ!」
素直な返事をしたダニエルの頭を撫でたヤコブも、首を縦に振り、全身を発光させていく。黒幕を逃がした事で、完璧ではなくなったが、省吾の作戦がガブリエラ達親子によって締め括られる。
(皆さん。重要なお知らせがあります。聞いてください。私は、先王が妻にして、現王の母。名を、ガブリエラと申します……)
息子二人が発生させた大出力のテレパシーが、ノアの首都全土へ伸びて行き、ガブリエラはそれに言葉を乗せた。
(つまり、ノアは歪められた悲しい道を歩んでいたのです。私達は裁かれても、文句はいいません。ですが、その前にノアが正しくある為に、働かせてください)
ダニエルの相手を支配する力は、ヤコブが抑え込み、ガブリエラは押しつけとしてではなく、助力を求める。
(身勝手は重々承知ですが……。何卒、皆様のお力を、愚かな私共にお貸し下さい。お願いいたします)
ガブリエラの言葉を聞いた者が、徐々に門の前に集まり、土下座や拍手等で意見に賛同する意思表示を始めた。
……作戦終了だ。時間がない。次だ。
拍手をしながらも、まだ睨み合ったままになっている者達の前まで移動した省吾は、ケイトへと声を掛ける。
「ケイト……」
「はい! あの……」
真っ先に声を掛けられたケイトは喜びを顔に出したが、省吾の真剣な顔を見て、抱き着く事が出来ない。
「それに、カーンとオーブリーもだ。力を貸してくれ。お前達の力が必要だ」
まだ拍手の大きな音が止まない中で、近づいてきたカーン達に、省吾は黒幕を逃がしたと謝る。
「いやいや……。そりゃ、残念だが……。今回はこれで十分だろ?」
「希望的観測は、隙を生む。敵は瞬間移動の能力がないにもかかわらず、一瞬で気配が消えた。この意味は分かるな?」
カーン達には、タイムマシーンの転送機能をすぐに思い出せた。そして、敵は今も時間介入できるかもしれないと察して、顔を青くしていく。
「王の椅子があった部屋の奥に、隠し扉がある。その中の調査は、知識のあるお前達が適任だ。頼めないか?」
「あ、ああ! 勿論だ。急ごう。あ、でも……宮殿内か……」
少し前まで敵だった者達の拠点に入る事を、カーン達が危険かも知れないと考えても当然だろう。省吾の話に聞き耳を立てていたギャビンが、看護師に支えられてカーン達に近付き、声を掛ける。
「君達の安全は、私が命に代えてでも守ろう。そして、案内も任せて貰えないか?」
ギャビンが信用できるといい切った省吾の言葉で、カーン達は参謀に先導されて宮殿に向かおうとしていたガブリエラ達の後に続く。
「俺もすぐに行く。先に、調査を始めておいてくれ」
「はい……あの……エー? 体……」
省吾の怪我を気にしたケイトは、問いかけようとしたが、その声は人々のざわめきに掻き消される。強がりではあるが、心配されたいなどとは思わない省吾は、表情を変えずに第三世代の者達とグレースを手招きで呼び寄せた。
「おう! 俺達も、何かあるんだな? いってくれ。なんでもするぞ」
「お兄ちゃん! 私も! 私も手伝う!」
省吾は集まった者達に、農園から運んできた食料を、奴隷と呼ばれていた人達に配って欲しいと頼んだ。
「はぁ? いや……やれといわれれば……やるけどさぁ……。なんか……」
もっと恰好のいい、危険が伴う依頼かと勝手に勘違いした第三世代の男性は、顔をしかめている。
「頼む。無茶をする者も出る可能性がある。それを、お前達フォースの力で処理してくれないか?」
英雄と認めた者に頭まで下げられては、第三世代の者達も断れなくなり、グレース達農園の者達もうなずいた。
「さあ、順番に並べ。喧嘩はするなよ。今回はこれだけだが、次がある」
奴隷だった子供達から呼び寄せた省吾は、反乱軍の者達にも手伝わせながら、列を作らせ配給を始める。
「ああ! こら! 順番を守れ! 吹き飛ばすぞ! こら!」
「はい。あ、こっちがいいですか? あ、お子さんの分もですね」
苦難もあるであろうノアと呼ばれる国が、その日新たな出発を始め、明るい輝きがそこかしこに満ちて行く。
……ここまでか。
活気に満ちた人ごみの中に、仕事を終えた青年はふらりと消えて行き、誰もそれに気付けない。
医療品の入ったバッグを持った省吾は、扉のしるしがある建物に入り、そのまま倒れ込んだ。
「ぐっ! がはっ! ごほっ! ごほっ! ぐうぅぅぅ……くっ……まだ……がああああぁぁぁぁ!」
明るくも慌ただしい大勢の声に、一人で激痛にもがき苦しむ青年の断末魔にも似た声は、かき消されていく。
……俺は、なんて情けなくて。弱いんだ。
泥と己の血にまみれた英雄と呼ばれる青年は、一人で苦しみぬき、意識が途切れると真っ暗な闇へと落ちていく。
……守るんだ。皆を。その為なら、俺は。俺は。
気を失ってもなお、消えない戦う意思に応え、金属生命体達は主の体を補う為に、活動し続けた。人間とは意識の形が違う金属生命体達にも、寿命を更に削るその行為を省吾が望んでいると、分かっているのだろう。
省吾の寿命を燃料としている歯車達は、今も回転を続け、針を次の数字へと進めていく。




