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名無しのエース  作者: 慎之介
四章
41/82

拾壱

 天井と床が木の板、壁が漆喰で作られた四畳ほどの広さがある部屋の中で、金属で出来た扉だけが統一感に欠ける。その扉を内側から見れば、金属で出来ている以外に変わった部分はないが、外側は壁と一体になる様に工夫されている隠し扉である為、金属の強度が必要だったのだろう。


 隠し部屋で少し前まで聞こえていた激しい息使いは消えており、省吾がトレーニングを終えた事が分かる。


「ふぅぅぅぅ……」


 午後からの仕事に差し支えないようにトレーニングを切り上げた省吾は、幾度も深い呼吸をしながら持ち込んだタオルで汗を拭う。そして、ベッドに勢いよく座った。そこで、枕の下に隠すように置いてあった一冊のノートに省吾は気が付き、目を細める。


 なんの変哲もないベッドにノートが隠してあるなどと思わなかった省吾は、枕の下までは確認していなかったのだ。そのノートは省吾がベッドに勢いよく座り、枕の位置がずれた事で偶然目につく場所に出てきたように見える。


……なんだ?


 タオルを首にかけた省吾は、ベッドに座ったままノートを開き、ニコラス老人の手記なのだと理解した。他人のノートを盗み見てはいけないと考えた省吾だが、ノアの事が記録されたそれは自分が読むべきものかもしれないと察しがついたようだ。


……わざとなのか?


 省吾が隠れる部屋を指定してきたのはニコラス老人であり、わざわざ見られたくないノートを置いてあるはずがないと省吾でも理解出来た。


……読めって事だよな。


 ノートには読んでいる人間がうすら寒くなるような、ニコラス老人の憎悪がつづられており、省吾の目はどんどん細くなっていく。ニコラス老人が農園を作ったのは、己が生き残るため以上に、自分から弟妹を奪った者達を苦しめる事が目的だった。


 愛する者を奪い尽くされたニコラス老人は、労働者達だけでなく、ノアを含めたこの世の生きとし生ける物を憎悪していた事が省吾にも伝わる。


……あの人は、何を考えているんだ? 人間を皆殺しにでもしたいのか?


「ふぅ」


 ニコラス老人が書きなぐったであろうノートから一度目線を離した省吾は、息を吐きながら眉間を指でつまむ。ノートの数ページを読んだだけの省吾は、まだニコラス老人が文字で残した真実にはたどり着いていない。


 省吾が次のページを開いた頃、省吾にとって敵であるノアの面々は、今まで気付きもしなかった情報を手に入れようとしていた。


「はひっ! はひぃ! おまっ! お待ちください!」


 ノアの馬車は農園の中央を真っ直ぐに貫いた道を、森の反対側である出口に向かって進んでいる。畑での仕事を中断した労働者達は、その場で馬車に向かって土下座していたが、マシューの声で顔を少しだけ上げた。


 マシューの声を聞いたリアムも超能力者特有の勘を持っており、何かを感じたらしく、緩やかに馬車を止める。ディランの部下達が乗っていた馬車もそれに合わせて止まった。早く家へと帰りたいディランは、不満を表情に出す。


「おいぃ! どうしたんだぁ?」


「我等を追いかけてくる者がおります」


 客室の扉を少しだけ開き、顔を半分だけ出したディランは、不機嫌そうに息を吐き出していた。


「ゴミ屑に呼び止められて、止まるなよ。無視すればいいだろう?」


「私の勘が、話を聞くべきだと呼び掛けてきますので」


 ディランに怯えを抱かないリアムは、馬車の運転席を降りてしまい、のろのろと走ってくるマシューを見つめた。


「勘弁しろよ……」


 リアムの目を見て、いう事を聞いてくれないだろう事が分かったディランは、扉を開いたまま席に戻ると肩をすくめて足を組んだ。


「はひ……はひぃぃ……ひぃひぃ……」


 少し走っただけで汗を滝のように流すマシューを見て、リアムだけでなく労働者達も不快感を覚えた。


「あひぃ……はぁはぁ……ありがとうございます」


 人間でもないとカテゴライズされた気持ちの悪いマシューを、待つべきではなかったかもしれないとリアムは考えている。その事に気付きもしていないマシューは、息を切らしたまま虫唾が走るような笑顔をリアム達に向けた。


 そのあまりの気持ち悪さに、客室の窓から覗いていたディランはマシューを、能力で殺そうかとまで考えているようだ。


「なんだ? 何故、呼び止めた? つまらない事であれば……」


 リアムだけでなく、馬車から降りたフォースの部下達も、マシューに鋭い目線をむけている。


「皆様のお役にたつ、とてもいい情報でございます。あ、非礼は先に詫びさせて頂きますので」


 回転の悪い脳で自分の考えが正しいと思い込んでいるマシューは、空気も読まずに嬉しそうに喋り出す。見ているだけで殴りたくなるマシューに、拳を握った兵士もいたが、リアムが無言のまま手で制止した。


「早くいえ」


「はいぃ! 実は、ニコラスの奴は、皆様に隠れて能力者を一人飼っております。これは、立派な反逆ではないでしょうか?」


 褒めてくれといわんばかりに得意満面なマシューに、リアムは不快感を高めながらも確認を行う。


「その飼われている者のレベルは?」


「レベルでございますか? ああ……セカンドかファーストだったはずですが……」


 呆れたように息を吐いたリアムは、開かれたままになっている扉に顔を向けて、ディランに声を掛けた。


「いかがいたしますか?」


 耳をすませていたディランは、農園の内情が書かれた資料を読んでおり、ニコラス老人が労働者達に恨まれているだろう事を知っている。性格は悪くても頭がマシュー程悪くないディランは、ニコラス老人が護衛として能力者を一人飼っていても不思議ではないと推測する。


「一人だけなんだな?」


「は……はあ……」


 ディランと同じ事を考えていたリアムは自分の勘が鈍ったと感じながら、上司が変な事を考えない様に釘を刺す。


「この農園は、首都の農作物を三割以上賄っています。それに、ここでしか生産できない物も……」


 大した問題でもない事で、大事な農園に罰を与えるべきではないとリアムがいいたいのだろうと、ディランにも理解できた。手を出すつもりはないようだが、幼馴染馬鹿にされたと感じたディランは、眉間にしわを作っている。


「分かっている! お前は、俺を馬鹿にしすぎだ!」


 自分が考えた様に進まなくなっていく二人の会話を聞いて、マシューが挙動不審になり、小さな眼球をせわしなく動かし始めた。


「まあ、ペナルティとして妥当なのは、農作物の納品数を引き上げる事でしょうかね」


「わざわざそれをいう為に、戻るのも面倒だな……」


 目に見えて動揺し、首だけでなく上半身まで左右に振り始めたマシューは、必死にディラン達をその気にさせようと考え始める。


 邪魔な省吾を追い出し、ニコラス老人を失脚させれば、自分にバラ色の人生が待っているとマシューは考えて行動した。しかし、リアム達二人の会話を聞く限り、マシューの思惑は既に潰えてしまったのだが、諦めきれないらしい。


「あの! それだけじゃなくて……あの、反逆をしようとしているんですよ。あの、野菜に毒を混ぜたり……その……。そう! 昨日なんて、ノアの旗を踏んでいましたし……」


 どうにかしてディラン達にニコラス老人を処罰して貰いたいマシューは、ついに完全な嘘をつき始めた。マシューのいっている事が、ディランとリアムにも嘘だと分かってるらしく、呆れ始めている。


「ああ、それに、悪口もいってます。毎日、毎日です。どうですか? 腹が立つんじゃないですか?」


 期待を込めて向けられた顔や目付きが不快でしかないリアムも、珍しく自分からマシューを殺してしまおうかと考えている。


「それだけか? ゴミ虫?」


 自分の勘を信じて役にも立たない話を聞いてしまったリアムは、ディランに嫌味をいわれるだろう事が分かっていた。その事もリアムの火が付いた心に油を注いでおり、珍しくこめかみに青い血管を浮かび上がらせている。


「あ……いえ……あの……その……」


 リアムの殺気がこもった眼光で、言葉を詰まらせたマシューは目線を逸らす為に俯き、独り言を呟く。


「前の人なら……処罰してくれたのになぁ……」


「この! ゴミ虫が! 死ね!」


 ついにマシューへのいら立ちが頂点に達したリアムを含めた兵士達が、発光させた手を振り上げた。


「ひぃぃぃぃ!」


 情けない声を上げてその場にしりもちをついたマシューは、目を閉じて両腕を顔の前で交差させる。


「ん? あれ?」


 何も変化が無い事に気付いたマシューは、ゆっくりと片目ずつ目蓋を開き、腕の隙間からリアム達を見た。


「えっ? えっ? なんだ?」


 リアム達の攻撃は、当然ながらマシューの腕で防げるものではなかったが、フィフスの作った光の壁でならば可能だ。力を振るおうとした兵士達の眼前には、人間よりも一回り大きな長方形の能力で出した光の壁が作られていた。


 その光の壁を作り出したディランは、馬車の扉を蹴り開き、眉をひそめたリアム達の隣にまで出てくる。


「デビッドなら、処罰したか……。なかなか愉快な事をほざくゴミだ」


 逆鱗であるデビッドの事をマシューが口にした為、ディランは脳のネジがとんでしまい、残忍な笑顔を浮かべていた。


「はぁぁ……。ゴミ虫が……」


 ディランの表情を見たリアムには、それが怒りの頂点にある表情だと分かったようで、重い息を吐き出す事しか出来ない。危険な兄弟の幼馴染であるリアムも、能力はフォースでしかなく、暴走し始めては止める事が出来ないのだ。


「はっ! はいぃぃ! 前の人なら、きつい罰を与えたはずです! 間違いありません!」


 色々な能力が欠落しているマシューは、ディランの笑顔を勘違いしたらしく、気持ちは悪いが最高の笑顔を作る。そして、あり得ない程怒っているディランの足元に這いより、大いに間違えた方向の媚を売った。


「そうか、そうか。よく知らせてくれたな。ゴミ」


「はぁぁ」


 マシューの顔を睨んでいたリアムだが、隣に立つディランへと顔の向きを変え、溜息をついて肩を落とす。


「おい。館の中にいる奴等に知られない様に、他のゴミを呼び寄せろ」


「は……はっ!」


 笑ったままのディランは、フォースである一人の部下に糸の様に細くした目を向け指示を出した。ディランの指示に敬礼と共に返事をした男性は、テレパシー能力自体は強くはないのだが、それに似た能力を持っている。


 テレパシーは能力の送受信であり、受け取る側にもある程度の素養が必要であり、労働者達では受け取れない可能性が高い。男性兵士が使うのは、テレパシーを指向性のある空気振動に変える力で、能力が無い者でも音として聞き取る事が可能なのだ。


(ノアの貴族であらせられる、ディラン様からの命令だ。心して聞け。今すぐに我らの元に集まれ。拒否した者は、反逆者とみなす)


「やた……やった……いひっ!」


 館には届いていないが、労働者達への命令が聞こえたマシューは、踊り出さんばかりに喜んでいる。逆に不安しか感じていないリアムは、怒りをぶつけられるかもしれないと思いつつ、上司に進言した。


「ゴミ虫を皆殺しにするのは……」


「心配するな。俺は、そこまで馬鹿じゃない。管理をしているゴミのすげ替えは、構わないだろう?」


 怒りが頂点に達した場合、年の若いデビッドのように我を忘れる者もいるが、ディランとリアムはその逆だ。怒れば怒るほど、その怒りをより気分よく晴らす為に頭が回転し始めるディランは、自分の加虐癖を満たそうとしている。


「はぁ……。まあ、農園がここまで育っている以上、ニコラスの代わりはフォースの誰かでも務まるでしょうね」


「なっ? 俺は、間違ってないだろう?」


 残念過ぎる頭しか持ち合わせていないマシューも、人語は理解しているらしく、リアムのいった言葉を理解した。農園が自分の物にならないかもしれないと危機感を持ったマシューは、分かりやすく顔をしかめる。


 マシューの変化を見逃さなかったディランは、口を開いて蜘蛛の糸を垂らしたふりをした。


「なんだ? 何か不満でもあるのか? 褒美なら考えてやらんこともないぞ?」


「えっ! 褒美ですか! あ、あの、農園が欲しいです!」


 ディランの笑顔を見て、自分が気に入られてのではないかとまで考え始めているマシューは、なんの臆面もなく望みを口にする。それを聞いたディランは、今まで以上に頬のしわが濃くなるほど口角を上げており、部下達の額から冷や汗が噴き出していた。


「馬鹿が……」


 もう自分は知らないといいたげな表情でマシューから目線を逸らしたリアムは、集まってくる労働者達にその冷たい目線を向ける。そして、部下達に労働者達を並んで座らせるように指示を出し、腕を組んで道の先にある館を見つめた。


……なんなんだ? これは?


 リアムが見つめた館の隠し部屋でノートを読んでいた省吾は、予想を超えた内容に掌から汗が噴き出している。ニコラス老人の信じられない計画を知っていく省吾は、幾度も喉を鳴らして唾液を飲み込んでいた。


「こんな……」


……いや。これは、予想できなくはない事じゃないか。くそっ。俺に、イリアほどの頭脳があれば。


 憎しみを晴らす為だけに農園を拡張していたニコラス老人は、十年ほど前に赤子を抱いた一人の女性と出会う。ニコラス老人の砕け散った人としての心を拾い集めたのは、強力な予知能力を持ったその女性だった。


 ガブリエラという名のその女性は自分の力を証明する為に、ニコラス老人の孫にあたるグレースの居場所を言い当てる。ガブリエラが居なければ、今のグレースはなく、ニコラス老人も憎しみの炎に巻かれて死んでいただろう。


 ニコラス老人にガブリエラが求めたのは、運命の鍵を握った青年の導き手としての役割だった。時空を超えて現れる誰よりも強い意志を持った青年のみが、狂ったノアの支配から世界を救う鍵になるとガブリエラは説く。


……フォースやフィフスの予知能力者なら、可能なはずだ。気付くべきだったんだ。くそ。


 ノートには、ガブリエラがニコラス老人に教えた、三つの名前がはっきりと記載されており、エー、エース、井上省吾とあった。いうまでもなくそれは、全て省吾を示す名前という記号であり、ガブリエラは全てを見通していた事が分かる。


 グレースを保護できたニコラス老人は、ガブリエラへの忠誠を誓い、来るべき日の為に準備を始めた。今まで殺していた衰えた労働者達を使用人として生かし、秘密裏にノアに対抗する為の銃火器を製造したのだ。省吾が使用人達から嗅ぎ取った臭いは、使用人達が失われたはずの技術で銃を製造していたという事のヒントだったのだ。


 ガブリエラの元に集った反乱軍ともいえる者達は、予知能力によってノアの探索から逃れ、世界各地から武器の材料を収集してニコラス老人に渡していたらしい。


……この女性は、味方なのか? いや、黒幕の可能性も残っている。しかし。


 ガブリエラは世界中の誰も知りえなかったであろう、ノアの王族についても熟知していた。ノアの王族とは、高レベル能力者の中で個人の戦闘力がとびぬけている者ではなく、洗脳する力を持った者だったのだ。王族達も最初から全てを総べる程の能力があった訳ではなく、世代を重ねて洗脳する能力と範囲を広げたらしい。


 その王族が現れた事で、ノアはテンペストを吸収し、国連の能力者まで仲間に加えて世界を支配したのだ。ニコラス老人が若い時代に自治区の能力者達がノアに寝返ったのも、その王族が力を使ったからに他ならない。


 洗脳の力は、テレパシーの一種であり、能力者以外を洗脳できない為に、能力の無い者をノアは排除しようとしていたのだ。今までで最高の洗脳能力を持った現在の王は、首都に抵抗力のあるフォースやフィフスを集めて強い能力を常に発している為、洗脳範囲を狭めているらしい。


 更に、首都から出る事が許されているフォースとフィフスは、洗脳なしでノアの考えに賛同している者達で、王が居なくなっても変わらないだろうと分析されていた。


……これは、この女性が予知能力で調べた事なのか?


 顔を歪め、頭を乱暴に掻き毟った隠し部屋の中にいる省吾は、自分がそのノートを読むタイミングまで計算されていたと気付かない。省吾が気付く気付かないに関わらず、運命の時間をもたらすであろうディランは、労働者達に笑いかけていた。


 道に等間隔で座らされた労働者達は、自分達の眼前で横に広がって並んだノアの能力者達を恐れている。ディランとリアム以外は、自分達の隣に当然の様に笑顔で並んだマシューを睨んでおり、その怒った顔も労働者達を更に怯えさせていた。


「つまり、お前達の主は我等への反逆を企てていたのだ」


 リアムに労働者達への集めた理由説明を任せていたディランは、その説明が終わると同時に一歩前に歩み出る。にやにやと笑っているディランがぱちんと指を鳴らすと同時に、周囲を囲む巨大な光の壁が出現した。


 労働者達や馬車ごと円状に囲んだ光の壁は、デビッドが出した壁とは少し違うようで、一枚ではなく人間の身長より少しだけ大きい長方形の壁が、何枚も並んでいる。また、ディランの発生させた、その壁が発する光と分厚さはデビッドの壁とは比較にならないもので、貫くことが出来る者がいるのか疑問を持つほどだ。


 自分達が逃げられないと分かった労働者達は、冷たい汗を体中から噴き出し、震えている者も少なくない。恐怖が限界レベルに達したその者達は、叫ぶ事も出来ずに怯えながら震え続けることしか出来ないのだろう。


「おっと、勘違いするなよ。お前達を殺したいわけじゃない。生かそうと考えているんだ」


 ディランの言葉で安堵し、止めていた呼吸を再開した労働者もいるが、次の言葉でほぼ全員の顔色が変わった。


「ただし、生かしてやるには、条件がある。あの館にいる者全てを、お前達の力で殺せ。俺達も手伝ってやるから、簡単な事だ。いいな?」


 焦り始めて周りに座っている者を見渡し始めた労働者達に、笑ったままのディランは高圧的な問いかけを放つ。


「いっ! いっ! なっ?」


 逆らえば殺されると感じた労働者達は、震えながらうなづくが、恐怖で立ち上がる事が出来なかった。それすら分かっているディランは、怪しく口元を開き、駄目押しのパフォーマンスを行う。


「逆らえば、どうなるかだけ、見せておいてやろう」


 ざわつき始めた労働者達には、ディランがある人物の頭上に二メートル四方の壁を出現させたのが、はっきりと見えている。その事に遅れて気付いた部下である兵士達は、急いで気持ち悪くにやけたままのマシューから距離を取った。


「へっ? あの……」


 農園の主となってからの事をあれこれと妄想していたマシューは、自分の周囲が明るくなった事に気が付いていない。


「こうだ」


 ディランが空に向かって突き出していた人差し指を下すと同時に、マシューの頭上にあった光の壁が地面とぶつかって大きな音を轟かせた。


「ひっ……」


 地面を数センチへこませていた光の壁が消えると同時に、ただ目を丸くしていた労働者達は、息を吸いながら小さな悲鳴を上げる。


「ううぅ!」


 自分が死んだ事も理解していないであろう、変わり果てたマシューを見て、労働者達は悲鳴の後に口を押えた。それは、あまりにもひどい光景を見たせいで、胃の内容物が喉を一気に逆流してきたからだ。


 プライドの高いディランが、逆なでしてきた相手を許すはずもないと考えていたリアムは、顔色を変えない。リアム程深く考えてはいなかったが、人間として認めていなかったマシューが鼻についていた兵士達も、それを笑顔で受け入れる。


「さあ、行け。俺は、あまり気が長い方じゃないぞ」


 ディランがもう一度指を鳴らすと、館に向かう道をふさいでいた光の壁が消え、代わりに労働者達が逃げられない様に道に沿って壁が出現した。


「聞こえなかったのか? お前達は……死にたいのか! おらぁぁ!」


 おろおろしていた労働者達は、怒声と共に笑顔を消したディランを見て、一斉に館へ向かって走り出す。


「はっ……ははははあぁぁ! そうだ! ゴミ同士醜く争って見せろ! ひははっ!」


 本当に嬉しそうに笑い始めたディランを見て、デビッドよりも頭がいい分たちが悪いとリアムは考える。


「はぁぁ……。おい。私達も行くぞ」


 息を吐き出したリアムは、部下達に馬車はその場に置いていく指示を出し、ゆっくりと歩き出した。


「くそ……。はぁはぁ……なんで俺達が!」


「全部あの爺のせいだ! 全部!」


 館に向かって走っている労働者達は、理不尽な状況に怒りを感じ始めているが、その怒りは恐怖の対象であるディランには向かない。今まで酷い扱いを受けた事もあり、労働者達の怒りはニコラス老人に向かっており、皆は本当に殺そうと考えて走っているのだ。


 ニコラス老人に労働者達が不満を持っていると知っていたディランは、どうやらそこまで計算していたらしい。


「あいつさえ、いなくなればっ!」


「そうだ! あの下衆野郎を殺すんだ! そうすれば、俺達は楽になる!」


 労働者達の中には、省吾の事を気にした者も存在してはいたが、大多数の意見と雰囲気に飲み込まれていく。人は何よりも大事な自分の命を守ろうとするだけでなく、孤立する事を恐れてしまうものだ。


「旦那様。準備が整いました」


 館の中に入らず扉の前で、光の壁が出現する一部始終を見つめていたニコラス老人は、使用人からの報告で口角を上げた。そして、顔を引き締めると同時に、全身が揺れるほどの大きな声で、魂を乗せた号令をかける。


「ここが正念場だあぁぁ! 命を惜しむなあぁぁぁ!」


 自分達が持つもっとも綺麗な使用人用の服を身に纏った者達は、その服に相応しくない銃を握り、ニコラス老人に叫び返す。


「おおおおぁぁぁぁぁぁ!」


 正装をした老人達が銃を握って叫ぶ光景を、正常ではないと感じる者も多いだろうが、運命を掴み取ろうとしたその者達の目に迷いは一切ない。


……なんだ? 監査でトラブルか?


 密閉性の高い隠し部屋の中にまで届いた使用人達の声で、省吾はノートを閉じそうになったが、脳裏にニコラス老人からの言葉がよみがえる。指示があるまで、絶対に隠し部屋から出るなとニコラス老人は何度も省吾に念を押していたのだ。


 ノートによりニコラス老人が敵ではないと確信できた省吾は、一度立ち上がったがベッドに座りなおして指を挟んだページを開いた。全てが自分の予定通りに進んでいるニコラス老人は不敵な笑みを浮かべ、向かってくる労働者達を見つめている。


「旦那様!」


「よし。いいタイミングだ。ふふっ……」


 省吾が居るのとは別の隠し部屋から、アリサの手を引いて出てきたグレースは、ニコラス老人の声を聞いて隣に立つ。


「分かっているな?」


「はい!」


 ニコラス老人に力強く答えたグレースと違い、訳の分からないアリサは走ってくる労働者達の怒声を聞いて、怯えていた。


「大丈夫。貴女は、何をしてでも守るから」


「は……いっ!」


 グレースの腰に抱き着いたアリサは、震えたまま道の先を見ていたが、グレースの言葉と頭に乗せられた手で呼吸の速度を落としていく。アリサを恐怖から遠ざけたのは、グレースや使用人達の笑顔と、その場にいない省吾への信頼だった。


「いた! ニコラスだ! 殺……せ……」


「あ……あ……」


 グレースが部屋を出て、数分後に館の庭まで到着した労働者達は、アリサの姿を見て振り上げた拳を下ろして走る速度を緩める。幼気なアリサの姿を見て、労働者達の頭に上った血が下がるであろう事も、ニコラス老人は計算していたのだ。


「うわぁ!」


「きゃああぁ!」


 先頭にいた者達が急速に速度を緩めた為、後から庭に入った労働者達は、勢いを殺しきれずにぶつかり合う。訓練などした事もない労働者達は、緊急事態に全く対応できず、大多数が将棋倒しに倒れ込んだ。


 その場で労働者が動きを止める所まで予定通りに進んだニコラス老人は、使用人達に視線で合図を送った。


「いたたたっ……。くそっ! どうなった? く……えっ? おふくろ?」


「嘘……お父さん? お父さんよね? 嘘……」


 将棋倒しになり痛めた部分を擦っていた労働者達は、一人一人が死んだと思っていた親に助け起こされる。当然ではあるが、それは労働者達にとって予想外の事であり、頭がいつも通り活動している者はいなくなっていた。


 生き残らせた使用人達を労働者達に会わせなかったのは、労働者達が計画を知ればノアを騙せないと分かっていたからだ。十年の歳月をかけて、自分から全てを奪ったノアに対するニコラス老人の復讐計画は、折り返し地点を過ぎた。


 庭に入った労働者達が縺れて転んだことで、リアムは目を細めたが、その者達がすぐに立ち上がり始めた事で、目の大きさを元に戻す。大勢で一度に詰めかければ多少のトラブルは発生するだろうと考えたリアムもディランも、まだニコラス老人の計画に気が付いていない。


「親父? あの……その恰好は、なんだ?」


 死んだと思っていた親達に再開した労働者達は、呆然として誘導されるままにニコラス老人の前に並ばされた。ニコラス老人の指示を受けたグレースは、アリサを連れて、すでに館の扉の前から離れている。


「静まれ!」


 ざわついていた労働者達は、親との再会した会話を中断して、ニコラス老人に顔を向けたが、表情は好意的なものではない。


「お前達を助けてやる! 黙って聞け!」


 ニコラス老人の高圧的な言葉で顔を赤くした者達もいたが、使用人を代表した男性が家族と握り合った手を放し、主人の前に立った。


「皆! よく聞きなさい! 我らが主の言葉に嘘はない! 逆にいえば、従わなければ死ぬと思いなさい!」


 怒りの対象ではないその男性からの声に、労働者達は耳を傾け始め、死ぬという言葉に動揺する。


「我らが主は、ある偉大なお方の助けを借りて、皆を助けて下さるのだ! この言葉に嘘偽りは、一切ない!」


 ニコラス老人に襲いかかろうとしていた者の多くは、ディランへの恐怖と雰囲気にのまれての行動だった為、男性の声で頭から簡単に熱気が冷めていく。個人的な恨みを含めてニコラス老人を殺すつもりだった者も、省吾でさえ圧倒した老人の言葉で勢いを失う。


「生き延びる手段は、こちらで既に準備してある! 今は、それに従ってほしい! それに……従えば、数日間は仕事を休めるぞ。ん?」


 整えられた口ひげを撫で、茶目っ気のある笑顔を見せた白髪の男性に、労働者達のほぼ全員が毒気を抜かれた。しかし、ディランの恐怖が拭いきれないその労働者達は、確認せずにはいられない。


「従う……従うけど! あの化け物はどうするんだよ!」


「そっ……そうよ! 私達は貴方に従って、殺されたくない!」


 労働者達からの質問も想定済みだった、代表の男性とニコラス老人は、不敵に笑いながらうなずき合った。


「それも問題ない! 皆も会っているはずだが……。たったお一人で、時間と世界を超えて、我らを助けにきて下さった方がおられる!」


 男性の自信に満ち溢れた言葉で、労働者達は自分達がいままで出会った、ノアではないもっとも強い男性を思い描く。


「その方ならば、必ずやノア打倒してくださる! 私はそう信じている! 皆も信じてほしい! 救世主たるあのお方を!」


 使用人の代表となった男性には、演説の才能があるのか声に信じられない強さがあり、心を揺さぶられた労働者達も多い。男性の言葉に誤魔化しと、演説のスパイスとしての嘘が含まれていると、労働者の誰一人として気が付いていないようだ。


 労働者達が口々に囁くエースという単語を聞いたニコラス老人は、怪し過ぎるほどの不気味な笑顔を浮かべて、言葉で止めをさす。


「あの男は、もっとも古き最強の英雄だ。その最強が命を顧みずに、戦おうとしてくれるのだ。幸せが欲しいなら、お前等はわしの外ウマに乗ればいいだけだ」


 労働者達は、唾液を飲み込んだ者や、うなずいた者など様々な反応を見せるが、皆目には日頃では考えられない光が宿っていた。


 その労働者達は、その計画の成功率が半分もない事と、まだ省吾が動き始めていない事を知らない。

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