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名無しのエース  作者: 慎之介
三章
21/82

 雲の裏側へ逃れた月が休息を取っている冬の夜は、地球上でもっとも騒がしいかもしれない人間も大人しくなる事が多い。防寒の為にコートを着た人々が、そのコートなどでは対処しきれないほどの寒さから身を縮め、家へ一刻も早く帰り着こうとしている。その帰路についた人間がふと空を見上げると、月を隠している雲から氷の結晶がゆっくりと地表に向かい始めていた。


 飲食店の裏路地でゴミ箱をあさっていた野良犬が、少しでも暖かい場所を求めて歩き出した頃、日本特区の学園から一台のヘリが飛び去った。その学園からは、兵士達の乗ったヘリ追う軍用車だけでなく、カーテンにくるまれた一人の男性が運び出されていく。


 男性が運び出された後も、明々と光に照らされた運動場で、大勢の人間が様々な処理をする為に忙しなく動いていた。その夜発生した一連の事件は、人の命が損なわれずに済んだだけでなく、一般人にも知られないほど些細な事ではある。


 だが、その些細な歯車の回転こそ人間の歴史を作っている基盤であり、歴史そのものといえるのかもしれない。その夜起こった事件が、それ以降の歴史にどれほどの影響があるかを、限界まで戦った男性を含め知っている者はいないだろう。


「ふぅぅぅ……はっ! はあっ!」


 日本特区内にある広い屋敷の一室から、男性の気合が入った声が廊下にまで響いていた。寝ぼけ眼で廊下を歩いていた別の男性が、その声を聞いて部屋の扉を開き、室内の様子をうかがう。


「はああっ! はっ!」


「相変わらず、お前は熱心だなぁ」


 徹夜明けの眠りから起き出してきた兄の声に、武術の訓練を行っていた宗仁は顔を向け、構えを解く。


「おはよう、兄ちゃん。母ちゃんが、飯作ってくれてるよ」


 宗仁が家では両親の事を、親父、お袋と呼ばず、父ちゃん、母ちゃんと呼んでいる事はごく一部の者しか知らない。


「おう。適当な所で、切り上げろよ。オーバーワークはよくないぞ」


「うん」


 父親同様に国連軍兵士として勤務している宗仁の兄は、トイレに向かおうとしていた事を思いだし、腹を掻きながら扉を閉めた。そして、トイレに向かいながら宗仁の鍛錬風景を思いだし、弟が自分よりも強くなったかもしれないと考えて口角を上げる。


 その宗仁の一つ上である兄は省吾やローガンとも顔見知りであり、会話をした事もある。つまり、父親が敵わないという二人の強さを、知っていた。その上で、自分やさらに上の兄が追いつけなかった二人に、宗仁なら追いつけるのではないかと期待しているらしい。


 人間に限界がある以上、その司令官の息子が考えている事は間違いではない。だが、難しいだろう。なぜなら、年齢により衰えているローガンならば望みはあるだろうが、もう一人は限界ぎりぎりの実戦をその夜も積んでいるほど隙が無いからだ。


「ふぅぅぅ……。今日はこれぐらいにしておくか」


 タオルを掴み、汗を拭き始めた宗仁は、満足そうな顔をしてシャワーを浴びる為にバスルームへと向かった。


 それと同じ時刻、宗仁とは逆に寮のバスルームから出たケビンは、特注の大きな鏡に自分の体を映していた。


「うん。やっぱり、完璧じゃないか」


 ナルシストと呼ばれる人種であるケビンは、鏡に向かって一糸まとわぬ姿で、様々なポーズをとった。そして、顔を暗くすると大きなため息をつく。どうやら、ケビンはイザベラの事を思い出したらしい。


「あんな丸い鼻をした彰より、俺の方がかっこいいはずなのになぁ……」


 ガウンを纏ったケビンは、暗い表情のまま冷蔵庫からペットボトルに入った飲み物を取り出し、テレビのリモコンを探し始めた。探し出したリモコンのボタンを押しながら、ソファーに座ったケビンは家族と写った写真立てを手に取って眺める。


「ママ……」


 学園ではあまり知られていないが、ケビンはナルシストであり、マザコンなのだ。自分と家族しか愛せない彼が、イザベラに好意を持ったのは、初めて会ったその日からだった。


 実はケビンの母親に、イザベラの顔は作りが似ているのだ。もう少し正確にいえば、イザベラはケビンの母親が若かった頃にそっくりなのだ。現在ケビンの母親は、ケビンの出身地特有の高カロリーな食事を続け、かなり太ってしまっている。


 だが、その太った母親をケビンは変わらず愛しており、若い頃の母親に似ているイザベラも本当に好きらしい。


「なんで、俺って……昔から、好きになった人には相手にされないのかなぁ。関係ない子は、いっぱい寄ってくるのに……」


 プレイボーイに見えても心が純粋なケビンは、包み隠さない自分を受け入れてほしいと考え、好きになった相手へ全てをさらけ出そうとする。ケビンのその行為は、ナルシストでマザコンな部分が相手に自然と伝わってしま結果となる。そして、相手の女性から引かれているのだが、ケビンはその事に気が付いていないらしい。


 写真立てを元の場所に戻してソファーに寝転んだケビンは、テレビの内容が頭に入らない程思い悩んでいる。そして、そのまま眠りへと落ちていく。


「んっ?」


 ケビンと同じように寮の自室で寝転んでいた彰は、読んでいた雑誌を置き、ヘッドフォンを外して音が止まったプレイヤーに手を伸ばす。


「あれ? 動いてる? ああ、これか」


 抜けかかっていたイヤホンジャックを差し込むと、彰は再びヘッドフォンをかぶり、読みかけだった本に手を伸ばした。その本は男性ティーンズ向けの雑誌で、ファッション情報やデートスポットだけでなく、女性の口説き方や初体験のノウハウなども書かれている。


「多少は強引に……かぁ……」


 これが女性の本音と書かれた記事には、アンケート結果として円グラフが記載されており、その情報を元に文章が書かれている。


 優しくすることも大事だが、時には強引に男性からエスコートする必要があると書かれている記事を読む彰は、その記事が抽象的な表現をしていると気が付いていない。そして、独りよがりな嘘の優しさが女性にばれた場合の対処方法が、その雑誌には書かれていないと考えてもいない。


「おっ!」


 ページをめくった彰が、上半身を起こして先程よりも真剣な眼差しで記事を読み始めていた。その記事には、元ホストの男性が書いたらしいコラムが載っている。複数の女性と上手く付き合う方法を書いているそのコラムを読む彰は、数ページ前に書いてあった真摯な対応を女性が好むというアンケート結果を覚えていないらしい。


 相性や考え方がそれぞれの人間にある為、彰が結婚までに何人かの女性と付き合う事自体は、悪い事ではないだろう。だが、一人の女性に本気で向き合えない人間を、他人がどう思うかという部分に関して、彰はもう少し考えるべきかもしれない。


 思い出したように雑誌前半で載っているデートスポット記事へページを戻した彰は、雑誌を開けたままテーブルへと置いた。 そして、テーブルに置いてあるスタンド型の鏡を手に取った彰は、自分の髪を指でねじり始めていた。


「へへへっ……」


 彰もケビン同様に自己愛が強いらしく、コラムの内容で気を良くしている。身なりを整え、もてそうな雰囲気を出すだけで、女性は振り向いてくれると書かれたそのコラムには元ホストらしい文も交じっていた。それは、身なりを整えた上で、顔もよければより多くの女性と自由な恋愛を楽しめるという部分だ。


「ふっ! はっ!」


 一人で鏡を見る彰は、自分の顔を様々に変化させていく。鏡に向かって怒った顔や笑った顔を作った彰はその自分の顔に満足しているようで、綾香側から振り向いてくれるのではないかとすら考えている。


「うん。よし。いけてるじゃん」


 気が済むまで鏡の前で百面相をしていた彰は、再度雑誌に手を伸ばし、デートスポットの写真を見つめた。その写真には、肩を寄せ合ってベンチに座り、夜景を見つめるカップルが写っていた。


 写真に写る二人と同じ事を、綾香と自分がする光景を思い浮かべた彰は、あまり女性から好意を持たれないだらしない顔でページをめくる。


「寒い二人が、身を寄せ合ってか……へへっ」


 尚も笑う彰は、自分の無駄なプライドで傷つけたイザベラが、命に係わるほど大変な目に合っていると考えてはいない。また、今まで周囲から自分が爽やかで清潔そうに見える部分で好感を持たれており、それがイザベラとの件で急下降したと認識出来ていない。


 特に彰の好感度を下げているリアは、女子寮の自室で美顔ローラーを使って顔をマッサージしていた。


「ケビンは相手にしてくれないだろうし、彰もあれだしなぁ」


 ルークに騙された傷が癒えきらないリアは、その傷をふさぐためには新しい恋が必要だろうと考えていた。まだ、一人になるとルークを思い出してしまい、落ち込む事の多いリアにとってそれはいい傾向といえる。


「うちのクラスにいる男子って、皆もてるしなぁ。やっぱり、ファースト? でもなぁ」


 クラスの連絡票を机に広げていたリアは、ある人物の名前で指を止めた。


「井上……省吾……。実は、顔……悪くないのよねぇ。性格も噂程変じゃないし、選択授業も一緒で、喋ろうと思えば機会も多いし……」


 省吾と付き合い始めたと仮定したリアの妄想は、周囲からの視線という点で行き詰る。以前より見栄を張らなくなったとはいえ、リアの悪い癖が完全に消えたわけではない。その為、現在も正式な許可を取ったアルバイトで、お小遣いを増やしていた。


 そのリアが、彼氏の事で陰口をたたかれるのは、我慢できるはずもない。


「流石にないかぁ……」


 リアのその選択は、ある意味で正解といえるだろう。何故ならば、ライバルが多いだけでなく、省吾本人が恋愛に興味が無いからだ。


 その何も知る権利が無い生徒達にも、学園からある連絡が入った。


「えっ? 学校から?」


 美顔ローラーを机に投げ出し、天井を見て考え事をしていたリアは、震え始めたマナーモード中の携帯電話を手に取った。


 夜遅くにかかってきた学園からの電話で、彼女は唾液を飲み込んだ。そのリアの顔からは、緊張した雰囲気が感じられる。


 リアが緊張しているのは、以前犯した罪で学園からの依頼をリアは無条件で受けなければいけない為、その連絡だと考えているからだ。


「えっ? 休み……ですか? はい、はい、あ、はい。分かりました」


 拍子抜けしたリアは通話を終えると携帯電話を机に置き、大きく息を吐いた。そして、突然休みになった翌日をどう過ごすか、ぼんやりと考え始める。


「デートかぁ……デートしたいなぁ。電話してみようかなぁ……」


 省吾が手術室から出て一時間ほど経過し、堀井は自分の受け持つ生徒達への連絡を終了した。


「ふぅ……」


 堀井の居る学園の職員室では、緊急で呼び戻された教員達が電話やメールを使って学園の全生徒へ翌日が休みになった事を伝えている。セカンドクラスを受け持つ堀井は、連絡する人数が少なくて済む為、その作業を他の教員よりも早く済ませる事が出来たのだ。


 学生達にも、学園で戦闘行為があった事は伝えられた。しかし、それは特務部隊とファントムとの戦闘だと伝えられ、敵能力者について学生達は何も知らされていない。


「クルスか? サンダースだ。喜べ。明日、休みになったぞ。ん? ああ、ファントムが校舎を壊してな……」


「よし。これでいい……」


 自分の仕事を済ませた堀井は、指令本部から応援に来た作戦参謀にその場を任せ、研究所へと向かった。 既に研究所ではマードックによる謎の金属を解析する作業が始まっており、超能力者が一人は立ち会う必要があるからだ。


 職員室から出た堀井は、窓から運動場に目を向けた。そこでは、軍用のコートを着た一般兵達が、整備を続けている。


 その陣頭指揮をとっている特務部隊員を見つめる堀井が考えているのは、雪の降る中で働く兵士達の事ではない。数時間前の戦闘を思いだし、弟のように思える上官を心配しているのだ。


「はぁ」


 病院にいるエマから、省吾が危険な状態から脱したと特務部隊員達には連絡が入っていた。その為、仕事を放棄する事も出来ない堀井は、吐き出す息と共に気持ちに踏ん切りをつけ、再び歩き出した。


「ああ。血痕は残っているが、それ以外は何も……」


 学園からかなり離れた郊外で発見された国連軍ヘリの確認を終えたジェイコブは、本部へと連絡を行っている。


「で? じゅ……中尉に変わりは?」


 そのジェイコブもエマからの連絡を受けているが、堀井同様に省吾の事を心配している。


「うん。まあ、あの人は不死身だ。ああ、分かってる」


 ジェイコブへ省吾の容体に変化が無いと伝えた本部にいる女性補佐官は、フランソア達に連絡を行っている司令官に変わって現場への指示を出していた。


「ええ。そのまま放置は出来ません。持ち帰って下さい。盗聴器等のヘリ内部確認は、こちらで行います。はい。現場の保持もお願いします」


 ジェイコブへ指示を終えた女性補佐官リンダ・ムーアは、ジェイコブからの情報を司令官へ伝える為に一度通信室を出る必要がある。


「参謀。後は、お願いします」


「分かった」


 指令本部の通路に、リンダの履くヒールが床を叩く音が響く。軍の訓練を受けている彼女の歩き方は規則正しいが、日頃の強さが感じられない。片手に持った資料を握りなおしたリンダは、窓の外で降っている雪を見つめて溜息をついた。


 彼女はその日も徹夜になるであろう事を、気に病んでいる訳ではない。特区に来て二度目の死線を彷徨う省吾の事が、気にかかっているのだ。


「無茶……ばかり……」


 任務を投げ出したくなるほど悲しい気持ちになったリンダは、しばらくの間立ち止まったまま動くことが出来なかった。省吾の事を想う者は、男女問わず国連軍内には少なくない。


「司令。准尉から奪われたヘリについての報告がありました」


 何とか気持ちを落ち着かせたリンダが、ローガン達と打ち合わせ中の郭司令がいる会議室へと入った。


「そうか。で?」


「現場で、特務部隊が探索を続けています。ですがやはり、追跡は難しいのではないかと思えます」


 リンダからの報告を聞き、ローガンと目を見合わせた司令は、真剣な顔を渋く歪ませて天を仰ぐ。


「限界かもしれないな……」


 指令の呟いた言葉でローガンも煙草を灰皿でもみ消し、口を開く。


「そうだな。我々が優先するべきは、国連の体面ではなく人命だ」


 その場にいた者達は、国連のトップであるフランソアが、必要に応じて敵能力者や入り込んだ武装勢力の情報開示をするといった事を思い出している。


 特区を守る為とはいえ、情報を開示しない事で学生達の危険が増えるのならば、国連のトップ三人はそれを選ばない。日本特区司令官による連絡は、コリントとランドンによる自分を先に切れという口論で、中断を余儀なくされたほどだ。


 その三人が、どれほど世界の人々に貢献し、正しいかを知っているその場の面々は、トップの誰かがいなくなる事態にはなって欲しくないと考えている。だが、その場にいる者達もトップ達の地位を守る為に、生徒を犠牲にしたいとは考えておらず、自分達の中で答えを探そうとしているのだろう。


「ここで、唸っていても時間の無駄です。効率的に行きましょう」


 作戦参謀の中で一番若い男性は、会議の流れが有意義な時間で無くなったと感じ、すぐにその流れを変えようと発言する。


「効率的?」


「はい。問題点や対処方法を、書き出して整理しましょう。不明な点を含めてです。そうすれば、何を考えるべきか無駄なく時間を使えます」


 その作戦参謀達よりも経験年数が多い者達が大勢いるはずの会議室で、その意見に異論を唱えられる者はいなかった。三十代の若さで特区本部の作戦参謀になったその人物も、堀井並みかそれ以上に優秀といえるだろう。


「では、ホワイトボードの準備は、私が行います」


「ああ。頼む」


 二十代で司令の補佐をしている、ホワイトボードの準備に取り掛かったリンダも優秀な人物であり、状況を的確に読んで自分がするべき事を間違えない。


 国連の本部を含め、重要な拠点には優秀な人材が、世界中から自然と集まる。そのせいで、省吾は自分の能力に自信が持てていないのだが、それに気が付いている者は少ない。


「では、この場は一時的に私が仕切らせて頂きます。若輩者ですが、ご容赦ください」


 リンダの用意したホワイトボードの前に立った若い作戦参謀は、深く頭を下げるとたたき台となる情報を書き込んでいく。各人からの意見を聞き、リンダと共に情報を書き込んでいた若い作戦参謀に、ローガンが口をはさむ。


「待て。そこはコリントの事を、考えておくべきではないのか?」


 ホワイトボードに向けていた視線をローガンに移した若い作戦参謀は、ローガンからの意見を書き込まなかった。


「大変申し訳ないのですが、現在は情報の洗い出しが主目的です。討論は、次の段階まで我慢してください、特別顧問」


 自信に満ちた目ではあるが、頭を下げた若い作戦参謀に、ローガンは仕方ないという表情でうなずいて見せる。


「途中で手段を変えては、上手くいかないものだ」


「分かっている。お前は、しつこい」


 笑いながらローガンの肩を叩いた司令の手を、ローガンは払いのける。


「ふふっ」


 省吾達も出席した懇親会以降、急激に仲の深まった二人のやり取りに、リンダがその部屋に入って初めての笑顔を見せた。そのリンダを見て、若い作戦参謀が頬を少しだけ赤くしたのは、誰も気が付いていないようだ。


「では、これより、検討するべき点の意識あわせとしての確認を行います。問題は御座いませんね?」


 優秀な人材たちにより、フェーズに分類された対策が立てられていく。何を優先して守り、どの範囲までの情報を開示していくかを考えていく中で、司令官だけでなくフランソア達の退任まで検討された。


「では、実行部隊の件は特別顧問にお預けします」


 敵能力者との戦闘に関しては、省吾が不可欠であり、回復の目途が立つまでローガンの預かりとなった。


「ああ。あいつなら、一週間もあれば立ち上がるはずだ。そこから、攻める手段を検討しよう」


 省吾の名前が出た事で、リンダの顔が暗くなった。それを見た若い参謀は、その会議が始まって初めての私語を小さな声で呟いた。


「彼なら、大丈夫なはずだ。そう信じよう」


「あっ……はい」


 その笑顔をすぐに消した若い参謀の言葉が、心からのものだったかを知る事は、まだリンダには出来ないようだ。


「ほう……」


 その会議室内で二人のやり取りに気が付き、少しだけ口角を上げたのは郭司令官だけだった。リンダの気持ちを知らない司令官は、二人の仲が深まる事を悪いとは思っていないようだ。


「では、これで会議を終了とさせていただきます。ありがとうございました」


 想定された会議の時間が大幅に短縮された事で、司令やローガンだけでなく、先輩にあたる作戦参謀達もその場を仕切った後輩の評価を向上させた。


「議事録は、部外者秘の処理をして、一時間ほどで持っていきます」


「ああ。任せたぞ」


 司令やローガン達がトイレに向かう為に会議室を出る頃、綾香とジェーンはイザベラの病室にいた。再びファントムになる可能性があるイザベラの監視を、二人が買って出たのだ。


「はい」


「ありがとうございます」


 綾香は、病室に備え付けの小型冷蔵庫から飲み物を二つ取り出し、一つをジェーンへと手渡した。そして、ジェーンの座っているソファーへ自分も腰をかける。


「ジェーン? よかったのですか?」


 自分と同様にジェーンが軍へ所属すると決めた事を、綾香は友人として問いかけている。


「はい。元々、軍所属を希望してましたし……」


 後輩がいいたい事を大よそ推測できた綾香は、少しだけ目を閉じた。そして、今なら引き返せるといいたげに注意を促した。


「井上君……女の子に興味ありませんよ?」


「えっ?」


 先輩の予想を超えた言葉に、ジェーンの顔色が変わる。


「そっ! それって、もしかして、男性同士で?」


 日頃内気な後輩の異様な食いつきに、珍しく綾香が後退した。


「あっ……すみません」


 すぐに我に返り、俯いて赤面した後輩の事を深く考えない事にした綾香は、省吾の事を誤解させない為に説明を再開した。


「同性愛的な事を含めて、恋愛そのものにほとんど興味が無いらしいですよ……」


 綾香のいいたかった事が理解できたジェーンは、顔を赤くしたまま黙り込んでしまう。


「それに、あの人を好きな女性は、少なくないようですし」


 顔を急いであげたジェーンに、綾香が意味ありげに笑う。その笑顔にエマの様な怪しさはないが、どこか悲しげに見える。


「先輩? もしかして……」


 四角い紙パックに入ったリンゴジュースにストローを刺した綾香は、目線をイザベラに向けた。


「それは、自分の目で確かめてください。今、眠ってるイザベラを含めてね」


 綾香は、偶然見てしまった省吾とイザベラの精神での会話が、心に引っかかったままのようだ。それ以上何も喋らない先輩に顔を向けたままのジェーンは、今まで感じた事が無い居心地の悪さを味わっていた。


 綾香とジェーンは、お互いがまだファーストだった頃からの付き合いだ。誰にでも優しく正義感の強い綾香を、ジェーンは本心から慕っている。だが、裏の顔ともいえる表情と雰囲気を、初めて表に出した綾香を良くは思えない。


「お疲れ様ぁ」


 気まずい雰囲気の病室に、エマが入ってきた。そのエマは契約書の入ったクリアファイルと、バインダーを抱えている。


「お疲れ様です。あの、井上君は?」


 入室したエマに立ち上がった綾香が近づき、省吾の容態を聞いた。その綾香を、エマは軽くあしらう。


「一時間もたってないんだから、変わらないわよぉ。それよりも、ロスさん。ちょっといいかしらぁ?」


「はい」


 ジェーンが座っているソファーに腰掛けたエマは、クリアファイルとバインダーを手渡した。


「このバインダーに軍関係の書類と、契約内容の詳細。あ、この資料、関係者外秘ね。軍規だから気をつけてぇ」


「はっ、はぁ」


 戸惑ったままのジェーンに、エマも裏側の顔を見せた。


「契約書は、明日の朝までにサインしてねぇ。でもぉ……契約内容にはちゃんと目を通して。いい?」


 日頃と違う目の笑っていないエマを見て、ジェーンは上半身を引きながらうなずいた。


「ここまで事情を知っちゃったから、仕方ないけどねぇ……。ふふっ、軍に所属する事を後悔しても、もう遅いのよぉ」


 エマが生徒の事を思って嫌な役回りをすると知っている綾香は、呆れたように溜息をついて目線を二人から逸らす。


「一番教えておきたいのは、軍に所属した状態で情報を漏らせば……。最悪、極刑もあるってことかしらぁ」


 極刑という言葉で、ジェーンの表情が引きつり、体も強張る。


「何よりも、中尉……井上君? の不利になる事をすれば、私が許さないから。いい?」


 笑っていないエマの目は細かったが、徐々に見開かれ、ジェーンを威圧していた。その為、ジェーンは唾液を飲み込み、返事をする事すら出来ない。


 日頃、ゆるふわなどと生徒達から表現されるエマの姿が、そこにはなかった。それは、当然なのだろう。エマもヨーロッパの最前線で戦った一人であり、威圧感ではなく殺気ならばマードック以上にコントロールできる。


 居酒屋でその殺気を、芯の強さがある綾香は何とかこらえられたが、ジェーンはたじろいだまま動けなくなった。


「エマさん。やり過ぎですよ」


 仕方なく後輩に助け舟を出した綾香の言葉で、エマは殺気を緩め、近づけていた顔をジェーンから逸らした。


「これも、訓練の一環よぉ。綾ちゃん」


「分かっていますけど、相手はまだ中学生なんですから……」


 綾香の一言で、ジェーンが唇を噛んだ事を、エマは横目で見逃さなかった。そして、不用意な発言をした綾香の若さを、呆れたように鼻で笑う。


 図星を突かれると、人間は頭に血が上りやすい。子供から大人へと変わろうとしている中学生に、綾香の言葉がよくないと教師でもあるエマは分かっている。エマの予想通り、ジェーンの表情から怒りの感情が見え隠れし始め、ついには立ち上がりながら大きな声を出した。


「わっ……私! 本気ですから!」


 子供扱いした事をジェーンが怒っていると分かっているエマは、綾香のように驚きはせず、冷静に対応する。


「そう。じゃあ、契約内容を読んでちょうだい」


「えっ? あ、はい」


 頭に血が上ったジェーンではあったが、肩透かしをうけた形となり、怒りをそれ以上出すわけには行かなくなった。その為、なんとか怒りを飲み込み、ソファーに座りなおして書類に目を通し始めた。


 だが、怒りが収まりきらず、過去の綾香が省吾を悪くいっていた事まで思いだしてしまう。その状態で読んだ書類の内容が頭に入るはずもなく、なかなかページをめくれず、ジェーンはさらにストレスを溜めていった。


 省吾の身を案じつつもイザベラと省吾の事が頭から離れない綾香は、ジェーンへ気を回すことが出来ない。そして、省吾の事だけが心配なエマは、ジェーンの気持ちに気付きながらも敢えて時間による解決を選び、フォローを行わない。


 複雑な空気に包まれた病室で、その三人がイザベラを監視している間も、省吾の体は急激な回復を続けていた。その省吾は、夢の中でも現実と変わらず、戦い続けている。


……俺は、まだ。まだ、戦える!


 朝日と共に、目蓋を開いた省吾の目には、変わらない意思がくすぶったままだ。

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