冥王ハデスの自転車の特訓に付き合わされている村娘Aです
私は名もなき村娘Aである。
いやもちろん名前はあるのだけれど、「冥王である俺が名を呼べば、生者のお前も冥府の住人になってしまう。だから呼ばない」とのことで、私はハデス様から「村娘A」と呼ばれている。
ハデス様は冥府――死後の世界を治める王様である。神様である。
なぜ元気に生きている村娘Aが冥府の神様と交流しているかというと、話は一週間前に遡る。
「よく聞け村娘Aよ。俺は自転車に乗りたい」
「はあ」
「俺の職業は知っているか」
「えーと、王様・兼・裁判官でしたっけ」
「そうだ。死者を裁くのが俺の仕事。そして職場である裁判所が自宅からとても遠い。冥府は果てしなく広いからな。通勤が大変なんだ。毎日泣きながら歩いてる」
「裁判所の近くに自宅を建てればいいじゃないですか」
「やだ! 職場と自宅が近いのはやだ! 部屋着でゴミ捨てに出た時とかに職場の人に出くわしたら気まずいだろ!」
「それはそう」
「ゆえに距離の問題は解決できない。解決するなら通勤手段だ。そこで俺は地上で流行っている自転車なる道具を通販してみた」
「はあ」
「俺が補助輪なしで乗れるようになるまで手伝ってくれ、村娘A」
「あなたそんな理由で突如として派手な地割れとともに現れて自転車を運転中の私を冥府へ誘拐したんですか」
「だって冥府の住人に教えを請うのは冥王の威厳に関わるだろ! だからこっそり地上へ適任者を探しに行ったんだ。そしたらちょうど自転車に颯爽と乗るお前を見つけたから、こっそり地割れを起こして、こっそり冥府に引きずりこ……招待したんだ」
「地割れの時点で何一つこっそりできていないですし割と地上がパニックなんですが」
「頼む、自転車の特訓に付き合ってくれ。引き受けてくれるなら礼として、お前を地上に返してやろう」
「それ私にとってはマイナスをゼロに戻すだけの戦いなんですが」
「い、いいだろ! 人生ってそういうもんだろ!」
「少なくとも冥王の補助輪卒業に捧げるための人生ではないです」
「あ、こら待て、帰るな、帰らないでください、見捨てないでくれ村娘A、うっ、ぐすっ……」
「だ、大の男が泣いてる!」
という経緯で私はハデス様の脱・補助輪を手伝うことになり、今日も冥府に通っているわけである。
「離すなよ。絶対に離すなよ」
「はいはい。ちゃんと後ろ持ってますから」
「本当だな!」
「本当ですって。ほらちゃんと漕いでください」
ハデス様が自転車の補助輪を外せるようになるまで、あと少し。
以上、第7回なろうラジオ大賞のお題「自転車」で書いてみたお話でした。
こいつ魔王の話ばっかり書いてるな……と思われないよう、今回の主役は冥王にしてみました。長距離通勤が辛くて泣いてるタイプのハデス様を書けて幸せです。




