第83話 こたえあわせ
放課後。
行列の出来たタピオカアイスの店から、女子高生が二人並んで外に出てくる。
と同時に、どんよりと曇っていた空からポツポツと雨が降り出し、やがてザーザーと音を立てて降るようになった。
湿気で蒸れたアスファルトの匂いがあたりを覆っていく。
「わー、雨降ってきちゃった~」
女子高生の片方は「どうしよ、傘持ってないよ」と言いながら、慌てて持っていたハンカチを頭に載せる。
その様子を見ていたもう片方の彼女は、小さくクスリと笑ってから、持っていた折りたたみ傘を広げ「入りなよ」と言って彼女に差し出した。
「助かるよ、未玖~」
「ふふ、満咲ちゃんらしいね」
未玖がクスクスと笑っているのを見て、満咲は頬を膨らませながら「私らしいって、どういうこと~」と不満そうに訴える。
ザーザーと降りしきる雨の中で、どこか遠くの方からゴロゴロと雷が鳴りだした。
すっかり暗くなった夜の街を、土砂降りの雨が濡らしていく。
駅へと向かう道を、満咲と未玖は小さな折りたたみ傘の中に入って歩いていた。
横殴りの雨が風とともに身体に吹き付け、マフラーも制服も既にびしょ濡れになっていた。
「ご……ごめんね、未玖。私のせいで、その……寒いよね」
満咲は申し訳なさそうに未玖の方を見つめながら、濡れた子犬のような表情で尋ねる。
一方の未玖は、そんなことは気にしないといった様子で柔らかな笑顔を浮かべていた。
「せめて、私に傘持たせて! それくらいしないと、未玖に悪いよぉ」
「大丈夫だよ。それに、満咲ちゃん背小さいから、持つの大変になっちゃうよ?」
「ガーン! そこまで小さくないもん!」
満咲が精一杯背伸びをして背を高く見せようとしているのを見ながら、未玖はクスクスと笑っていた。
そんなとき――
二人の背後から、声がした。
「こんにちは、蒲田さん」
そこには、口角を吊り上げ笑みを浮かべる、須川優の姿があった。
両肩付近で結ばれたツインテールの黒髪が、彼女が小首を傾げると同時にユラリと垂れる。
「それから……」
彼女は口角の形はそのままに、目玉だけをギョロリと動かして満咲の方を見た。
その不気味さに、満咲は思わずヒッと小さな声を上げる。
「初めまして。蒲田さんのお友達の……満咲ちゃん」
一瞬全身が硬直するような寒気に襲われた満咲だったが、辛うじて「……初めまして」と小さな声を絞り出すことに成功する。
一方の須川は、満足そうにニコリと微笑みながら、
「あなた達に話したいことがあるの。着いてきて」
と言って、強引に未玖の腕を引っ張った。
彼女の有無を言わせぬ口調に、二人は抗うことができぬまま、彼女に着いて行かざるを得なかった。
雨の中を、人気のない方へと向かって歩いていく。
その間、三人の女子高生達は、誰も一言も発することはなかった。
(未玖、須川さんと何かあったのかな……)
満咲は心配そうに、隣で腕を掴まれたまま歩く親友を見やった。
すると、そこで目にしたのは――
(未玖……?)
冷え切った目つきで目前の人間を見据える、彼女の姿だった。
そこに先程までの温かい笑顔の彼女はおらず、
満咲は背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
呼吸が早まっていく。
満咲の中で、悪い予感がしてたまらなかった。
雷の音が、前よりも近くで響き渡った。
☆★☆
「うん……ここでいいかな」
須川優は満足げにそう呟くと、掴んでいた未玖の手を離した。
かなり強い力で握られていたのか、未玖の手首あたりが薄っすらと赤くなっていた。
彼女に連れて来られた場所は、人気のない薄暗いトンネルの中だった。
トンネルの中にたった一つだけある黄ばんだ蛍光灯は、ついたり消えたりを繰り返している。
蛍光灯のビビビビ、という音が、満咲の耳に不気味に纏わりついた。
通行人専用の細いトンネルの壁は、黒いすすのようなもので薄汚れていた。
天井は大人一人が通れるくらいの高さしかなく、狭い壁と低い天井に今にも押し潰されてしまいそうだった。
「蒲田さん、私いっつも見てたよ。あなたの上げた写真」
ザーザーと降りしきる雨の音が、鳴り響く雷の音が、トンネルの中でくぐもったように響いていた。
湿気の籠ったドブのような匂いが満咲の鼻をつく。
時折吹き抜ける冷たい風が、皮膚の温度を奪っていった。
「私の大好きな大好きな将と一緒にいる写真、いーっぱい上げてたでしょ。それってすっごく……」
満咲は須川の方をチラリと見やり、ゴクリ、と唾を呑んだ。
須川はニッコリと口角を上げながら、吐き捨てるように低く呟いた。
「……ムカつくんだけど」
その瞬間、須川の表情から貼り付けていた笑みが消えた。
そこにあらわれたのは、嫉妬と憎しみに歪んだ――須川優の本性だった。
「将はずっと、ずぅっと私の物なの。今はほんのちょっとケンカしてるだけ。……それなのに、アンタが私の将を奪っていった」
彼女は、唸るような低い声でそう呟いた。
彼女の瞳が、黒く黒く濁っていく。
須川は狂ったようにガリガリと爪を噛みながら、まくし立てるように次々と言葉を投げつけていく。
「あり得ない」
「お前が私の将と一緒にいるって考えるだけで、吐き気がすんだよ」
「将のあの優しい笑顔が、将の優しい言葉が私以外の女に向けられてるなんて」
「あり得ない」
ガリガリガリガリ。
「私は、アタシは……」
「ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」
「将のことを待っているのに!!」
「ハハ、あはははははははは……ハハハ!」
ガリガリガリガリガリガリガリガリ。
「あり得ないのよ?」
「あり得ねぇんだよ、てめー」
「ありえない、ありえない」
「ありえないアリエナイアリエナイ……!!!」
目前の未玖をまるで呪いでもかけようとするかのような勢いでギロリと睨みながら、彼女は狂ったように嗤っていた。
須川の爪から、血が流れてポタポタと滴り落ちている。
須川の狂気じみた言動を目の当たりにした満咲は、声も上げられず、ただ縋るような視線を未玖に送り続けることしかできなかった。
それから、須川はハア、とため息をつき下を向いた。
しばらくそのまま低い声で何やらブツブツと呟いていた須川だったが、ふと顔を上げ、口を歪ませて笑った。
「ふふ、ふふふフフ? まあいいわ、蒲田さん。私はね……」
突然、彼女は恍惚とした表情を浮かべながら、目前の未玖に向かって告げた。
「あなたの苦しむ顔が見たくてたまらないの」
満咲は全身に寒気が走るのを感じた。
この女はヤバい――脳味噌が全身にそう訴えかけていた。
しかし満咲の身体はピクリとも動かなかった。
逃げなければ――そう思っているのに、手が、足が、震えるだけで動いてくれなかった。
彼女はただ、縋るように親友を見つめ続けることしかできなかった。
「でも、あなたを直接苦しめるだけじゃ、足りない」
須川は不気味に笑い声を上げながら、言葉を続けた。
「ずっと考えてた――どうやったらあなたを一番苦しめられるか、って」
須川の顔がさらに歪んでいく。
須川優は肩にかけていた学生用鞄の中から自身の携帯端末を取り出すと、画面いっぱいに、未玖と満咲がタピオカアイスを真ん中に笑顔で映っている写真を表示させた。
「あなたといっつも一緒にいる……あなたの大事な大事なお友達の、満咲ちゃん」
その瞬間、それまで平然としていた未玖の表情が少し変わった。
驚いたように画面を見つめる未玖の様子を見て満足したのか、須川は口の端をニィ、と上げて嗤った。
「私、分かったの。あなたを一番苦しめるには――あなたのとっても大事なものを、傷つければいいってね」
須川が制服のポケットから何かを取り出しているのが見えた。
彼女の掌がキラリと不気味に輝き、次の瞬間――須川の瞳がギョロリ、と満咲の方へと向く。
「へ……」
突然の出来事だった。
須川に強引に腕を引っ張られ、満咲はなすすべもなく彼女の腕の中に捕らわれる。
満咲は声を上げることすら叶わぬまま、あまりに突然の出来事に、一体何が起きているのか分からなかった。
しかし、耳元でキリリ、と不気味な音が響いた瞬間、彼女の右耳から背中にかけてゾクリと悪寒が走った。
「あなたのとっても大事なもの――あなたの親友を、苦しめればいいってね」
すると、須川は満咲の左腕を強く掴み、カッターナイフの刃をキリキリと伸ばした。
一方の満咲は、抵抗することもできぬまま、その口からはただ音のない声が掠めていくだけだった。
「フフ……満咲ちゃんはね、蒲田未玖――アンタのせいで一生の傷を負うの」
雨音が強くなっていく。
「アンタはこの先ずっと、大切な人を傷つけた罪悪感に苦しみながら生きるしかない」
雷の光がピカッとトンネルの入り口を照らし、すぐ後に重苦しい音が鳴り響いた。
「ハハ……あははハハハ! だから見せてよ、アンタの苦しそうな顔!」
須川は下卑た笑い声を響かせながら、カッターナイフを握る右手に力を籠めた。
その刃が雷光に照らされて不気味な輝きを放つのが瞳に映った瞬間――
未玖の脳裏に、ノイズ交じりの映像がよぎった。
《……また、食べてくれないの?》 滴り落ちる、血。血。血。
肉が裂けていく。
《やめて……もうやめて……!》 呼吸のできなくなるような、痛み。痛み。
視界が点滅する。
《言うことを聞かない悪い子は、お母さんがおしおきをしなきゃね》 背筋の凍りつくような、
《ああぁああああっ――――……!》恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
意識が朦朧として、
《今日はこれでおしまいにしてあげる》頭が割れるような痛み。恐怖。それから、
吐き気のするような――
――「悪意」。
「なに……こっち来てんだよ」
未玖は無言のまま、須川に近づいていく。
須川は迫りくる彼女を威嚇するように、刃を前に向けて叫んだ。
「なに……すました顔してんだよ! もっと怯えろよ? 苦悶にその表情を歪ませろよ!?」
必死の威嚇も空しく、彼女は顔色一つ変えないまま、須川の方へと迫ってくる。
須川は精一杯の威嚇が彼女に対して全く意味を成さないことに、唸るように歯ぎしりしながら、刃を握り直して叫んだ。
「だったら――!」
須川は右手に握ったカッターナイフを大きく振り上げた。
その瞬間――
「くっ……」
未玖の手が、須川の右腕を強く掴む。
須川は歯を食いしばりながら、振り下ろそうとする右腕に全身の力を籠めた。
「離せよ……っ」
須川は未玖を睨みつけながら、歯の隙間から声を出すようにして言った。
このような状況にもかかわらず、未玖が依然として平然と無表情を貫いているのを見て、須川の中で怒りと同時に疑念が沸いた。
(こいつ……)
しかし、刃は満咲の腕と目と鼻の先のところまで来ていた。
力比べは自分の勝ちだ――そう思って未玖の顔をチラリと見やった瞬間、
「え…………」
その表情を見た瞬間、須川は驚きのあまり、一瞬、腕に籠めていた力を抜いてしまった。
目前の彼女が浮かべていたのが、絶望ではなく――穏やかな微笑みだったから。
(こいつ、何で……笑ってるんだ?)
そして、未玖は表情を変えぬまま――須川の腕を下へ向けて振り下ろした。
パキ、とカッターナイフの薄い刃の折れる音が響く。
カッターナイフを握る須川の掌に、刃が皮膚を突いたような不気味な感触が伝わった。
彼女はおそるおそる、刃の先を見る。
視線の先にあったもの。それは――
「な……んで……」
須川の口から乾いた声が漏れ出した。
カッターナイフの刃は、蒲田未玖自身の腕に突き刺さっていた。
――まるで、満咲を庇うようにして。
彼女の腕から血が溢れ、ポタ、ポタ、と地面に落ちていく。
滴り落ちた血が一瞬、雷の光に照らされて、須川の瞳に赤々と映った。
心臓の鼓動が早まっていく。
目前の彼女は、痛みに声を上げることもなく、苦痛に顔を歪ませることもなく、
ただずっと、変わらぬ微笑みを浮かべている。
不気味で仕方がなかった。
人間じゃない。
――そう、思った。
「お……お前……」
須川の喉元から、震える声がこぼれ落ちる。
一瞬、目の前の不気味な女の瞳が赤黒く輝いたような気がして、須川は思わずひっ、と声を上げた。
近くで雷の落ちたような大きな音がした。
《アンタはこの先ずっと、大切な人を傷つけた罪悪感に苦しみながら生きるしかない》
「『大切な人を傷つけた罪悪感』、ねぇ……」
蒲田未玖はどこか遠くを見つめてそう呟いた。
須川の全身を寒気が覆っていく。
カチカチ、と鳴り出した歯は止まらず、須川の大きな瞳は、目の前の彼女からそらすことができなくなっていた。
「……そんなもの、あるわけないじゃない」
彼女はそう言って口角を上げた。
微笑む彼女の声が、その目が、笑っていなかった。
深い闇を映した彼女の瞳を見た瞬間、須川は背筋をゾクリと冷たいものが撫でた気がした。
「あなたの『悪意』――目障りなのよ」
次の瞬間――辛うじて灯っていた古びた蛍光灯の明かりが、命尽きたかのように消えた。
須川の腕がだらりと垂れる。
全身の力を失った彼女は、崩れるようにしてアスファルトの地面に倒れた。
トンネルの中は暗闇に覆われ、外の街灯の光だけが入口に差していた。
雨音がザーザーと響いている。
腐った水の匂いが、湿気の籠った空気と混ざって満咲の鼻の奥を突いた。
彼女の肌にあたる冷たい空気が、一切の温もりを奪っていく。
「み……未玖……どうして……」
流血し赤く染まった未玖の腕を見やり、満咲は怯えた口調で尋ねる。
しかし、彼女からの返事はなかった。
沈黙が訪れた。
満咲はおそるおそる後ろを振り返った。
地面に倒れた須川優は、恐怖と絶望に目を見開いたまま、ピクリとも動かなかった。
「須川さん……どうしちゃったのかな……?」
満咲は震える声を絞り出すようにして尋ねた。
その答えが返ってこないことを、心のどこかで望んでいた。
長い沈黙が流れる。
激しく降りしきる雨音が、耳元で五月蠅く鳴り響いているような感覚がした。
加速していく心臓の鼓動。
冷たくなっていく手足。
未玖は光の差さないトンネルの奥を見つめたまま、
長い長い、沈黙が流れた。
やがて二人の間に夜の冷たい風が吹き付け、そして――
「……死んだわ」
満咲の目の前にいる彼女は、トンネルの奥の暗闇を見つめながら、淡々とそう言った。
その声はとても未玖のものとは思えないほどに――冷たかった。
「な……なんで……。どうして……」
「『どうして』って……あなたも本当は分かっていたんでしょう?」
少しずつ荒くなっていく自分の呼吸が、耳元で響くようだった。
門田永美が死んでから急増した、一連の不審死。
どこか遠くを見つめるかのような、親友の表情。
満咲に向ける柔らかい微笑みも、
からかうようにして笑った意地の悪そうな顔も、
その優しい笑顔も――
《おはよう、満咲ちゃん》
《満咲ちゃんはね、最初は誰に対しても敬語なの、神峰君。私のときもそうだったもんね》
《いいよ、満咲ちゃん。教えてあげる》
《ふふ、満咲ちゃんらしいね》
満咲は、分かっていた。
分かっていたはずだった。
ただ、信じたくなかっただけだった。
だから、盲信していただけだった。
――蒲田未玖は、犯人ではないと。
彼女はずっと、何も変わっていないのだと。
《やっぱり……私のこと、呼び捨てにしてくれないんだ》
でも本当は、とっくに気がついていたのだ。
彼女は、永美がいなくなったあのときから――
まるで別人のように変わってしまったのだ、と。
「私が殺したからよ。『永美』ちゃんのときと同じように……ね?」
その言葉を聞いた瞬間、満咲の中で、すべての音が遠ざかっていくような感覚がした。
その場で固まったまま、動けなかった。
未玖は、自身の腕にわずかにめり込んでいたカッターナイフを、そのまま躊躇いもなく抜いた。
地面に落ちたそれがカランと音を立てているのが、どこか遠くの方で聞こえた。
目の前で、未玖の腕が不気味にも緑色に光っているような錯覚に襲われた。
「…………!」
肺が押し潰されそうになった。
呼吸がまともにできなかった。
(どうして……)
満咲の瞳に、目前の彼女の姿が映る。
すると――優しかった未玖の歪んだ表情が、そこにはあった。




