第79話 暗闇の中で
♪♪
ここは、どこだろう。
周りは真っ暗で何も見えない。
私は、一体何が――
突然、目の前で小さな炎が揺らめいた。
壁に掛けられた蝋燭の炎が、風もないのに不気味に揺れた。
そこは、炎の明かりに照らされた小さな部屋だった。
真っ赤な絨毯の敷き詰められた床の上に、私は座っていた。
黒い壁には、額縁に縁取られた絵画が飾られていた。
前方と右側に一枚ずつ飾られたその絵画は、前方のものは額縁が古く錆び付いており、右側のものは比較的新しそうに見えた。
前方には、剣で心臓を貫かれた黒いコートの少女の姿があった。
右側には、包丁で胸を一突きされた人間の少女の姿があった。
そして、そこにいたのは、紛れもなく――
「わ……私……!」
心臓がドクン、と跳ねた。
呼吸が荒くなっていく。
その瞬間、全てを思い出した。
《永美ちゃん……本当に事故だったのかな》《お父さんも拓也もいつまでも帰ってこないんだもの》
《もう、誰も傷つけたくないよ……》《これが、俺の仕事だから》《私なんて……本当は、最初から神様に見捨てられてた》
《だめ、こんな夜中に、女の子一人放ってなんかおけないでしょ》
《今日はこれでおしまいにしてあげる》《ああぁああああっ――――……!》
助けて。誰か。
痛い、痛い、苦しい。
《そう……また家出しようとするんだ……あなたも》
どんなに叫んだとしても、助けは来ない。
私に味方してくれる人なんて、誰もいない。
――そんなの、あたりまえだよ……
だって、私は――
ただの人殺しだから。
《もう、あなたに用はない》
《モウ キミニ ヨウハ ナイ》
消えてしまいたい。
《可愛そう、可哀そうね。寂しいのね。苦しいのね》
《……私が、あなたの代わりに『生きて』あげる》
この世界からも。この闇からも。
もう誰も傷つけずに済むように――。
そう思って、彼女の手を取った。
――はずだった。
「どうして私は、ここに……」
嫌な予感がしてならなかった。
部屋を見回すと、後方に古びた木製のドアがあることに気がついた。
錆び付いて濁ったドアノブに手をかける。
しかし、鍵が掛かっているのか、カチャカチャと空しい音がするだけで、扉はびくともしなかった。
「どうして……!」
背筋に悪寒が走る。
ドアノブを握った掌に汗がにじんだ。
出られない。
私はこの不気味な部屋からずっと出られないのだろうか。
消えてしまうことも叶わぬまま、この暗闇の中で、ずっと――
私はその場で膝から崩れ落ちた。
残酷過ぎる現実を前に、私はただその場で静かに泣いていることしかできなかった。
☆★☆
暗闇の中に閉じ込められてから、どれほどの時間が経っただろうか。
時間の感覚は曖昧で、私は涙も枯れ果てた顔でただ部屋の真ん中で座り込んでいた。
蝋燭の炎が真っ赤な絨毯を照らしている。
薄暗い明かりで照らされた絨毯は、まるで地面いっぱいに広がった赤黒い血のように見えた。
肌に纏わりつく空気は生暖かく、そこには私の呼吸の音しかなかった。
二人の少女の死を写した不気味な絵画。
ユラユラと揺れる蝋燭。
生命の一切が感じられない狭い部屋の中で、たった一人。
気がおかしくなりそうだった。
いや、既におかしくなっていた。
全ての気力を失った私は、力なくただその場に佇んでいた。
もはや希望などなかった。
心のどこかに大きな穴が開いてしまったような気がした。
これが絶望とでもいうのだろうか。
そして、理解した。
――これが“死”なのだと。
死んだらミタのように死神になるのかもしれないと思っていた。
けれど、罪を犯した私にそんな資格はなかったのだ。
「私はもう……この闇の中で過ごすしかない」
死んでしまった私に、終わりの時など来ない。
この地獄はきっと永遠に続くのだ。
ふと、壁に掛けられた絵画に目をやった。
蝋燭の淡い炎に照らされて不気味に輝く金属製の額縁の中で、胸から血を流す少女の姿があった。
椅子に縛り付けられたまま、地面に倒れた少女。
少女の服も髪も、薄汚れてボロボロになっていた。
すっかり痩せ細った腕には、いくつかの傷跡があった。
「…………」
私は自らの死を見つめながら、淡々と思った。
誰かを守るため――きっとそれは綺麗事に過ぎなかったのだ、と。
人殺しの自分がどんな綺麗事を並べたところで、贖罪は叶わない。
所詮、自分にできたことは……
《あなたにできることは所詮、人を殺すことなのよ》
以前、黒コートの彼女に言われたことを思い出した。
私とどこか似た雰囲気を併せ持った彼女は、そう言って笑っていた。
まるで自嘲するような、そんな笑い声だった。
私が物心ついたころから、時々頭の中に聞こえてきた声。
彼女の声はいつも冷たくて、そしてどこか悲しげだった。
初めて会った彼女は、胸から血を流しながら、暗くて狭いこの部屋の中で泣いていた。
そして――
《初めまして。来世の「私」》
彼女は、私にそう言った。
初めは信じられなかった。
それでも、彼女を見ていると自分にどこか近いものが感じられて、次第にその言葉が嘘であるとも思えなくなっていた。
もしも本当に、彼女が前世の私であるとすれば。
一体彼女はどれくらいの時間、この暗闇の中にいたのだろう。
おそらく私とは比べ物にならない程長い時間、彼女は――。
左の壁に飾られた絵画には、彼女の悲痛に満ちた表情があった。
黒コートの彼女は、私と同じように胸から血を流し、絶命していた。
彼女の死が描かれた絵画に歩み寄る。
絵画の中の少女に触れながら、私は小さく呟いた。
「私も、あなたのように……」
暗闇の中でひとり泣いていた彼女のことを思い出した。
柔らかな栗色の長髪には血がこびりつき、その瞳には深淵の闇のような絶望が映っていた。
以前絵画の中で見た凛々しい彼女の面影は、もうどこにもなかった。
いずれ私も、同じようになるのかもしれない。
ふと、彼女の台詞が思い出された。
《……私が、あなたの代わりに『生きて』あげる》
彼女の手を取ってから、私は意識を失い、気がついたらこの部屋に一人だった。
彼女はどこに行ったのだろう。
それに、私の代わりに生きるとは、一体――
すると、すぐ後ろでキィ、と扉の開く音が聞こえた。
ひとりでに開いた木製のドアの先には、依然として闇が広がっていた。
左奥の方から、何かの物音が聞こえた。
私は部屋から出て、その音のする方を見た。
その先にあったのは――闇の中に浮かぶ、一つの大きな額縁だった。
額縁の中はスクリーンのようになっており、ノイズ交じりの画像を映し出していたが、やがて綺麗な映像が表れた。
大きなスクリーンに映し出されたのは、コンクリートの壁に囲まれた部屋。
薄暗い部屋の壁の所々に血のようなものが飛び散っていた。
その光景を見て、身体の底から震えが湧き上がり、背中に冷たい汗が流れた。
呼吸が早まっていく。
閉塞した暗闇の中で、自分の荒い呼吸だけが耳元で響くようだった。
しばらくして、額縁の中の映像は人の胴体を映した。
身体と椅子を縛りつける縄が、立ち上がろうとする動作でギシリ、と音を立てた。
映像の右端に、カッターナイフで刻まれた傷だらけの右腕が映った。
間違いない。これは――
「私の、身体……」
コンクリートの暗い部屋が緑色の光でうっすらと照らされる。
すると、身体を縛りつけていた縄が次第に腐敗していき、ボロボロと崩れ落ちていった。
まるで、急速に経年劣化を起こしたかのように。
「何が……起こっているの……」
目の前の出来事が信じられなかった。
この映像は一体、何なのだろう。
まるで、生きた私の身体が見ている景色を映しているかのような、この映像は一体――
すると、映像の中からよく知った声が聞こえた。
『ふぅん……このエネルギー、人間の身体のままでも使えるのね』
それは、紛れもなく――私の声だった。
「一体、何が…………」
映像は地下の部屋を歩いている様子を映した。
時折小さな骸骨のようなものが転がっているのが見えて、思わず身震いがした。
地上に上がる階段を上ると、丸眼鏡の彼女がこちらを見て驚愕していた。
『あなた……なんで……っ! なんで……生きてるのよ……?!』
『あなたが下手糞に胸を刺したお陰で、『私』は死んだと勘違いしてたみたいだけど。……でも可哀そう。実はまだそんなに死んでなかった』
額縁の中から聞こえてくる私の声はそう言うと、緑色の光が輝き、身体の傷口に集まっていった。
どこからともなくやってきた血が、細胞が、組織が、私の身体の傷口を塞いでいった。
まるで、時間を巻き戻しているかのように。
丸眼鏡の彼女は台所の包丁を掴んで、こちらを睨んでいた。
彼女の周囲を、何やら澱んだ黒い空気が包み込んでいるようだった。
『この目ではっきりと分かる――私にはもう、あなたの『悪意』が見える』
私はもう、そんなものに騙されない――どこからか、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、バラバラになっていたパズルのピースがカチリ、とはまる音がした。
《……私が、あなたの代わりに『生きて』あげる》
あのとき彼女はそう言っていた。
その手を取って、私はあの部屋に閉じ込められた。
もし、私はまだ死んでいなかったのだとしたら。
そしたら、今私の身体を動かしているのは……。
『結局あなたは、この力を自分のために使っていただけ』
額縁の中から、私の声が聞こえた。
間違いない。私の身体を乗っ取り、私をこの暗闇に閉じ込めているのは――
『教えてあげる――絶望を』
――黒コートの彼女だ。
♪♪
あれからずっと、私は暗闇の中から外の世界を見続けていた。
しかし私の声が届くことはなく、私はただ、額縁の中の映像を見ていることしかできなかった。
これ以上誰も傷けることがないように――そう願った私の想いは空しく、
多くの人を傷つけ、殺めていく自分を止める術を、私は持っていなかった。
「お願いだから、もう……もうやめて……」
私の声は閉塞した暗闇の中で、空しくかき消えていった。
私は何もできなかった。
どうしようもなく無力な自分に絶望すると同時に、あのとき、彼女の手を取ってしまったことを悔やんだ。
《あの時、私……未玖の言葉を聞いて、決めたんだよ。私は何があっても、未玖を信じて着いていこうって》
《私はずっと未玖の味方だよ》
私を信じる――そう言ってくれている親友を、私はずっと騙している。
《本当に良かった。君が来られるようになって》
《君が……何もかも、一人で抱え込んでしまっているんじゃないかと思ったから》
《神峰君、告白の返事ずっと待たせてごめんね》
私のことを本当に想ってくれている彼を、私はずっと騙している。
「どうして、こんなこと……」
私は額縁の前で崩れ落ちるように泣いていた。
もう誰も傷つけたくない――そう願っていたはずなのに。
きっとまた、傷つけてしまう。
そんなとき、後ろの方から誰かの足音が聞こえてきた。
振り向くとそこには、黒コートの彼女の姿があった。
「本当のことを言ってどうするつもりかしら」
彼女は驚く私を見て呆れたように笑いながら言った。
私は大きく目を見開いたまま、しばらくの間言葉が出なかった。
「あの子達に本当のことを伝えたところで、あの子達があなたを助けてくれるとでも?」
「ど……うして……」
「もう分かっているでしょう? 『愛』も、『友情』も、『正義』も、全て幻でしかないのだと」
「どうして、こんな……。もうやめて……私の身体を返して!」
「返す? ふふ、笑わせないでよ。消えたいって言ったのはあなたじゃない」
そう言って彼女はしゃがみ込んだ私を見下ろした。
彼女の言葉に、その冷たい視線に、私は返す言葉が見つからなかった。
好きだと思っていた人間に裏切られ、
友達だと思っていた人間は、実は私のことを憎んでいた。
この力で誰かの心を救うことができる――そう信じていた私の正義は、いともあっけなく崩れ去った。
《もう分かっているでしょう? 『愛』も、『友情』も、『正義』も、全て幻でしかないのだと》
彼女の言う通りなのかもしれない。
「あなたがあの子達に本当のことを伝えたところで、あなたは裏切られるだけ――私と同じように」
満咲も本当は、私のことを憎んでいるかもしれない。
神峰君も、私を利用しているのかもしれない。
「確かに、私は満咲達に裏切られるかもしれない。満咲の友情も、神峰君の好意も……幻でしかないのかもしれない」
でも……!
「それでも、満咲達の想いは……幻じゃないかもしれないじゃない」
私はそう言って立ち上がった。
彼女は驚いたように目を見開き、少しの間黙っていたが、やがて呆れたように小さく笑って言った。
「あなたのその呆れるほどに真っ直ぐなところ……まるで昔の私と同じね」
彼女は遠くを見つめて言った。
その瞳がどこか切なく見えた気がして、私は返す言葉が出てこなかった。
「だからいつまでも気づけないのよ。幻の裏にある、本当の『悪意』に」
そう言ってどこか遠くを睨みつける彼女の瞳には、真っ白な服を着た金髪の人物の姿が映っていた。
その白い服が、じわじわと赤黒い色に染まっていく。
「だから私は消し去らなければならない――この目に映る、『悪意』を」
「…………」
私はしばらくの間黙っていた。
が、やがて口を開き小さな声で呟く。
「じゃあ、どうして……神峰君の告白を受け入れたの?」
一瞬、驚いたように顔をこわばらせた彼女の姿が目に映った。
私は真っ直ぐに彼女を見つめながら、力を籠めて言葉を続ける。
「どうして、満咲と友達のままでいるの?」
彼女はしばらくの間目を見開いたまま沈黙していたが、
ふいにフッと笑ってから、嘲笑うような口調で言った。
「決まってるじゃない」
私を見下ろす彼女の瞳は、どこまでも冷たく、そして――。
「教えてあげるためよ。あなた達に――絶望を」
彼女は最後にそう言い残して、暗闇の奥へと消えていった。
「待って!」
私は走って彼女の後を追いかけた。
しかし既にそこには彼女の姿はなく、ただ闇だけが広がっていた。
《教えてあげるためよ。あなた達に――絶望を》
そう言って嗤った彼女の瞳が、どこか悲しそうに見えたから――。




