第77話 お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている
目を覚ますと、そこには見慣れた景色が広がっていた。
窓からは真っ赤な絵の具のような光が差し込み、すっかり埃まみれになった部屋を染めている。
壁には落書きのような文字で書かれたメモが貼ってあり、机の上には文房具やプリントが散らばったままだった。
あちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣や埃を取り除くこともせず――この部屋は片づけられることもなく、あのときのままだった。
「そうか……この部屋」
まるで、この部屋に住んでいた人間の痕跡をそのまま残しているかのように。
俺はゆっくりと立ち上がり、壁に貼られた落書き用紙に触れた。
黄ばんだ紙はざらつき、その上にはすっかり色あせたインク文字が残っていた。
「25日紗英ちゃんに渡す!!」――紙にはそう書かれていた。
この部屋は、俺が死んだあの日のままだった。
まるで、あの日からこの部屋だけ、時が止まっているかのように。
《あなたがいつでも帰ってこられるように、そのままにしてあるのよ?》
実家に帰る度、埃まみれになった自分の部屋を見てげんなりしていた俺に対して、母はいつもそう言っていた。
「母さんも、片づけてくれればよかったのに」
俺は小さくハハ、と笑ってから、天井を仰いだ。
いつか帰ってくるとでも思っていたのだろうか。
俺はもうとっくに――死んでしまったというのに。
全身の力が抜け、俺はその場で崩れ落ちるようにして座り込んだ。
ふと、リビングにいた老夫婦の丸まった背中が脳裏に浮かび、俺は思わず胸から込み上げてくるものを必死で堪えた。
「思い出したか……高弘」
窓際に座っていた人物は立ち上がり、俺の肩に優しく手を乗せた。
彼女の紫色の髪が、だらりと俺の肩に乗った。
「ああ、思い出したよ。全部な」
俺はうつむいて言葉を続けた。
「済まなかった……チサ。俺がお前のことを、大罪人にさせてしまったんだな」
「……お前のせいじゃない」
チサは前を向いたままそう呟いた。
彼女の瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
「あの女――お前の好きだった女には、会えていないのだろう?」
「……ああ」
《紗英ちゃん……もし許してくれるなら、どうか君の元へ行かせてくれ……》
あのとき、俺は強くそう願った。
しかし、死んだ俺は――気がついた頃には、「あの人」の前にいた。
そのときから俺は、生前の記憶を失ったまま過ごしている。
死んだあとの俺が何故「あの人」の前にいたのか――その間のことは、未だに思い出せない。
それでも、死神として「あの人」の下にいた間の記憶を思い起こしてみても、その中に紗英ちゃんの姿はなかった。
もしかすると。
いや、きっと……
罪を背負った俺は、紗英ちゃんの元へは行けないのかもしれない。
もう二度と――。
「俺は大切な人間を殺した罪を背負っている……だから、俺は紗英ちゃんにはもう――」
「私達は皆、大切な者を失う連鎖に巻き込まれている」
チサはうつむく俺の両肩を掴んだ。
彼女は真っ直ぐに俺を見つめ、言葉を続けた。
「おそらく私達は、それに抗えないようにできているんだ。だから、お前のせいじゃない」
「俺のせいじゃない……?」
真っ赤な太陽が沈んでいく。
「な……何言ってんだ、お前」
窓の外には、暗い夜の世界が広がろうとしてた。
「連鎖って何だよ? 抗えないって……どういうことだよ!」
「誰かがこの連鎖を止めなければならないんだ……私達がもう二度と、大切な者を失わなくて済むように」
チサは悔しそうに唇を噛み締めていた。
《私もお前と同じだったんだよ……高弘》
《私も、生前人間だった頃、ある死神に力をもらった。そして私はその力で、大切な人間を殺してしまったんだ》
俺が死んだあの日、お前はそう言っていた。
《私達は繰り返しているんだ、高弘》
繰り返しているって……どうしてだよ。
どうしてこんなこと、繰り返さなくちゃいけないんだ。
抗えないって、どうして。
誰かが止めなければいけないって……
「何だよ、それ……」
そんなの、どうすれば止められるっていうんだよ。
「俺にどうしろって言うんだよ……」
俺はその場でうずくまった。
力なくうな垂れる俺の前で、薄っすらと何かが輝き始めた。
俺は驚いて思わず顔を上げた。
すると、そこにあったのは、キラキラと白い光に包まれた――チサの姿だった。
「お前……どうして……!」
「私にはやることができた」
チサは立ち上がり、真っ直ぐに前を見つめた。
その瞳は力強く、正義感に溢れた眼差しだった。
この光を、見たことがある。
この光は、アイツが成仏したときの、あの光。
つまりこの光は、魂が自らの意思で天界へと向かう際の――
「お前……実体化なんて解いたら……!」
「ああ。天界に戻った私は、処刑されるかもな」
「だったら……!」
「言っただろう? やることができた、と」
チサの言葉は真っ直ぐだった。
その言葉に宿った強い意志に、俺はそれ以上何も言うことができなかった。
「私もお前も、大切な人間を失った。私もお前も、間に合わなかった。……でも、お前の憑いた人間は、まだ間に合うかもしれない」
彼女の身体は淡い光に包まれ、キラキラと輝いていた。
輪郭が次第に薄くなっていく。
「チサ、お前……」
「急げ。私に構うな。……まだ、間に合うんだろう?」
伸ばした手は彼女の身体をすり抜け、彼女の姿は今にも消えてしまいそうだった。
大罪人チサは最後ににっこりと微笑んでから、俺に告げた。
「お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている」
彼女の姿は見えなくなり、暗い部屋を照らしていた淡い光が消えた。
彼女の最期の言葉が、いつまでも俺の心の中に残って消えなかった。
☆★☆
チサがいなくなってからというもの、俺はずっと彼女の言う「連鎖」について考えていた。
《お前は……大切な人を殺した》
《……私もだ》
俺がずっと追っていた大罪人は、生前人間だった頃の俺に憑いていた死神だった。
そして俺は、蒲田未玖という人間に力を与え、彼女の傍に憑いている。
《私達は繰り返しているんだ、高弘》
《お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている》
「そんなの、どうすればいいんだよ……」
家を出て少し歩いたところで、俺の目に懐かしい公園が映った。
遊具のない寂れた古い公園には、誰の姿もなかった。
以前は綺麗な水が噴き出していた噴水も、今やすっかり枯れ果ててしまっている。
《修理すれば良いのに》
そう言えば、前にここに来たときそんなことを思ったっけ。
あのとき、俺は「あの人」に告白したんだ。
自らの罪を。
蒲田未玖という人間に消えない十字架を背負わせた、俺の罪を。
《あはは、高弘君。すごく真剣そうな顔なのに、目の下すっごいクマ》
《髪の毛もよく見るとすっごい埃だらけ。そんな格好で告白する人なんて、普通いないよ?》
そう言えば、紗英ちゃんに告白したのも、この場所だった。
俺が殺してしまった、俺の大切な人。
《私もお前も、大切な人間を失った。私もお前も、間に合わなかった。……でも、お前の憑いた人間は、まだ間に合うかもしれない》
もし、俺達が同じことを繰り返しているというなら……
未玖もそうだというのか……?
《急げ。私に構うな。……まだ、間に合うんだろう?》
未玖も俺やチサと同じように、大切な人間を殺してしまうというのか……?
《もうすぐ終わるんだ。――今なら思える。俺は下界も……君のことも、大切に思っている》
《だったら――!》
《それでも……俺は行かなくちゃいけないんだ》
未玖の部屋で意識を失っていた俺が目を覚ましたとき、彼女は泣いて、泣いて、泣きじゃくっていた。
それなのに、俺は……
縋るようにして腕を掴んだ彼女を置いて、使命を優先した。
《それなら私は、使命を果たすしかないな》
まるで、チサが俺を置いて出て行った、あのときのように――。
「未玖が危ない……!」
俺は公園を出て、未玖の元へと急いだ。
冷たい夜の空気を切って、ただひたすらに走る。走る。
嫌な予感がしてならなかった。
《高い精神エネルギーを持つ人間は、能力や潜在的な感覚を前世から受け継いでいる場合がある》
《そしてごくまれに、前世の記憶をも留めている場合がある》
以前のチサの言葉が思い浮かんだ。
俺には、俺個人の力として「走馬灯を見る能力」があるとチサは言っていた。
それは、高い精神エネルギーを持つ人間が’wink killer’という天界の力を得たことによって呼び覚まされたものだと言っていた。
だとしたら、未玖はどうなのだろう。
《’wink killer’の力は、前世と何らかの関わりのある者の元へ導く作用もあるということなのかもしれない》
チサの言っていたことが本当なら、未玖自身にも何らかの能力があるということになる。
《そういえば君、あの時どうやって台詞思い出したって言ってたっけ》
《う~ん、何かイメージがこう、目の前に浮かんでくる感じっていうか……》
《もしかしたら’wink killer’の力の副作用かもって思ったんだけどなー》
以前未玖に訪れた現象が頭に思い浮かんだ。
突発的な記憶力――もしかすると、それが彼女の能力なのだろうか。
しかし、俺の能力はもっと’wink killer’の力と直接に結びついていた。
だとすると、彼女には何か別の能力があるかもしれない。
暗い夜の住宅街を駆け抜けていく。
ポツポツと明かりのつき始めた夜の街に、俺の足音が響く。
俺は未玖の家に向かって全力で走った。
背筋を、嫌な汗が流れた。
嫌な予感がしてならなかった。
俺はこの力について、分からないことばかりだ。
チサを捕えるために下界に降りた俺の目の前に、突然映し出された「ある映像」。
それに従うようにして、勝手に動いた俺の身体。
下界の人間がどうなろうが、構わなかったはずなのに。
《私達は皆、大切な者を失う連鎖に巻き込まれている》
《おそらく私達は、それに抗えないようにできているんだ》
手は汗ばみ、呼吸が荒くなっていった。
嫌な予感がしてならなかった。
「抗えないようにできている」――どうして俺達は、こんなことを繰り返さなければならないのだろう。
《高い精神エネルギーを持つ人間は、能力や潜在的な感覚を前世から受け継いでいる場合がある》
《’wink killer’の力は、前世と何らかの関わりのある者の元へ導く作用もあるということなのかもしれない》
この連鎖に巻き込まれる人間が皆、高い精神エネルギーを持ち、前世と何らかの関わりを持っているのだとしたら――
何故俺達は、こんな連鎖に巻き込まれてしまったのだろう。
《全て仕方のなかったこと――そう思って割り切ることなどできなかった》
何故俺達は、抗うすべもなく悲劇を繰り返さなければならないのだろう。
何故、こんな連鎖が存在するのだろう。
びゅう、と冷たい風が全身にあたった。
家族で夕食を囲む賑やかな声が聞こえてきた。
暗い夜道で一人、俺は息を切らして走る。
嫌な予感がしてならなかった。
「頼む……間に合ってくれよ……!」
これが、何か大きな力によって引き起こされたものだとしたら。
それはどういう目的で、俺達に悲劇を繰り返させているのだろう。
この連鎖に目的が存在するのだとしたら、その目的とは……一体何なのだろう。




