第67話 このこと全部、バラしちゃいますよ?
大学の最寄り駅から電車に乗った俺達は、とりあえず倉元の家のある最寄り駅まで送るということで、二人電車に揺られていた。
あれから俺達は珍しく、交わす言葉もなくここまで無言のままでいる。
倉元はしょんぼりと下を向いたままで、髪の毛を後ろで束ねる大きなリボンも、彼女に合わせて力なく下を向いていた。
あれから俺は、コイツに掛けるべき言葉が見つからないでいた。
《神様に死ね、って言われてるんですかね……私。お前なんか生きる価値ないから、って》
「生きる価値がない人間なんていない」――そう言って励ますことができたら、どれだけ良かっただろう。
自分の存在価値ですら信じることができない自分に、それを言う勇気も、資格も、存在しなかった。
電車がガタン、と大きく揺れる。
帰宅ラッシュの時間を少し過ぎた車内は、人がゆったりと座れるくらいに空いていた。
隣に座る倉元は俯いたまま、ずっと黙っていた。
――が、ふいに口を開いたかと思えば、彼女が口にしたのは予想外の言葉だった。
「すみません……先輩のデート、邪魔しちゃって」
それまで俯いていた倉元が、顔を上げこちらを見て言った。
いつも馬鹿にしたように俺を見て笑ってくる倉元は、涙の枯れた悲しい目をしていた。
人の邪魔しかしてこなかったこいつが、それを自覚して謝ってきたことなんて、今まで一度もなかったのに。
「デートだったんでしょう? あの方と」
「それは……」
「電話を掛けたとき、あの方の声が聞こえてきました。それから、かすかに聞こえるアトラクションのアナウンスの音、普段はだらしない先輩のきちんと決め込んだ髪型、服装……誰がどう見たって、これは先輩があの方とデートをしていた証拠です。以上、照明終了、Q.E.D.です……」
「……いいんだよ、そんなことは」
被害者であるコイツが謝る必要なんて、どこにもないのに。
自分のせいで俺に迷惑を掛けた、と謝る倉元の悲しそうな目を見ていると、胸が締め付けられるような思いがした。
彼女の言葉は、まるで、自分が存在することで俺に迷惑を掛けていると言っているようで。
自分に生きる価値がない、と言っていた先程の彼女の台詞が、俺の心の中で重くズシリ、と響いた。
生きる価値がない、なんて。
そんな言葉で自分を責めないでくれ。
少なくともお前は、俺なんかよりもずっと――
「お前は悪くないだろ」
「…………」
生きる価値が、あるのだから。
「お前は……悪くない」
今日だって、“あのとき”だって、そうだった。
俺がもっと早く来ていれば――コイツはこんな思いをせずに済んだかもしれないのに。
いつだって――コイツは何も悪くないのに。
♪♪♪
その日は、教授の部屋にゼミの資料を取りに行く予定だった。
外は夏特有の積乱雲に覆われ、激しい雨が降っていた。
「土井教授」と書かれた札がドアに掛かった、廊下の一番奥――そのドアノブに手を掛ける。
そして俺は、“その光景”を目にした。
「え……な……に……してるんですか」
そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
そこには、教授と倉元が二人きりだった。
目を血走らせた教授が――彼女の首を、強く締めていた。
教授の太い腕が、その力強い手が、倉元の細い首にギリギリと力を籠める。
「ど……土井……教授……?」
いつも資料やら本やらが溢れかえっている教授の部屋は、相も変わらずに散らかっていた。
が、今日はいつも以上に荒れている。
冷たくなったコーヒーがこぼれて、教授の大切にしていた古い本にシミをつくっていた。
いったい、何があったのか……?
だが、それを問いただすより先に、彼を止めなければいけない。
このままだと、倉元が――。
「石見……お前……」
教授の目がこちらを向いた瞬間、全身に危険信号が駆け巡った。
彼の目は大きく見開かれ、その充血した毛細血管は今にもはち切れそうな程だった。
教授に睨まれた途端に、手足が竦んで動けなくなった。
――俺は、教授に力で勝つことはできない。
自分の手足か弱い華奢なものでしかないことを、俺は知っていた。
どれだけトレーニングを積んでも、たいして太くなることのなかった己の筋線維を恨む。
「教授…………」
でも、それなら考えるしかない。
《お前……いつも人の事馬鹿にしてくるけど、本当は寂しいんだろ?》
あのとき、賑やかな外の景色を見つめるコイツの視線が、とても寂しそうだったんだ。
今、苦しそうに俺を見つめるコイツの瞳が、「助けて」と言っているから。
《俺のこと、いつだって馬鹿にしてくれて構わないからさ。……本当に辛い時は、頼れよ》
不器用な彼女。
この世を生きていくことが彼女にとって難しいというなら、そんな彼女を放っておくことのできない俺もまた、不器用なのだろう。
《先輩なんて……嫌いです》
コイツに何と言われようと、俺はコイツを放っておくことなんてできなかった。
このまま倉元を置いて逃げることなんて、できなかった。
「教授、こいつを……離してくださいよ」
力で敵わないなら、考えろ。
今の教授は、おそらく冷静さを失っている。
俺もそうだった。
倉元が殺されそうになっているのを見た瞬間、頭が真っ白になって。
どうにかしてコイツを助けなきゃって思って、力ずくで教授を引き剥がそうなんて、出来もしないことを想像して。
でも、そうじゃない。
今この状況を目撃されて不利なのは、教授の方だ。
俺は本来、優位に立っているはずなんだ。
「こいつ離さないと……このこと全部、バラしちゃいますよ?」
そう言って、俺は精一杯余裕の表情を浮かべてみせた。
この状況を左右することができるのは、力じゃないのだと。
それを誇示するかのように、俺は顔が引きつりそうになるのを抑え、精一杯――笑ってみせた。
「そうか……そういうことか、石見……」
教授はハハ、と笑ってから、倉元の首元からその手を離した。
倉元は咳き込んだまま、その場でしゃがみ込んだ。
「許さない……俺は許さないぞ、石見……!」
「な……何言ってるんですか……?」
「ふざけるな!」
教授の怒声が部屋中に響き渡る。
普段優しい教授が、こちらを――ただ一人、俺のことを睨みつけている。
父親のように俺達のことを世話してくれた、優しい教授が――
「……殺してやる」
ただ一人、俺に――殺意を向けていた。
その瞬間、ショックで動けなくなった俺は入口で立ち竦んだ。
口を開けたまま、ただひたすらに――何が起こっているのか状況整理を試みることしかできなかった俺は、抵抗する術もなく、教授に力いっぱい殴り倒された。
後頭部を床に強く打ちつけた衝撃で、目の前がくらくらする。
視界がハッキリとしないうちに、地面に横たわる俺の頭上を黒い影が覆い、冷たい手に首を掴まれた。
「き……教授……」
教授の目はさらに充血し、瞳には俺に対する殺意だけが宿っていた。
身に覚えのない憎しみに困惑する暇もなく、気道は狭まり、命の危機が迫ってくる。
そのとき、全身を震わせる小動物のように、不安そうにこちらを見つめる視線に気がついた。
命を取り留めた彼女は、呼吸を荒くしながら、おろおろとこちらを見ていた。
「く……らもと……」
意識が少しずつ薄くなっていく中、俺は辛うじて言葉を口から出すことに成功する。
「に……げろ……」
その瞬間、彼女は驚いたように大きく目を見開いた。
そして、大きな瞳から一粒の涙を零し――そのままタタっと駆けて行った。
良かった。
これで、アイツは助かったんだ。
《……本当に辛い時は、頼れよ》
俺は、アイツを助けられた。
うわべだけの言葉で済まさずに済んだんだ。
やっと本当に、助けられたんだ。
本当に、良かった……。
ハハ、だけどおかしいな。
俺、このままだと死ぬんじゃないか?
何でだろう。
何で、こうなった?
アイツを助けたから?
何でだろ。ハハ、ハハハ。
土井教授、一体どうしたっていうんだよ。
何でそんな、目血走らせてるんだ?
何でそんなに、俺のこと睨んでるんだよ。
何で。何で。
何で……
「土井……教授……何で……っ」
首がギリギリと強い力で締めつけられていく。
細くなった気道からやっとのことで漏れ出した弱々しい言葉は、血走った教授の目をさらに赤く充血させた。
「『何で』? ……決まっているだろう。お前は……」
真っ赤になった教授の目が、水分を湛えて潤んでいた。
彼の瞳からポタリ、と温かいものが俺の頬に零れ落ちた。
「お前らは……俺を裏切ったからだ」
♪♪♪
「俺達は……消えることのない罪悪感を抱えて、生きている」
ガタン、と電車が一際大きく揺れた。
倉元は悲しい目をしたまま、目の前の一点をひたすら見つめていた。
「でも、お前は何も悪くない。お前には――生きる価値があるんだ」
倉元は俯いていた顔を上げてこちらを見た。
彼女は涙の枯れ果てた瞳で、儚げに笑って言った。
「そんなこと言ってくれるの……先輩だけですよ」
「…………」
それは今にも消え入りそうな笑顔で。
俺は彼女に何と言って良いか、分からなかった。
「前に、先輩なんて嫌いって言って、ごめんなさい」
電車が対抗列車とすれ違い、ビュンという音と共に車体が揺れる。
天井に備え付けられた丸い電球が衝撃で揺れ、チカ、チカ、と点滅した淡いライトが、人の少なくなった車内を弱々しく照らした。
「先輩の優しさは、もうとっくに伝わってますから……だから私は、恩返しがしたいのに」
彼女は悔しそうに唇を噛み締めて言った。
「私はいつも、先輩に迷惑を掛けてばかりで」
「倉元……」
「先輩の幸せが何か――他人の幸せって何なのか、私には難しくてよく分からないんです。昔から、そうでした」
俺はコイツのことをよく知っている訳ではないのだろう、と思った。
コイツが抱える悩みが何なのか、俺は詳しくは知らない。
けど――
「お前のその気持ちだけで、俺は十分嬉しいよ」
いつも他人のことを小馬鹿にするコイツが、どこか寂しそうに人混みを見つめる目を見たときから――俺は何だか少し、分かっていたような気がするんだ。
「お前が心を開いてくれただけで、俺はもう十分嬉しいんだよ」
コイツは、ずっと孤独だったのだろう、と。
そして、俺もコイツも、不器用なりに生きていくしかないのだろう、と。
人には言えない、何かを抱えて。




