第45話 彼の使命は
――それは数か月前の天界での出来事。
その日の宮殿は、騒がしかった。
「どうだ、そっちにはいたか!」
「いや、こっちには誰もいなかった」
「畜生、あの野郎どこ逃げやがった!」
騒ぎが起こるのも当然のことだった。
その日、宮殿内の牢獄の扉が破壊され――大罪人が脱獄したからだ。
牢獄警備兵は、宮殿内でも手練れのエリート達が就く仕事だ。
しかし、その日入り口の門の前に血を流し倒れていたのは、本来負けるはずのない、手練れの警備兵達の方だった。
彼らを上回る実力の持ち主など、そういない。
それに、“あの牢獄”に囚われたが最後、脱獄しようという意思を持つ罪人など、考えられなかった。
誰も、このようなことが起こるなどとは予想できなかった。
事件に気がついたのは、その日たまたまその場に訪れた死神だった。
その死神はいつものように、牢獄の奥の一番大きな部屋に立ち寄ろうとしていた。
しかし、その日、その場所にお目当ての人物は見当たらなかった。
入り口の警備兵達が殺されていた。
間違いない。
あいつは、逃げたのだ。
あの生きる目を失っていた大罪人は、何故か、ここから逃げ出したのだ。
生きる気力を無くしていたはずのあいつが。
おそらく奴には、目的ができたのだろう。
俺が見つけ出さなければ――その死神はそう強く感じた。
一刻も早く大罪人を捕らえよとの命に、宮殿内の死神が一斉に捜索を開始する。
しかし、目標の人物は一向に見当たらない。
彼は次第に焦りを募らせていった。
「あの方」――総督から緊急召令がかかった。
どうやら、大罪人は下界に逃れたとのことだった。
知らせを聞いた死神達の浮かべた表情は――
「お前ら、何で安心してんだよ……」
彼は隣で安堵の表情を浮かべる同僚に掴みかかった。
すると、コートの襟首を掴まれた死神は、不思議そうな表情を浮かべながら答えた。
「何言ってるんですか。あの大罪人が下界に逃げたということは、とりあえずここは安全ってことなんですよ? 良かったじゃないですか」
――下界は人間が住む世界。
別に下界がどうなろうと構ったことじゃない。あいつが暴れるせいで下界の人間が死んだって、それは別に問題じゃない。
俺は自分と関わりのない奴にそこまで優しくない。
問題は、あいつを捕らえることが、限りなく不可能に近くなってしまったということ――。
彼は絶望した。
天界と下界はもともと隔絶された世界だ。そう易々と行き来できる世界ではない。
天界から下界に向かうためには、相当なエネルギーを必要とする。それゆえ、下界と行き来するには大きなリスクが伴う。
普通の死神はエネルギーの消耗に耐えることができず、あっという間に消滅してしまうのだ。
だから、下界に行くためのルートは、安全のため「あの方」が極秘に扱っている。
総督が極秘に扱うルート。それをどうやって使ったのかは分からないが――あいつはそれを何らかの方法で利用して、下界へと向かったのだ。
あいつにそれだけの力があることは知っている。少なくとも警備兵を殺している時点で、あいつの持っているエネルギー量は伺うことができる。
しかし、分からないことがある。
あいつは一体何のために、下界へ――?
そんな疑問が彼の頭の中を駆け巡った。
それに、生きる気力を失っていたあいつのどこに、そんな強い行動力を生む気力があったのだろう?
何が奴をそうさせたのだろう?
彼は総督の元へ訪れた。
自分に大罪人を追わせてほしい――彼はそう告げた。
稀に、人並み以上の精神エネルギーを有する者が存在する。
彼は自分が膨大なエネルギーの持ち主であることを知っていた。
天界において唯一絶対のはずの牢獄から罪人が抜け出した――宮殿の外に漏れれば、治安を、宮殿の地位を、総督の地位を揺るがす一大事の事件。
総督自身も、一刻も早い事件の解決を望んでいた。
宮殿内の死神に厳戒令が敷かれる中、極秘裏に、総督は彼一人にこう命じた。
「牢獄を抜け出した大罪人を追え」と。
♪♪
「ミタ……良かった……もう目を覚まさないんじゃないかと思って」
目を覚ました彼が真っ先に見たのは、泣きじゃくる未玖の姿だった。
暗い部屋の中、明かりもつけず泣いている彼女の姿を見て、彼はとっさに状況の異変を感じ取った。
「一体、何が……」
彼の腕にしがみつく彼女の力は弱々しかった。
膝の上に、彼女の涙がポタポタと落ちていく。
彼女をなだめようと、ミタが手を伸ばそうとした瞬間――
窓の外で、今までに感じたこともないほど強い気配がした。
間違いない、奴のエネルギーの気配だった。
あいつはすぐ近くにいる。
下界に降りてからずっと――追っても追っても捕まえることのできなかったあいつが、今、すぐ目の前の届くところにいる。
――俺が、見つけ出さなければ。
捕まえて、今度こそ……あいつから聞き出さなければいけないんだ。
生きる目的を失っていたお前が、どうして。
お前が下界に来た目的は、何なんだ――?
「ごめん、未玖、俺行かなきゃ」
「ミタ……?」
未玖の表情が固まる。
彼女はミタが何を言っているのか分からない、といった顔を浮かべていた。
以前の彼は、使命を優先した結果、彼女を傍で守ることができなかった。
彼が選ぶべきなのは、自分の使命か、自分のせいで巻き込んでしまった少女を守るかの二択。
《あの子ならきっと大丈夫です》
《ミタには、ミタのやらなきゃいけない仕事があるんだもんね》
今までに感じたことのない程近い大罪人の気配が、彼の背中を押す。
ここで使命を選べば、おそらく彼女を傷つける結果になるだろう。
しかしここで彼女を選べば――おそらく使命は果たせないだろう。
――二度と。
この仕事は、彼が志願した――彼が最後まで果たさなければならない、使命だから。
彼は一言、ごめん、とだけ告げる。
突然の宣告に、彼女の表情が次第に青ざめていった。
「もうすぐ終わるんだ。――今なら思える。俺は下界も……君のことも、大切に思っている」
「だったら――!」
「それでも……俺は行かなくちゃいけないんだ」
彼は未玖の腕を離した。
窓を開け、窓際に足をかける。
「どうして、ミタ……っ!」
彼が窓を開けた瞬間、雨風が勢いよく部屋の中に入り込み、
氷のように冷たい雨粒が未玖の身体に降りかかった。
正直、もうどちらを選択することが「より正しい」かは分からない。
分からないけれど、それでも進むしかない。
それが正しい道だと信じて、前に進むしかないのだ。
「これが、俺の仕事だから」
「ミタ!」
彼は未玖の叫ぶ声を後に、部屋から出ていった。
部屋の中でひとり残された彼女は、窓も閉めずに、そのまま嗚咽交じりの泣き声をあげていた。




