Ⅲ233.来襲侍女は願い、
「ハッ……ハッ……ァ……ッ……っっ……」
……息遣いが、薄く聞こえる。
暗闇の中で、苦しげな息と、ガリリと引っ掻くような音。肌の摺り合わせる音が、地面の削れる音と一緒に何度も何度も重なった。ベッドどころか床ですらない、剥き出しの地面に転がりながら背中を丸めている男性はまるで高熱に浮かされているかのようだった。
うつ伏せに地面に倒れ伏している。立とうとしているのか両手をついてもすぐ崩れては突っ伏す。両腕で這いずろうとしても腕に力が入っていない。指先が地面を削るだけだ。
陸にあげられた魚みたいにもがくだけで精一杯のようだった。身体が痛むのか、時折「グァ……ッ」と声を漏らし包帯の巻かれた場所を押さえながら縮こまる。その度に痛みが酷いのか、寒いのか、身体を酷く震わせているのがわかった。……これは……?
なんだろう、上手く思い出せない。見たことがないと思うのに、知っている気がするこれは……。
痛い、痛い、痛いと、次第に絞り出すような声が聞こえてくる。
激痛の波がきたのか、ひときわ苦しげな声を漏らすと今度は横向きに転がった。灰混じりの白髪が地面の上に絡まり汚れ、彼の顔を隠す。髪の隙間から見える部分も白い包帯が巻かれたままだった。
顔だけじゃない、服の下から手足は指の先まできつく巻かれている。まるでミイラ男のようだと、そう思った瞬間気付く。
─ 先生……?
「いたい……痛い痛い痛い…………痛い…………」
違う、先生じゃない。ゲームのノアだ。
その声に、台詞に覚えがある。当然だ、ゲームでノアが悪夢に見ていた回想だ。ゲームではスチル映像もなかった一幕だけど、……今は暗闇の中でもがく彼の姿が見える。彼だけじゃない、彼の傍に佇んでいる女性の姿もはっきりと。
痛みに負けるように、目元まで巻かれた包帯が濡れていく。拾えきれなかった涙粒が地面に落ちる。
まるで野戦病院患者の彼に、たたずみ歩みよる女性は口元に笑みを浮かべていた。包帯越しに地面で傷を痛ませて、一人でまともに立ち上がることすらできない彼に心から楽しそうに目を輝かす。……オリウィエル。
ゲームの、ラスボスだ。
舞台衣装と見間違うような悪目立ちする毒々しいドレスに身を包み、細身の剣を片手に踵の高い靴でノアへ歩み寄る。カタンカタンと靴が地面を鳴らす。
彼女の足音に、ノアが横向きの身体のまま小さく身体をかがめ丸めた。膝を抱き、そこに身体を埋めてもまだ震えが続いている。今にも死んでしまうのではないかと思うほど苦しみ弱るノアに向け彼女は、嗤う。口の端を広げ恍惚と彼を見下ろした。
「今日もとっても素敵だったわ!明日もこの調子でよろしくね」
「ッも……無理、だっ…………っ。こん、な……連日……」
「駄目。やるの。できるでしょ?」
そう言いながら、言葉を返すのもやっとの彼を靴の先で蹴る。軽い足の動きでも、傷をねじられ直後にはノアの口から獣のような声が放たれた。
足をバタつかせ、ビクビクと全身を痙攣させるように震わせる姿に彼女は笑う。ハハハハッ!と、剥き出しの剣の先でノアを指差し「芋虫みたい」と罵った。
子どもが虫を踏み潰すくらいの気軽さで、また靴の先で同じ場所を突く。ノアが必死に両手で抱え押さえても、今度は庇う腕の傷を蹴られギリギリと酷く歯を軋ませる音が鳴り響く。
無理だ、無理だ、もう、頼む、お願いだ、お願いです。少しずつ拒絶の言葉が崩れ、謙る。
それでも彼女はまるで小石でも蹴るくらいの軽さで何度も何度もノアを蹴る。その度に彼が呻いても震えても許しを求めても、それ自体が楽しいように蹴り続ける彼女はずっと笑顔のままだ。永遠続くんじゃないかと思うほど、断続敵な足の動きをやっと止めたのはノアが血を吐いてからだった。
彼が限界に近いことよりも、靴が汚れるのを嫌がるように飛び跳ね二歩分離れた。
不快そうに目を吊り上げ、ドレスの裾を上げながら靴の先に汚れがついていないかを暗闇の中で何度も心配そうに確かめる。ドレスの裾にはつかなかったけれど靴の先にうっすら血がついたことを確認すれば、今度は苛立たしげに剣を握り直した。「よくも」と言いながら歯を食い縛ると、迷わずノアへ剣を振るう。
避けるどころか動くこともままならないノアの肩から鮮血が散った。痛々しげにまた声を上げたノアを見て、機嫌が直ったように彼女はまた嗤う。
「あ~あ、また増えちゃった。消えない傷、もっと増やしても良いのよ?」
「ッいやだ……やだやめてくれ……。お願い、お願いだっ……これ以上…………これ以上。傷、なんかついたら…………」
「ならちゃんと働いて。たかが傷程度で喚かないでちょうだい。甘えないで」
フンッとそこで彼女は鼻を鳴らす。
剣を杖のように自分に付いたまま見下ろす冷ややかな笑みは、侮蔑そのものだ。肩から血を滲ませながら痛みに堪える青年を見ながら頬が紅潮させた。本当に足をなくした虫のように蠢き呻くノアは、傷を押さえながらボロボロと涙をこぼし出した。鼻を啜り、言葉の代わりに震えかわからないほどに繰り返し小刻みに頷いた。彼女へ目を向けるのも怖いと言わんばかりに視線は何もない壁を見つめたままだ。
自分より小柄な女性を前にこれ以上なく怯え縮こまる青年は、何かを呟いていたけれど言葉になっていなかった。歯を食い縛るのをやめれば今度はカチカチと鳴りだした。途端に今度は「うるさい」と彼女に傷を蹴られまた呻く。
「………薬、薬を……はやく、塗らないと……また、残る……残ってしまう……」
「なに?動けるじゃない。楽ばっかりしようとするなんて。ほんっとに甘えてばっかで駄目な男」
やっと腕一本が這いずろうと前方に伸ばされたところに、彼女の機嫌が傾いた。
地面に付いていた剣の先で、伸ばされた手の甲を串刺す。グァアアッ!!とノアの叫びがガラアラの喉から上げられても今度は気が済まず、彼の顔も靴の先で蹴り飛ばす。
痛む傷も、肩も顔も、押さえる手が足りない。再び身体を丸め歯を食い縛りビクビクと震えるしかない彼は、もう意識もまともにさだまっていないのかもしれない。カチカチカチと歯を鳴らしながら、いつ死んでもおかしくない。最初と同じようにまた靴の先で彼女に蹴られても、身体をビクリビクリと震わすだけでまともな呻くこともできなくなっていた。それを見て飽きたように彼女は踵を返す。明日は朝から開演に決めたと告げて、誰に救護を頼むでもなく彼を置いていく。
入口へと歩む彼女を、一人の青年が迎える。
ずっと彼女とノアのやり取りを見ていたのに、彼は全く動じない。傍にはグルグルと喉を鳴らす猛獣が彼に頭を撫でられながら座っていた。
「ラルク。新しい靴が欲しいの。また汚れちゃった」
「開演前には新品を容易させましょう。今度は何色が良いですか?」
「赤は駄目ね。血がついてもわかりにくいもの」
まるで従者のように彼女に従うラルクは、光のない目で愛おしげに微笑んだ。……嗚呼、ゲームのラルクと一緒だ。
団長テントへ向かう彼女の傍に立ち、猛獣達を引き連れその場を後にした。彼もまた、ノアのことなんて視界にも入っていない。彼女以外の存在なんて路傍の草のようにしかきっと見えていない。
オリウィエル、そしてラルク。サーカス団を支配する二人の足音が遠のき聞こえなくなってから、ノアはまた呼吸に音をこぼし出す。
ハァ、ハァ、と一定の呼吸音が自然なものではなく、今は彼が意識的に息をしようとしているのだと今ならわかる。こんな、映像まで見れなかった。…………こんなに、苦しんでいた。
また、繰り返す。這いずろうとしても手に力がそれ以上入らない。這いずることすらできないで、呼吸だけで体力を使い切ってしまいそうになりながら藻掻き続ける。
またうつ伏せになれても、それでも前に一歩も進めない。虫の方が早いくらい、子どもの一歩分も勧めない。ゲームでは暗転だったのに、まだ消えない。苦しげにまた顔を歪ませる彼は、血塗れの肩を止血する気はもうないのだろう。震える無事な方の手で服の中を探り、小さな包みを取り出した。
痛み止めだろうか、もう体力が限界に近いのだろう彼はそれを粒も数えないままに包みごと口に押し込んだ。ごくりごくりと一度で飲みきれなかった分二回鳴らし、最後に口から包みだけをでろりと吐き出した。包みから薬を一粒一粒出す余裕もなかったのだろう。
「ハッ……ハァッ……ハ……っ。探すっ……探す、探すんだ……。……それまで、それまでっは……。……ティ、ペッ……っ」
涙で滲んだ顔で、自分へ言い聞かせるように吐露したのを最後に、彼は沈黙した。
瞼が降り、這いずるのも諦めた手で拳も中途半端に緩んだまま音が消えた。意識的な呼吸音が止まり、耳を澄ませないと聞こえないくらいの薄い呼吸だけになる。
本当に、時間が一人止まったんじゃないか思うほどぴくりとも動かなかった。
血も、傷も、呼吸も、瞼の動きも、身体の震えも全てが止まり出す。死んだようにそのまま動かない彼の、唯一閉じた目尻から涙が伝い地面にまで溢れ湿らせていた。……わかっている。彼は、ここで死んだりしない。
それでも傷は、増える。包帯で覆われている顔は、それでもきっとマシな方だろう。だって彼はまだ、彼女とのことを諦めていない。……嗚呼お願い。お願いだから、もう、もう少しでも早く、彼の元に来て。
違う、会わせなきゃいけない。
私が、なんとしてでも。彼がこれ以上傷を増やす前に、自分を見捨てる前に、彼女に会わないと気付いてもらえないと報われない。彼にあんな、あんなに
『〝ノア・シュバルツ〟はもう、どこにもいません』
悲しいこと、言わせたくない。
…………
……
「…………さまっ……お姉様っ!……大丈夫ですか?起きて、目を覚ましてくださいっ……!」
…………ティアラ?




