Ⅲ215.来襲侍女は答える。
「ティペットがいます」
テント越しに聞いてしまったのは、偶然ではなかった。もともとサーカス団の医療担当だった彼は医務室に訪れた彼女の為に白湯を用意して戻ってきた後だった。
しかしテントの中では何やら込み入った話をしている様子だった彼女達に、気を利かせたつもりでテントの外で頃合いを待っていた。その間にエリックが覗き込んでくることもあれば、ステイルがテントに飛び込み、しまいにはアランとカラムまでと大所帯になっていく為余計に入りにくくなった。
大事な医務室に人が立ち入る所為で散らかされるのは困るが、明らかに顔色が悪かった彼女に今は部外者である自分は横やりせずに待っていようとのんびり構えていた。
それまでもテントの外から寄り掛かっていても、会話のほとんどは声が潜められていた所為で聞こえなかった。フィリップ達がどうしてこのサーカス団に今も訪れて聞き込みをしているのか、実は商人だと聞いた彼らは一体具体的にどういう商売をしているのかも知らない医者は当然テントの向こうの会話にも興味はあった。
だが、わざわざ張り付いて耳を当てて探っていたわけでもない。時間の経過と共に冷めていくカップを片手に、聞こえる音にだけ意識を傾けていただけだ。もともとサーカス団員自体が訳ありの過去が多いことを、古株である彼は知っている。今更どんな事情を聞いても聞かなかったことにするつもりだった。ほとんどがヒソヒソと抑えた声での会話を続いても、躍起になって聞く気もなかった。
〝ティペット〟と、その言葉を聞いてしまうまでは。
思わず振り返り耳を疑えば、自分の狼狽を煽るようにテントの中も騒がしくなる。明らかに穏やかではない声は空気と共にテントの外にも伝わった。その後もティペットティペットと、その名ばかりは隠されることも少なく繰り返されれば自分が聞き取ったそれが空耳ではないと確信できてしまった。それまでとは比べものにならないほどにテントに張り付き会話に聴覚を集中させた。当然、潜めた声まではどうしても拾えなかったが、それでもいくつか聞き捨てならない会話を掴み取ってしまえばもう今実行するしか道はない。
アラン、カラム、ステイルと人の数が減っていけば、それが好機と理解しテントから顔を覗かせた。
「あの~……もう入っても大丈夫ですか?白湯冷めちゃいましたけれど……」
あはは……と苦笑気味に言いながらカップを見えるように掲げて見せれば、誰も彼をはね除けようとはしなかった。医務室の所有者が戻ってきただけで、むしろ使わせてもらっていたのは自分達だ。
すみません!!とアーサーがいの一番に声を上げ、振り返ると同時に頭を下げた。続けてエリック、そしてプライドも待たせてしまったことを謝罪した。彼がテントの外で待ってくれていることは全員が気付いていたことだった。
しかし、あくまで聞こえる声で話していた内容は全てサーカス団員に聞かれても問題ない内容のみ。
自分達の正体を知られないように潜めた会話すら気を払っていた彼女達は、今は目に見えている医務室テントの主よりも、目に見えずどこで自分達の正体を探っているかもしれない怨敵で頭がいっぱいだった。潜入中に何度も顔を合わせ、時には医務室テントを通して協力的にしてもらっていた〝先生〟が、衝動的に動こうとしているなど誰も思わない。
いえいえ大丈夫です、と笑みで返しながら穏やかな様子でテントに戻った男……ノアは、一度自分の机にカップを置いてから何食わぬ顔でプライドへ投げ掛けた。
「ジャンヌさん。顔色少し良くなりましたね。一応診察はしましょうか」
「!ええ……お願いします」
すみません、と。診察という言葉にプライドも何の抵抗もなく承諾した。ここは医務室で、自分の顔色をエリック達に心配をかけたこともそして自分自身の体調も自覚している。彼らを安心させる為にも視てもらうべきだと思うと同時に、医務室テントになだれ込んで来ておいて診察を断る方がおかしい。むしろ失礼だ。
先生に対しての警戒心も少なからず欠いていた。サーカスの公演舞台でも舞台に立つ気配もなく医者としての仕事に徹していた人だ。何より、オリウィエルという最大危険因子を解決した今、攻略対象者は自分達にとっての敵に除外されていた。
見つけられれば良い、むしろティペットの情報を見つける為に強力してくれる筈だとプライドさえ思った。
「少し肌も出すので、申し訳ありませんが女性ですし他の皆さんは一度テントから出て貰えると……」
「ッはい!」
着替えや湯浴みなど、王女が肌を出す時に部屋を退室することも護衛ではいつものことだ。
プライドの体調が心配でその場に佇み注視していた騎士も、医者に言われれば退室するしかない。プライドを一人にすることに少し退室を躊躇ったエリックだが、自分以上に全く動く気もなく壁に寄り掛かったまま憮然と腕を組んでいたヴァルをアーサーが「おい!出ンぞ!!」と怒鳴った為に自分も後に続かざるを得なかった。
たかが診察程度別に見ても良い、気になるなら背中でも向けてればそれで良いだろと思っていたヴァルだが、アーサーに肩を掴まれ舌打ちまじりに退室した。透明化の特殊能力者であるローランドも、指摘ことされないが騎士である立場で覗きのような行為などできるわけがない。
一枚捲ればすぐに駆けつけられるテント越しに、彼らは彼女を待った。テントの向こうへ気配を探り、常に飛び込めるように武器を構えながらテント際に張り付いた。
「どうぞ。もう大分冷めてしまいましたけれど、ちゃんと飲めますから」
「あ、すみません……ありがとうございます……」
ティペット、アダム、攻略対象者と思考が埋まり溢れきっていたプライドは、既に食事を共にしたこともあるノアから差し出された水に毒味を悩む余裕は抜け落ちていた。柔和な笑顔で優しく差し出された水が、もともとは自分の為に温めてくれた白湯だったと思えば断ることの方が難しい。……自分がヴァル達を診察台代わりのベッドでの上で見送っている間に睡眠薬が加えられているのも気付かなかった。
ほんの一口、こくりと喉を鳴らせばゆるやかに睡魔に襲われた。即効性ではなくとも、先生の診療を受け単純な質問や熱を測られている間に睡魔に負けた。ただでさえ精神的負荷が大きくかかった後で、疲労も手伝い診察のままぼんやりと壁に寄り掛かるようにして診察台に座ったままウトつき瞼を閉じた。
前日、公演中に泣き出し無理をしようとしたラルクへ本人にも知らせず処方した時と同じように。
「すみません、診察は終わりましたが……ジャンヌさんが少し一人にさせて欲しいそうです。大分思い詰めているようですが何か……?」
サーカス団でも睡眠薬は数少ない常備薬だ。翌日の公演を前に緊張で眠れない演者、過去に苛まれ不眠に悩む演者に相談されれば微量をそっと処方して眠りを手伝うのは何の策略でも悪意でもない。ただただ必要な薬品だ。彼自身もまた、頻繁に利用していた薬だった。
診察以上の時間はかけられない。自分一人テントを何食わぬ顔で出て、すぐにまた扉を閉じた。彼女に何かあったことはここに訪れるまでと、テント越しの穏やかではない空気で察せられた。
医者の先生に尋ねられ、エリックもすぐには返せなかった。ええ、まぁと言葉を濁しながら、一人になりたいプライドの心境の方が遥かに気に掛かった。彼女がわざわざ自分達に直接ではなく、第三者を介すほどの心境だと思えば余計にだ。
エリックはアーサーが名乗りでないか視線で尋ねたが、結局は王女の意思を尊重することになった。ヴァルも一回外に出されたのをまた呼ばれてもいないのに中に入る理由もなく佇んだままだった。
「私は隣で薬品整理でもしてます。煩くなるので少し離しますね」
ジャンヌを一人にする為に医務室テントを開け渡す自然な流れで、テントに隣接された荷車へと移った。
すみません、ありがとうございます、と騎士二人に挨拶されながら荷車の貨物入れである荷車に移動する。小さな医務室テントには入りきらない、そして毎回仮設の度に取り出すまでもない予備や薬品、保健用品全てまとめて詰め込んだ荷車は、医務室テントにぴたりとくっつけられたままだった。
当然薬品の瓶箱を動かすだけでも量があれば隣のテントに音が響く。その為に荷車ごと馬に引かせ場所を移すのは、医務室テントに過ごす相手を静かに過ごさせる為には一つの配慮だ。
近くの仮厩舎から馬を連れ、荷車に繋ぐ。運転席側から荷車に乗り込んだ彼が、
後方部直結の扉からテントに入ったことに、団員ではない彼らは気付けない。
なんてことはない、医務室テント内にある大棚の裏側だ。
わざわざ回り込む必要がないように、荷車の中へ直結させてあることは一定以上長い団員であれば下働きでも知ることだ。
別に疾しい理由ではない、効率重視。移動先で仮設する度にそうするよう指示がされる。棚ももともとはいなくなった奇術師が置いていった大道具を再利用した。
気配を出して良いジャンヌは眠って動かず、男性医師が一人動いても気配としては一人分で外からでも違和感を覚えない。
重い物を入れていない棚は、細腕の男性でも余裕に動かせる。あとは診察台のジャンヌを荷車へ運び込む。荷車の床へ寝かせて確保してから、一人テントの中で必要分痕跡を消し片付け偽装する。白湯の中身も捨てないと、もし一口飲まれたら睡眠薬を入れたとバレてしまう。
「それで、ジャンヌさんは……フィリップ殿の侍女はこの中に……?」
テントの外から知らない声がした時は焦ったが、入ってくる様子はなかった。
そして温度感知の騎士も、一人分の温度がぼやりと一つ〝ノア分〟を確認した。その後方にある荷台にもう一人分あるとは気付いても、他にいくつも広範囲に人の温度を認識していた為、テント内部しか注目しなかった。他にもテントや荷車はいくつもあった。
念の為ノアも、その知らない声の人物が遠退いたことを待ってから再び棚で入り口を閉じ、荷車に戻った。
運転席に戻ったノアが馬を動かし、荷車ごと去ったところでアーサー達は空いた一面に透明の特殊能力者ローランドを配置し四人で一面ずつ空のテントを守った。
……そして今。
「それで、彼女は今どこに?」
「その市場で目撃した後はもう……ですが、それから私が医務室に来るまで一時間も経過していません。まだこの街にいると見て良いかと思います」
プライドは、答える。
自分から問いたいこともあるが、今は駄目だと理解する。転がされたままであることにも文句を言わず、問いを返すことだけに専念した。目の前にいる人物を理解した今は、危険と隣り合わせでありながらも冷静だった。
彼が、自分に興味をないことをちゃんと知っていた。
次更新は火曜日になります。よろしくお願いします。




