〈コミカライズTSP第1巻発売!・感謝話〉特別な手
『プライド第一王女殿下、宜しければ少し僕と夜風に当たりませんか?』
─ あの日あの夜彼女の目に僕は、どう映っただろうか。
彼女と出会った夜を、何度でも思い出す。甘く切ない痛みと諦め、そして僅かな緊張と期待。僕の人生であんなにも複雑な想いを宿したのも当時はきっとあれが初めてだった。
僕が差し出した手を、辿々しくも取ってくれた細い指の感触も覚えている。彼女が、僕にとって人生を変える存在だということは出会った時に知っていた。……婚約者、そしてフリージア王国の王位継承者としての彼女を。
僕にない全てを持っていた彼女は、あの頃から眩かった。語りかけてくる誰にも心を傾け、そして傾けられる彼女のようになれたらと……あの夜の彼女を夢に見る度に同じ事を僕は思う。
夢の中の僕はいつだって新鮮な気持ちで彼女を見つけ、期待し、そして心のどこかで裏切る。彼女をこれから愛そう、愛したい。愛せるかもしれないと思いながら、欠けた心が空虚に喘いでいるのに気付かないふりをする。
夢の中で僕は彼女を知らないのに、知っている意識が何度も僕に同じ言葉を訴えた。
『…お気遣い、ありがとうございます』
その手を離してはいけないと、今この時だけでも抱き締めたいと思う僕がいる。
それでも夢の中の僕は、いつだってただただあの夜を辿った。どれほどの望みがあろうとも過る想いがあろうとも、そんなものよりも愛する自国の為になる行動だけを僕は選びあとは斬り捨てる。そんな己を誇らしくも、そしてどこか空虚にも思うのは今の僕かそれとも当時の僕か、夢の中の曖昧な感情ではわからない。
ただ、何度でも僕は全てに満ちあふれた彼女に目を奪われ、期待する。
大勢の人々に愛される彼女に愛されれば、この心の溝は埋まるのだと砂漠で乾くような心で卑しくも思う。どこまでが夢で、どこまでが当時の僕で、どこまでが今の僕の心も混濁して区別ができない。ただ、………深紅の髪から踵の低い靴の先までが美しく飾り立てられた彼女を、全てを忘れて抱きしめたい衝動と、そして傷付けたくない突き放したいと思う衝動だけは間違い無く今の僕の感情だ。
『第一王女、プライド・ロイヤル・アイビーです。お目にかかれて光栄ですわ』
愛している愛している愛していると、夢の中で叫び出したくなった夜もある。
あまりにも夢と自分が乖離して、そこで惜しくも目を覚ましてしまったこともある。僕に向けて笑んでくれた彼女が、本心ではどんな気持ちだっただろうか。僕はどこまで彼女を裏切り騙していたのだろうかと、身が引き千切られるような想いに、目覚めに胸を押さえたこともある。それくらいに、彼女は夢の中でも眩かった。
愛を知らない欠落した僕が、彼女にできることならなんでもしたかった。その気持ちは今も昔も嘘ではないと、心から言える。僕の手を優しくとってくれた彼女を、大勢の人々に心を傾けられ愛された彼女を、愛するアネモネ王国の命運を握る第一王女を僕も大事にしたいと心の底から思った。
僕をその紫色の瞳に映して、欲の色を一度も浮かべなかった彼女は出会ってから最後まで優しかった。
当時、僕は彼女の為を愛そうと、彼女に愛されようと、今までの女性に望まれてきた全てを捧げるつもりになっていたけれど、実際は彼女の方が僕の倍、それ以上に僕に優しくしてくれた。
夢ではなく、本当に当時に戻れたらと何度そんなことを頭に過らせただろう。僕の表向きの愛全てを偽りと知った上で受け止めて、その上でどこまでもそんな演技に付き合ってくれた。彼女をどれほど傷付けたか、彼女をどれほど哀しませたか、それすらも彼女はあの花のような笑顔で許してくれた。
アネモネ王国のために、フリージア王国の民の為に在ろうと。良き王配に、求められる王配に、そして伴侶になろうととうに決意した筈だった。それでも、………………いつだって、僕の心にあるのは一人の女性ではなくアネモネとアネモネに住まう無数の民だった。
それはもう、あまりにも不誠実といえるほど。
『そろそろ戻りましょうか。何か始まるようですよ』
嗚呼、始まってしまう終わってしまう。抗ってはいけない、これはもう決まったことなんだ。これがアネモネ王国に僕ができる全てなのだから。
『我が愛しきプライド第一王女。貴方を心から愛します』
アネモネ王国の為になら、何度でも求められる愛を囁こう。いつかこの空白を埋めて欲しい。
『君の夢の中でも会えますように』
夢の中だけでもアネモネの民に会えればいいのに。
『朝から愛しいプライドに会えたから、とても幸福な気分だよ』
今朝も晴れたから、港には貿易船が集っている頃だろう。市場には新鮮な魚が並んできっと買い物客で溢れている。
『君のことなら何でも知りたいと思うよ』
知らなければいけない。彼女の求める愛を全て提供する為に。
今まで親しくしてくれた女性達が知ってほしいと望んだ全てを僕は彼女一人に捧げ、知らなければならない。人として欠如した僕は、そうやって理想通りに望まれる通りに人の愛を演じなければならない。
彼女を愛していると思われる為にできる努力はなんだってしてみせる。それがアネモネの平穏にも繋がるのだから。
多くの女性達と交流を持ったお陰で、女性が喜び求めることも愛を感じる瞬間も知ったのに、………僕自身が人を愛するすべがない。愛すべき婚約者との時間は確かに穏やかで、愛せるかもしれないと期待も抱けた筈なのに、………………本当に、僕は人の心が足りなくて。
『民の暮らしを知る…その為に直接足を伸ばし、声を聞き、この手で触れ合うことが彼らを導く者として何よりも大事なことだと思っています』
帰りたいと。…………早く、アネモネへ一時帰国する日がこないだろうかと。そう何度、あの三日間で思ってしまっただろう。
今この穏やかで、幸福に包まれている日々だからこそ、何故あのかけがえのない時間を大事にできなかったのかとも思う。だけれど、当時の僕には叫び出したいほどの欲求だった。
ステイル王子に尋ねられた時は特に、抑えても抑えようがなくアネモネの民を想った。フリージアの民も温かだったとその手で確かめた後だというのに、触れ合えば触れ合うほどアネモネの民とは異なることに肌を通し心臓に鈍痛が走った。
決してフリージアの民が悪いのではない。ただ僕が、どうしてもアネモネの民がどうしているかばかりを考えてしまった。もう会えない日が来ることに、寂しさが針のように貫いた。
甘いのに息が詰まるほど苦しくて、今思えば愛おしいのに言いようがない恐怖にも襲われる。プライドとの愛しい日々と、アネモネを遠いものとして受け入れなければならない人生を同時に想う。
当時の僕にとっては暗黒で、そして今の僕にとって光そのものだった三日間はきっとこの先も決して変わることはないだろう。
『全ては貴方の本当の望みの為…貴方の幸福の為なのです」
この先どんな身に余る感情が待ち受けていようとも。
…………
「……でぇ?令嬢に言われたそんだけでンなご機嫌にふにゃついてやがったのかレオン」
ケッ、と。吐き捨てるヴァルは酒瓶を片手に不機嫌そうに顔を歪めた。当時は新鮮だったそういう表情も、今はもう彼に関しては見慣れたものだと自分で思う。
そんなに表情に出ていたのかと「ふにゃついた」という言葉に、自分でも気付かなかった顔を確かめようと頬に手のひらで触れてみる。「そんなにかい?」と確認すると、瓶を煽ぐ彼よりも先に隣に座っていたケメトとセフェクがはっきりと頷いた。「にこにこでした」「主と何かあったのかと思った」とケメトとセフェクに言われてしまえば、少し気恥ずかしくなってくる。そんなにも滲み出ていたとは思わなかった。
彼らが相手だからだと思いたいけれど、もし思い出す度にそんなに表情に出ていたと思うと気を付けなければいけない。第一王位継承者であるのなら、感情もある程度隠せないと今後が思いやられる。
「しまったな」と自分の頬を撫で摩りながら、鏡を確かめればもういつもの表情だったけれど代わりに少し顔が紅潮して見えたことにまた恥ずかしくなる。
「昔はあんまり顔にまで滲み出しちゃうことはなかったんだけれどな……」
「ステイル様みたいに?」
「ステイル様も最近は普通に表情に出ていること多いですよね」
まさかのステイル王子に飛び火してしまった。
お菓子にフォークを突き刺しながら話すセフェクとケメトのやり取りを聞きながら、ステイル王子はそんなに表情が出ないことは多いだろうかと首を捻ってしまう。
僕が出会った時から社交的な人だった。むしろ時折無表情を見せてくれることが増えた、という方が印象としてある。隠し事も上手いだろう彼ならば、社交的なあの笑顔よりもあの無表情の方が素に近いのだろう。けれど、ステイル王子と僕は根本的に違うような気がすれば、どうにもしっくりこない。彼とはプライドのことで意気投合することも多く、協力し合う関係ではあるけれどあまり似たもの同士という感覚はない。
セフェクとケメトは、僕よりもステイル王子との関係が長いから見える面が異なるのもあるだろう。ステイル王子がセフェクやケメトに無表情に見返す姿はあまり想像できない。…………まぁ、ヴァルには普通に向けてもおかしくないかな。
僕が目にする時は、ヴァルには無表情どころか怒るか睨んでいることが多い印象だけれど。
「惚気話なら俺じゃなく王子か騎士のガキとしやがれ。今はあの赤毛の騎士もいやがんだろ」
「惚気じゃないよ。カラムともまだ恋の話ってほどのことはしていないな」
以前にも似たようなことを言われたことがあるなと思いつつ、今度はカラムまで話題に出たことに僕は肩を竦める。中身の入ったグラスを手に、顔の火照りを冷ます為に酒を味わった。
カラムともパーティーで会うようになったことはヴァルにも話したけれど、彼とは良くも残念にも読書仲間といったところだ。本の話はとても楽しいし社交界の中では親しいつもりだけれど、それももともとはプライドの近衛騎士であり婚約者候補である彼を守る為だ。何より、彼も彼でまだ僕に砕けるほどではなく、一定の線を守っている。…………そういう感覚がわかるようになったのも、ここ二、三年のことだ。
カラムとの恋の話をしてみたいとは思うけれど、婚約者候補である彼とその話題をする機会はなかなか巡ってはこないだろう。むしろお互いに社交の場では一番避けている話題だ。
少しでもそんな片鱗を出せば、きっと耳聡い貴族達にすぐ勝手な憶測の材料にされてしまう。
「今日もカラムとは本の話だけだったよ。恋愛小説の話なら以前に少ししたけれどね」
「ハッ。それで帰城してまた飲むなんざ随分と楽しい飲み会だったようだな?」
「ちゃんと有意義だったよ。ただ、社交界は酒や食事を楽しむことよりも、交流と情報収集に重きを置いているだけさ」
グラスを空け、テーブルに置いていた未開封の瓶に手を伸ばせば一手先にヴァルに取られた。すぐ隣に別の酒もあるから良いけれど、そういえば彼も彼で昔よりも更に遠慮がなくなったなと思う。それもまた嬉しいと思う反面、ここで表情に出さないようにと意識した。ただでさえ今、つい今夜あったことで燥いでしまった後だ。
今日の夜会は、フリージア王国の公爵主催のパーティーだった。お陰でむしろフリージア国内での社交パーティーの中では楽しめたものだったと思う。プライドには会えなかったけれど〝彼女〟に会えたことは特に有意義だった。
『お久しぶりですレオン第一王子殿下』
アネモネ王国の女性だった。プライドとの婚約前は二、三度パーティーや茶会に呼ばれたこともある。僕よりも年上だった彼女は、父親の貿易先にある国の伯爵との婚姻と出産で忙しくアネモネ王国に帰るのも久々だと話していた。
僕としても彼女に再会できたことは純粋に嬉しかった。以前に一度、傷付けてしまったことのある女性だからこそ、もう一度当時の不誠実を謝罪したかったし、何よりその彼女が今は自分の幸せを掴んでいることを知れたのも嬉しかった。「お許しください恥ずかしい」と僕の謝罪を笑いながら受け止めてくれた彼女は、クスクスと笑い声を溢しながら僕をその目に映してくれた。
『驚きました。最初、別人かと……』
ですがこんなに美麗な御方はレオン様しか考えられませんでしたので、と。そう続ける彼女は、昔と同じ桃色の頬で僕を見つめ、そして傍にいた〝彼ら〟を順番に僕と見比べた。
彼女との再会は数年ぶりとはいえ、そんなに容姿が変わった覚えはない。それでも「何か変わりましたか」と尋ねてみれば、彼女はあの頃の僕を独占したいと呟いた目とは違う、きらきらと星のような瞳を輝かせた。
『男性の〝ご友人方〟に囲まれたレオン様を、初めて拝見致しましたので』
彼女と最後に会ったのはほんの数年前。当時、僕はホーマーの助言に従って女性の友人作りに明け暮れていた。彼女もまたその一人のつもりだった。
女性に人気があるからと、それだけで単純に僕を慕ってくれる女性を選んだ。弟達が噂を流さずとも、当時の社交界の規則には本当に僕が異性にしか興味もない、女誑しそのものに見えただろう。
昨日のパーティーはフリージア国内の公爵のパーティーで、カラムとも本の話をして、それにフリージア王国の王族としてステイル王子や国際郵便機関のセドリック王弟も招かれていた。彼らと語らっていた時に、ちょうど現れたのが彼女だった。
彼女の目にも、僕と彼らは〝友人〟に見えたのかとそう思ったら、急に胸が熱くなった。今朝また昔の夢を見たせいもあったかもしれない。今僕は間違いなく、彼女の知る自分とは違う場所に立っているのだと実感できたことが、あの時は素が出てしまうほどに嬉しかった。
「……せっかくなら君も紹介したかったな」
「アァ?頭湧いてやがんのか坊ちゃんが」
フフッと、酒に酔ったわけでもないのに思い出せばまた顔が緩んでしまう。途端にヴァルからは「うざってぇ」と椅子から仰け反るように距離を取られ言われたけれど、それにもまたつい笑いが溢れた。
きっと彼女は知ることがないだろう。僕が彼女の欲に恐怖した日があったことも、社交界のどこにも属さない前科者が友人であることも、この胸に穴が空いた日も、赤子のように無様に泣きじゃくった日があることも
『プライド第一王女殿下、宜しければ少し僕と夜風に当たりませんか?』
思い出す度に後悔と愛しさが押し寄せる、この上なく特別な出会いがあったことも。
たとえ千の人生があったとしても僕は愛した彼女に同じ言葉で同じ出会いと、そして別れを望む。
時間軸は第二部と第三部の間あたりになります。
本日ラス為コミカライズTSP第1巻が発売中です!
婚約者編開始です!!
ラス為TSPコミカライズ1巻の特典でかわのあきこ先生に描き下ろして頂いたペーパーから、勝手に構想し書かせて頂きました。
こちらは、10月31日から発売しましたラス為TSPコミカライズ1巻の特典でかわのあきこ先生に描き下ろして頂いたペーパーから、勝手に構想し書かせて頂きました。
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