Ⅲ204.無慈悲女は受け、
「ほらほらぁ?あとちょっと、あとちょっと……?アッハハ……」
オリウィエル、オリウィエル。そう私を呼ぶラルクと嘲笑う悪魔の声に引かれるように顔を向ける。
ラルクが団長を追い出してから移り住むことになった団長テント。今まで暮らしたどの部屋よりも一番広くて綺麗で色々揃った部屋は、まるでお姫様にでもなったような気分になった。団長がいなくなってサーカス団からは孤立しても、私の生活はずっと平穏な筈だった。……悪魔が現れるまでは。
ラルクが毎日整頓していた家具も棚も今はいくつか倒れて中身も零れている。いきなり知らない人が現れて、私が泣き叫んでラルクが止めに入って一瞬で目の前がぐちゃぐちゃになった。
猛獣も檻の中で、鞭しか持っていないラルクじゃ敵うわけもなかった。テントに入ってきていきなり「小汚い場所ねぇ」と吐き捨てた女は、今は床に這いつくばるラルクを横で眺めている。
女?人間??わからない。顔に黒い靄がかかってみえるからきっと悪魔。気持ち悪いくらいに光る紫の眼光も、裂けたように笑う口も、血のように赤い髪もちゃんと見えるしわかるのに顔がわからない。…………なんで私はこんなことになってるの?
悪魔と、従者みたいな男。それに護衛みたいな男達何人もにラルクは殴られ絨毯みたいに蹴り潰されている。きっと、きっと私を連れ戻しにきた飼い主達の仲間だと思ったら悪魔が「貴方が団長代理?」と私を見て続けた言葉はわけがわからなかった。
『サーカスを開かないってどういうことかしら?』
は?って一音だけ声が漏れた。だって、てっきり「見つけた」とか言われると思ったのに私を見下ろした女の言葉はまるで子どもみたいだった。
「早く開いてちょうだい今すぐに」「こんな廃墟みたいな街にも娯楽があると聞いたから寄ってやったのに」「この私を断るなんて何様?」と、重ねる言葉に思考が動くような余裕もなかった。
サーカス?そんなのできるわけない。ここに滞在してからすぐにラルクが団長を追い出して、その所為で団員は逃げるし皆団長が戻ってくるまで公演なんかできるわけがないって言うことを聞いてくれないとラルクが言っていた。だからこいつらがここに入ってくるまでラルクだって「今は公演の予定はない」「帰れ」と繰り返していたのに、それでもズカズカここまで押し入ってきた。
口を開けたまま蛇に睨まれたように最初は声も出ず、怖くてラルクが取り押さえられて誰も助けにきてくれなくて、訳も分からず頭が真っ白になって泣きじゃくった。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいと繰り返して、なんでサーカスのことを私に怒られるのかもこんなところに入ってきたのかもわからないまま身体中に湧き上がる全部を吐き出すように泣いて命乞いした。
途中で目が滲んで見えなくなるまで、女の顔をした悪魔はまるで溝鼠でも見るような蔑んだ目で私を見下ろした。サーカスに来てから、一度も向けられなかった目に合ったら呼吸も上手くできなくなった。今までずっとそんな目を向けられずに済んできていたのだと今更思い出した。
紫色の冷たい目を見るだけで心臓を潰されるように苦しくなって、泣いて、喉を押さえて魚みたいにパクパク口を開いて閉じても息が吸えなくなった。
ラルクが「彼女は悪くない」と叫んでいるのが薄く遠く聞こえたけれど、もう目の前にいる女が人じゃない悪魔にしか見えなくなってもうこのまま死ぬんだと思った。
『アダム』
『仰せのままに』
我が君、と。舐めるような男の声が悪魔に続いて私の肺をなぞった。
目の前にいた筈の悪魔の声も、その男の声も真っ白な視界で遠いのに、頭に触れられる感覚はすぐにきた。ラルクが私を寝かしつける時の撫でるのとは違う、飼い主達が私を運ぶ時みたいに乱暴に髪ごとぐしゃりと鷲掴まれた一瞬だった。頭が白からぐちゃぐちゃに混ざり合って、喉が裂けるくらいに張り上げた。初めて襲われた日みたいに思考が溢れて壊れてベッドから落ちたところで記憶が途切れた。……嗚呼、そうだ。だから今私は床にいる。
死体みたいに転がって、顔を向けた先では同じように床で這いずるラルクが私へ必死の形相で手を伸ばしていた。
ただ転がっている私と違って、這いずるラルクの上にはさっきの悪魔が腰を降ろして絨毯の上みたいに寛いでいる。その女一人の重さすら、大勢に殴り蹴り潰されたか細いラルクには簡単に運べず必死に床で手足をバタつかせていた。
私が顔を向けたことに大きく目を開いてまた私の名を安心したように呼んだラルクだけど、……〝役立たず〟の言葉しかもう浮かんでこない。こんなことならもっと強い人を特殊能力で操れれば良かった。偶然ラルクに触れた時に特殊能力が湧いただけで、私がラルクを選んだわけじゃない。
「ちょっとアダム。どういうことかしら?その子、正気に戻ったようだけど」
「これは驚いた……。我が君、どうぞご覧ください。ご提案したサーカスは塵共で叶いませんでしたが、非常に珍しい症例が見られました」
つまらなそうに私を見下ろす悪魔の声に、男がまた私に歩み寄る。
ツカツカと早足で近付いてきた男にラルクが「彼女に近付くな」と叫んだけど、そんなの聞いてくれるわけがない。また私の頭に手を置いた男は今度は頭ごとじゃなくて私の髪だけ掴んで持ち上げる。
束で掴まれたせいで頭の皮が破けそうなくらい痛くって、ブチブチ何本か千切れるのもわかった。やめてください、痛いと叫んでも力が入らない足で地面を踏みこともできないまま全部の体重を髪だけで起こされる。前髪も一緒に掴まれたから顎を反らすように上を無理矢理向かされるようにのけぞった。
膝立ちになっても、まだ膝にも力が入らなくて何回も何回もブチブチ千切れる音が頭と耳に入る。痛くて自分で髪の根元を掴んで引っ張り返すけど、痛みが少し和らぐだけで離してなんてもらえない。
まるで今獲ったばかりの獣でも見せるような動作で、男は引き上げた口端で笑った。こういうの知っている、奴隷だ。奴隷に、あいつらが私を無理やり連れ運ぶ時と同じやり方だ。頭の中に走る地獄に今まで使ったことのないくらい顔の全部が歪んだのが自分でもわかった。今すぐここにナイフがあればと、そう思った瞬間には「死ね」と男に向けて唾を飛ばし叫んだ。
オリウィエル!オリウィエル無事かと、そう急に元気になったラルクの声が途中で絞られた。「グ……カ、ァ……」と死ぬ前の鳥みたいな鳴き声がしたと思えば、背中に乗る悪魔に首を絞められていた。
尖り整えられた爪の先がラルクの細い首に血を滲ませるくらい食い込んでいた。口の端を裂いたようにして笑う女が、恍惚と頬を染めながらラルクを覗き込んでいる。……嗚呼死んじゃうのかな、と。そう思いながら、もうなんかどうでも良い。だって役に立ってくれなかった所為で私は今こうなっている。
ほら苦しい、苦しい、ガンバッテと。何度も締めてはパッと緩めてまた雑巾みたいに絞るを繰り返す女が楽しむのを気にせずに、片手間に聞かせるくらいの感覚で男はまた口を開く。
「〝狂人〟です。廃人にならず、こうして目覚める者を私はこう呼んでおります。素質を持ったほんの一握りのみが、私の力によってこうして新たな生き物に生まれ変わるのです……!」
「ふぅん。それで?その狂人とやらに何ができるのかしら。見たところそっちはつまらなそうなままだけど」
何を言っているのか意味がわからない。きっとこの男は頭がおかしい。
髪が千切れる痛みと手足に力を込めることに必死で、頭にも殆ど入ってこない。
ラルクは何しているのと歯を食い縛って睨めば、もう動いていない。悪魔に首を絞められてそのまま死んだのか、動かなくなったラルクに悪魔もつまらなそうに手を離したところだった。ピンとラルクの頬を爪で弾けばそれだけでラルクの頬に赤い線が走った。よく見ると頬からだけじゃない、頭からも血が流れているのに今気がついた。役立たず役立たず役立たず。私がこんなに苦しんでいるのに何もしてくれない。やっぱり愛なんて全部偽物だった。
もう興味をなくしたらしいラルクの上で足を組み直す悪魔は、深紅の髪を指でくるくる弄りながら私を見た。
座っている悪魔と膝立ちさせられた私で今ははっきりと見下ろされないけど、代わりにさっきよりも怖いくらい目に映された。長く尖った爪を自分の頬に当てながら、奴隷として見られたあの目と同じ色で私を眺める。
男が何か難しい言葉で説明するけど、もうどうでもよくて入ってこない。そんなことよりも早く手を離してと、この髪の傷みから解放されたくて獣のように唸りながら自分の髪を掴み首を振って暴れる。「あ゛あ゛あああああ゛ッ!!」と唸ってやっと足に力が入った。
膝から立ち上がろうとしたところで、今度は後頭部を掴み直され正面に突き飛ばされる。やっと足に力が入ったところなのに、今度は床に手をついて額をぶつけないのが精一杯だった。それでも手の平も膝も痛くて、なんで私がこんな目にと泣きながら歯を食い縛って振りかえる。今度は狐のような細目から血のように赤い目が私を見下ろした。
「私が望んだのは恐らく〝サーカスの開催〟といったところでしょうか。……見事容姿も完治されたというのに寂れたこの地で退屈に悩まされていた我が君に、異国の座興をご提案したのは私ですから。これでも責任は感じておりました」
まさかこんなのに素質があるとは思わなかったので、と。言い訳めいて言う頭のおかしい男の目はずっと冷たく笑っている。
殺してやりたいと思うと同時に、……不思議と〝サーカスの開催〟という言葉に動悸した。高鳴るとは少し違う、ただただせき立てられるような感覚に気付けば胸を両手で苦しくなるくらい押さえていた。
サーカス、団長がいなくなったからできなくなった。役立たずのラルクが追い出したから。でもサーカスが開かれないとサーカス団はいつかお金もなくなる。もう底を着きそうだってラルクも言っていた。自分がなんとかするから大丈夫だと言っていたけれど、こんな役立たずのラルクが本当になんとかできるわけがない。
お金がなくなったら?団員もいなくなって食事もなくなってテントも立てられなくなったら私はどうするの??私の居場所はここしかないのになんでサーカスの所為で私までそんな目に遭わないといけないの?
ドクンドクンドクンと、急激に頭が回ると思ったら血の巡りまで早くなる。心臓の音が骨まで響くくらい大きくなって自分の身体じゃないようだった。
男に向けてあげていた顔が気付けば床に着いていた自分の手を見てた。
「じゃあ今ならこの子が開いてくれるのかしら?これから??どうみてもそんなことができるようなのに見えないけれど」
「まぁ多少は時間も掛かるでしょう。ですが狂人に塗り替えられた者の行動は一見の価値もあるかと」




