そして着いた。
…………
……
「……き、て……起、………っ…………」
声が、聞こえる気がする。
ぼんやりと、靄のかかった頭で思う。薄く開いた視界で、今自分が寝ているのがベッドじゃなくて床だと気付く。床で寝るなんて久しぶりだと思えば、……嗚呼ベッドで寝れていたのが今まで当たり前になったんだなと急に幸せになった。
遠い場所で悲鳴みたいな、呻くような声が聞こえる気がした。何度も、何度も断続的で、時々何かが軋むような音まで聞こえればまさか今までのは夢で、またあの部屋に戻ったのかと思う。
今までも何度も悪夢で見たのに、今度は悪夢じゃなくて今までが夢で悪夢が現実だったのかなと自分でも考えていることがぼやけてわからない。
テント、ベッド、毛布、食事、水、どれも揃ったテントの中は私の天国だった。
だから私はそこから出たくなくて、拾われた街からサーカスが移動をした後もテントが立てばすぐに潜り込んだ。もうあの店からはずっと遠くに離れたのだとわかっていても、外に出ればいつか見つかる気がして仕方が無かった。
あれから何年も経ったのに、未だに人の目も怖いままで何度も何度もあの時の地獄と重なって堪らなかった。
頭を抱えて蹲って、ベッドや毛布が他の団員に運ばれるのを小さくなって待ち続けてからやっと私の天国は戻ってきた。ここ数年は、ラルクがいてくれるから怖くなることも減った。私に仕事をさせようとする団長も先生も団員も皆怖いけど、ラルクだけは特殊能力のお陰で絶対私の味方だから。
絶対に私に仕事なんかさせないし、食事もベッドも毛布も水もなんでも揃えて用意してくれる。どこに行っても傍にいて皆から私を隠して守ってくれる。ラルクに触れた途端に現れたこの不思議な力が〝特殊能力〟らしいとわかった時は驚いたけれど、お陰で今も私は天国みたいな暮らしが続いている。
〝特殊能力〟……ラルクが教えてくれた。奴隷商で売られた頃にも何度かその名前は聞いたことはあったけれど、どういうものかはラルクに聞いて初めて知った。フリージアという不思議な国の人間が持つ力で、団長が演者にずっと前から欲しがっている。
フリージアなんて場所がどこかも、私が売られる前に居た場所がそこなのかどうかもわからない。ただ、この特殊能力のお陰でやっと私は本当の居場所を手に入れたんだなと思った。……なのに。
『オリウィエル。少しずつで良いんだ、少しずつ〝仕事〟を覚え貢献してくれれば良い!私も協力は惜しまない』
『もう大丈夫、大丈夫だ。オリウィエル。団長は追い出した。もう君を脅かすものは何もない』
少しずつ、ほんのちょっとずつおかしくなった。
私はただこの小さなテントの中で満足していただけなのに。このままで居られればと良いと言っているだけなのに、周りがまた変われと言ってくる。外に出ろ、仕事をしろ貢献しろと言われても、死ぬつもりであの地獄から逃げ出してきた私は嫌だった。
外に出れば見つかるかもしれない、連れ戻されるかもしれない、人の視線だってこんなに怖いのに。今だってラルクが傍にいないと外に出るのも怖くて仕方が無い。
だから妙な感覚はあったけれど、ラルクが私の望み通りにしてくれると言ってくれた時は怖さよりも嬉しさが勝った。無理やり外に出すんじゃなくて、テントの入口に立って空を見上げるだけで良いと凄く優しく私の話を聞いてくれたラルクだから一歩踏み出してみようかとあの時は少し思ったけれど、出なくて良いと言ってくれた時の方が何倍も嬉しかった。
団長が私を任せたこの人が良いって言ってくれるんだから、本当に今度こそこの天国で過ごしていられるんだと思った。
けれど、幹部と言われていた筈のラルクは段々と団員とも仲が悪くなっていくのがテント越しの私でもわかった。ラルク自身ももう幹部とかサーカスでの立場なんてどうでも良い私さえいればと言って、とうとう団長を追い出してしまった。
聞いた時は驚いて、私の特殊能力の所為でと思った。仕事をしろと言ってくる団長は怖かったけれど、それでも私を拾ってここに置いてくれたのも団長だから彼には悪いことをしたとわかった。……けれど、やっぱり仕事をするのも外に出るのも嫌でこのままで居たい私はラルクを責めることなんてできなかった。
私が団長になるなんて言った時は、無理だできないと泣いて拒絶したけれど、それもラルクは「君は今まで通りそこにいてくれるだけで良い」「僕が全部やる」と言ってくれたから安心できた。
全部ラルクがなんとかしてくれる。私はただここに居たいだけなのだから、それだけラルクが叶えてくれるならもう外の世界のいざこざなんてどうでも良いと。ラルクがいればもうこの先も大丈夫だと
「起き、ッ……起き、起きてくれオリウィエル……!!目を、覚ましてくれ……!!」
…………らるく?
ずっと、何かを考えていた頭でに、知っている声が初めて通る。さっきまで聞こえていた気がした声が、ラルクのものだとやっと気がついた。
何度も、何度も私へ呼びかける彼はとても苦しそうで、時々呻きにも似た声も混じっていた。それでも何度も何度も一生懸命呼んでくれる彼の声を聞きながら、……その気持ちも全部偽物なのにとどこか冷たい頭で思う私がいる。
今までテントにいないと寂しくて怖くて死んでしまいそうなくらいに頼りだったラルクが私を呼んでいるのに、不思議と反応したいと思わない。薄ぼやけた靄の中に飲まれていく。
だって、馬鹿みたい。本当はこの人だって私のことが心の底から好きなわけじゃない。あの部屋にいた、男に尻尾を振っていた方の女奴隷と一緒。ただそうしないといけないと頭が決めつけているからそうしているだけ。そこには愛なんて微塵もないと知っている。私を好きだと、女性として魅力的だと、男として君を守りたい思うと、愛していると何度口では言っても、唇すら求めてこなかったのがその証拠。
あの部屋の客達は、ちょっとでも「可愛い」「イイ女」と言葉を言っては絶対身体を欲しがったのに。私が奪って欲しくなくても、私が良い女だと思うなら男は嫌でも奪いにくるに決まっている。団長だって私に仕事をしろと言って、いくらでも協力するなんてあのニヤけた顔で堂々と言い放った。見切りをつけたら「私よりも適任を」と言って今度はわかりやすくこんな顔の綺麗なラルクをあてがった。顔が良ければ私が喜んで腰を振ると思ったに違いない。どいつもこいつも男なんて皆人間じゃないだたの獣だと私はずっと前から知っている。男なんて皆檻にでも閉じ込めて皆見世物にされて指を差されて唾を吐かれて死ねば良い。
視界の先にラルクはいない。頭の後ろから声は聞こえている。なんで、なんで私は床で寝ているんだっけ。ラルクへ返事をすることなんかよりも、自分の状況が思い出したいのに思い出せない。いっそラルクの馬鹿みたいな声と呻きが五月蠅くて苛々してくる。もっと静かにして欲しい。なんで、なんで私がベッドじゃなくて床に
「アッハハハハハハハ!!ほらほらぁ?あ・と・す・こ・し。もうちょっと手が届きそうじゃない?大事な大事な女の子なのでしょう??まだ起こせば目を覚ますかも?……プッ!!アッハハハハハッ!!!!」
悪魔の、声がした。
本日2話更新分、次の更新は水曜になります。
よろしくお願いします。




