止まり、
「エリックさんもそろそろ話付けてくれそうですし、そしたら今度こそジャンヌも何か食事にしましょう」
「そうね。アーサーとエリックさんもまだ何も食べてないもの。待たせてごめんなさい」
いえ俺らは……と、アーサーもそこで首を横に振る。
もともと護衛の立場として食事を取る時間もないなど普通である。むしろプライドが食事中も毒味以外は食事を控えようかとすら考えていたが、きっと食べない方が彼女は気にするのだろうなともわかる。
手近ですぐ食えるものはと考えれば、そこでプライドも「ちょっと出店も見て良いかしら」とエリックから離れない位置で市場の店を指差した。遠のくのならばエリックと合流してからと思うが、むしろ距離的にはエリック達へ距離を縮める場所を指差されアーサーも「声は控えてくださいね」と断りつつ少しだけ移動した。
相も変わらず話も絡みも長い団長の背後で、エリックへ移動することを示すべく大きく腕を振りながら横切った。ヴァルが潜んでいる屋根の野菜売り場から、パンが置かれた出店へと移動する。一人用の小ぶりのパンではなく、どれも切り分けること前提の大家族用といわんばかりの大ぶりのパンだ。
プライドとアーサーの接近に、店主は客候補が接近したことはわかるがそれ以上は認識しない。たまたま立ち止まっているくらいの感覚に、冷やかしとすら思わずそれよりも別の位置にいる客へ「いらっしゃい!」と笑いかけていた。
「いらっしゃい!見ない顔だな観光ついでかい?」
「奥さん今日はうちで買っていってくれよ!オマケしておくぜ」
昼時間に近いこともあり、市場の通行人や客はプライド達以外にも多い。うっかり団長を始めとする周囲に認識されないように意識的に唇を結び沈黙で品定めする間も、二人の周りでは騒めきがたえない。
アーサーの隣では体格の良い男達が四人肩を並べ「腹減った」「また値上げしてねぇか?」と横の干し肉屋と談笑し、プライドの隣では「お嬢さん可愛いねぇ?」と女性客をナンパする果物屋の店主もいる。
あくまで目立たないようにと、そして周囲の異変にすぐ気付けるように警戒して耳を立てながらパンを眺めるプライドとアーサーは二人の間だけで沈黙が流れていく。人が多ければ多いほどぶつかる危険性もあると、プライドと肩が触れるほどの傍に立つアーサーはパンよりも、このまま無言でプライドの肩を引き寄せて良いかと真面目に考えた。
緊急事態ならば無確認に抱き寄せることもするアーサーだが、そうでない場合は一言断りを入れるのが礼儀だ。しかし、今は一言も話してはいけない。
自分もまたプライドに注意したのに「失礼します」と呼びかけるのも悪い気がする。しかしだからといってなんでもないのに引き寄せるのもと考えれば、……また今日のレオンの言葉が頭を過った。唇を噛むほど強く結び、顔に力を込めながら顔が熱くなるのを必死に抑えるが余計にその所為でプライドを無断で引き寄せるのも躊躇う。
「馬鹿野郎ウチは手間暇かけて良いもん売ってるんだからこれでも安い方ってもんよ」
「いぶしたての肉まだあるか?今日いぶすって言ってたろ?」
アーサーのそんな心情になど気付かず、周囲の様子にだけ意識を持ちながらもプライドはパンを眺め続ける。
おおぶりのパンは一人では食べきれないが、アーサー達と四人で分ければちょうど良いかしらと考える。しかし、ここ以外にも市場の奥に行けば食べ物の店は他にもあるから悩ましい。異国の市場の食べ物は王族であるプライドにとってやはり貴重な機会である。
アランと一緒に食べたサンドイッチも美味しかったと思えば、目の前の単色のパンばかりの店以外も見たい欲はある。しかし、今はあくまで市場探索ではなく本来の目的は奴隷市場の調査だ。レオン達と合流するまでずっと市場で買い物していたなど笑えない。
「母さん~!僕もあれ見たい」
「あとにしなさいあとに。卵絶対に落とすんじゃないよ」
「でそこでぶん殴ってやったのよ!!俺が酒瓶でパッカーンとな!!ガハハハ!!」
「いいえ、買い物です。こちらの林檎をお願いします」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
瞬間。プライドは不自然に呼吸を止めた。
瞼が限界まで大きく開かれたままピキピキと痙攣する。意識的に結んでいた唇までもが震え、端までもがピクつき歪に上がり下がりを繰り返す。まるで全身に電流を流されたかのように皮膚の細部に至るまで痛みにも似た刺激に覆われた。
息が、できない。ハ、ハ、ハと浅い呼吸が唇の薄い隙間から繰り返される。
意識的に止めたのではないただただ思考よりも先に心臓が反応した。視界が白と黒に明滅したまま照準を酷く失い出す。自分がどんな表情になっているか考える余裕もなく、歪に止まる。縋るように両手首を掴もうとしたがまだ力が入らなかった。
腕を上げることすらままならないまま汗ばんだ手の平が位置していた自身の脇腹を掴む。ギュゥゥゥと非力な指が内臓を抉るかのように込められるが、それでも自分の意志で緩められない。浅い呼吸が急かすように血脈をドクドクと心臓まで鳴らしていく。
見たくない、見ちゃいけない、見ないといけない。逃げたい思考へ理性が必死に焚きつける。今すぐ大声で叫んで走り出したい欲求を堪えれば、次の瞬間には下唇を血が滲むほどに噛んだ。
ジャンヌ?とほんの一秒二秒の変化にアーサーもすぐ傍から丸い声で呼びかける。瞬間、プライドの顔色が蒼白に変わっていたことに気付けば息を飲んだ。
しかしプライドの耳にはその囁き声すら今は届かず、まるで金縛りにでも合ったかのように自分の身体の一部を意識のままに動かすことで精一杯だった。
恐ろしく暗く狭く見えにくくなった視界で、それでも必死に眼球を動かす。焦点すら合っていないがそれでも確かめずには居られない。〝まだ〟自分が正気の間にと、正しい思考に及ぶ前に浅い呼吸すら押しつぶしそれを見た。顔の向きは正面を向いたまま、ゴロリと動いた紫色の眼球が隣の屋台へと揺れる。
「はいよ。一個で足りるかい?そんな細いんだからもっと食えよお嬢ちゃん」
「失礼します」
見た。見てしまった。
若い女性客を相手に愛想良くする店主を前に、商品の林檎を受け取る女性を。魚の腹のように白い髪と、怪しげな藍色の瞳を持つフードの女性を。
光のない眼差しで人形のように表情を一つも変えず、淡々と質疑応答だけを行う女性は代金を支払うとそこで店主からも視線を外した。その顔が振りかえり際に自分に向きそうになった瞬間、プライドは瞬きもないまま目を逸らした。一瞬でも目が合ったらそれだけで心臓が止まってしまうんじゃないかと思うほど、今もドクドクと血流を打ち立てた。思い出したい記憶と思い出したくない記憶が濁流のように混ざり、脳へと注ぎ落とされる。
女性が流れるようにフードの端を翻したのを視界の隅で見届けても、プライドはすぐには振りかえれなかった。目で追わないといけないとわかっているのに身体が拒絶する。額や頬にまで夥しい汗が目に入り、全身がベタベタと気持ちの悪い汗で湿る。脇腹も胸も、肺まで焼かれるように痛み出し、今度こそ視界が大きく揺れてわからなくなった。
目眩か地震かと思考することが微かにできても状況をそれ以上分析できない。口の中が酷く乾いたままかみ切った血の味が染み入り広がっていく。ドグンドグンドグンッと激しさを増す心臓が、蝋燭の最後の灯火のように思え
「ジャンヌ、ジャンヌ、大丈夫っすか?!ジャンヌ!」
「…………ぁ……」
不意に、やっと外部の音が耳に入った。
さっきまで潜ませた声で何度も何度も自分の耳元で呼びかけてくれていたアーサーの声を、今やっとプライドは認識できた。その声が脳に入っただけで目の奥がじわりと熱くなりながら、ずっと肩を揺さぶられていたことにも今気付く。
地震でも目眩でもなく、アーサーに揺さぶられていただけだった。まるで世界全てが壊れかけていたかのような錯覚から抜け出せば、そこで止まっていた呼吸も少しずつだが通りだした。しかし同時にガクガクと急激に足まで震え出す。氷の上のように立っていられなくなるプライドは、そのままアーサーへと身体が崩れ出した。
膝から抜けていくプライドをアーサーは揺さぶった両手のまま肩を支える。「しっかり!」と耳元で叫ばないように声を抑えつつ呼びかけるが、自分が触れても顔色の一つ戻らないプライドにアーサーも喉が干上がった。目立たないように、声もそしてプライドを抱え上げることもできず自分により掛けるが、その間にもプライドは瞼が痙攣を起こしたままガタガタと歯まで鳴らし始めていた。彼女がこんなに豹変するなんて、原因は限られている。
「ッまさかアダ」
「っっっ!!!!!?!!」
駄目、と。
その言葉すらもすかさずは出なかった。唇を縫い止められたように自由が効かない。しかし囁く声でもその名前を呼びかけたアーサーに、プライドは歯を食い縛りまるで溺れた手のような動きでバタバタと彼の口を手の平で塞いでしまう。さっきまで自由にならなかった筈なのに、恐怖に押されるようにアーサーから発言を奪う。
突然プライドに襲われたかのように口を覆われ、目を大きく見開くアーサーだが抵抗はしなかった。彼女の手を止めるよりも今はその震えた身体を支えることを優先し両肩から離さない。何より、塞ごうと自分に顔を向けてきたプライドが怯えていたことの方が思考を奪った。
彼女の白い手に口元が覆われれば、その指の先までが微弱と呼べないほどに震えアーサーの皮膚を擽った。ふるふると子どものように左右へ小刻みに振られる顔は泣く寸前まで歪んでいた。
彼女のその反応に、今度こそアーサーは最悪の遭遇へと確信を持つ。丸く開いていた蒼の目が、一瞬でギラリと研ぎ澄まされた。
今にも崩れてしまいそうな彼女の目が、少なくともまた意識があることを確かめてから抱き寄せる。
さっきまでの両肩を掴み支えるではなく、がばりと自分の身体全てで覆うようにして密着させ、彼女の腰周りに右腕を回し上着の下に隠していた自身の左腰の剣を抜く。左手で彼女の深紅の髪ごとその後頭部をぐっと自分の元へと押しつけた。
己自身も姿勢を落とし、彼女の耳元に自分の顔が位置するようにして身構える。
「大丈夫です守ります。このまま、動かないでください」
さっきまでの呼びかけ声とは違う、低い色で囁きかけられプライドもやっと呼吸が伸びていく。
短い小刻みの呼吸から、ハァ、ハァと丸みを帯びた呼吸を取り戻し出す。アーサーに強く抱き締められ、その密着感に自分で驚くほどに身体の全てが解れていった。安心感でも目の奥が込み上げる。
立てなくなった足に、ほんの少し力が入ったがそれでもつま先以外は浮いたままだった。プライドの体重を殆ど持ち上げたに近い耐性のアーサーは、いつでも彼女を抱え戦えるように神経を研ぎ澄ます。緊張状態よりも、自身の殺気を周囲に溢さないように抑えることに神経を使う。ギリッ……と今度はアーサーの方が奥歯を鳴らした。
抱き寄せられた拍子にアーサーの口を覆っていたプライドの手が今は自分の胸元に揃って戻ってきていた。
触れる彼の胸板の衣服へ指を引っかけ掴む。抱き寄せられたまま彼の肩越しに目元だけが小さくその後方へと向けた。さっきの女性が去って行った方向に目を凝らすが、もう彼女らしき影はどこにも見当たらない。振りかえるまでほんの数秒の筈だったのに、それでも見つからない。
雑踏に紛れたのか、それとも特殊能力で消えただけなのかも今は判別がつかない。しかし自身が彼女を目だけでとはいえ探せるくらいに余裕ができたと、自覚した瞬間プライドはまた深く息を吐けた。
まだ、この場にいるかもしれない。去った振りをして本当は自分達に気付いてこの場に止まっているかもしれない。そう最悪の状況をいくつも想定してしまうが、それでもアーサーがいてくれるお陰でやっとまともな思考に帯びてきた。
大丈夫、彼女はこっちに気付いていなかった。ヴァルも今は姿を隠していて、エリックは顔を覚えられるまでにはきっと至っていない。自分とアーサーはゴーグルで認識されない。と一つ一つ安心材料をたぐれば、遅れて自分の目元をアーサーの肩へ押しつける形で確認した。涙で僅かににじんだ視界は、こつんとゴーグルに阻まれ拭えない。しかし、本当に今これがあって良かったとネイトに感謝する。そうでなければ挙動不審な自分は彼女にも気付かれてしまっていたかもしれない。
更には姿も今自分は別人なのだと、遅れて思い出せば今度こそ目眩がするほど安堵した。ついさっき彼女に気付いた時はいつ捕らわれるかわからない釣り糸の上のような緊張感だったが、実際はもうこの国に来る前に自分達は万全の準備でここに来ている。
彼女の特殊能力も手の内も知っている、自分だって戦える。なのにもう崖から突き落とされるか隠れるかくらいにそれしか考えられなくなっていた。脳そのものをぐるぐる巻きに縛られたように、思考そのものが縛れた。
今も、身体の震えは止まらない。生理的な拒絶感にも似ているそれは、プライド自身もまだ理解が追いつかない。「消えてる」と言おうとしてもやはり顎ごと震えたまま声も息音しか出なかった。
しかし少しずつではあるが身体に伝わるプライドの震えが収まっていくことに、アーサーも彼女の脅威が傍にはいないようだと判断する。
当然見えないだけで傍にいる可能性もある、油断など微塵もしない。しかし、もし自分達に気付かず去ったのならばこちらも留まらない方が良い。相手の向かう先がわからない以上、この場が一番相手に近い。
この場で見つけて捕まえたい欲もある、しかし一番はプライドの安全だ。




