そして迎えられた。
『そんなもんだろ。俺は奴隷として作られた。今も昔も人間に使われるのは今更だ。お前が特別なわけじゃねぇ』
─ 語らったあの時間を、僕らはきっと一生忘れない。
『君のお陰で団長に救われたんだと、知れたのも何年も後で』
彼は、もっと今より救われるべきだと思う。罪深い僕がこんなにも救われてばかりであるのが許されるのなら、彼ももっと〝人間〟としても今以上に救われ、報われるべきだ。
─ そして一生、団長にさえ語らない。
『……ハハッ、要らねぇよ。あんなジジイ。父親とか、今更「親」なんて欲しいと思えたこともねぇ。後継者なんかガラじゃねぇし、まだ入団して一年経ったかの新入りだ』
無償の愛を知るべきで、味わうべきだ。その無償をほんの一瞬でも〝当たり前〟に感じられるくらい、人の善意に満たされるべきだ。
そうじゃないと、この世界もそして僕らの世界でさえあまりにも彼の善意に釣り合わない。
─ 僕の懺悔と、アレスの吐露。
『売られている君を見つけた瞬間だけは〝まとも〟に戻ってたと思う』
たとえどんな経緯や不条理と皮肉が繰り返されようとも、こうして奴隷として死ぬ筈だった僕と、奴隷として生きることしか許されなかったアレスが今日この日まで理不尽な世界で生き延びたことは一つの奇跡だ。
─ 本当はもっと早く語るべきだった一年分と、……それ以上。
『……あの時が、……ッ本当やばかった。……っ……死ぬことも、できなかった……っ』
その奇跡の中で、彼はこれ以上傷つけられないで欲しい。この世界に優しくされて欲しい。
喜びで溢れる涙を知り、心を溶かすようなその温かさを知るべきだ。
─ 互いの苦痛を見せ合った。
「そうか!それは良かった良かった!!ん??そうだ、私のことは覚えているか?記憶はあるのか??もうざっくり一年は経っている気がするが」
「おっ、覚えてます………」
そうか良かった!と、そこで広げ続けた両手で団長に抱き締められる。
それだけで僕はまた込み上げて、下唇を噛んだ後何度も細かく口の中を飲み込んだ。
やっと会話ができた団長は、上手く切り出すことができない僕へ変わらず振る舞ってくれる。今日だけ、じゃない。今日までずっと僕がオリウィエルに操られている間もずっとこの人だけは僕に変わらないでいてくれた。アンジェリカも僕から距離を取れば離れていって、他の団員だって遠巻きになった中でずっといつも通りに振る舞ってくれていたのは団長だけだった。
僕の答えにほっとしたように溢す団長の息の音に、胸がギシリと傷んだ。平気なふりで、この人はきっとずっと僕を表面上以上に気に掛けてくれていた。
記憶は、ある。オリウィエルに操られた瞬間から自分はどういう思考をしてしまったのか、団長やアレスそして団員や猛獣達をどう認識していたかも怖いくらい僕のものとしての記憶がある。あくまで今日までの行いは全て僕のものだ。僕がたとえ特殊能力ではなく、……ただあの女に依存してもきっと同じ人間になっていた。
「全てがオリウィエルの所為とは、言いません……。僕が考えて、行動した結果が……あれでした。…………あの女を第一位に考えた途端、僕は貴方まで蔑ろにしました……」
言いながら舌が痺れるようにピリピリした。ぎゅっと握った拳の中が気持ち悪いほどすぐに湿って、正直に言ってるつもりなのにどこかでまだ自分を守ってる気がして仕方が無い。こんな言葉じゃ言い足りないくらい、僕がやってきたことは酷い。
正気に戻った直後は目の前の元凶にぶつけるだけぶつけて激昂して、……次に目が覚めたら消えたくなった。アレスがいなければ今度こそ頭がおかしくなっていたかもしれない。何年経っても僕はアレスに助けられてばかりだ。あんな、まともな再会も僕はできなかったのに。
一年前、アレスを見つけたのは偶然だった。団長が彼を殆ど全財産を叩いて買ってくれ、やっと再会できた彼に僕はあまりにも冷ややかな態度を取ってしまった。偉そうに口弁を垂らし頭にあったのは「これでやっと終わる」という安堵だった。
これで彼に全て返し団長も欲しかった息子を得られ、僕はオリウィエルのことだけを考えられると自己中心なことを思った。…………ただ。
『特殊能力者!その名を皆様もご存じでしょう』
彼を見つけたあの時の、身震いを覚えるほど嵐のような胸の荒立ちは今も忘れない。
血流の激しさも、鼓動の大きさも今死ぬんじゃ無いかと思うほどに酷くけたたましかった。やっと見つけたという焦燥と、もう僕には最優先すべき存在がいるという感情が混濁した。
一体どんな顔で団長と目を合わせたのかはわからない。オリウィエルを最優先する気持ちとは別に、アレスへの借りは返さなければならないと思った。もうずっと昔に決意したことは、一度は亡失した後でもオリウィエルへの恋愛感情とは別物として再び杭となり胸を刺してくれた。
馴れ馴れしくして欲しくないとすら思ってしまっていた団長に懇願した瞬間、死ぬほど拒絶感が込み上げた。今みたいな遠慮とか後ろめたさじゃないそれより遥かに重い、罪悪感だ。あの時の僕は世界で一番卑怯な手を使ったから。
「まぁオリウィエルは美しい女性だ。お前があれだけのめり込んだのも、最初は良い傾向とすら思ったよ」
そんな、ありえないと、首を激しく横に振って団長へ声を荒げる。笑いながら言うものだから、僕の方が必死に否定した。
いくら容姿が良くても正気に戻った今はあの女の内側の意地汚さばかりが蘇り吐き気がする。僕が尽くせば尽くすほどいつの間にか自分からも依存して、ベタつかれることもここ最近は毎日だった。寝つくまで傍にいて欲しがり、一人の時間が長いだけで怖いと泣き喚く。抱き締めたり頭を撫でるだけで満足したことだけが唯一の救いだ。それでもあの女が今この上なく不快なのは変わらない。
首を大きく横に振った拍子に、アレスを視界に入った。
僕と団長から顔ごと背け、口を結んでる。眉間を寄せた表情はまるで自分がここにいるべきじゃないと言っているようだった。……本当に、何故彼はこんなに自信がないのか今日までずっと疑問だった。奴隷時代の時の方がずっと自信を持っていた気がしたから。
アレスは……入団してからすぐ、僕の予想を遙かに上回る速度でサーカス団で頭角を現していった。オリウィエルに洗脳される前の僕と比べても遙かに団員達と馴染み、特殊能力や元々奴隷として教え込まれた経理の技術だけでなく下働きの仕事もするしできることを次々と増やしていった。
相変わらず優秀で、もう僕は要らないのと思い知らされた。団長もアレスをとても気に入っていて、……だから。
「……アレスが入団して、……僕は、もうとっくに見切りをつけられたかと……思っ」
「見切り?誰がだ??お前が世界で一番可愛くて堪らないのは他ならぬ私だぞ??」
つんと、鼻の先が痛いくらい奥から響いた。
心から信じられないと言わんばかりに目を丸くして僕に笑う団長に、気付けば目頭まで熱くなる。
知っている、今はもう。アレスが僕のテントで自分の過去と一緒に教えてくれた。……団長が、僕のことをアレスに頼んでくれていたことを。
僕が変わらず大事な息子だからと、父親としてアレスに助けてやって欲しいと頼んでくれていた。僕があんな態度を続けても僕との約束を守ってアレスを取り戻してくれて、その上で今度は僕をまた助けようとしてくれた。あんなに態度は変わらなかったのに、やっぱり僕のことをずっと前からわかって悩んで背負ってくれていた。
アレスにそれを聞いた時、膝を抱えてまた泣いた。オリウィエルに支配されていた間は、ただただ淡々とやはり自分を愛してくれるのはあの女だけだと思い込もうとしていた。団長は息子としても後継者としても、アレスを選んだのだと決めつけて信じて疑わなかった。
それで良かったんだとすら思った。大事だった人の関係が切れてしまうと思えば思うほど、たった一つの依存が深まった。
『やっぱ猛獣の世話させるの当番制のままで良いだろ』
『なら勝手にしろ。そんなことより僕に関わるな』
もう、僕は要らないとそう思った。
僕はあくまでアレスが現れるまでの繋ぎで、サーカス団の経歴はいくら僕が上でも本当に在るべきだったのはアレスだと知っていたから。アレスが決めたことはオリウィエルに及ばないかぎりはできる限りは殆ど通した。アレスへの背徳感や罪悪感ですらない。僕がどう思おうと、アレスがそうしろと言うのなら僕が断る権利はないと思った。僕が持っている決定権は全て本当はアレスのものだったから。
アレスが決めたことは全てアレスの権利として譲って、できる限り従った。贔屓なんかよりも遙かに酷いことを僕は過去の彼に犯したのだから。
オリウィエルの為に幹部として鞭を振るいながら、あの女さえ良ければあとはどうにでもなって良かった。アレスがその内正式に息子になって後継者になるんだと、ただただその時がくるのを自然の流れとして偽りの依存先で待っていた。
けれど今なら知っている。最初から、そしてずっと団長は一度もアレスを息子にする気も後継者にする気もなかった。ただただ僕の為に大枚を叩いて救ってくれただけだ。当時の団員達にアレスとサーカス団の資金の行方を堂々と語った時から本当は気付くべきだった。
「いや私は嬉しいのだよラルク。……てっきりお前が変わってしまったのが、私が至らず傷付けてしまったのだと思えて仕方が無かった」
今まで去った彼らのように、と。そう囁くような小ささで続けた団長に首が取れても良いくらい激しく振る。下唇を噛み過ぎて血がまた滲む。そんなわけない、そんなことあるわけないのに苦しくて声がでない。目に滲んだ水が散る。
下ろした拳を握って、肩が勝手に上がる。さっきまでの堂々とした声が嘘のように静かに言った団長の瞳が揺れているのがわかったら、もう直視できず目を伏せた。喋ろうとしたらその前に鼻を啜ってしまう。
「違います」と口の中で言葉が消えた。そんな風に思われているなんて少しもわからなくて、傷付けてるなんて知らなかった。
苦しい、苦しい、苦しい。なんでこんなに団長を傷付けて決めつけて、霞む目を開くので精一杯で、合わせれない。大粒が目元でゆれてるのが嫌でもわかる。呼吸も忘れ、胸が鞭で叩かれ続けてるように痛い。団長の優しい声が、今だけは耳を塞ぎたいくらいに苦しい。
肩に触れられる感触に、全身が揺れた。がっしりと強く握られた手の熱を感じながら気付けば顔が上がった。笑ってくれる団長の顔が、今だけは少し泣きそうで。
僕は堪らず息を吸い上げると同時に大粒溢した。顔の筋肉が全部強張ってヒリヒリする喉のまま、涙声だとわかって口を開く。
「感謝、してます。今も昔も、本当、です。……〜っ……たが、いなければっ……」
ぽつぽつと言葉を繋ぎ合わせる音は、きっと雨粒より小さい。
唇が震えて変に歪む。上擦った声で、なんとか言いながら団長の顔を見るだけでまた込み上げ、絞る。僕は今まで、ちゃんと言葉にできたことはあっただろうか。
最初は自信がなくて、次は事実を知って、その後はオリウィエルに操られるままに僕自身が〝そう〟なりたいとも、なる意志があるとも言っていない。……そして今も。こんなことを犯しておいて、今更どちらも名乗れない。
団長に感謝もしてる恩も忘れていない。この人がいなければ僕は処分され、もしかするとアレスも死んでいたかもしれない。この人に生かされることを選ばれた僕達は、間違いなく幸運だった。
『猛獣使いとして一生かけて支払いますっ……だから……彼を見つけた時、今度こそっ……!、今度こそっ……!』
あんなことを約束しておいて、僕は猛獣の世話を放棄して団長まで追い出そうまでした。団長だけがあの時の約束を守ってアレスを救ってくれた。
いつまで経っても役立たずでこんな不出来な僕を、嫌な顔一つせず育ててくれたこの人を慕わず誰を慕えと言うのだろう。
この世で僕が親と呼べる存在が、この人の他に誰がいる。
考えれば考えるほど、喉が攣り出した。しゃくりあげる口を右手で塞ぎ、それでも音が止まらない。手の甲から手首へと涙が伝って濡らす。こんな醜い顔見せたくなくて、目を絞り俯けば団長の手の圧がまた強くなる。…っく、ひっく、と食いしばっても音は飲み込めない。諦めて口を覆っていた手で目を拭う。指では足りず、手の甲で強く擦る。ふやけた皮が擦るだけで痛みを帯びた。こんなに言いたい言葉があるのに、全てを尽くしても誤った時間が取り戻せない。
「僕はっ……貴方の望むような子になれなかった……」
「ああ勿論!望んだ以上の子になってくれた!」
ひっ、と団長の響す声に吃逆と同時に肩が上下した。
視界が滲んだままよく見えない。ただ、……あの時と同じ、向けられた瞳の眩しさははっきりわかった。ぼやけていても、この人が今満面の笑みで笑っていることは確信できた。
意味がわからず、団長から目が離せない。いつもの大仰な言葉なだけだと思いながらそれ以上を期待するのを胸の熱さで自覚する。
「お前は素晴らしい子だよラルク。猛獣使いの才能があり、幼くしてすぐ愛された。優しく、団員想いで真面目なお前ならこれからいくらでも挽回できる」
すらすらと理想を押し付けながら綺麗ごとを大声で言う。……そんなこの人が、僕らは好きだ。
ならば猛獣使いの才能が僕になかったら、団員想いなんて貴方以外に言われたこともない、きっと僕よりもアレスの方が真面目で優しいと。たとえ僕がそのどれを言っても、団長は全部笑顔で答えてしまうのだろう。
歯を食い縛り、息を引きながら嗚咽を殺す。顎を反らしても今は目が離せない。
一度きつく目を絞ったら、次開いた視界は眩しかった。団長に目を合わせられ、本当に希望が一縷でもあると思えてしまう。
「団長。……俺」
「!おぉアレス!お前も本当によくやってくれたありがとう!」
今まで黙していたアレスが、唱えるような小さな声で半歩更に僕らに近付いた。
呼び掛けてきた時から僕らのどちらとも目を逸らす彼は、言いにくそうに一度口を結んだ。アレスが、……今までどういうつもりでサーカス団に居てくれたか。教えられた今は、何を言いたいのかほんの少しだけわかる気がした。
団長が僕から手を離し、今度はアレスを抱き締める。お前のお陰だ、本当に助けられた、大変だっただろう、今日は特にと声を上げる中、アレスは棒立ちで居心地悪そうなままだった。
「俺、…………もう要らねぇか?」
そう小さな声で溢した瞬間、団長が笑った。
わははは!!と大声を響かせて、抱き締めた腕のままアレスの背中をバシバシ叩いた。そんなわけないだろう!と僕の耳でも壊れそうな声量で、冗談を聞いたように笑う団長に反して、……口を閉じたアレスは涙目だった。
「お前がいないとウチはもう回らないに決まってるだろう!私の可愛い可愛い家族がそんなこと言わないでくれ!!お前は我がサーカス団の宝そのものだぞ?!」
じわりと、アレスの黄の瞳が潤んだ。
団長より高い背も肩も吊った糸が弛んだように丸くなる。ゆっくりと閉ざされた瞼から押し出されるように滴が頬を伝った。
ぐったりと団長に抱き寄せられるまま首を垂らすアレスの顔が見えなくなる。「こんな汚ねぇ宝あるかよ」と、こもるような声で聞こえた。拳も解いた両手を力なく身体の横に揺らすアレスから、一度だけズビリと鼻を啜る音がした。
『なぁに心配はないさアンガス!お前一人でも充分客を惹きつけられる!パートナーが出て行ったからどうした!もともと空中ブランコができる人間は一人もいなくなってたのに今はお前がきてくれた!空中ブランコはお前の為の舞台だ!』
『彼はビリーだ!!まず腹いっぱい食べさせてやってくれ!見ろ鍛えられた良い身体をしているだろう?!兄夫婦に売られるところだったから先に私が金を払ったんだ。結果全員が得をした!!わはは!素晴らしいだろう!』
『リディアじゃないか!嬉しいな帰ってきてくれたのか!!……ん?ははっ!なぁに気にするな!金を盗んだのではない私が君に投資したんだ!金を失ったことよりも君だけでも帰ってきてくれたことが大切だ!!なぁ皆もそう思うだろう?!』
『この子はユミル。フリージア人らしいが特殊能力がないから返品しろしないで買い取り主と店主の間に挟まれててな。しかしどうだ見ろこの愛らしさ!!立っているだけでも応援したくなる!これはもう才能だ!!』
『聞いたぞクリフ!空中ブランコをやりたいそうだな?!素晴らしい!我がサーカス団で新たな名演者の誕生が決まったな!アンガス!!ちょっと来てくれ!!』
『さぁ皆!迎えてくれ!!!』
閉鎖された世界で生きてきた僕らにとって、団長の天井知らずな理想こそが〝自由〟であり〝希望〟だ。
まだ進める、まだ登れる上がれる行けると思わせてくれる。
どこに行けば良いかも何を見れば良いかもわからず考えることもできなかった僕らを導いてくれた。希望がある未来を僕らの目に浮かべてくれる。
この人が笑っている間は、きっと最後にはなんとかなると思えてしまう。
「!ああそうだアレス、ラルク。一つ朗報がある!喜べ、我がサーカス団にまた新たな特殊能力の演者が生まれるぞ!!オリウィエルには──」
たとえそれがどれだけ無理難題で、理想が過ぎる暴論だったとしても。
僕達は、団長について行く。
次の更新は来週月曜日です。
よろしくお願いします。




