そして引き戻す。
「あの……店に……」
視界が白と黒に明滅して、気付けば膝が床に落ちた。膝から先を打つ痛みが痺れる感覚はあるのに痛みを感じない。呼吸の仕方がわからない。
ハ、ハ、と耳の奥で呼吸音と酷く荒れる心音が混ざり合う。収容所に戻ったような既視感に今日までが全て夢だったかのように亀裂が入り、割れていく。
目が、焦点が合わないままにランプの光に深奥を叩かれた。足にも、手にも力が入らない。丸まった背中で床についた手が震えて地面を擦る。
今まで知らなかった、想像もしなかった。まさか同じ店に四十六番が居ただなんて。
団長が僕の名前を知っていた理由、どうして今までもっと考えなかった?
大事なことに蓋をして、考えないように考えることを拒否していたのは僕だ。今すぐ死んでしまいたいと衝動で思う。胸が詰まるように苦しくて、呼吸から肺まで炭を吸い上げたかのようだった。視界だけがグラグラ揺れて、顔も上げられない。中途半端に口が開いたまま、もう言葉も出なかった。
酷い、酷い、僕は酷すぎる。今までどうして僕が彼のことを他人事みたいに思えたんだ。なんですぐに助けようと顧みようと思わなかった?なんで団長にもっと早くこのことを話さなかった?
団長の言うとおり後悔する。いやそれ以上だ。事実を聞いたことじゃない、四十六番に僕なんかが出会ってしまったことが。僕が、僕が彼に出会いさえしなければ
ここに、彼がいた。
「ラルク!しっかりするんだ。私の声は聞こえるか?!」
今、今ここに彼がいた、僕がいなくて彼がいた筈だった。今だって団長の部屋に彼がいて彼が名前を呼ばれて二年間ここでパンも水も食べて自由に歩いて奴隷の生活が昔になって団長に息子と呼ばれてた。
息が、できない。吐き気が込み上げて、視界が揺らいだと思ったら額をぶつけた。地面が目の前にくっついている。
心臓が刺されたように痛い。全身が鞭を打たれたように響く。喉が焼かれたように熱く枯れる。頭を抱えたい筈なのに手足が別物のように垂れてどうにもならない気持ち悪い。
遠くで、団長が呼ぶ声が聞こえた気がした。自分が立っていた場所がわからなくなる。世界が回転して沈む。生まれて初めて継母を呪う。僕を違う収容所に捨ててくれれば四十六番がこんなことにはならなかった。なん、なんで、どうして、僕こんな、人の所為に押しつけてる?違う、僕、僕の所為だろう。
開いたままの口から唾液と共に何か音が出た。奴隷時代みたいに言葉じゃない一音が情けなく垂れ落ちる。いつのまにか明滅した視界がぼやけてて、床の色が黒ずんでいた。
四十六番に、まだ助けられていた。今更になって助けたいなんて烏滸がましい酷い。僕がここにいるのは彼のお陰だったのに。
『ラルクって呼んで欲しいっ…………』
「ぅ゛……あ゛ぁ……」
なんで忘れていられたんだろう。なんで今更になって思い出してしまったのだろう。今までずっと思い出せなかった彼に怒鳴った日の自分と言葉がはっきり蘇る。
そうだ僕が言ったんだ。奴隷だった彼に、自分を持っていない生まれてからずっと奴隷しか知らない彼に僕が望んだ。
僕の所為で僕に人生全部譲って犠牲になった。
奴隷がどういう存在かわかっていた筈なのに。奴隷も僕と同じ人間だって知った筈なのに。なんで僕はあんなことを彼に言えたんだ。僕が望んだから奴隷の彼は叶えてくれた。今ならわかるずっと奴隷だった彼は自分よりも僕のことを優先した。
奴隷が人を優先する、そう調教するのがあの地獄だった。
喉が激しく痛むほどに攣った。鼻を汚い音で啜りながら、また嗚咽が零れる。肺も胸も身体の内側全てが痛い。
ラルク、ラルクと団長に呼ばれる声がさっきより近くなる。いつも呼ばれて嬉しかった響きが今だけは鞭で叩かれるより響く。もう呼ばれたくないと思ってしまう。だって、団長に呼ばれるべきは僕じゃない名前も持ってない彼だったのに。
今この場で喉が裂けるくらい叫びだしたいくらい、黒くて汚いものが腹の奥に渦巻いている。嫌だ、なんで僕が、僕なんかが
「団長っ……」
取り替えて取り替えて取り替えて取り替えて僕と彼を取り替えてと。頭の中で何度も叫ぶ。
言おうとすると卑怯者の僕の舌が神経まで痛むように震えて動かなくなる。団長はもう彼がどこにいるか、まだ売られているかもわからないと言っていた。少なくとも処分前の僕と違って四十六番は売り出し時期待ちの状態だから、すぐには処分されてないと。そんな気休め言われたところで僕の罪は変わらない。僕は彼が得る筈だった幸せを奪ってここにいることは一生変わらない。
ここにいるぞ、と団長が僕を揺さぶる。ずっと両肩を掴んでくれていたのだと今気付く。もう時間の感覚もわからない。ひっく、とまだ喉が鳴る。視界が滲んで団長の表情どころか輪郭も掴めない。
「団長っ……団長、だん、団長……団長っ団長っ団長団長っっ……」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
なんで僕なんかを買ったんだ。四十六番を買おうとした理由はなんだ。僕なんかで良かったのですか。買ったこと後悔してますか。……言葉は浮かぶのに、聞くのが死ぬほど怖い。
どうしようもない。過去には戻れない。僕がここで過去の僕を見捨てて四十六番をと言ってもどうしようもない。恩人を困らせて恩人に責任を押しつけるだけになる。駄目だ団長は悪くない悪いわけがない全部僕が悪い。
団長が、何か言ってる。なのに聞こえない。もう自分の鼻をすする音としゃくり上げる音が邪魔だ。あの時みたいに何も喋れなくなれば良い。いっそ収容所の時から口を糸で縫い止められていればこんな悲劇は起こらなかった。
どうすれば彼に謝れる?どうすれば彼に償える?どうすれば今からでも彼に返せる??回らない酸素不足の頭で考えついたのは、本当に苦し紛れな妄想だった。奴隷時代と同じ、また僕は妄想に救いを求める。
顎に力を込め、歯を食い縛る。息を引く音が響き、滲んだ団長の方へ強張る眉間を向ける。団長が今はこっちを見てくれていると信じて、胸を膨らます。
あの頃とは違う、四十六番と団長のお陰で喋れる口で過去の罪に遅すぎる手を伸ばす。団長の肩まで手が持ち上がらず、襟を掴み指にちぎれてもいいくらいの力を込める。
「猛獣使いとして一生かけて支払いますっ……だから……彼を見つけた時、今度こそっ……!」
お願い、お願いお願いしますと。
鏡を見なくてももわかる、酷く醜い険しい顔で乞い願う。荒い息で、フーフーと猛獣のような音で望んだ。
奴隷の値段は知っている。あの店の棚に並んだ商品だったのだから。きっと四十六番は簡単に買える額じゃない。あれから二年も経てばきっと本来の値に近くもなっている。
店ならまだ良い、……たとえ誰かに所有されていても彼を買い取りたい。いやそうしなければならない。
今更償いになるわけがないってわかっている。それでも、今からでも彼を助けたい。今も生きてるかすらわからない。生きてくれていてもまだ今の僕ではたとえ身を売ろうともそんな価値はない。けれどこの先猛獣使いとして一人前になれば相応の額はサーカス団に還元できる。
─ 今度こそ、僕は僕の意志で僕を売る。それが僕の〝償い〟だ。
「……嗚呼、勿論だともラルク。このサーカス団は将来後継者であるお前のものになる。息子であるお前の望みならば、我がサーカス団を挙げて叶えよう」
幸い今は資金もある、と。そうなだらかな声で言ってくれる団長に、僕は歯を食いしばった。頷くことも、認めることもできずただ嗚咽を漏らす。
当時奴隷一人分しか買う資金しかなかった団長は、……少なくとも四十六番一人を買うだけの資金はあった。それを、僕みたいな処分前の奴隷を大事なサーカスの後継者の為に買った時どんな気持ちだったのだろう。
落胆したか、絶望したか、諦めたかもしれない。骨と皮しかなかった僕をそれでもずっと本当の親のように育ててくれた。
そんな団長の優しさも想いも、今日から僕は裏切り無碍にする。
「……ただしよく聞きなさい。これは父親としてではない、団長としての言葉だ」
膝から崩れたままの僕に合わせ片膝ついた団長の目の色が、滲んだ先で淡く光って見えた。さっきの静かさとも異なる、嗜めるような深みのある声だ。
この光に僕は今まで何度甘え、助けられたか数もわからない。この視線もこれからの教えも全てが全て僕のものではなかった。
妄想の世界と同じ、思い込んでいただけで僕のものも未来も本来ここには一つもなかった。
下唇を噛み、団長の声を少しでも拾えるように息を殺す僕に団長の低い声が杭打つ。
「奴隷も貧民もその全ては救えない。だからこそ私達は手の届く者の居場所だけでも維持しなければならない。そしてそこは常に眩いままでなければ意味がない」
どれほど真剣な顔をしているだろうと、頬に伝い落ちる涙に撫でられながら滲んだ先に思う。
悲しくても笑え腹立たしくても笑え、己が意思が保てる限り平静を演じろ。どれほど残酷な現実にも憎き相手にも、希望で溢れ生涯の家族として己だけは振る舞い在り続けろ。明るい世界を自分一人は演じ、貫け。
希望となるたった一人は、死ぬまで舞台の上から降りられない。
「出生も恵まれ生まれながら世界に愛された人間が、このサーカスで生きる必要などないのだから。ここで生きる者も流れ着く者も世界の祝福からは程遠い、私達と同じ側の人間だ。だから私達が愛し祝福する。現実を捨てるのは団長だけで良い」
主柱が一人でも切り捨てれば自分も切り捨てられると誰かが思う。主柱が憎めば自分もいつか憎まれると誰かが思う。主柱が取り乱せば自分の未来にも不安を覚える。……どんな人間も笑顔で受け入れ、柱が笑い続けなければ、この歪で奇跡のような世界は容易く壊れてしまう。
現実を見るな、理想と夢だけを示し続けろ。ここは絶望などない世界だと、国が変わっても世界が変わってもこのサーカスだけは〝そのまま〟であり続けるのだと自分が証明し続けなければならないと、……父親としてではない〝団長〟としての教えがどういうものかは今の僕でも理解した。
こんな時でなければ背筋を伸ばして聞けたはずの言葉が、今は聞くだけで絞められるように苦しい。僕がもらうべき言葉じゃない。
団長に掴まれた手が焼けた鉄のように熱い。この手の熱さも大きさも、なに一つ本当は僕にはなかった。
「ラルク。お前はこの世界で、狂おしいほどに苦しみながら幸福と平穏を演じ、居場所を求める才ある者に手を差し伸べ続ける覚悟はあるか?」
「ッあ゛ります……」
ここは、僕の運命なんかじゃない。
そう頭で嘆きながら、嗚咽の喉と痛む鼻に濡れた顔で嘘と本心を同時に込める。下唇に血が滲み鉄の味が口の中に広がった。
今も滲み歪み続ける視界に改めてこの身を献上する。在るべきじゃなかった僕を受け入れてくれた世界の王に、もう一度僕を買ってもらう。
覚悟はある、最初から。このサーカスと団長の為ならいくらでも苦しんで良い。あの地獄以上はこの世のどこにもありはしないから。どんな理由でも、僕を救ってくれたこの場所を守る為なら何だって犠牲にする。死んでも良い。
骨の芯まで身震いが止まらない僕を団長が抱き締める。ぎゅっと固く強い腕の温かみに、何度心が救われたかわからない。……なのに、今だけは空虚だ。
「必ず彼を見つけよう。私も出来る限り手を尽くす。……大丈夫。希望はちゃんとここにある」
そう言ってドンと強く背中が叩かれ、摩られた。
力強い団長の言葉にほっと胸が落ちるのがわかりながら、涙だけは止まらない。今も僕はこの恩人に隠して騙してる。
覚悟はある。一生かけて働き稼ぎサーカス団の為に生きる覚悟が。その為にも猛獣使いとして、客を呼べるだけの技術を磨く。だけど、団長の語る〝覚悟〟はきっと猛獣使いにではなく〝後継者〟へのものだ。
だから、僕の答えは本心で嘘だ。何故なら四十六番を見つけ、どんな手を使ってでもサーカス団に連れ帰るから。そして
彼に、返そう。
団長の息子も、後継者の座も全部彼のものだ。
僕は異物で、最初から相応しくないどころの話じゃなかった。
僕は猛獣使いとして貢献できれば良い。団長にとっても、四十六番にとってもケルメシアナサーカス団にとってもそれが一番正しい。
喉の吃逆が止まるまで団長に抱かれ背を摩られながらそう決めた。
もう二度と、団長を〝父さん〟とは呼ばないと。
全部四十六番のものだから。




