Ⅲ185.担われし者は馴染みだした。
「ラルク。そろそろ私達の家に帰ろうか」
そう〝団長〟が言ったのは、奴隷だった僕を引き取ってひと月くらい経ってからのことだった。
団長。…………そう、この人は〝家族〟同然の人達に呼ばれているらしい。まだその家族同然の人達には会ったことはない。
僕を買った団長は僕をすぐに家に連れて帰らず、宿に泊まり続けた。医者にも僕の痣を診せてくれて、時間を掛ければいずれ消えると言われた時は喜んでいた。
医者がくれた薬のお陰か、それとも勧められた食事が良かったのかわからない。けれど鏡を見てももう枷の痕は消えた。
もともと奴隷になってから鏡を見ることも殆どなかった僕は、痣が消えてもあんまり実感も嬉しさもなかったけれど、団長が喜んでくれるのはほっとした。嫌われてまたあの奴隷商に売られることを毎日何度も何度も想像した。
団長に買われてから最初の三日か五日は、あんまり記憶がない。
抱き上げられて運ばれた間ずっと涙が止まらなくて離れるのが怖かったことと、あとはこの宿の水場で僕の身体を洗ってくれた団長が「これは酷い」と困ったような声を出したことと断片的で。
医者に診せられた時、最初は頭ではすごい怖くて泣いて震えて団長にしがみつきたいくらいだったのに、何故か身体は不思議なくらい素直で椅子に座ってじっと待った。今でもなんで動けたのか、言うとおりにしていたのかよくわからない。頭や心と別に、身体が勝手に動いていた。
気がついたら僕に一方的に話しかけてくれていた団長は、毎日毎日〝サーカス〟の話をした。毎日似たような語りをしていたと気がついたのも一週間くらい経ってからだった。
団長は、サーカス団の団長で、だから団長と呼ばれている。サーカスは人に夢を見せて喜ばせる仕事で場所。僕も絶対気に入ると言われて、毎日目をキラキラ輝かす団長がどうしてまだサーカスに帰らないのか最初はわからなかった。
でも、帰るというのなら帰るんだとそれだけを今僕は理解する。
「帰ったらご馳走にしよう!もう腹いっぱい食べても良い頃だからな!」
団長がごきげんで荷物を纏め出す。ベッドの上で膝を抱え続ける僕も荷物を纏めるのを代わらないといけないと思って立とうとしたけど、すぐに「ああ座ってて良い!良い!!」と団長に止められる。この人は、一度も僕を奴隷として使おうとしない。
最近は、食事の味がわかるようになってきて〝美味しい〟を思い出した頃だった。
最初はドロドロしたものとかスープとか、昔風邪を引いた時に食べさせられた気がするものばかり食べ続けてた。忘れかけていた綺麗な食べ物にも暫く味がよくわかんなかったのが、パンをかじって美味しく感じた時は涙も出たけどそれ以上にびっくりした。昔は当たり前に食べていたものなのに。………最近は、そうなんだと思い出せるようになった。
ちょっと前までは、本当に売られる前のことは僕の妄想なんだと思いかけていた。団長に呼ばれるまで自分の名前も忘れていた。
団長は、まだ僕の名前を呼べた理由も買ってくれた理由も何をして欲しいかも言わない。僕が一言も喋らないのが悪いのかもしれない。
奴隷だった頃に「まともに喋れないならもう一生喋るな」と言われて喋らなくなったから、言葉が上手く出ない。医者も「舌に傷はないので心の問題もあるかと」と言っていたから、多分喋ろうとすれば喋れる気がする。「あ」とか「お」とか、音はちゃんと出せる。喋るのは駄目でも声は出せるように鞭で何度も背中を叩かれたから。
団長が寝てから独り言を言おうとしてみたけど、言葉の出し方がよくわからなくなっていた。喋ってみたら舌が上手く回らなくて、久々に立った時みたいに自由に動かなかった。変な喋り方や声を出したら処分されそうで、結局まだ何も喋れない。
喋らない僕に、団長は一方的に話しながらなんでか楽しそうで、一人でも僕の分も話してくれてるみたいだった。話し方が早口で、まだ三回くらい繰り返されないと全部聞き取るのは難しいけれど、でも。だけど、団長が
「ラルク!馬車の乗り合いを探そう!!約束は覚えているな?」
僕の名前。それを呼んでくれる時だけは、不思議なくらい耳から頭の芯まで届いたし聞く度に胸が跳ねた。
ん!と音を出しながら頷いて、荷物を纏めた団長に伸ばされる手を掴む。「元気だ元気だ」とそれだけで嬉しそうに頭を撫でられた。
今日まで何度も毎日言われた約束を頭の中で回しながら、一緒に宿の部屋を出た。
絶対一人でどこか行かない。困ったり体調が悪くなったら団長か大人に教える。服を人前でまだ脱がない。奴隷だったことは誰にも教えない。それが団長との約束だった。
命令じゃなくて「約束だ」と言ってくれる団長は僕をどこまでも子ども扱いしてくれる。僕も、奴隷だったことが嫌だから秘密にしたいから団長の約束は絶対守ると決めた。
宿を出た団長と乗り合いの馬車に乗って、何回か食べたり寝たりしながらずっと遠いところに行った。「久々の我が家だ」と嬉しそうな団長はずっと、………僕を買ってから殆どずっと笑ってる。
悲しいとか怖いとか無いのかなと思うくらい、ずっと笑って機嫌が良い。怒られるよりずっと良いけど、母さんだった人をちょっと思い出して不安になる時がたまにある。でもやっぱり僕を買ってくれた人だからちゃんと言うことはきかないといけない。
馬車で日が沈むまで移動して、また歩いて、最後に辿り着いたのは大きなテントだった。
てっきり大きい家を想像したからよくわからなかったけど団長が「帰ったぞ我が家に!!」と叫んだから間違いない。
団長の声を聞いて集まってきた大勢の人達も皆団長のことを「団長」とやっぱり呼んでいて、僕は手を握りながら、団長が大人の人達に怒られるのを見続けた。
今度はどこいってやがったとか、こっちは探したんだぞとか、今度こそ逃げたかと思ったとか、色々言われてたけど一番多かったのは「さっさと公演準備するぞ」だった。
公演、は客を呼んで喜ばせてすごいものを見せてお金を貰うことだって団長が毎日話してたから知ってる。
僕に気付いた何人かが「この子は?」と尋ねれば、団長は堂々とした声で僕を紹介した。新しい〝団員〟で、これから仲間だから仲良くするように。恥ずかしがり屋だが、とても良い子だと。そう聞く大人の人達は皆すごく疲れた顔で僕を見た。
「団長!!うちはとっくに大所帯だぞ!?」
「思い出の地で小旅行はどうしたんですか?郷愁する度に団員増やしたら馬が足りなくりますよ??」
「こんな子どもじゃなくてせめて女の団員増やしてくれよ!圧倒的色気がたりねぇんだよ!!」
ケルメシアナサーカス。そう、テントに大きく掲げられている看板の文字を読む。団長が話していた、世界一のサーカス団。
団長がたくさん言い訳している中、女の人が「ちょっとおじさん達怖いからこっちおいで」と言って手を引いてくれたけど首を横に振って断った。
今度はしゃがんで「ラルクくん?」「年は?」と聞かれて、ちょっと考える。奴隷になる前に九歳だったけど、それから何年経ったかわからない。首を傾げて、団長に年を聞こうと思って手を引っ張るとすぐにこっちを向いてくれた。
団長はすぐに代わりに僕の年を決めてくれたけど、本当の年かはわからない。団長が僕をどこまで知ってるのか、商品の僕は知らないから。
僕をどこで拾ってきたのか聞かれた団長は最初「運命だ!」って言ってたけど、何度も聞かれていたらテントの中に入った時は別の返事を大人の人達に答えていた。
「………。托されたのだよ。この子は将来、私の跡を継ぐに相応しい立派な男になる」
団長は、その後はもう答えなかった。
けれど、団長の言葉に大人達は皆大声を上げてまた騒いだ。「どこの女に押しつけられた?!」「隠し子ってことか!」「この一ヶ月なにやってたんだ!」「昔の女に団長が会いに行ってたってマジだったらしい」と、騒いで騒いでずっと騒いで、結局団長の話していたご馳走は次の日になった。
団長が帰ってくるまでに四人の団員が逃げてて、団長が帰ってきて「昔の女に子どもを押しつけられた」って話が広がって次の日の朝にまた三人出て行った。「めちゃくちゃな人とは思ったけどそんなクズは許せない!」って、三人はみんな女の人だったから、男の団員がすごく怒って落ち込んでいた。
団長も、部屋で一人初めて落ち込んでた。
サーカス団は僕が想像するよりも大勢人がいて、僕の父さんの家にいた奴隷の数を合わせてももっと多かった。でも演目を持ってる人も、そうじゃない下働きの人も皆奴隷じゃない。僕みたいに昔は奴隷だった人もいるけど、奴隷として働く人はどこにもいなかった。
団長に案内されてサーカスを見て回って挨拶して、一番楽しかったのが猛獣小屋だった。
猛獣の意味が最初はわからなかったけど、団長が「獰猛と呼ばれるほど強い動物のことだ」と教えてくれた。どの動物も僕が知る生き物のどれよりも大きくて強そうで格好良くて、僕は一目で皆好きになった。
毎日団長に連れられて猛獣小屋に行って、餌をあげたり毛繕いを見に行って、時々猛獣が触らせてくれるようになった。
許可も貰って、団長と一緒じゃなくても一人でサーカスの中を歩き回ることができるようになった頃。
サーカス団の難しい話はわからないけど、猛獣達のことは好きで、毎日時間があれば猛獣小屋に行って一日の殆どを過ごした。ライオン、象、狼、虎。愛らしい彼らに餌をあげて、手を振って、時々頭や背中を撫でるだけで幸せだった。
時々運動の為に檻から出されて、柵の中で歩き回る猛獣を見るのも好きだった。猛獣と過ごしている間に少しずつ話すのも怖くなくなってきて、自然と猛獣に話しかけることが増えた。
そんな日々が長い間……三ヶ月かそれ以上続いたある日、団長がベッドで寝ようとする僕に呼びかけた。
「ラルク、猛獣使いになってみないか?」
猛獣使いが何かもわからない。
でも、団長が凄く上機嫌で話してくれるのを聞くとサーカスにそういう演目があるらしい。鞭や合図で猛獣達が言うことを聞くのをお客さんにみせる。でもここ長い間ずっと猛獣使いがいなくって、だから開演中は猛獣を遠目から見せるだけにしていた。
僕が猛獣使いになれば、サーカスの演目になってもっと大勢のお客さんがきて喜んでくれる。
サーカス団にいる猛獣は皆貴重で大事で、すごい高い生き物だと聞いた。でも食費がすごいかかるから売れって言う団員もいるらしい。
猛獣芸ができるようになれば、猛獣達も自分の食事を自分で稼げて売らないで済む。団長は猛獣達に思い入れがあって絶対売りたくないから、ずっと猛獣使いが欲しかったと嬉しそうに目をきらきらして教えてくれた。
僕が猛獣達が好きで、猛獣達も僕にすごく懐いてくれている。これは才能だ!運命だ!って両手を広げられて団長テントから零れるくらいの声だった。
「きっとお前の心が綺麗だからだろう。大丈夫、私が一から百まで全て教えよう」
迷わず、頷いた。
団長がやって欲しいと言うならなんでもやりたかった。僕を助けてくれて、奴隷じゃないまま過ごさせてくれて、毎日パンも食べれて、………名前を思い出させてくれた。
サーカスの為にだって何かしたかった。今までだって団長に「まずはここの生活に慣れてから少しずつ始めよう」って言われてそれまでは働いちゃ駄目って言われたからやらなかっただけで、働かないと居場所がある気がしなかった。
僕がどこにいても、睨んでくる人はいても誰も殴ってこないし鞭で叩かないし怖いことをしないこのサーカスが好きだった。それに
人を〝喜ばせる〟仕事が、ここの世界だと明るくて眩しくてとても綺麗だから。
奴隷の時に教えられた、汚いとか気持ちの悪い仕事なんかと全然違う。
サーカスにいる間に何回か見た〝公演〟の舞台は、どれも夏の草原みたいに眩しかった。夜の月の光みたいに綺麗だった。僕もあの世界に立てるなら立ちたいと思った。
僕の答えに団長はすごく大喜びで、早速明日から訓練をしようと言ってくれた。たくさん抱き締められて頬にキスされて「天才だ」「やはり運命だ」って僕が寝るまで思い出す度にくらい何回も唱えてた。
僕はただただ嬉しくて、猛獣達とずっと一緒にいれるのも、やっと役に立てるのも、団長に教えてもらえるのも喜ばれたのも全部が幸せで暫くは苦しいくらいに胸がいっぱいで、被った毛布の裾を抱き締めるように握った。
「おやすみなさい」と団長に言ってから、……………そういえば初めて猛獣以外に話しかけることができたと気付くのは、丸い目で団長が床から飛び起きてからだった。
少し前のことが全部ただの悪夢だったと思えるくらい、幸せな日々は続いた。
もう一生、思い出す必要なんかないくらい。




