そして選んだ。
『これは~あと一ヶ月っていったところだな。どうせ売れないだろ?こんな骨みたいなガキ』
俺が、ここに並べられるようになってから半年くらい後だった。
ずっと檻の向こうを客の入りも仕入れも眺めてたから気付いちまった。仕入れられた時からすぐにあいつだとわかった。久々に見ても相変わらず骨みたいなズタボロで、……垂れた首で目も死んでいた。
俺と違って向こうはこっちに気付くどころか周囲の奴隷に興味も向けていなかった。最初は鎖で引っ張られるまま俺の檻のお前を横切っていった。
俺も声を掛けるのもおかしいと思ったし、奴隷同士の会話も許されないのに商人の前で話しかけようとも思わなかった。そのまま俺の檻からも見えない位置の商品棚に収納されて、半年でさっさと向かいにある処分前の檻に放り込まれた。
あの時も、聞いた瞬間血が泥みたいになって全身にどくどく巡った。
処分って目の前で言われても反応しねぇし前みたいに泣きもしない。
本当に死んでるんじゃねぇかと思うくらい檻の隅で小さくなったままここ数日も餌の時間以外殆ど動かない。……でも、まだあそこで生きている。
上目に覗いたら俺の指差した先に振り返ったおっさんが今度は最初の俺みたいに首を捻った。檻の奥にいるし、身体も細くて小さいままだから多分おっさんどころか今はどの客からも他の奴隷が邪魔で見えていない。
「……わ、たしよりも子ども、子どもの……奴隷です……」
「ほぉ、気付かなかったな。弟……それとも友達か??」
「……………………申し訳ございません。わかりません」
わからない。
聞かれても、本当にわからない。友達がまずどういうものかわからない。持ったこともないし学んだこともない。愛人や愛玩はあっても奴隷にそんな枠はない。
おっさんが……客が、どういう顔をしているのか見るのが怖くなって、さっきまでの直視が嘘みたいに顔も目も真下に向ける。声が変に震えてる。今まで鞭を振られても殴られてもこんな下手は喋り方しなかった。
おっさんは低く唸ると「私は君に素質を感じたんだが……」と考え込むように呟いた。うーむとまた喉を鳴らす間、俺も汗がぼたりと檻に落ちた。
息が変に荒くなって、顔を上げて商人に見られたらと思うと歯まで鳴りだした。上手く自由が効かない舌で、だいぶ遅れてから「ただ」と言葉を紡ぐ。
『やだ!!!!!!』
「でも、……人間だから」
「……君も人間だろう?君だってこの檻から逃れて自由になりたいとは思わないのか。友情は美しいが、君もまたそんなことを言っていられるような状況じゃ」
「違います、私は人間ではありません名もない奴隷です。売られるまで二、三年の猶予もあります。彼は来月処分されます」
急いでいるのに、時間もねぇのに、商人にバレたら俺も死ぬのに暢気に考えあぐねるおっさんに息をまく。気付けば今度は俺の方が早口だ。
完全に立場が反対になったみてぇに鉄格子にしがみつき、口の中を噛んで顔を一気に上げて視界に一人しかいない男に懇願する。自分でもなんでこんなに必死なのかわかんなくなる。ただ客との会話を他の奴らに聞かれて懲罰されたくないからか、あいつに死んで欲しくないのか、それすらも。
おっさんの目はまだ俺に向いていた。変わらず膝をついたままさっきまでのふざけたような笑顔が嘘みたいに真剣な目で俺を見下ろしていた。吸い込まれそうな目に、一瞬息が止まって口を結ぶ。
「すごいな。君は、自分自身が幸せになりたいとは思わないのか?君の心からの答えを聞かせて欲しい。そうすれば私も君の望みに答えよう」
見開かれた蒼色の目の奥が暗闇の蝋燭のように光っていた。
俺を商品として見る目にも、見たことの無い生き物を見るような目にも見える興味の眼差しだった。そこに笑みはなく、真剣な強ばりに近い表情に目が固定されたように動かせなくなる。
さっきまでふざけたおっさんが、今は悪魔か魔王みたいに見える。
言うのが怖いのに、望みに答えろと誘われるように口をパクつかす。開いて、閉じて、自分の膝を無意味に掴み力を込める。喉を見せつけるみたいに反らし、歯を食いしばる。そこで熱い息を吐き出した後にやっと声が出た。
攣った舌を動かして、「はい」と最初似出たのはなれた返事の言葉だった。それでも表情を微動だに動かさないおっさんに、多分足りないんだと理解する。今までのどんな課題より調教より難しい。
聞かれないように声だけは必死に抑え意識する。自分でももう何が怖くて何に背中を押されてるのかも、そもそも怖くて震えてるのかもわからない。
─ 頼むから。
「幸せを、知りません。ですから、欲しいとも思いません。憧れもありません」
「…………そうか……。それを聞いてますます君が欲しくなったが、…………とても、本当にとても残念だ」
私に資金さえあれば、と。泣く前みたいな揺れた声に、眉まで垂らされた顔にやっと意識的に目が逸れる。泣いたことだって俺はないから、どう返せば正解かもわからない。
膝の上に置いてるだけで落ち着かず、腕ごと掴んで胸に押しつける。膝同士をきつくくっつけて、また一回歯を食いしばる。汗が服の舌までべたつくのに寒気がする。息の音が妙に頭にまで響いた。早く見つかる前にと、そればっかりを考える。はやく終わらせてぇならさっさとおっさんの手を掴んでおけば良かったと自分でもわかってる。
指が冷たすぎて感覚がわからなくなって、腕に掴む指で爪を立てた。腕にも痛みが感じない。ここが現実じゃねぇみたいだ。
声が意識しなくても小さくしか出なくなっていた。今まではっきり話すか喋らないしか教えられなかったから加減もわからない。おっさんの顔を見ると、心臓が縄で括られるみたいに苦しくなって腹が痛いようなむずがゆいような感じに締まって止まる。吐き出したいのに、吐くものがあがってこない。
言ったことは、嘘じゃない。本音だ。俺は奴隷だし、別に何も欲しいと思ったことはない。処分されなければ別に良い。殴られないで鞭も撃たれないで餌を貰えればそれで良い。俺にはあんな……
『お腹いっぱい食べたいもっとお水飲みたいきらきらした服着たい汚いことしたくない死にたくない!!ベッドで寝たい寝る前に本読みたい!!』
『暖かなベッドもそれに毎日は無理だがお腹いっぱいまでご馳走もしよう!』
「幸せを知ってるラルクに、全部やってください。サーカスは笑顔にする場所で仕事なら、彼を……そうしてくれないと信じられません」
あんな願い、俺は想像もできないから。
最後には喧嘩を売るような言い方になって、心臓どころか血流全部が破裂しそうなほど脈打った。バクバクと音がうるせぇし、呼吸するどころか顔を上げるのも苦しくなってきた。急いで欲しいからって焚き付けた。怖い。
─ 俺なんかより価値がある生き物だから。
飲み込もうとしたら、全身どころか口の中まで震えていて上手くできなかった。
なんであいつを助ける為に俺がここまで自分の首を絞めることをしないといけねぇのかもわからない。バレるのは嫌だし処分も罰も嫌なのに、あいつがあのまま処分されるのはもっと駄目だと見えない何かに急き立てられる。段々瞬きがわからないまま視界が白黒になってぼやけてきた。周囲を見回す勇気もない。
あんだけ奴隷として自信もあったのに、今は地の底にでもへばりついてるような気がする。あいつもあの時こんなに惨めだったのかと思う。
奴隷の俺だってこんなに全身痛いのに、人間のあいつはきっともっと痛かった。
─名前も幸せもなにも持ってない俺なんかより
「……わかった」
静かな音だった。現れた時とは相反する雨粒のような音と共に、そいつは立ち上がる。
膝の上に置いていた帽子を深く被り直し、手で押さえたまま深々を俺に礼をした。生まれて初めて受けた挨拶だ。
深く帽子を被って俯いた顔は表情も見上げても俺の場所からじゃよく見えない。ただ、その一言に一気に胸が空いたように軽くなった。俺が買われるわけでもねぇのに、何故か希望がそこにはあった。
「〝ラルク〟だったね?」と確認され、馬鹿みたいに何度も頷いた。ぐるりと周囲を確認するように見回す間も、俺も一緒に見回す気にはならなかった。ぽかりと開いた口でただただ仰ぐ。
「君の持つ全てに心からの賞賛と敬意を証し、望みを叶えよう」
そう抑えた声と、はっきりした滑舌で告げたおっさんは皺と汚れがついた上着を翻す。
もう一瞥もくれず俺に背中を向けて、四十四番の檻へと一直線に靴を鳴らして向かっていった。いつの間にかもう周囲は気にならなかった。それよりも見つめる先で、檻の、鉄格子の先でおっさんがまた向こうへ手を伸ばすのを息も止めて凝視し続けた。見つけてくれたと、そう思えた。
四十四番が初めて奥まで出てきて、その手を取った。おっさんが店主を呼んで、檻から出されたのはやっぱりあいつだった。
おっさんは骨と皮になった四十四番を笑顔で抱き締めると、店主に金を払って短いやり取りの後に鎖を外して連れ出した。まともに歩けそうもない四十四番を、鎖を外した後に抱き抱えて店から上機嫌で出て行った。もう俺には一瞥もくれないのに息が深く吐けるほど安心して、扉が閉まって二人が見えなくなった時。
初めて、泣いた。
膝を抱えて顔を埋めて、声を殺して目を絞って泣いた。信じれないくらい急に鼻がつんとして、胸が苦しくて同じくらい熱くなった。
泣き声なんか出したら鞭を打たれるから奥歯を食いしばって、伸びきった髪に顔を隠して誰にも気付かれないようにただただ垂れ流した。
さっきの怖さとは違い身震いが止まらなくて、足の指まで丸めて力を込めてもまだ耐えれなかった。抱えた膝で腹も胸も顎も全部押さえつけても止まらない。
手足が疼いて鼻が啜り鳴るけど、喉が締め付けられて深く呼吸もできない。達成感があるのに、自分の中身に空洞ができたみたいだった。でかい波が二つ混ざってる。
嬉しいのか、悲しいのかわからない。別にサーカスにも興味は沸かなかったし四十四番にも思い入れなんかない。ただあいつが人間で、だから死なせちゃいけないと思っただけなのに。
─ それが正しいと、思ったんだ。
自分の価値を思い知らされて……なんとなく、救われた。




