Ⅲ164.侵攻侍女は止めさせる。
「ジャンヌ、これは……」
ステイルの唱えるような声に、私は頷いて応える。間違いない。
アレスへと自分から手を伸ばし、まるで今やっと目が覚めたかのように紡ぐ彼は疑いようがなかった。
ラルクからの吐露に、アレスから言葉による返事はなかった。ただ凍った表情が、そのまま彼からの答えになっている。きっとまだ目の滴にも気付いていない。
ラルクもまた、待つことなく「なんで」「僕は」と再び声を漏らしている。自分の肩を掴むアレスの腕を支えに、身体を更に数センチ起こしながらもきっとまだ心の整理は付いていない。ぎゅっと目を絞ったところでまた涙が零れて落ちた。
今まではきっとあくまでオリウィエルの洗脳下で、いくら彼女への従属度が変わっていても彼女の味方でいるという意識は消えなかったのだろう。
洗脳が完全に解けるまで、彼はどの段階から自分のしてきたことに疑問を覚えたのか、……もしくは覚えなかったのかはまだわからない。ただ、今の彼にはもう彼女の味方になる理由はない。
〝彼女の為に〟を理由に犯したこと優先したこと全てが、今自分の中で根底から覆され否定される。
それがどれだけの苦痛か、思い出せば私まで身体が微弱に震え出した。
口の中を噛み、自分で自分を抱き締めるように腕を交互に掴む。気付けば伸ばしていた背筋が屈んでしまいながらそれでも立って堪えれば、アーサーとステイルが同時にそっと背に手を当てて支えてくれ自然と息が通る。……いつの間にか息まで詰まっていたらしい。
意識的に呼吸を繰り返し、もう一度アレス達へ目を向ける。変わらず同じ言葉を唱え続けるラルクは、身体を起こすことで精一杯のようだった。
濡れた顔を俯かせ、整った歯の食い縛る音まで聞こえてきた。
「アレス、なんで君は、……団長、団長にっ…………僕は、…………どんなっ……顔で、会えば良いんだっ…………」
ボタタとまた涙の大粒が続けて落ちた。
今までの「彼女の為」という免罪符を失った彼は打ちのめされるしかない。団長はと思わず声を掛けたくなったけれど、止めた。
今、私が言ってもきっと彼には何の意味もない。洗脳下でなくても、彼にとって私達が関係の薄いただの新入りなのは変わらない。彼らの過去も何も知らない筈の私達に何も言えるわけがない。
自分の腕から再び手首をぎゅっと交互に掴み直す。今は、まだきっと大丈夫。
彼が、苦しげな彼がそれでも自分の中での整理をつける時間がある。少しずつ時間をあけて特殊能力が薄まっていた筈の彼なら、きっと今の状況も受け入れられる。
そう願うように思っていると、とうとうアレスが静かに動いた。
片目だけから零れている滴を両目ごと腕で拭う。ラルクに掴まれる前腕を振り払うことなく、二の腕と首の動きで目を擦りつけた。「なんで」と、一瞬ラルクの声かと思うくらい小さな声でアレスが呟きを落とす。
けれど、その呟きもラルクにはまだ届かない。「僕は」「どうして」と繰り返す彼に、アレスはゆっくりと口を開いた。
「…………わ、かんねぇよ。どうしたんだラルク。昔のことまで持ち出してよ……」
起きれるか?と。……降り出した雨粒のようにぽつぽつと溢すアレスは、拭った後はそれ以上もなかった。
眉を寄せ、ラルクの肩を掴んだまま心配そうに顔を歪める。さっきまで凍っていたのが嘘のように自然体に戻る彼は、……きっとついさっきまでのラルクだ。
今、彼女から解放されているのはラルクだけだ。
わかっていたことなのに、アレスからのどこか距離を離すような言葉に私は思わず固く瞼を数秒だけ閉じてしまう。
きっとこの膠着状態の間に、彼の中でオリウィエルを責める要因が無意識に排除されている。彼女の特殊能力がラルクにかかっていたことも、それが解けたことも明白なのにまるでそんなことどうでも良いことのようにラルクに聞き返している。
それでも上体だけでも起こしたラルクをそのまま座った上体にまで起こそうと手を貸す彼は、間違い無くアレス本心の行動だ。自分より細いラルクを腕の力だけで半分引き上げるかのようなかたちで起こさせる。
アレスからの返答に、今度はラルクが驚愕に目を見開いたまま固まった。
信じられないものを見るような、狼狽にも似た瞳の揺れにもアレスは気にせず口を動かす。ラルクの唇が半分開いたまま震えている。
「団長ならどうせ気にしねぇだろ。今もサーカスに入り浸ってやがるし、むしろ何の反省もしてねぇよ。それに、俺のツラもお前はもう見飽きてるだろ。今更平然もなにも──」
「?ま、待てアレス……お前何を言っ……ッ!!」
なんてこともなく言うアレスを見上げ、そこでラルクの声がつっかえた。
操られていたからといって、それまでの記憶がないわけじゃない。今までのアレスを知っている彼にとって、今の発言のおかしさは充分理解できることだ。
力尽くでラルクを起こし、床に伏した状態から座った状態までなんとか起こしたアレスはもう顔色に惑いもない。信じられないものを見るような瞼のなくした桃色の瞳を惑い揺らしながら今度はラルクの方がアレスへ詰め寄るように彼の腕を掴む手をそのまま引き寄せ、……ハッと息を飲んだ直後。
殺気が、走った。
あまりの鋭い殺気に、私まで息が止まった。
反射的に身構えれば、私の周囲にいた全員も同じだった。次の瞬間には鞭の音が激しくしなる。
バシン!!!と、耳に痛い音が響く。足下に滑り落ちていた鞭を、ラルクが拾ってすぐのことだった。彼からの爪のような鋭い殺気は間違うまでもなくオリウィエルただ一人へと向いている。
鞭も、地面をただ鳴らすだけでなく、オリウィエルの方へと先が伸びる形で放たれた。彼女を守るエリック副隊長が下がらせてくれたお陰で彼女にまで鞭は届かなかったけれど、その冷たい音と何より凄まじい殺気は彼女にも阻まれることなく届いた。
鞭を握り絞めたまま下唇を噛むラルクは、歯を立てすぎて血が滲んでいた。殺気の次は、ギラリと光る眼光がエリック副隊長の向こうにいる彼女を射貫く。
もう、彼は彼女の特殊能力下にいない。当然状況だって正しく飲み込める。自分が今まで操られていたことも、操っていたのが誰なのかも、……そこに「好意」さえなければ自分にとって彼女が何なのかも正しく機能し理解する。
ゲームの、アレスルートと同じように。
「この恩知らずが……!!!よくも、よくも僕を一年以上ッしかもアレスまで!!!!」
白い肌を嘘のように真っ赤にして目を光らせる彼は、今は鞭を握る右手だけが震えていた。
今までのラルクからは想像できないくらいの殺気も、荒く太い声も彼のものじゃないようだった。涙の跡だけを残し、今は代わりに顔の熱のまま汗が滲んでいる。崩していた足を片方立て、今にも彼女へ飛び込みそうなほど前のめる。
あきらかな殺気の方向にアレスが彼を直接押さえ止め、カラム隊長も間に立った。息を引くオリウィエルへ正面を向けて庇うエリック副隊長と背中合わせになり、ラルクから彼女を庇う。既にこうなることを彼らも〝わかって〟いてくれた分、動きも速い。
オリウィエルは今にも逃げ出したそうに座り込んだ状態から両手を足下についたけれど、手足が震えすぎてそれ以上力も入らず動けないようだった。もう自分の危機的状況は理解できている。
アレスが肩を掴んだまま、今度はラルクを引き上げるではなく逆に押さえつけるように力を込める中、ラルクはもう目の前のアレスも視界に入らないように男性達に庇われる彼女を瞬きせずに睨む。「死ね」と息継ぎとほぼ同時に溢した。
「死ね、死んでしまえ!ッ殺、してやる殺してやる!お前のせいで団長を!!あの人をあと少しで!!!猛獣達にまで……!!」
「ッやめろラルク!!マジでどうしちまったんだお前!!オリエは悪くねぇだろ!!」
オリウィエルが掠れる声で「違う」「私はやれなんて一言も」と首を振るのを、アレスが倍量の声で上塗り押さえ庇う。今のアレスはそれが正しいと思って疑わない。
アレスに止められ力でも敵わないラルクは、それでも鞭を握る手だけは掴ませない。止めようとするアレスから遠のけるように背後に振り下げ、鞭がカラム隊長の靴にかすった。
ラルクが止められる前にともう一度鞭を鳴らそうで腕を振り上げたけれど、鳴らすよりも先にカラム隊長が素早く鞭の先を踏みつけ止めた。鳴らす直前に止められ、更にそのままピンと張った鞭をカラム隊長がたぐるように掴む。唯一の武器を奪われまいとラルクも両手で引張り返そうとしたけれど、反対の腕はもうアレスに掴まれていた。
「離せ!!」と怒鳴っても、離そうとする人はいない。両手を防がれ、それでも感情が耐えられないように地面を噛む片足をダンダンと無意味に踏み鳴らす。猛獣達もラルクの暴れように異変は感じるけれどそれ以上動く気配はない。「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」とラルクの細い喉から太い獣のような咆哮が放たれた。
ギッとオリウィエルの方を睨んでも、今はアレスとカラム隊長、そしてエリック副隊長に阻まれて彼女の影も視界に拾えないだろう。それでも届く殺気と共に、ラルクは歯を剥き出しに彼女へ怒鳴る。
「今すぐアレスも解放しろ!!!今すぐだ!!さもなければ餌だ!!野犬の餌だ!!肉片一つ残してやらないからなッ!!」
ヒィッと、か細い悲鳴が上がった。
姿は見えなくても猛獣よりも遙かに険しい形相のラルクがもう彼女の目には焼き付いている。そして私には、阻む彼らを貫いて彼女のいる方向を睨む彼の瞳孔が開いているのがわかった。
殺気を纏った眼光が、彼女を何度も何度も空で貫く。ゼェゼェと怒鳴った反動で息まで酷く荒れる彼は、ギリギリと歯を食いしばりまた怒鳴る。「早くしろ!!」と彼女を責め立てる彼にアレスの制止の声も今は届かない。
騎士二人にも守られながらカタカタと震える彼女は顔ごと視線を泳がせ、縋るように虎にしがみつきながら最後にこちらへ向いた。
どうすれば良いのか答えを求める湿った視線に、私達も残されたライオンへ目も向ける。アレスを解放するのなら、きっと次で叶う。……けれど、この状況は。
「……どうしましょうか。〝ジャンヌの懸念通り〟になりましたが、この状況でアレスを戻しても事態が収束するようには思えません」
「マジで肉片残す気ねぇですよ絶対」
こそっと、私に背中を近付けながら首を回して尋ねるステイルにアーサーも潜めた声で続く。
こちらを向いて尋ねてくれるステイルと違い、アーサーは今も警戒するようにラルクとオリウィル両方に目を向けてくれている。二人にも当然尋常じゃないラルクの殺気の余波が刺さっている。
既に懸念としてこうなる可能性を伝えていた私に、二人も今以上は私を彼らに近付けようとしなかった。私が前のめっても固く足で踏みとどまり背で守止めてくれる二人にも、一定距離以上彼らへ迫ることは許されない。
正気に戻ったラルクが彼女へ報復しようとする可能性は、……私が言わずともきっと彼らも頭のどこかで予見できていたことだ。
今まで長期間操られていた彼が彼女を許せるわけがない。
背後に控えてくれるアラン隊長が「俺も動けますよ」と声を掛けてくれる中、目で周囲も確認する。
レオンも、セドリックも、今はマートに守られながらその場から動いていない。セフェクとケメトも激しい怒号に今はヴァルにくっついて彼らを見つめていた。
まだ命令を受けず特殊能力にもかかっていないライオンだけが他の二匹と違い、ラルクを助けるべきか悩むようにオロオロしだした。彼からの鞭の指示を待っているようにも見える。鞭以外でもラルクの殺気に反応している部分もあるのかもしれない。虎と狼も殺気からオリウィエルを守ろうとする意思と、そして殺気の発生源がラルクであることに戸惑ってる。このままだと大惨事もありえる。
私達と同じ考えに至ったのだろう、カラム隊長とエリック副隊長からも私達からの許可を求めるように視線をそれぞれ投げられた。
今も大声で「早くしろ!!」と獣のように怒鳴り上げるラルクはアレスと鞭で止めることはできているけれど、もうオリウィエルは限界だ。ライオンの方へ顔を向けながら自分の力ではそこまですら動けない。
今まで見なかったラルクからの殺気と怒鳴り声だ。きっと腰も抜けている。意志に身体がついていっていない。瞼のない目からボロボロと恐怖で涙がまた零れだしている。表情の筋肉全てが引き攣って、髪を振り乱したまま毛布もベッドからまた落ちていた。
たかがベッドから降りようにも床までの距離を崖の下のように震え、喉を反らす。今は騎士達が守っているから寸前でとどまっていられているだけだ。
彼女がまたパニックを起こす前に手を打たないといけない。
「……ラルク。アレスを解放する為には、まず先ほどまでと同様にライオンに命じて」
「そんなことより殺せば良い!!!」
なるべく落ち着かせた声で言ったけれど、駄目だった。投げかけた私に顔どころか視線も向けることなく、見えない彼女の方向へ火を吐くように怒鳴る彼にオリウィエルが縮み込む。
もうライオンの方に行くのも恐れるように四つ這いから頭を両手で庇い小さく蹲った。細い悲鳴が聞こえた気がしたけれど、アレスの「いい加減にしろ!!」の声に被さった。駄目だこれ以上はもう。
今度はラルクが一人協力の意志を失ってしまった。
当然の感情だと思いながら、私はカラム隊長の方へ視線を合わせ頷いた。もう、彼がこうなったらと私達で決めたことだ。
私からの許可の合図を受け、カラム隊長の行動は早かった。鞭を掴んだ手をそのまま強く引き込めば、握っていたラルクが前のめりる。反対の手を掴んでいたアレスもラルクと一緒に一方向へ引っ張られていた。一瞬に見せたその隙に、カラム隊長が首への一撃を放つ。
アレスと違って細い首へ加減を込めただろう手刀に、ラルクも意識を失うのはすぐだった。引っ張り込まれた勢いのまま床へ崩れる彼を、カラム隊長がそのまま鞭を握った方の腕で無事に受け止めた。更には同時に倒れ込んだアレスのことも反対の手で彼の後ろ首を掴む形で倒れるのを止めてくれた。
軽々と男性二人の体重を止めるカラム隊長に、掴まれたアレスも虚を突かれたように大きく瞬きして止まった。
すぐにカラム隊長に手を離されればもう自立して膝をつく。「わり」と短く謝ると、そのままカラム隊長に抱き留められたラルクを見つめながらゆっくりと立ち上がった。
頭をガシガシ掻き首を捻りそして、背中を向ける。
「オリエ!!大丈夫か?!」
タッ、と。迷うことなく、……怯える彼女へと駆けだした。




