Ⅲ137.観覧者達は見守る。
「あっ。最初はカラム出ないんだね」
演目が始まって間もなく、裏方達が急遽地面に平らな板を並べ終え演目の為に奏でられる生演奏を聞きながらレオンは呟いた。
今までの観客の期待を盛り上げる為の明るい音曲ではない。しっとりした曲調に、進行役の言葉を聞かずとも一呼吸いれるのだと報された。演目の内容と順番はプライド達のものだけ大まかに伝えられていたレオンも、曲の雰囲気とそして舞台に姿を現した女性にこれがカラムの演目だと理解した。
カラムの順番がいつ来るかと落ち着かなかったエリックも、レオンの言葉にぴくりと肩が揺れた。
姿を見せないのに何故わかったのだろうと疑問が過ったが、すぐに舞台の女性の動きを見て理解した。流れる音楽と女性の姿だけではどんな演目かも判断しにくいというのに、一見で判断できるのは流石レオン王子だと思う。
同じくフリージア王国騎士団であるマートとジェイルもまた自然と集中力が研ぎ澄まされた。アランは性格上人前でもサーカスでも平然とやり遂げる安心感があったが、サーカスの印象と真逆とも言えるカラムがどのような姿と立ち振る舞いを見せるのかは当然興味があった。
しかしまだカラムの出番はない。先に姿を現した女性に、それだけでも観客は沸いた。
歓迎の拍手を鳴らし、毎年常連の中には「アンジェリカー!!」と彼女の名を知る者もいる。例年と比べ演目に物足りなさは感じたが、それでもあまりある美しい舞だった。
ドレスとも呼べる衣装の下から細い手足を惜しげもなく見せ、天使のような柔らかな微笑を持って現れた女性は今までの演者とも一線を画した存在感を出していた。
へぇ、とレオンも思わず感嘆の息を漏らしてしまう。夜の水面に似合いそうな静かで厳かな曲調に乗り現れた女性は、純白の羽をまとった白鳥のようだった。
最初に舞台に現れた時は小柄な女性だなと過ったが、舞台の真ん中にまで入った時には姿勢と張った胸の影響でしなやかさも増し小柄という印象を覚えなくなった。ほんの数秒の間、愛らしい小鳥が美しい白鳥に変化する流れは、レオンも心から楽しめる技術だ。
爪の先まで神経が張り巡らされた演舞は、絵画と同じ芸術そのものだ。まるで本物の鳥のように細い足先は単なるステップではなくつま先立ちだった。
「すごい綺麗です!」
「どうやってあれ立ってるの??」
「バレエという舞台ダンスの一種です。ドレスは一般的なバレエドレスではないようですが、靴は専用の物です。あの靴を履いてこそ可能となるステップですが、熟達した技術も必要になるとされております」
美しい女性の舞に、ケメトに続きセフェクも抑えた声を上げれば、隣に座るセドリックが誰よりも先に解説した。
書物や教師からの教養の一種として座学で学んだセドリックも、バレエは知っている。レオンと同様に曲調と、特徴的な女性の靴を見て気付いたが、これほどに一瞬で惹きつけるバレリーナにサーカスで会えるとは思わなかった。
厳格な規律と規範、形式美を求めるダンスだが、舞台の彼女はその身で見事に守り貫けていた。しかも本来必要とされる舞台と違い、板を並べただけの下は砂利まじりの地面の上でこなしてしまえている。
てっきりレオンが答えるかと思った投げかけにさらりと解説をしてくれたセドリックに、セフェクは少しだけ固まり目を丸くしたがそれだけだった。
「ふーん」とお礼までは言えないが、相槌程度は言える自分に心の中で安堵する。ヴァル達と違い、セドリックも特殊能力の掛けられた姿に見えるセフェクだが彼が何者かは知っていれば、声だけ聞けば大して緊張もしない。
あまり話さない相手の為、レオン相手のように気安く会話するのはまだ気が進まないがそれでもちゃんと説明してくれた分は返した。セドリックの解説のままに自然に女性の足下に目がいけば、ケメトがすかさず「あの衣装セフェクも似合いそうですね」と笑いかける。
「フリージアでも主流な芸術文化の一つだろう?見たことないのかい」
「俺様があんなもん見せに金持ちの道楽場へ連れると思うか??」
うーーーん、と途端にレオンも眉を困らせてしまう。確かになぁと、薄い声で相づちを打ちながら自分の発言を反省する。
バレエも主力芸術の一つとされているフリージア王国と隣国であるアネモネ王国王族のレオンもバレエ文化は当然のように目にし、そして文化として理解している。
あまりにも見慣れている観覧物の一つの為、民間の祭りでも大道芸の一つにでもあるんじゃないかと思ってしまったが、そうではないらしいとその場で理解する。ダンスとはいえ、芸術色の強いそれは洗練整備された舞台でしか見られる機会のない芸術であり富裕層の娯楽である。当然下級層育ちのヴァルとケメトもそしてセフェクも見たことがなかった。
そこで不意に気になりレオンはくるりと騎士達へと振りかえった。
アネモネの騎士達も一人は自分も初めてだと告げるように深々と頭を下げたが、もう一人は顔の横に挙手をした。さらに目を向けられたエリックは小刻みに首を横に振ってから頭を下げる。続くマートは小さく人差し指を立てて頷き、ジェイルまた迷わず首を横に振り大きく下げた。
国でそれなりの財産と権威を持つ騎士すらもこの場の半数近くが見たことがないという事実に、レオンは数秒目の前の美しいダンスが頭に入らないほどに驚いた。あんなに美しくて幻想的なダンスを見たことがないなんてもったいないと心の底から思う。
くるりくるりと回転し、大きなステップで跳ねては柔軟な身体を見せるように大きく背を反らす。
観客による柔らかな拍手の音すらもまるで鳥の羽ばたき音のように聞こえ出す。ポロンポロロンと打楽器独特の転がるような音が交われば余計に彼女の躍りの軽やかさが演出された。大きく縦に広げた足が、そのままぺたりと床につけば一部からは歓声とも悲鳴とも判断しづらい声が上がった。
「でぇ?あの軟体芸をこの後赤毛のが見せやがんのか」
「バレエだよ。カラムは普通のダンスで合わせるだけさ。あくまで彼女の補助役らしいし」
気持ちわりぃ、と男の軟体芸を想像し正直に顔を顰めたヴァルにレオンが訂正する。何故美しいダンスを見てその想像なのだろうと少し笑ってしまう。
まずバレエへの恐ろしい雑な理解にちゃんと見てと言いたくなるが、ちゃんと見る以前にヴァルは欠伸を溢したまま腕を組んで目をつぶってしまった。音楽が今までの騒騒しさではなく静かな曲調の為、ヴァルが仮眠を取りたくなるのも当然だった。既にプライドの演目も結果としては無事に終わり、ステイルとアーサー達を一頻り笑った後でもある。
最後の騎士のダンスも笑えるのなら笑いたいが、今は若干眠気が勝ち始めていた。またレオン達が騒ぎ出したら目を開けるかと適当に考えながら、背もたれに身体を預ける。もともとバレエでも社交でもダンス自体には興味がない。しかも踊っているのは厚化粧のガキである。
ヴァルに釣られるようにケメトも目を擦り始めた。女性のセフェクはきらきらと目を輝かせたままだがケメトもまた今の今までで興奮疲れしてしまったところはある。大人の曲といえば聞こえは良いが、つまりはテンポに波もない曲調だ。
せっかくの観覧の機会に寝て終わらせてしまうのが勿体ないとレオンは思いつつも、肩を竦めるだけで諦めた。少し腰を浮かせて確認すればセドリックも集中したように舞台へ集中していた。斜め背後を振りかえれば、あれだけ騒がしかった団長も今は唇を結んで凝視している。理解したい人が愉しめば良いかと、そう思いつつ最後に唯一王族でも関係者でもない女性観客のセフェクに目を向けた。若草色の瞳を輝かせ、両手を祈るように結んではうっとりする姿はやはり女の子だなと思う。
「ほら来た、カラムだ」
舞台の変化を示す拍手の音で気づき視線を戻す。見れば、とうとうアンジェリカを追うようにカラムが幕から姿を現した。
今まで単独バレエを通していたアンジェリカの前にパートナーが現れたことに一部の観客からは驚きの声も上がった。女性からは期待も含んだ声も上がる。
サーカスでも「ケルメシアナサーカスの姫」と呼ばれた彼女に王子が現れることは、熱烈な観客としても期待するところだった。
バレエを踊る彼女と異なり、つま先立ちをする様子もなくしかし伸びた背筋で歩み寄るカラムは、ダンス用の衣装に身を包み鼻から上を仮面で覆っていた。黒一色の前開きシャツと銀色装飾と薔薇で彩られた衣装は、プライドの前世でいえばラテンダンスの衣装にも似ていた。
普段のカラムでは絶対的にあり得ない着こなし方と衣装だが、それでもサーカスの衣装としては比較地味な方である。その演目ごとに個性や派手さ動きやすさを求める衣装と異なり、社交ダンスとしてはあり得ないとはいえあくまでシックなバレエダンスと混合させる為の衣装だ。
更には白の白鳥のようなドレス衣装を身に纏うアンジェリカを際立たせる立場もあった。
似合うなぁ、とレオンは思わず一人溢したが、今度は騎士達の意見は求めなかった。
彼らがどんな感想を言っても、カラムに話題にしたところで彼は間違い無く恥じらうだけだとわかっている。バレエと混合ダンスという目ならば似合いの衣装と格好だが、騎士としてもしくは伯爵家としては着るのに恥を覚える露出と衣装である。
少なくとも自分があの衣装を着て国王である父親の前に出れば勘当されるだろうとレオンは思う。
バレエのステップで回転を繰り返しながら近づいてくるアンジェリカの手を取り、腕の中でカラムは彼女を回す。
あくまでダンスとしての基礎は持つ二人が一時的に合わせること自体は難しくなかった。時には彼女の腰周りを掴みくるりと一周回ってみせ、逆にアンジェリカの方がダンスの途中で軽やかなバレエステップで遠のいていく。まるで海鳥が悪戯に逃げるような愛らしい動きと、そして変わらない繊細な舞の一つ一つに観客も恋人同士の劇を見ているような気分になる。
バレエにも観劇にも縁がなかったセフェクすら、男性が白鳥と戯れている姿と男女が仲睦まじくじゃれ合っている姿が二重で想像できた。
登場から変わらず柔らかな天使の微笑みのアンジェリカと、同じく微笑みのまま彼女を追いかけ腕へ潜らせ時には軽々と持ち上げてみせるカラムは、レオンとセドリックの目にもまさか急ごしらえの演舞には見えない。そして
……大丈夫かなぁ。
そう、レオンは途中から別の心配で唇を少し丸く絞ってしまう。
バレエを踊るアンジェリカも、伯爵家としてのもしくは騎士としてのダンス技術でそれに合わせるカラムも大衆娯楽として見るには勿体ないほどに絵になっている。ただ、それでもあくまでバレエを主軸に要素が傾いて居る分カラムはアンジェリカと組む間のダンスとそして男女としての演出でバレエができないことを上手く誤魔化している。
本物のバレエ観劇と比べれば当然レオンの目にも粗や違和感はわかる。しかし今レオンが気になっているのはカラムがバレエを踊らないことではない。必要としてアンジェリカとの密着が多いことだ。
背後から捕まえたように抱きしめ、腰周りを掴み抱き上げ共に回る。彼女が大きく背中を反らし倒れれば片手で支え、自分も彼女を追うように前のめる。社交ダンスにもある振り付けだが、特に男女の密着する大技が多い。やはり社交ダンスとも本物のバレエとも異なり、あくまで大衆向けの娯楽バレエということもあるのだろうと理解はするレオンだが、カラムの本来の立場を思えば少なからず心配にもなった。
公にはなっていないが彼は大国の第一王女の婚約者候補だ。その彼が大衆の真ん中で女性と仲睦まじいダンスを披露し、しかも恐らくは舞台袖でプライド本人が見ているだろうと予想する。プライド本人は気にせずに見惚れているだろうと思うが、カラムの心情を考えると心配と疑問が同時に浮かぶ。
あくまで潜入任務の一環とはいえ、よく彼はこれだけの女性との密着技の数々を良しとしたものだと考える。
フリージア王国の式典やパーティーを通しカラムと個人的に語らうことが増えた分、レオンもそれなりに彼の人となりは理解したつもりだ。
彼は恥じらいを覚える種の人間であろうとも思考すれば、こういった男女間の密着度が強いものは提案の時点で断っているように思えた。男女のダンスのステップや技は当然密着だけではない。そしてカラムはダンス技術から考えてもそこで代換え案を出すことのできる技量を持っているとレオンは思う。それなのに何故こうまでべったりとするのか。
もともとダンスという技術自体、社交界に出るような立場身分でなければできる人間は少ない。たとえここで貴族二人が社交ダンスを披露しても充分演目としては成り立つ。密着や大技などしなくても、基本ステップと耳心地の良い音楽だけで客を満足させることはできる。
まさかカラムとアンジェリカに短期間で男女の情が芽生えたとも到底思えないレオンは、そこで思考を止めた。
どちらにしても今のカラムはあくまで任務に徹しているだけ、この後に自分のダンスや演出に恥じらいで死にかけても、仮にも婚約者候補となっている相手に見られていたことに頭を抱えても、それを全て周知の上で頑張っているのだろうと考えることにする。誰の趣味か誰の提案か押しつけかは関係ない。そう思った、瞬間。
アンジェリカが、飛んだ。
文字通り宙へと舞った。今までと同様にカラムに抱き上げられた途端、何の前触れもなく空中で垂直に放り上げられた。
わっっっ!!と声が上がるのも束の間に、直後には悲鳴交じりに「おおおおおおっ!!?」と騒然とする声が上がった。ほんの数十センチの浮遊ではない、上空へと上がったアンジェリカの身体は空中ブランコの高台よりも高い位置まで飛び上がった。
まるで白鳥が飛び立ったかのように重さを感じさせない浮遊だ。最高到達点で一瞬の浮遊の直後には、両手を広げた彼女が急下降した。まるで飛び降り事故のような高さに観客からの悲鳴が勝ち始めたが、地面へ落下する彼女をその途中でカラムが当然のように両手で受け止めた。
勢いを掻き消すように彼女を受け止めたまま共にくるくると回れば、観客からも割れんばかりの拍手が上がった。その間、カラムに抱き上げられたままの彼女は、回転のままに両手を広げてみせた。
鳥ように舞ってみせた彼女を、再びカラムは曲の流れと共に天へと舞い放るように手放した。今度は観客も目にとめやすい高さまでが最高到達点になった彼女は、指の先まで美しくピンと張り両手を鳥のように広げてみせた。信じられない高さまで舞い上がる彼女を、本当に正体は鳥なのではないかと幻想を抱く客も現れるほどに美しかった。
姫というよりも、天使か天女かなと。レオンも拍手を送りながら以前に呼んだ異国の本を思い出す。
どの国でも宙を舞う女性というものは幻想的なものだと思い耽りつつ、何故カラムが彼女と組まされたかを理解した。
緊張感を仰ぐドラムと共に落下する彼女を再びカラムが両手で抱き留め、彼女が両手を広げ白鳥の構えで止まると同時に音楽もピタリと制止した。
彫像のように動きを止める白鳥と彼女を抱き留めた男性に、一瞬の耳を覆う静寂の直後どっと目が覚める爆音のような拍手と歓声が鳴り響いた。ヴァルとケメトも流石に目を覚ます大音だった。
白鳥の跳躍と、そして王子の元に戻ったかのような演出の締め括りに男性客だけでなく女性客も感動で手が痺れるほど拍手を鳴らす中、カラムはそっとアンジェリカを地面を降ろそうとし、止まった。中腰になりかけたところで再び背筋を伸ばし、彼女を両腕で抱き上げたまま観客へ向け礼をする。
アンジェリカも一瞬眉を上げたが、観客の手前にこやかな笑顔を維持しそのまま観客へ手を振った。親しげに見えるようにカラムの首を腕を回し、反対の手で観客の声援に応え、時には投げキスを放りウインクを返す。いつもより女性客の興奮した声も聞こえると思えば、締めくくった後にも関わらず再びカラムに自分からぎゅっと首に両腕で抱きつき頬ずりをしてみせた。途端にまた黄色い悲鳴が上がれば、観客に向けて嬉しそうに笑う彼女にカラムもあくまで笑顔を維持した。
そのまま退場で幕の向こうに姿を消すまでもカラムに抱き上げられたままアンジェリカは客席に手を振り続けた。
完璧に何も波風立たず演目を成功させたカラム達に、レオンとセドリックも心からの笑みで拍手を送る。
セフェクも興奮で手を叩き続ける中、うたた寝をしてしまったケメトは少ししか見れなかったことを残念そうに眉を悲しく垂らしながらも拍手を送った。
第一部、アンコールも大勢から響かされる中、ラルクの条件を半分は乗り越えたことに特別席は静かに安堵で包まれた。
……舞台裏が大嵐になり始めていることを、知らず。




