Ⅲ136.舞台裏は張り詰める。
「……またお前か。いい加減僕に構うなと何度言えばわかるんだ」
アレス、と。
ラルクが足を止めたのは大型テントに近接した団長テントを出てすぐだった。怪訝に眉を寄せ、もう何度も繰り返した言葉に一人ため息を吐く。もう回数も忘れた。
面倒なやつに絡まれたと思う。しっかりとテントの扉を外から閉じたことを軽く振り返り確認したところでもう一度アレスに向き直る。
ラルクが舞台裏を去ってから、彼が予備の鞭をすぐに必要とすることはアレスもわかっていた。今や団長を追い出し大事な女性が寝泊まりしているそのテントこそが、彼にとっても半分自室である。大事な予備の鞭も保管しているのも同じ場所に決まっていた。
ジャンヌが舞台で未知の演目を繰り広げている間、アレスにとっては背中を向けて去ったラルクの方が気にかかった。
「またやる気か?」
それとももう仕込んだ後か。その言葉を喉の手前で止めながら、ラルクを見据える。
「なんのことだ」としらばっくれたラルクだが、実際は次の一手のことで頭が埋まっていた。既に一手二手三手と全ての妨害を無に帰された今、断崖に追い詰められたようなものだ。
しかも今から細工をするとしても、一番やりにくいのがカラムの演目でもあった。いっそ上から物でも落とすか、それとも今度は猛獣全てを舞台に、もしくは売上げも諦めて客席に飛び込ませるかとまで考えた。しかしどちらも時間勝負である。
自分がテントを出た時にはまだカラムやアンジェリカも来ていなかったが、細工をするにしても今からでは団員に気付かれずに行うことも難しい。猛獣もライオンを一度放ってしまった以上、他の団員が猛獣小屋で見張りを立てている可能性もある。
時間が無い。今からでもと気が急くままに横を抜けようとするがアレスもまた横にずれ阻む。身体付きや単純な力比べならばか細いラルクよりも遥かに分がある。
「次、カラムとはアンジェもいんだぞ。あいつまでお前らの賭けに巻き込む気か?」
「それがどうした。僕にはどうでも良いことだ」
彼女の為なら、と。アンジェリカではない女性を思い返してラルクが言葉にすれば、アレスの眉も動いた。
妨害をする気だと認めるのと同義だと判断する。今までの単独演目や同じ新入り同士の演目と次は違う。アレスよりも前からサーカス団に所属しているアンジェリカが共に出る。
今までの妨害工作から考えても、ラルクが器用にカラム一人だけを狙えるとは思えない。何よりこれ以上の妨害や事故自体ラルクに許したくはなかった。
「退け」ともう一度ラルクはアレスを押し退け進もうとしたが、それも胸を叩くだけで終わった。ドンと叩かれたまま怯むどころか微動だにしないアレスはじっと睨んでくるばかりだ。いつもならばここで道を空けるのに今に限って阻まれ、思わず歯噛みする。
すかさずバン、ドンと拳を二度両手で交互に振り下ろしたがそれでも微動だにしない。クソッ!と今度は声にも思わず悪態が零れた。
しまいには手首を掴まれ、そのまま自分の方が押し返す形で突き飛ばされた。後にした筈の団長テントの入口に背中がぶつかり、慌てて振りかえりながら離れる。団長テントの内側からは何も聞こえないことに安堵し、ぶつかった背中や肩を払いながらアレスを睨み直す。
そしてアレスも、まともに会話をしようとしないラルクへかまわず一方的に投げかける。
「アンジェと昔は仲良かったんだろ。怪我でもしたらどうすんだ」
「昔のことだ。他の女なんてどうでもいい。僕に必要なのはアンジェリカじゃない」
「アンジェもお前をそういう目で見てねぇし必要としてねぇよ。知ってんだろ」
なんでも同じ言葉に帰結させようとするラルクにも、とっくに慣れた。
問題は賭けにも関係ない昔からの仲間を危険に巻き込むことをやめろと言っているのに、今度は完全にはぐらかすかのようなラルクに少なからずアレスも苛立ち始める。変わらずラルクの前を阻みながら、明らかに先を急ぐ様子にこれはまだ二人には何も仕掛けていないのかもしれないと考える。
ならば余計にここを通すわけにはいかない。そう、考えたところでラルクが鞭を握り直したのを見た。猛獣は既にライオンも含めて全匹檻に確保されているのは行きがけに下働き達に確認できた。
フィリップの縄の仕掛けや空中ブランコは予め仕込む必要があるが、ジャンヌの方は明らかにあの場で妨害をするしかなかったようだった。考えれば考えるほどに最後のカラムとアンジェリカには及んでいない可能が深まる。そして、ラルクがそうまでして妨害をしたがるということは。
「……約束、守るんだろうな?」
フィリップとの、と。
自分もあの場に居たフィリップとラルクの交わした賭けを提示する。約束を守る気がないのならば最初からこんな手のかかる妨害を仕掛ける必要もない。もともとは鼻にかかる程度の存在だった新人達を追い出す為だけの嫌がらせだ。
それが衝動に任せて口約束をしてしまっただけで、別に何の契約書も交わしていない。奴隷の売り買いよりも遙かに緩く立証しにくい賭けに、それでもラルクは必死になっている。つまりは賭けに負けたら条件を飲むつもりがあるという意思表示だ。
アレスからの念押しに、ラルクは答えない。奥歯を軋ませながら目を見開き鞭を大きく振り上げ、止まる。見開いた桃色の瞳が大きく揺れながらも、口はそこに否定も肯定を語りたがらない。
言い返せずに鞭で解決しかけた青年を前に、アレスも怖じけることはない。鞭など今さら怯えるほど痛いとすら思わない。サーカスの猛獣達よりも自分の方が直接打たれ慣れている自覚もある。
それよりも今はラルクが約束のことはしらばっくれないことに胸中で安堵した。
だからこそ、これ以上手を汚して欲しくない。
「っ……あの、我が儘女と昨日今日で組んで上手くいくわけがない。お前達は采配を間違えた。僕は客が呆れて帰るのを見に戻るだけだ」
「成功したら。その時は守るんだな?」
「まだ二部もある。次で決まるわけじゃない」
「二部も成功したら、約束通りその後ろにいる無駄飯食らいにフィリップ達を会わせるんだな?」
瞬間、今度こそ鞭が振るわれた。
バシン!!とアレスにではなく地面へ叩きつけ高らかと鳴らされた音も、大テントの観客による歓声に掻き消される。応える猛獣もいない中、単なる牽制にしからない。それでも、彼女を貶す言葉だけはどうしようもなく許せない。
「取り消せ!!」と怒鳴れば、準備のできていなかった細い喉がところどころ掠れた。
フーフーッと手負いの獣のように息を荒げるが、アレスは気にしない。彼とその背後にそびえ立つ団長テント〝だった〟テントを見比べる。数秒遅れ、観客の歓声と拍手の大きさにそろそろカラムの番が近づいていることに気がついたラルクに我に返るが、アレスより先に行くことは叶わない。慌てて駆け出そうとする身体もやはりアレスの腕で阻まれ、ぶつかりながら突き抜けようとすれば自分の腕を掴まれた。
「言っとくが」と淡々とした口調のアレスにラルクは牙を向き振りかえるが、それも一瞬だった。
「今お前が離れたら俺は今すぐオリエを問いただすぜ」
「なっ……!!」
発言と共に捕まえた手を離したアレスだが、ラルクの足も急激に縫い止められた。
今まで彼女のいる団長テントに誰も入らなかったのは、自分がそれを強く禁じていたからだ。いくら分厚い丈夫な素材であろうともテントである以上入り込む理由は力尽くだけでもいくらでもある。
幹部としても演目持ちとしても権力があり、凶暴になり得る猛獣達をも従わせるラルクだからこそ誰も逆らわなかった。もともと団長代理と銘打たれているとはいえ、団員は誰も危険を押してまでオリウィエルに会いたがるほどに興味もない。
しかしここでラルクが背中を見せればその瞬間、約束の有無関係なくアレスが彼女に押しかけると。脅迫そのものを堂々と提示するアレスにラルクも足をそれ以上動かせない。彼女を守るのは分厚いテントとそして自分だけなのだから。
「お前に何を吹き込んだのか、どこまでがあの女の指示なのか、納得いく説明ができねぇなら俺も手加減しねぇ。髪掴む殴るぐらいはするしフィリップ達の約束みたいに穏便にも終わらせねぇ」
「貴様ッ!!!!」
ぐわりと殺意が一気に研ぎ澄まされる。
合わせるようにアレスからもゴキリと拳を鳴らす音が響かされた。今更女性相手だから容赦するような人間ではないと、アレス自身もそしてラルクも知っている。
とうとう振るった鞭がアレスへ直接振るい落とされ、彼のむき出しになっていた肩を赤く腫れさせた。しかし一瞬だけ顔を顰めたアレスはその後は変わらない。虫に刺されたような気軽さで腫れを擦り、衣装からは見えない場所であることだけを目でも確かめた。
どうせなら鞭を掴み返すことができたら良かったが、すぐに引っ込められた鞭はもう今はラルクの元だ。アレス自身も、いくら鞭を打たれようとも引き下がる気はない。少なくともカラムとアンジェリカの演目が終わるまでは絶対に。
黄の眼差しを静かに光らせラルクを映す。今までは団長が帰ってくるまではと待ち続けた。しかし団長が戻り、そして自分以外にもラルクとオリウィエルを追い出す以外の方法で
『お願いします、協力して下さい』
「あいつらの演目が終わるまでだ。話そうぜ?昔みたいに」
……止める方法があるのなら。
もう自分一人でも、団長と二人でも、サーカス団全員が味方になっても、自分が望む方向には収拾はつけられない。
団長を襲ったことも、ジャンヌを襲ったことも大勢の団員に見られている。ラルクの立場は時間の経過と共に悪くなっている。
ラルクが自分の首を絞めれば絞めるほどアレス自身も逆境に立たされる。このまま全部まとめて見捨てるか、ここで賭けるしか道はない。
その為になら、慣れない作り笑いだって向けて虚勢だって張ってみせる。もう自分にはジャンヌ達しか手段が残されていない。団長の日和見主義も、そして間もなく行われるであろう団員の抗議でも自分の望みはこのままでは永遠に叶わない。
ヘッ、と吹いたら飛んでしまいそうなほど下手な笑顔を浮かべてみせながら、団長テントを背に地面へ腰を下ろす。ここは動かない、もう逃げるラルクを追いかけるつもりもなければ彼が何よりも守りたいのだろう団長テントから離れるつもりもないと態度で示す。
ラルクの次の手も、フィリップ達のように演者を舞台上で上手く補助する方法も頭の足りない自分にはわからない。だからこそ、ラルク一人を止める為だけにここに来た。
いくら大国の大商人であろうとも、名高い騎士であろうとも、少なくとも彼らよりは自分の方がラルクのことは知っている。何より、ラルクと話したいというのもまた、団長が追い出されるよりも遙かに前からの望みでもあった。
他の誰でも無い、自分こそがラルクと話して理解したい。……そうなるべきなのだと思う。
「その為に俺は買われたんだ」
だから何度でも逆らう、何度でも呼びかけ、何度でも刃向かい問いかける。
諦めるなどという権利を、自分は持ち得ないないのだから。
決意を込めて見据えるアレスに、ラルクは整った顔を歪めながらも、震わす鞭をもう振り上げることはできなかった。
……
「それは……大変でしたね……」
お疲れ様です……。と、また一つ終えた演目への拍手の音を聞きながらプライドは自然と笑顔が強ばった。
傍に並ぶアーサーとアラン、そして団員達への事情説明を終えたステイルもまたカラムの話にはまともな笑顔を返せなかった。
とんでもありませんと断るカラムも、言いながら前髪を指の腹で押さえ、眉の間を寄らないようにするのが精一杯だった。自分でも愚痴めいた話になってしまったという自覚がある。
プライド達から今まで具体的に練習はどうだったか、上手くいきそうか自信のほどはと軽い話題を投げかけられたカラムだったが、アランやアーサーにならばまだしも王族相手に嘘や誤魔化すのも躊躇われた。
結果正直に今の今までの報告をすれば、どう言葉を選んでも苦労話とそして全員の不安を煽るばかりになってしまった。
アンジェリカと組むことになってから短期間の間に何度も解散の危機に見舞われながらも練習を重ねてきた。そして真面目なカラムが当日も本番近くまで練習を望むのもまた当然のことだった。
最終調整も含め、アンジェリカからも当時は許可を得て訓練所で誰よりも練習をし……、たかったカラムだが、アンジェリカがそう簡単にもいかなかった。
練習は一度取り組めば最後まで手を抜かずにしてくれる。しかし一回やっては「心の整理」と言って十分以上座り込んで休憩を取り、立ち上がったと思えば気晴らしと言ってサーカスのテントの周りを一周。そこでテントの中を見れないまでも、テントの前で集まっている観客の様子や時には手を振られれば喜ばれやっと「練習やろ!!」と気合いを入れ直す。……という流れを何度も繰り返してきた後だった。合計時間でいえば練習自体は大した時間も取れていない。
本番の出番も近づき、プライドの演目もあって訓練所から場所を移したカラムだったが、お世辞にも満足ゆくまで練習ができたとも、そして完璧ですとも言える域には達しなかった。
「やばぁ、団長めっちゃ見てるじゃん!もうすっご~くやる気でたぁ~!良いトコみせよぉっと」
舞台袖で客席の舞台と団長を覗き見るアンジェリカが今はやる気の方向で盛り上がってくれているのがカラムにとっても唯一の幸いだった。練習を数回しか付き合えなかったことに関しては全く悪びれも無い。
ほんの数ヶ月前までは講師として大勢の生徒をみてきたカラムだったが、振りかえればアンジェリカよりも手のかかる生徒はいなかったと思う。ネイトすらもアンジェリカと比べれば制御も指導もできて素直な方だった。なにより、言動が一貫してくれていたのが今は凄まじくありがたいことだと思う。
あとはもう団長も評していた彼女の演者としての誇りに賭けるしかない。
プライド達からもラルクの妨害については一通り忠告は受けたが、今一番自分が恐れるのはどんな妨害障害よりもアンジェリカのやる気を削がれることである。
二人一組の演目である以上、自分一人の努力と成果ではどうにもならないこともある。少なくとも団長はラルクにも気付かれたとはいえ、できる限り観客席にそのまま置いて欲しいとステイルに懇願した程度にはカラムも精神的に追い詰められていた。今彼女には集中力と、心を支えるものが欲しい。
「あの、カラムさんが充分頑張って下さったのはわかっていますので……あまり、気負わず……!!」
「ジャンヌの言うとおりです。もし何かあってもできる限りは僕らの方で観客の目だけでもごまかせるように助力させて頂きます」
「ありがとうございます。誓って最善は尽くさせて頂きます。……アンジェリカさんからも「直前に私が何を言っても本番では手を抜かないで」と何度も言われておりますので」
もう失敗も仕方が無いと半ば諦めたようにも聞こえるプライドの励ましに、ステイルも今だけは否定はできない。道半ばを前に諦めるなどしたくはないが、ここでカラムに圧をかけることはしたくないのは自分も同じだ。もし二人の間に何があろうとも、瞬間移動でもどんな手を使おうとも誤魔化そうと覚悟する。
プライドとステイルの励ましに、アーサーとアランもそれぞれ頷き声を掛けた。俺もいつでも飛び出しますから!まぁお前ならなんとかなるだろと、気負わないように選んだ言葉をかけてくれる同僚にカラムも口を閉じ感謝する。
「よ~しきたきた~!いくよーカラム!」
「はい……」
そうしている内にとうとう出番が回ってくる。
舞台袖で暢気にはしゃいでいたアンジェリカに、カラムもわずかに腰も低くして従った。「失礼致します」と声を潜めプライド達に礼をしてからアーサーとアランにもこの場を任す。
頑張ってとプライドが最後に両拳を握って応援をくれたのを目に捉えながら、仮面を手に舞台へ踏み出した。
「何卒よろしくお願い致します」とアンジェリカに改めて礼儀正しくも深々と頭を下げるカラムは、今までのどこの戦場へ行くよりも疲れた背中だったようにアラン達には見えた。




