Ⅲ129.侵攻侍女は準備する。
「おい、お前らいつまでそこに張り付いてんだ」
ハァ、とため息交じりに背後から呼びかけられたのは猛獣芸から次の演目のジャグリングに移り、また暫くしてからだった。
ラルクは演目自体は真面目にやっていたし、途中で猛獣を舞台袖の私達にけしかけてくるんじゃないかと「もう一歩下がってください」「腕、前に失礼しますね」とアーサーもアラン隊長も警戒態勢で傍に立ってくれたけれど、二人の護衛のお陰もあってかこちらには動物が視線をくれることすらなかった。……若干ラルクから殺気は感じたけれども。
ラルクがまた舞台裏から姿を消して少し緊張感が薄れてしまったせいか、気付けばまたサーカスの演目に夢中になってしまっていたことを自覚する。
予行演習でもいくつか見たけれどやっぱり衣装や本番の熱気は別物と言えるくらい輝きも迫力も違うもの。振り返った先では、普段姿のアレスがボリボリ頭を掻きながら再び呆れ顔でため息を吐いた。「まさか全部タダ見するつもりじゃねぇだろうな」と言われ、ぎくりと肩が揺れる。正直気持ちだけで言えば団長と同じく客席で手を叩いて観覧したいくらいだ。
アレスに気付いた団員達もひと仕事終えた彼に労いの声をかける中、アラン隊長が軽い調子で「お疲れ様です」とアレスに手を振った。私も慌ててぺこりと頭を下げる。
お互い協力関係ではあるけれど、アレスは立場上は私たちの先輩かつ幹部様だ。ステイルとアーサーからも挨拶をかける中、アレスは聞こえていないように口を動かす。
「暢気なもんだぜ。他の演目持ちはどいつも精神集中か打ち合せで忙しいってのに。言っとくが演者じゃなかったら後ろ頭叩かれてっからな」
フィリップはともかく、と。私達の中で唯一既にお披露目を終えたステイルを置いて怒られる。ぐうの音もでない。
それを言うと実際はステイルも、二部に向けて本来なら予定外に切れた紐の原因究明や打ち合せに追われないといけないくらいだ。けれど今は私が袖で張り付いているのにこうして付き合ってくれている。アーサーとアラン隊長なんて出番はもう目と鼻の先だ。
演者じゃなかったら、というのも仰る通りだ。私達は新入りだし本来ならば下働きの裏方役の皆さんと同じく慌ただしくしないといけない立場なのに、いろいろあって演目持ちだからこうして出番までは好きにさせてもらっている。……約一名、今もアンジェリカさんと共に段取り打ち合せと練習中であろうカラム隊長の真面目さを思うと、余計申し訳ない気分になってくる。
むぐぐと自分の口の中を噛んでしまえば、その間にステイルが話を変えるように落ち着いた声をアレスへ投げかけた。
「そちらこそ全て着替えてしまわれたのですか?二部があるというのに、せめて衣装くらいはそのままでも良かったのでは……」
「うっせー動きにくいんだよアレ。団長に乗せられてもともとの衣装を更にゴッテゴテにミーシャ達が調子乗って弄ったせいで」
ミーシャ、というのは採寸や衣装担当さんだ。基本的には大量の既存衣装を使い回しとサイズ調整で済ませているサーカス団だけど、どうやらアレスの衣装はその中でも手が凝っているものらしい。確かにすごい意匠を凝らしてある印象はあった。正体は隠していても貴重な特殊能力者の演目だしサーカス団全体が彼のお披露目に盛り上がったと言われても納得できる。
あれだけ格好良い衣装を着ていたアレスは、今はもういつもの格好に完全に戻っていた。白く染めた髪も今はしんなりと濡れているだけでいつもの茶髪だ。服も着古したシャツとズボン、右手の包帯まできちりと巻き直した状態で長く数十センチ垂れている。
確かに、二部もあるのに軽く着替えるには完全に切替え過ぎな気がする。動きにくいのはわかるけれど、演者のアレスなら別にいちいち着替えるくらいなら動くような作業は代わりに他の団員がやってくれそうなものなのに。
そう思ったところで、話が聞こえていたのだろう団員さんの一人が眉を寄せてアレスに顔ごと向けた。
「兜までどうした?いつもは衣装だってそのままだろ」
「今日は衣装も脱いだから別に要らねぇだろ」
……その、衣装を脱いだ理由も込みで聞いているのだと思うけれども。
どうやらいつもはやっぱり効率化を考えて衣装はそのままらしい。というか、逆に顔にかぶり物だけしているというのもなかなか面白い状況だなと思う。確かに衣装だけ着ていたらあの兜もしていないと中身がバレてしまう。
アレスの本来の髪色も別段珍しいというほどのものでもないけれど、正体を隠しているのにここでバレてしまっては意味がない。さっきの団員さん達の反応から察しても毎回演目終わる度に髪の塗料は落としているみたいだもの。
アレスの演目は人気も高いだろうし、きっと人によってはあれがトリックではなく特殊能力じゃないかと考えた人もいた筈だ。アレスの安全の為にもサーカス団の為にも正体は隠すに限る。サーカスの大仰な衣装も化粧も全部正体を隠すには意味のあるものだ。
「ずっとアレスはあの演目を?」
「あーまぁな。結構調整難しいがなんとかなってる」
「あそこまで大規模にせずとも、一般人相手ならばお得意の氷柱でも充分だと思いますよ」
ステイルからの提案にアレスは首を摩りながら顔を一度舞台へ向けた。
氷の演出は確かに幻想的だし、派手でお客さんも喜ぶ。けれど規模が大きすぎればその分特殊能力とバレる危険も増すし私もステイルの言うとおりだと思う。
けれど私が投げかけた時はすんなり答えてくれたのに、今度はちょっとアレスは答えにくそうだ。一瞬逸らしたのかと思ったけれど、再びこちらに顔を向けると眉間に皺を寄せた顔で「だめだな」と首を横に振った。
「どうやっても地味になる。あんな舞台の真ん中で氷の棒作っても沸かねぇだろ。殴り合いでもすんなら別だけど魅せ方も限界あんだよ」
「殴り込みした貴方らしい理由ですが、形状や演出の仕方で──……、すみません。やはり氷柱は客前ではやめた方が良いです」
少なくともこの街では、と。なんだかさっきよりも温度の下がったステイルの言葉に思わず苦笑いしてしまう。本当にその通りだ。
アレスの奴隷商殴り込み事件に駆けつけたステイルも、アレスの特殊能力の使い方は察しがついているのだろう。あの時、既に私達はアレスの特殊能力の片鱗を見ている。正確にはその破片をだ。
アレスが両手を構えると、ピキピキと音を立ててアレスの手の中に氷の塊が表出……いや、形成され始めた。氷を産み出す特殊能力じゃない、触れた空気を〝凍りつかせ〟たのだろう。結果できあがったのは氷柱というよりも、氷製のバットだ。せめて氷のステッキとかにできれば素敵だったのだけれど、細かい形成は難しいらしい。この無骨さじゃ確かに鈍器が精一杯だろう。あとは右手の包帯でぐるぐると持ち手部分になる箇所を巻けば、自分の氷にも手を冷やされない。
だからって奴隷狩りの総本山に鈍器片手で殴り込むのはどうかと思うけれども。
「確かに氷柱ってほど鋭くもないっすね」
「氷の剣とかできないんすか?」
右手の包帯越しに掴んで見せてくれるアレスに、戦闘組織ど真ん中のアーサーに続きアラン隊長まで物騒な希望を出す。
つんつんと氷のバットの先を指先で突くアーサーも、そして剣所望のアラン隊長にもやっぱりアレスの持っているものは武器にしか見えないらしい。
「無茶言うな」と眉を寄せるアレスは、そのままポイとゴミのように氷のバットを投げ捨ててしまった。なかなかの硬度なのか、最初に表面だけが破片を飛ばした後は割れることなく塊のまま地面に転がった。アレスの特殊能力を見慣れている団員達と大して気にすることなく、そのまま後ろ足で隅に蹴飛ばしてしまう。
本当にあの時はすぐにアレスが見つかって良かったと、一人肝を冷やして考えていると、自分の湿った横髪をガシりと掴んだアレスと急に目が合った。続いてステイル、アーサー、アラン隊長の方にも順々に鋭くした眼差しが向けられていく。
気付けば雑談に付き合ってくれたアレスだけれど、そこで一度しっかりと閉じられた口がおもむろに開かれる。
「……そういやラルクは。どうだった?お前らずっとそこだったんだろ」
あっ、と。アレスがわざわざ話を続けてくれた理由をやっと理解する。
本当ならもっと早く注意された舞台裏から離れさせられたところだ。それを立ち話に付き合ってくれたのも、これを尋ねてくれる為なのだろう。
ラルクの登場と殆ど入れ替わりでテントを出たアレスだけど、戻ってきたのはつい今でラルクとは入れ違いだ。賭けだけじゃなくさっきのステイルの件もあるし、心配してくれたのかもしれない。
私から「問題ないわ」と言葉を返せば、アレスの肩が今まで少し上がっていたのだとわかった。
「僕らは全く目も向けられませんでした。……団長には、気付いてしまったでしょうが」
ハァ、と。直後には発言したステイルだけでなくアーサーとアラン隊長からも似たような溜息が溢れた。気持ちはわかる。
仮面にヒールで見事猛獣披露をこなしたラルクの演目中、レオン達の客席に隠れるどころか嬉々としてレオンの背後に立つし指差すし演目後にはよりによってラルクに向けて手を振るしで、もう猛獣の火の輪くぐりよりもそっちの方が心臓に悪かった。
途中でレオンが半強制にか座らせてくれたのにそれでも自重しないなんて!エリック副隊長も表情こそ遠目で見えなかったけど絶対困ってた!!レオン達の護衛よりも団長のおもりの方が大変そうだった。
一度は「ハァ?!」と声を上げたアレスだけど、ステイルからそのまま団長の奇想天外行動を説明されれば最後にはパシンと自分の目を片手で覆った。
「あのジジイマジで大人しくしねぇ……」
「ご苦労様です」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
オツカレサマデス、とステイル、アラン隊長、アーサーを追うように私からも同じ言葉が出てしまう。
多分、本来なら舞台の人だからいくら前に出ても問題ない……というか前に出てこそなところがあったからこういう苦労も問題も生じなかったのだろうなと考える。こんなにひっそりするのが向いていない人も珍しい。
せめて少しでも気を取りなおせればと、私からもう一度取り敢えず私達は何もされてないし言われてないことを繰り返す。
「団長も今の所無事だし、きっと客席にいる分は大丈夫じゃないかしら……?今は私達の賭けの方が優先でしょうし」
「あー!そうだった。お前ら、アランとアーサーはもう出番だろ。そろそろ配置ついとけ」
ハッと今思い出したとばかりにアレスは顔を元の位置に手も下ろすと、そこで斜め上を指差した。ちょうど裏方さん達が空中ブランコを上の台に設置固定し始めたところだった。繋がる梯子もすぐそこに垂れている。
確かにもう今やっている演目の二個後だ。演目順の中では後半の印象だったのに、そろそろ配置についておかないといけない時になってしまった。
「一応空中ブランコの用具器具は思い付くだけ確認しといてやった。取り敢えず紐切れるとか台が割れるとかはもうねぇから安心しろ」
「「もうねぇ」っすか?」
「……………………」
純粋なアーサーからの指摘に、アレスの目が今度こそはっきりと顔ごと逸れた。
……つまりは、そのどれかもしくは全ての細工が空中ブランコに施されていたということだ。
そして流石アレス。事前に安全確認は団員達にされている筈なのに、いつの間にか再度安全確認をしてくれていたらしい。さっきまで戻らなかったのも、着替えとかに時間がかかったのじゃなくてラルクがいない間に器具の安全確認をしてくれていたようだ。
私達に不安を与えない為にか無言を貫き通すアレスに、アラン隊長が苦笑しながら「ありがとうございます」と頭を下げた。アーサーも一拍遅れてお礼と一緒に勢いよく頭を下げる。
「行きます!」と気まずさを振り払うようにアーサーが声を張り、直後にアレスとアラン隊長に同時に口を塞がれた。
忘れるけれど舞台袖で大声は厳禁だ。すみません、と打って変わってアーサーは一気に背中まで丸くなってしまう。ステイルに「行ってこい」と背中を叩かれてやっと背筋が元通りに伸びた。
びしりとまっすぐの背のアーサーが、そこで私の方に向き直る。
「……それじゃ俺ら離れますけど、ジャンヌは気をつけて下さい。フィリップ、お前も離れんなよ」
「空中ブランコ終わったらすぐジャンヌの演目ですから。アーサーはすぐこっち戻りますし俺もブランコ台の上で見てますね」
「あーそうだトランポリンは俺も確認できてねぇ。舞台に出されちまったままだ」
「開幕前の確認では問題ありませんでしたが注意しましょう。最悪の場合、トランポリンに違和感を覚えたら続行せずすぐ降りて下さい」
アーサーとアラン隊長に続き、アレスからドキリとする報告に少なからず口の中を飲み込んだ。ステイルには念を押されるけれど、その場合ラルクとの賭けは負けたも同然だ。出しっぱなしのトランポリンが無事だと願いたい。
これからアーサーとアラン隊長は上空の空中ブランコに配置し、そして二人が出たらそのまま私が飛び出す段取りだ。
私の大型トランポリンは最初からだと張るのにも点検にも時間がかかるから、定位置に張られたままだ。既に他の演目でも飛び込み台や万が一のクッション代わりにも使われているから、今更何か怖い仕掛けがされているとは思いがたいけれど油断はできない。
私が頷くのと殆ど同時に、舞台の方から喝采が沸いた。演目がまた一つ、無事に終わる。
私達の出番はもうすぐ、そこだ。




