Ⅲ124.義弟はやられる。
─消えれば良い。
その意思の元、青年に迷いはなかった。
団員達の横を堂々と抜け歩みながら、自身が犯したことに胸を張る。後ろめたさもなく、あくまで成果の確認の為だけに足を進ませる。
すれ違う団員達はそれぞ気づいた者同士顔を見合わせ、もしくは振り返るがそれ以上は何も言わない。彼に言いたいことは山のようにあるが、しかし今回の演目に出すことを決めたのは彼ではなく団長だ。
それに、事実としてサーカスの目玉の一つでもある彼の演目を抜かすわけにはいかなかった。何年もサーカスとして求められ、ようやく復活した大事な大事な演目でもある。
それを演者が気に食わないという理由で演目表から抜くことはできない。そして、演者となった以上は彼が舞台裏に訪れたところで攻めるわけにもいかない。
たとえ、本来であれば団長をテントからもサーカスからも拒び、代理を名乗った彼らこそが責任をもって開演挨拶をすべきだったと今も攻めるべき理由を持ち合わせていようとも。
結果として通例通り正真正面の団長本人が開演挨拶をできた。しかし、その後にいつもならば舞台裏で自分達を必ず順番に鼓舞してくれる彼が、今は青年に見つからない内にとまたどこかへ消えてしまった。それだけでも演者達には言葉にはしないまでも不満は肺にまで渦巻いた。
振り返る中には彼へと眉間に皺を寄せる者もいるが、青年はそれを気づいた上で気にしない。そもそも彼にとって〝その他大勢〟のことなどどうでもいいことだ。
大事なのは彼女ただ一人。その彼女の為ならば誰にどう思われようとも良い。そして罪もない彼女へ牙を剥く害獣などは一人でも二人でも何人であろうとも
─……死んでも、良い。
ぽつりと、声には出さずとも今度は小さく唇が動いた。
もともと団体行動を好む方ではない。そして今では一秒でも彼女とともにいる為に団員達とは一線を引いての単独行動が殆どだ。彼女の次に大事な動物達の様子を見に行く時すらも他の団員達にははち合わないように時間をずらしている。だからこそ、……こっそりと細工をすることも難しくなかった。
子どもの頃からサーカス団を我が家にした彼は、大道具がどこに置かれ本番前にはどのように保管されているかも当然のように知っている。
小道具大道具を使用する系統の演目であれば、本番前の予行練習で全てを本番そのままに使うわけではない。そして本番を前にも大道具の最終確認が何分前に行われるか。いつ、どのような細工であればバレることなく本番まで維持することができるか、何よりも演目によってどのような〝事故〟ならば起こりやすいかもよく知っている。
今は反逆する立場であろうとも、ケルメシアナサーカス団を内側から見てきたのだから。サーカスを深く知れば知るほどに、避けるべき事故もそして避けにくい事故も知っている。
大恩ある筈の団長すら猛獣の餌にしようとした彼が、たかが昨日今日入団した他人に躊躇う筈もなかった。失敗さえしてくれれば良い。無事でも怪我でも死んでも、向こうの失敗として処理されればあとはどうでも良い。大事なのはあの賭けに自分が勝つことだ。
─それが彼女の為になるならば。
その意思を元に、証拠を一切残さなかったラルクは足音を殺して舞台裏から袖へと歩む。
新入り仲間の演目を固唾を飲んで見守っている様子の新入り男女とは反対袖で、幕の影に細く白い身体を隠した。
昔から団員達との関わりが得意では無かった彼は、舞台袖で誰にも気づかれず舞台をこっそり眺める場所も方法も熟知している。腕を組み、呼吸も浅く冷たい眼差しで舞台を見つめた。ちょうど新たな演目の紹介が始まったところだ。
面倒な新人の中でも、最も不快な新人が青白い顔を化粧で隠して舞台に立っている。
そのまま観客の視線に焼かれて卒倒してしまえば良いのにと、舞台の別世界を知っている彼だからこそ思う。舞台に立ち始めたばかりの今の時点で顔も火照りのせいかじんわりと汗をにじませたのが、明かりに反射して見えた。やはり客前では緊張しているかと、心臓の小ささを鼻で笑いながら今は口を結ぶ。
その調子で緊張のまま本当に間違いを犯せばそれこそ本当に命を落とすこともあり得るだろうと、他人ごととして思った。
……
「あっ。あれだね、フィリップ殿」
「おぉ!!フィリップ殿!」
観客席でとうとう待ち人が一人現れたと、レオンとセドリックがほぼ同時に声を漏らした。
その途端、さっきまで背もたれに体重を預けていたヴァルも少し前のめりに背を浮かせる。共にセフェクとケメトもまた限界まで舞台へと首を伸ばす。前日にステイルを介してヴァルに会っている二人も、ステイルの仮の姿は知っている。しかし数回会っただけで服も化粧もいつもの全く違う彼では流石に気付きにくい。護衛のアネモネ騎士達のように仮の姿も見慣れているわけでもない。しかも今は仮面付きである。
舞踏会などで使用することの多い、目と鼻までを隠す芸術的かつ装飾過多な仮面もしている彼はセフェクとケメトには面影も感じられなかった。
追うようにして声を張る進行役から「脅威の空間魔術師!」と二つ名が語られる。
「フィリッピーニ!!」
ヒャハハハハハハッ!と直後には歓迎の拍手に紛れて高笑いが放たれた。
仮面と派手な衣服だけでも笑う要素としてヴァルには充分だったが、それでもまだ堪えられた。にやにやと不快な笑みこそ浮かべて嘲っていたものの、ステイルの主張する部品が全て塗り隠されていたようなものだ。
あんなふざけた衣装をあの王子がと思えば笑えたが、仮面が邪魔で本人の素っ頓狂な格好としては笑えない。仮面さえ外されていれば指をさしてもっと早く大笑いできた。
しかしそこにダメ押しと言わんばかりにまた派手な名である。もともと仮の名が聞き慣れていた分、無駄にそこに装飾をつけて大仰にしたように聞こえる響きは充分ヴァルにはおかしかった。
ステイルの性格を知っていれば、そんな陽気な名前はつけないと。レオンもヴァルの爆笑を横に困り眉を垂らしながら少し思う。
そう言うヴァルの方が本来の名からもっと掛け離れた名を命名されかけられていたのに、と言葉を飲み込んだ。ヴァルがその名に殺意を溢したのをよく覚えている。
意外に自分の名前に愛着あるのかなとも思ったが、単に名前の趣味が合わなかったからだろうと考える。今もフィリップの芸名がふざけた名前というほどでもないに関わらずこの爆笑だ。
脱出劇、と。ステイルの演目についても共有済みのレオン達もそこには驚かない。むしろ何よりもステイルらしい、上手く楽な演目を考えついたものだなと思う。
舞台の真ん中で縛られた状態で箱に入り、空気穴だけを開け完全に外側から閉じた箱を釣り上げる。六十秒以内に脱出劇できなければ吊り上げた下の水槽に落ちる。そう進行役から劇的な口調で語られながら、大道具や機材が次々と裏方達に運び込まれた。
巨大な水槽や宙吊りという危機的な環境に観客の目が輝き呼吸が早まった。
最も注目されるステイル自身もまた、進行役の語りと共に縄で縛られた。背後に回した手のまましっかりと結ばれるのを観客に背中を向けて示す。
「フィリップって縄抜けもできるのかい?それともそういう結び方かな?」
興味深そうに呟くレオンに、ヴァルは頬杖を吐きながらうんざり息だけを吐く。
ステイルの瞬間移動を人や物資でばかり目にしてきたレオンと違い、ヴァルはステイルの縄抜けも知っている。説明をしようか口が半分開いたが、すぐに閉じた。自分が言わずともレオンならどうせすぐに気付くに決まっている。
進行役が続いて仕掛けが何もないことを示すべく、挙手した観客を選び舞台まで招いた。選ばれた身体付きの良い大柄な男にも縄を渡し、同じように今度は腕から身体を密着するように縛らせる。更に手の方もしっかりと固定されていることを確認させた。
これで完全に彼は手が使えません!と高らかに宣言されながら、とうとう箱の中へとステイルが自ら向かう。背後に何もない舞台中央、建物でもなく足元は細工の仕様もない剥き出しの地面。そこで箱が閉じられ、鎖を巻かれ最後に施錠もされた。一個、二個、三個と数え十個も鍵を外側からかける。そして高々と掲げられた鍵を客の目の前でトンカチを使い破壊する。
天井の空気穴以外、箱に包まれ客からは姿が見えない箱を吊り上げる直前に存在確認をする。
コンコンと進行役がノックをすればキックで返され、更には貴方の名前は?と尋ねればフィリッピーニと返ってくる。間違いなく箱の中に存在すると証明したところで、とうとう箱が吊り上げられた。
地面からも離れ浮かされ、ゆっくりとその下に水槽が移動される。
脱出が遅れたら水槽の中で空気穴から溺れ死ぬと不安を煽る進行役の語りを聞きながら、彼の関係者であるセドリック達は種も仕掛けもある演目として見せられていることに胸が高鳴った。今度はどんな演出をしてくるかと期待を込める。こんな大掛かりな手品自体セドリックやレオンも見たことはない。
水槽が完全に箱の真下へ設置されたところで、緊張感を煽るべくドラムの音が鳴らされた。
「それでは皆様ご唱和ください!」
六十秒!本当に箱の中から逃げ出せるのか?!と。そう喉を張りながら指三本を観客へと高々掲げた。
背後に置かれた秒読み時計が合図と共に針を回し出す。六十秒。逃げようもない空中の、舞台の真ん中で。どうやって逃げ出すのかと客も様々な想像を巡らせながら手に汗握る。六十!と最初のカウントを始めれば、観客も目を爛々と輝かせて声を上げた。
フィリッピーニの正体を知らない観客だけでなく、セフェクやケメトも全員でのカウント唱和に満面の笑みで数を重ねる。
59、と。次の数を進行役は両手の指をわかりやすく折りながら水槽の周りをくるくる巡る。頭上では裏方役であるレラが両手で巨大な鋏を手に、地味な格好でしゃがみ控える。
あくまで主役はフィリップ、彼女は時間通りに水槽へ紐を切り落とす装置代わりで客に主張する必要はない。この後の展開を知らない客よりも掌を汗でべったりと滴るほどに湿らせ、ガクガクとしゃがんだ膝まで震わせながら今も呼吸を整えた。
目立つ仕事でもなければ自分が客の視線を浴びるわけでもない。しかしこの手に人の命が掛かっていると思えばそれだけで呼吸が荒くなる。大丈夫、大丈夫、時間になったら切るだけと心の中で繰り返し高速で唱えながら、進行役の58のカウントにも聴覚を研ぎ澄まし
ブチンッ。
何の前触れもなく、吊り上げていた紐が千切れた。
鋏で切った音とは異なる、紐の繊維同士が耐えきれず引き離された音は進行役のカウント後の呼吸で綺麗に観客にまで届いた。直後にはバッシャーンッ!!と激しい水柱が水槽から走り、客にまで水飛沫が飛んで顔や服を濡らした。
しかし水が掛かってきたことよりもたった二秒で箱が落ちたことへの悲鳴の方が遥かに大きい。
突然の箱重質量と共に水槽の水も大きく減ったが、当然箱が完全に沈没しきるに足る量は残っている。三十秒の時間猶予どころか二秒だぞと客が騒ぎ、中にはこれも何かの演出かと冷静でいようとする者もいる。しかし騒然とするのは客だけではない。
鋏を手放し、目の前で自分が切る予定とは別の部分から縄が千切れたことに腰を抜かす裏方のレラは茫然と水槽を見つめたままだった。
呼吸も浅くなる中で、バタバタと箱を吊り上げていた団員の方が表に出てくる。「どういうことだ⁈」と血相を変えてレラに状況を確認する。これもフィリップの演出なのか、それともレラの起こした事故なのか、機材問題かと答えによって自分達の行動は変わる。
自分じゃないとフルフル首を振るレラの蒼白とした顔に、力自慢の団員も演出ではないと理解する。振り返ればぷくぷくと今も箱の空気穴から泣け無しの酸素が溢れている。
舞台としては最悪だが、しかしこのまま死人を出すわけにはいかない。先ずは紐が切れた今は改めて吊り上げ直すこともできない今、水槽ごとひっくり返すしかない。
「おい誰か手を!」と騒ぎに気付き舞台裏から顔を出し始めた男手に呼びかけようとした、瞬間。
「だ、だだだだめ!ディルギアさん!!ま、まままま、まだ!まだあと、えっと20秒は……!」
ハァ?!と団員のディルギアは舞台であることも忘れて声を上げる。
腰を抜かしたまま自分の足に縋り付くように両腕を回してしがみついてくる女性に、ディルギアも他の男団員へのように雑に扱えない。しかしだからといって止められることには声も出れば顔も険しく歪んだ。
20秒と、その時間が秒読み時計を見れば何のことかすぐにわかった。しかし今はそれどころではない。20秒後にすぐ助け出せるわけではない。水槽を倒せても申し訳の空気穴から入った水を排出するのも時間がかかり、鎖や鍵を開けるのも時間がかかる。その間に箱の中身が溺れ死ぬなど、安易に考えられる最悪の事態だ。
そんな場合じゃねぇだろ!と怒鳴るディルギアにそれでもふるふる首を振るレラは、涙目のまま震える舌を回す。
言われたから。絶対何か不測の自体があっても秒読みが終わるまでは開けなくて良い。秒読みが終わっても何も起こらなければその時だけ助けて下さいと。何度も何度も呆れるほど繰り返し確認しては答えてくれたフィリップがそう言っていたのなら、ここでカウント中は手出しさせないのも確認をとったレラの責任である。
そうしてレラが聞き取りづらい声と吃り言葉で説明している間にも時間はあっさり経過する。
客席では団員の決死のやりとりに進行役すらも客に何の煽りも呼びかけもできず顔色を変えていく様子に、不穏が早々に広がっていったその時。
ビチャン、と。
一人の男が客席を横切り舞台へと一直線に進み出す。
騒然とした観客と誰もが舞台に夢中になる中、彼が客用入口から入ってきたことに、打ち合わせしていた最初は進行役も気付かなかった。むしろ失念していた。
見覚えのある衣装に、気付いたら客から先ほどまでの不穏の悲鳴から歓喜と驚愕の声へと変わる。一際高く上がった悲鳴や歓声を合図に他の観客も顔を向けては声を上げ、拍手した。
同時に水槽をひっくり返そうとした団員達も手を止め、進行役も目を皿にしながら笑顔をつくる。
「おっと?!」と戯けた声を上げ、手で差し示しながら彼へと身体ごと向けて声を張った。
「ご覧下さい!!水槽の中から彼が帰ってきました!!」
進行役の声に続き、本格的に歓声と拍手がテントに湧き出した。
大勢の注目を浴び始めたことに、ステイルも表情筋を働かせ慣れた笑顔を作り高々と手を振った。今は舞台、今はまだ客の前だと自分に言い聞かせながらもたった一つの苛立ちを内側に隠す。
ちらりと顔を向けた先で偶然にもセドリック達が視界に入ってしまえば、ピキッと眉の間が狭まりかけた。すぐに顔ごと逸らし、直後には客席の仕切りを飛び越え、舞台に乗り上げる。
無事に生還したことに、進行役も完全に調子を取り戻し「奇跡の大魔術です!」とステイルの代わりに語る中、本人は愛想の笑みを守ることで精一杯だった。
急ぐことなく水槽から箱が取り出され、時間をかけて中身を開けて見せればそこには解かれた後の縄だけが残されている。そこまで見せたところでやっと演目の出番が終わった。
大勢の拍手に大振りの礼で答えながら、最後に舞台へ戻るべく振り返ればその瞬間舞台袖にいた青年が目に入った。自分へ目を見張り、信じられないものを見るように驚愕に染まっているのを確かめながら、もうステイルは笑顔を作らない。
客に背中を向けたところでそんなものは一瞬で消えていた。紐に細工をした犯人へしてやったことよりも今は
─ せめて二十秒保つように細工しろこン野郎……!!
ぐしゃりと。濡れて滴る髪を掻き上げながら、仮面を外して睨んだ。……髪同様、ずぶ濡れの衣装と共に。
目の色など関係なく鋭く研ぎ澄ました眼光をラルクへ向けた。
最初から何かしら細工されることはわかっていた。むしろ誰か狙われるなら自分がなるようにと敢えて煽った部分もある。仕掛けがされた箱が開かないように細工するなり、鍵や鎖や他にも妨害方法はいくつも考えられた。だからこそダメになっても良いように箱を含む大道具もなるべくサーカス団の使い古しを選んだ。
しかし結果、その中でも最もステイルがやって欲しくない妨害工作だった。
びしゃりびじゃりと歩くだけでも身体が重いのを感じながら、殺意をなるべく抑える。はためかせたマントも、今はただの滴る重しだ。
本当ならば落下を感じた時にも瞬間移動で抜け出すことはできた。しかし、たった二秒。この二秒で抜け出したら客に最初から箱に入っていないのではないかと疑われかねない。説得力の為にもわざと落下からきちんと全身が濡れ切るまで箱の中で待ち続けなければならなくなった。
箱の隙間から水を浴びながら、危機感はなくとも不快感と戦いながらの数十秒だった。これが二十秒過ぎたくらいならば少し濡れてる程度で誤魔化せたが、たった二秒では完全に濡れておくしかない。
びしゃりぴちゃぴちゃと水浸しのまま歩けば足跡が綺麗に地面に残った。
自分が舞台に戻ってきた時、視界の中でセドリック達の目が丸くヴァルが指を差して爆笑しているのも気付いてしまった。
自分が無事に現れるだけならば驚かなかっただろうレオン達も、衣装だけでなく全身濡れた姿の自分の姿に虚をつかれるのは無理もない。
それを脳裏に思い出せば余計に黒い気配が身体を覆う。
犯人をわかってのであろう自分への眼光に、ラルクはぐっと歯噛みをしてから一歩下がり背中を向けた。
逃げる背を睨みながら、ステイルは改めてこの舞台は敵が客ではなく彼なのだと認識を確かめる。フン、と一息で鼻を鳴らし幕の裏側に入り切ってから早速重くなった上着を力任せに脱ぎ出した。
事故らしくみせることよりも確実に紐が千切れることを優先した結果のラルクの爪の甘さのせいのずぶ濡れに頭の中で悪態を吐き続けた。
プライドとアーサーに声を掛けられるまでの僅かな時間で、六十回以上を。




