受け入れ、
「母です。……今日は挨拶とか良いって言っといたンでマジで全然気にしねぇで下さい……」
えっ!!!って今度は流石に僕からも大きい声が出た。
うっかり席から立ちあがっちゃって、その途端またお客さんにすごい見られた。「元気が良いなー」って声が聞こえて、なんだか無性に恥ずかしくなって慌ててまた椅子を引いて席に戻る。
兄ちゃんも僕を怒るどころかいまはすっごく小さくなっていて、アーサーさんからは「自分は父似なんで」って言われたけど絶対そこじゃない。
確かにアーサーさんにあんまり似てないけど美形なのは一緒だしなんだか納得だけど、すっごい美人で!綺麗で!大人で!!!ていうか!!
「なんでアーサーさんのお母さんがここにいるの⁈しかもなんか働いてますし‼︎」
「いえウチ小料理屋なんで……っつーかノーマンさん、俺ン家って言ってなかったんすか……?」
「言えませんよ……言えるわけないじゃないですか……今日ここに弟を連れてくること自体どれほど僕が苦渋の決断をしたと思っているんですか……」
アーサーさんの家アーサーさんのお母さんアーサーさんの店⁈小料理屋⁈騎士団長の奥さんなのに⁈なんで!騎士団長とかってもっと王都とか屋敷に住んでるんじゃないの⁈しかも僕全然挨拶できてない!!!絶対変な子って思われた!!アーサーさんのお母さんなのに何も話せてない!!!あと騎士団長さんの奥さんすっごい美人!!!!!!なんで働いてるの?!?!!!
いきなりの事実に頭が混乱すぎてわけがわからない。
視界がランプの光とか関係なくチカチカして喉の奥から競り上がりそうな叫びを必死に飲み込んだ。絶対意味が分からない。
アーサーさんの実家が小料理屋さんて兄ちゃんからも聞かなかったし僕も知らなかった。騎士団長なんて国の名誉みたいなところもあるし今年の騎士団長は特にすごい人だし、絶対王都の屋敷みたいなところで貴族みたいな暮らしをしてるんだと思ってた。なのに、実際は王都どころか城下からも結構離れているしお店はレストランでもないこじんまりとした店だしお客さんも絶対貴族じゃない。内装はおしゃれで綺麗だけど豪華さは全然ない。
目を大きく瞬きして声を潜めるアーサーさんに、兄ちゃんが今度は頭を抱えてぶつぶつ言っていた。
「すみません……」と逆に謝るアーサーさんがそっとお母さんが置いてくれたグラスを僕と兄ちゃんに一個ずつ寄せてくれる。
「でも、今日は取り合えずこのまま過ごして貰えるだけで良いンで……。ブラッドももし気分悪くしたら遠慮なく言ってください。飯とか食います?希望あったら自分作りますから」
食いたいもんとか、ってアーサーさんに尋ねられて今度は聖騎士が料理するっていうのにびっくりする。今僕らはアーサーさん家にお邪魔してるんだなって実感して心臓が早くなる。
兄ちゃんが結構ですって断ったけど、僕は作って貰えることが貴重だと思ったら遠慮より先に「おすすめで……」って声に出た。
久々に〝口走った〟という言葉が自分でもしっくりくるくらいうっかり言っちゃった。今回だけはわざとじゃない。
おすすめって言葉にアーサーさんは少しだけ考えるみたいに眉を寄せたけど、すぐに「ちょっと待っててください」って言って席を立った。
本当に作ってくれるのか、ぽかんと開いた口が閉じないままになっていると一度奥へ下がった。それから酒瓶と何も入ってないグラスを持ってくると、一本兄ちゃんの前に「どうぞ」と置いてカウンターよりもっと向こうに消えていった。
アーサーさんがいなくなった途端、僕もちょっと緊張の糸が緩んで思いっきり兄ちゃんの腕を両腕で掴む。「兄ちゃん⁈」と声を潜めながら叫んで見上げれば兄ちゃんは頭を抱えたまま「すまない……」ってまた絞り出した。全然説明になってない!
「兄ちゃんなんでここに今日招かれたの⁈僕今日こんな格好してるのに‼︎騎士団長さんのお嫁さんだよ⁈それに聖ッンむ⁈」
「ブラッド。……ここでそれは絶対言うな」
ぐいぐいと腕ごと身体を揺すっても無抵抗の兄ちゃんが、突然僕の口を手のひらで覆った。
聖騎士って言おうとした途端止められて、なんでって疑問がまた浮かぶ。だってアーサーさんのお家なら別に普通の話題なのに。
ハァァァ……と、兄ちゃんが肩ごと動かして息を吐き出した。それから「耳を」って言われるから僕の耳を兄ちゃんの口に近づける。何か説明をやっとしてくれるつもりらしい。僕も今の状況はわけがわからないから、早く早くと胸が急きながら兄ちゃんの言葉を待つ。
こそこそと兄ちゃんがアーサーさんから聞いたお家の事情を聞きながら、同時にお客さん達とアーサーさんのお母さんの会話も耳に入ってくる。両方を聞き取ると頭に入らなさそうで兄ちゃん側じゃない方を塞ごうかとも思ったけど、……聞こえて来た会話もすっごく気になった。
「えー?なんだあの丸眼鏡の兄さんも騎士じゃないのか??」
「決まってるじゃありませんか。うちの人が連れて来る騎士だってクラークくらいなものなんだから。騎士を皆呼んだらそれだけでうちの店が溢れかえっちゃう」
「クラリッサちゃん今も充分大繁盛だもんねぇ。私も他の客でお店に来れなくなるのは嫌だわ」
「繁盛してるのもシェリルさんみたいな常連の方々のお陰ですよ。これからも宜しくお願いしますね」
「でもなぁ、アーサーが連れてくるならせめて娘さんだったらなぁ……ロデリックさんも心配してるだろ?」
「それが全然。アーサーも騎士として頑張っていますから。騎士隊長にもなったし、親子揃って取り合えずは安泰じゃないかしら」
「アーサーの奴あの若さで隊長なのか⁈マジかよ何番隊だ⁈やっぱりロデリックさんと同じ……」
「さぁどうだったかしら。何番隊でも生きて帰ってきてくれれば私はそれで充分ですから」
「あのロデリックさんの息子なんだしどうせならこのまま騎士団長になって欲しいよなぁ。噂の〝聖騎士アーサー〟にこのままじゃ名前も話題も全部持ってかれちまうぞ」
「あらやだワイマンさん。あの子にはそういうこと言わないであげて下さいね。息子さんに言いつけちゃいますよ」
なんかところどころ変な気がするお客さんとアーサーさんのお母さんとの会話を聞きながら、兄ちゃんの説明を頭で聞いた側から反復する。
今日僕らがアーサーさんと来ることは、もうお母さんがお客さんに説明してくれている。兄ちゃんのことも〝騎士〟じゃなくてあくまで友達ってことにしてくれている。
アーサーさんの家の小料理屋を知ってるのは騎士団にも殆どいないらしい。お父さんが騎士団長とかアーサーさんが騎士なのはお客さん達も知ってるけど、何番隊とか近衛騎士とか聖騎士とかも全部秘密にしてる。
全部自慢して良いことなのにどうしてだろうと思ったら、疑問を口にする前に「あの人は本当に慎み深い上に目立つのも囃し立てられるのも崇めたてられるのも嫌う人なんだ」って兄ちゃんに締め括られた。そういえば確かに兄ちゃんから聞いた話でもそういう印象はあったかも。
だから今日もアーサーさんのそういうことも、兄ちゃんが騎士なのもバレないようにと言われて僕もすぐに頷いた。
そんな大事なことならそれこそ馬車で言ってくれれば良かったのにと思うけど、きっと兄弟で家にお邪魔するってだけでいっぱいいっぱいだったんだろうなぁと思う。兄ちゃん憧れの不死鳥さんのお家だもん。
「今日は、本当にお前は何もしなくて良い。少しでも居づらくなったらすぐ言ってくれ」
兄ちゃんはそこまで言うと、緊張を飲み下ろすみたいに酒瓶をとってグラスに注いでは二回連続で空にした。お酒に逃げる兄ちゃんは初めてみたかもしれない。
奥にいなくなっちゃったアーサーさんを待つ。上がりっぱなしで言葉数も少なくなった兄ちゃんを横に、僕はもう一度お客さんの方を見る。隅の席だから一方向だけでお客さん達全員が目に入った。
皆わいわいとアーサーさんのお母さん……クラリッサさんを中心に話しながら美味しそうな料理とお酒で盛り上がっている。
アーサーさんが帰ってきたからか、会話のところどころにアーサーさんの話題があってその度に思いっきり耳に集中して盗み聞く。兄ちゃんもその度にぴくぴくと片方だけ肩とか耳が動いてたから多分ずっと聞いている。
アーサーさんが子どもの頃はとか、最近のアーサーさんはとか、アーサーさんの友達がとか、騎士の噂とか。いつの間にかアーサーさんが席を立ってどれくらいかも気にならないくらい僕ら二人で口を閉じて聞き入った。
「すンません、お待たせしました。取り敢えずあり合わせと店のメニューにあるもんですけど……」
暫くして両手に大皿四つ持ってアーサーさんが戻ってきてくれた時には、兄ちゃんは酒瓶を半分を空にしていた。
僕も僕でグラスの水が空っぽで、それに気づいたアーサーさんがすぐに奥へ駆け戻って水差しも丸々一個目の前に置いてくれた。
アーサーさんが大皿に持ってきてくれたのは全部すごい美味しそうで、煮込み料理とかミートローフとかいくつかはカウンター側のお客さん達が食べているのと一緒のものもあった。
お肉料理はほっぺが落ちるくらい美味しくて、野菜をトマトで煮込んだやつは何口食べても飽きなくて手が止まらなくなった。
そんなにお腹が空いてなかった筈なのに、緊張したらお腹が減ったのかばくばく食べられた。兄ちゃんも、アーサーさんに皿に盛られたら遠慮がちだけど一口食べたらずっと食べてた。
大皿が三分の一近く減った時に、そういえばアーサーさんは何を作ってくれたのか聞いたら「今日はこれだけです」って巨大なオムライスを指差した。もう半分近く僕と兄ちゃんで食べちゃってたけど。……ていうか、僕や母さんより卵包むの上手かも。
「学っ……、知り合いの。ブラッドと同年の子が以前にすげぇ美味そうに食ってたんで試しに作ってみたんすけど、ちょっとデカく作り過ぎました。腹いっぱいなら遠慮なく残して下さい」
「えー余ったら持って帰りまーす」
良いですよ。
僕のおねだりにアーサーさんがさらりとそう言ってくれて、やったとフォークを握る手に力を込める。
こんなに美味しいんだから捨てちゃうのも勿体ないし、絶対明日の一、二食分は余る。兄ちゃんが騎士を辞めなくなってもやっぱり家が焼けちゃったんだしお金は節約しなきゃ。
お腹がちょっと膨れてきたら、なんだか最初の緊張が完全に緩んでてまた普通に笑えるようになった。
「すごく美味しいです」って兄ちゃんより先に感想も言えて、お腹だけでなく身体全部がほかほかと温かくなる。
顔を上げるとカウンター側のお客さんがいつの間にか減ったり変わってたり同じ人のまま、クラリッサさんと一緒にこっちを見てた。
温かい目線とか、冷たくない空気とか人に振舞われる料理とか。全部がすごく懐かしいし温かい。
これから城下に住むなら時々来れるかなと思ったけど、よく考えたら騎士の人達にも秘密だったし今日だけかもしれない。
お店もそんなに大きくないし、確かにこれでアーサーさんとか騎士団長さんの家のお店って有名になったら兄ちゃんみたいな騎士の人達が毎日通って常連さんの場所がなくなっちゃう。アーサーさんが聖騎士とか近衛騎士とか色々隠しているのも、アーサーさん目当てのお客さんが来ないようにする為かもしれない。僕だって近所に聖騎士とか近衛騎士の家がやっているお店なんかあったら毎日顔覗きに行くし。
食事の手もゆっくりながら止まらない兄ちゃんにちらりと目を向ければ、やっぱり色々いっぱいいっぱいだった。
アーサーさんの前だからか顔が真っ赤じゃなくて無表情に近くなったけど、息を止めてるように顔の筋肉が全部固まっている。
何も言わなくなった兄ちゃんに、アーサーさんがちょっと心配そうに顔の角度を変えて覗いた。何か言おうとおもむろに口を開き始めるアーサーさんに、今言ったらまずいですよと心の中で呼びかける。
「あの、ノーマンさん口に合いましたか?もし合わなかったら酒もまだまだあるんで……」
「何故そう決められるのですか。美味しいですし、口にも間違いなく合っています。それに店内の食事で文句をつけるような真似はしませんし、誤解の招く発言はやめて下さい。少なくとも作って頂いた料理に文句を言うような常識外れに育てられた覚えもありません。感想を言わないからといってそれを全て不満ととらえることも遠回しに誉め言葉の催促のような投げかけもどうかと思います。美味しい料理だからこそ味わって食べますし食べることに集中して発言がままならない場合もあります。静かに食事をしたい客なども珍しくはないのではありませんか」
すみません!!!って、直後にはまたアーサーさんが青い顔になって謝った。
思いっきり顎を反らしてから今度は垂直に頭を下げるからテーブルのジョッキにぶつかりかかった。それでも兄ちゃんは「ですからアーサー隊、さんは」って続け出してフォークの手も止まる。緊張していた所為でいつもよりしつこくなるかもしれない。また兄ちゃんってば。
「も~、兄ちゃんってばよしなよ。美味しいなら美味しいで良いじゃん。不死鳥さん困ってるよぉ」
「ッブラッド!その呼び方やめろ!!」
バッ‼︎って一気に眼鏡が曇るくらい真っ赤になった兄ちゃんが僕に振り向く。
別に兄ちゃんのことじゃなくてアーサーさんのことなのにと思いながら笑って返したら、今度はアーサーさんが「いえ自分は全然……」と兄ちゃんを宥め出す。
その様子にまた別方向から笑い声が聞こえてきて、見ればやっぱりお店のお客さんがすごく笑ってた。「アーサーはまだまだだなぁ」「背は伸びたのにまだ怒られちまってるよ」「不死鳥か~格好良いな」と言われて、また子どもの頃はと話を広げられた途端アーサーさんまで下唇を噛んで恥ずかしそうに俯いた。……なんでアーサーさんは僕らをここに招いてくれたんだろう。
アーサーさんが静かになった途端、今度は兄ちゃんも静まって一緒に俯いて、結局一番ここで寛げてるのは僕だなと思う。
兄ちゃんが「頂きます」って言ってまたフォークを手に黙々と食べ始めて、僕も食べて、アーサーさんも一緒に食べる。アーサーさんの家で、アーサーさんと一緒に兄ちゃんと三人で食事なんて考えれば考えるほど変な感じだった。
僕が話さないとアーサーさんも兄ちゃんもまともに会話しないから、お腹が膨れて来たあたりで僕から投げかけて三人で話して、またアーサーさんか兄ちゃんが謝って小さくなって、またお客さん達に遠目で笑われてを何度も何度も繰り返して。「爺さんの代からずっとやってる店で」とか「裏に畑があります」とか「さっきの常連さんは自分がガキの頃からの」とか……気が付けば最後のお客さんがお金を置いて帰っていった。
また来るよ、おやすみって。クラリッサさんに挨拶して、お店ががらんと寂しくなって開けられた扉の風がちょっと冷たく感じたところで兄ちゃんが「そろそろ店仕舞いでしょうか」と財布を取り出した。
アーサーさんも一緒に食べたから、結局皿の殆どがなくなった。スープ皿一枚分だけ残ったのは食べ残しっていうよりも遠慮の固まりだった。
代金を尋ねる兄ちゃんにアーサーさんが「いえ招いたのは自分なんで!」って手で断る。そのままカウンターの奥から料理を持ち帰る為の入れ物を持ってきてくれた。
持って帰りますよね?って僕に確認取ってくれて、それを聞いたクラリッサさんが「あらそれなら」ってカウンターから消えていく。全部聞いてないのにアーサーさんがすぐにクラリッサさんの消えた方向に振り返ると「良いンすか??」って投げかけた。
一言クラリッサさんの声が聞こえると、兄ちゃんも何のことかわかったのか「お気遣いなく‼︎」って慌てて席から立って声を上げた。僕もわかったけど欲しいから気付かない振りしたのに。兄ちゃんはそういうところが本当に
「で、どうでした⁇」
へ??って、容器を手に、アーサーさんが投げかけて来た言葉に僕は気の抜けた声で首を傾ける。
話の延長みたいに言われたから、ちょっとすぐにはわからなかった。兄ちゃんから喉を鳴らす音が聞こえてきて、アーサーさんにしては脈絡ない言い方だなと思いながら僕は笑って返す。
「すご~く美味しかったし楽しかったです。クラリッサさんも美人で人気者で、お店のお客さんも良い人ばっかりでしたよねぇ。もっとアーサーさんの噂話聞きたかったです」
「怖いとかキツいとかありませんでした?結構、客によってはこっちすげぇ見てましたけど」
「全然~。だってみんなにっこにこじゃないですか。それにアーサーさんのことも皆大好きですよね。羨ましいくらい」
「ここで働くならブラッドのことも好きになってくれますよ」
「…………………………え?」
もっと、よくわからないこと言われて今度はちょっと上手く笑えなかった。口元が変に強張って、絶対変になってる顔で中途半端な表情でアーサーさんを見る。
どういう意味?ここで??僕のことも??なに????
分からないのに変に喉が渇き始めて、全身の皮膚が痺れるような感覚に襲われた。バクン、って一回心臓の音を意識したら耳の奥まで止まらなくて。
「料理、好きなんすよね?ちょうど母が店手伝ってくれる人考えてて、この前ブラッドのこと話したら是非って言ってるンすけど。良かったら働いてみませんか」
今日はその為に連れてきてもらいました。って、さらっと兄ちゃんがずっと言い辛くしてた理由が明かされる。
僕のこと、知ってるの?なんで。本当に⁇知ってるなら僕に店の手伝いなんて絶対させない筈なのに。
料理が好き、って言葉にそういえばとこの前アーサーさんが連れ出してくれた時のことが脳に駆け巡る。確かに料理が好きって言ったし、……アーサーさん。
『料理したいってンならウチに来ますか?』
言ってたけど。それに聞いてみてからみたいなことも。
あれって台所貸してくれるって話じゃなかったの??
「あの、……僕……アーサーさんご存じですよね?僕は、特殊能力で」
「知ってますし言ってます。でも料理は慣れてるんすよね?それ以上危ないことはしませんし、裏方とか接客ちょっと手伝ってくれれば良いくらいなんで大丈夫です。客は皆常連ですし、父上のことは近所じゃ結構有名なんでわざわざ強盗にくるような奴もいませんよ。城下から外れてますけど治安は良いです」
「でも……もし、もしも怪我したら」
「常連の人ら絶ッ対気にしませんよ。特殊能力者もここらじゃ珍しくもないですし、……それに、制御もできるようになるじゃないですか」
『心の安定さえ得れば貴方の能力は完全な制御も難しくはありません』
ジャンヌの、……そして多分プライド王女様の予知。
あの時居たのは本当にアーサーさんで、あの予知も本当に本当だったんだと思い知る。
思わず顔も崩れて逃げ腰になる僕に、アーサーさんはすごい普通のことみたいに返してくる。淡々とか早口とか問い詰めるとかじゃなくて、本当に当たり前のことを説明するみたいな口調に胸がぎゅっとなった。
この人にとってジャンヌの予知も間違いなくて、常連の人達への信頼も本物で、……僕の特殊能力も怖くない。
ごくんっと口の中を飲み込んだ。いきなり掲げられた選択肢が、触れるのも指先が強張るくらいに眩しくて。つま先一つ動かなくなった僕は、足元がふわふわして頭がぐらついて座ったまま倒れそうだった。
「騎士が身内ってこともブラッドが話したくない限り俺も母も、それに父も言いふらす気はありません。もし知ったら面倒な……ちょっと無神経なこと言ってくる人もまぁいますけど、深く探ってくるようなことはありませんから」
欲しい。眩しい。欲しい。でも触れたくない。
騙されてるんじゃないかと思うくらい、欲しい世界が今眼前にある。でも後悔したらどうしよう、失敗して嫌われて取返しのつかないことになったらどうしよう。考えるだけで手が震えて足がカタカタ鳴った。〝やり直せるかも〟って、思いたかった感情が無意識に胸に差し込んだ。
どんな顔をすれば良いかわからなくて、張り詰めて張り詰めてその次には弾けた。
ぷはっ、て何だか笑っちゃって身体の震えも止まらないまま僕は下手な顔でへらへら笑う。目尻に涙が溜まったまま、顔だけが反射的に笑っちゃう。
「い……良いんですかぁ?僕じゃなくてもこんな良いお店なら働いてくれる人いっぱいいますよぉ。勿体ないですよぉ、大事なお店なのにお客さんいなくなったり壊れちゃうかも。僕よりもっと安全で役に立ってくれる人ならい~っぱい」
「信頼できる人じゃないと大事な店と母上任せたくないンで」
きっぱりと。僕の声を遮って言い切った。
あまりにもはっきり言われちゃって、僕も自分の目が丸くなるのがわかった。ポカンとした顔にきっとなっちゃって口も開いてあんなに力が入っていた顔の筋肉に何も入らない。「信頼できる」の言葉がこんなに重くて息が詰まるくらい大きく感じるのは初めてだ。
蒼色の瞳が迷いもなく真っすぐ僕を映して、本当に出任せでも優しい嘘でもお世辞でもないって書いてある。
理由になってないような気がするのに、僕の言い分全部論破されちゃった気もして頭が色づいてぐちゃぐちゃだ。
「そりゃ雇おうとしたことは何度かありますけど、……やっぱちゃんと知ってる人とか最初から信頼できる人の紹介じゃないと俺も父も留守任せるのは心配で」
店は常連ばっかり。騎士団長の奥さんなのは近所で有名。そんなお店で、知らない人と働かせるのは心配って、その理由は僕にもなんとなくわかる。
父さんの日誌でも、騎士の人が身内を利用されて脅迫された事件があったって書いてあったから。
強盗に来る人はいなくても、身内に取り入ったりわざと仲良くなって悪いことに利用しようとする人はいる。常連さんが多いからお客さんは安心でも、一緒に働いたら……家の中に入れたら知れちゃうことはたくさんある。弱みとか、秘密とか。
「お兄さんであるノーマンさんがどういう人かは父もよく知ってますし許可してくれました。ブラッドも料理が好きで掃除も好きで人集りも好きだって言ってましたよね。……多分、合ってると思います」
僕らの新居からもそう遠くない。歩いて通える距離だって言われるのを聞きながら、目の奥が熱くなって苦しくなった。
まだ出会ってひと月もたってない人が、ただ憧れだった人がほんのちょっとの間ですごく僕をわかってくれている。
視線が気付けばあアーサーさんからちょっと外れて低くなって。首を横には振りたくない僕がいるのを自覚する。
ほんの、本当にほんの一瞬だけまるで白昼夢みたいに浮かんだ眩しい世界に目が眩んで焦点が合わなくなった。ここに僕がいて、たくさんの人がいて、当たり前みたいに笑い返して貰える世界。
おはようございますって言ったら「おはよう」って返されて、今日はいつもと違うねとかくだらない話聞いて笑っちゃって、……毎日家族以外の誰かと〝会話〟するそんな世界。
「……やっ、て……みよう……かなぁ……」
下手に笑いながら、絞り出した声が面白いくらい震えた。
ほんの一言なのに、何度も息を吸い上げて口が笑おうと引き攣ったまま舌も上手く回らない所為で言いにくくって。でもどうして言い切りたくて、最後はカラカラとした音で枯れてた。
両手の指をぎゅっと組んだまま、ビクビク指の血管まで動いてるのが感じたし爪が伸びてたら食い込んでた。言い出した途端、まるでずっと心臓が隠れてたんじゃないかと思うくらいドクドクバクバクと鳴り出して形もなく後悔するんじゃないかって怖くなって。……それでも、眼前の眩しさに逆らえなかった。
一音一音区切るようなガタガタ崩れな言い方になった僕に、兄ちゃんが息を引く音と同時にアーサーさんが「気が進まなかったら返事後回しで良いですよ」って言った。その途端、嘘みたいに僕は躊躇いなく首を横に振っていた。
やりたい。それは信じられないくらい僕の意思だった。
「ちょこちょこ~ってお邪魔してもいいですか……。お金とか、要らないんで最初はお手伝い〜みたいな……」
「ブラッド、本当に良いのか?」
兄ちゃんが肩に触れてきて、「良いのか」がお金要らないの方じゃないってことはすぐわかる。今まで家出たくないって言ったのは僕だから。
見れば僕と一緒の水色の目を水晶みたいにして僕と同じくらい汗で額が湿っている兄ちゃんは、きっとずっと僕の心配をしてくれてたんだなぁって思う。
僕よりすっごく心配してる兄ちゃんの顔を見たら肩の力が自然に抜けて、「うん」「やりたい」って今度は本当に心からふにゃふにゃ笑いながら目を見て言えた。
兄ちゃんの方が心配して、しかもお休み一週間使っちゃってるの気にしてる癖に「僕もその日は付き添おうか」って言ってくれちゃう。それなら僕が兄ちゃんのお休みに合わせるよ。
アーサーさんが「わかりました」って、砕けた僕の顔を見て優しく笑ってくれる。ちょうど店の奥からクラリッサさんが二段も容器を持って出て来たところだった。たぶんあれ全部今日の売れ残りでお土産かなぁって言われる前に期待しちゃう。
「母上。ブラッドなんですけど、働いてみたいそうです。手伝いからやってみたいそうなんですけど、いつから平気ですか?」
「あら嬉しい。いつでも良いけど、取り合えずお引越し終わってからにしたら?お兄さんも手が欲しいでしょう?」
「ッいえ、弟の手伝いがなくても引っ越しは大丈夫です。もしいつでもでしたら、そのっ……明後日にまた僕も一緒にお邪魔しても宜しいでしょうか?あと数日は僕も休暇を頂いていて弟に付いていられるので……」
兄ちゃんったら心配性だなぁ。
でも、ほっとする。そんな風に思いながら、クラリッサさんから容器を受け取るアーサーさんと兄ちゃんも席から立ち上がって僕だけ座ったままになる。
子どもの僕と違って兄ちゃん達大人同士で色々話して、今夜引っ越し手伝いますよとか、賄いまで面倒かけるのはとか、代金払いますとか、弟一人でここまで歩かせるのも最初は心配ですしとか。そんなやり取りを聞きながら僕はちょっとだけ顔を俯けて、笑った。
まるで兄ちゃんが父さんみたいだって、もう記憶の薄い筈なのに思う。大人達の話を聞きながら、なんだか今は不安がないのがくすぐったい。
『貴方は普通の人間よ』
普通。
不意に、胸に浮かんだジャンヌの言葉が中心から熱を広げて温めた。
きっとこれだって今の僕には特別だけど、他の人には普通のこと。子どもが、城下の、ちょっと郊外に近い小料理屋さんで働き始めるだけ。お金だけじゃなくて、お客さんとの関わりとか新しい生活にちょっと期待する普通の子ども。
「あと、ご存じのこととは思いますが弟は〝拡散〟の特殊能力者で……!少しは制御できますけれどまだ感情や怪我、刺激の具合によってはお客の方々やお母っ、ベレスフォード夫人にも怪我や私物にも傷の恐れが……」
「大丈夫ですよ。怪我といっても皿を割って指を切るくらいですし。それ以上危ない作業は今まで通り私がやります。それにあの年で制御でき始めてるなんてすごいじゃないですか。うちの人なんていくつになっても制御できないままなんですから」
「近所のパン屋なんて壁壊すこともあるンで」
特殊能力者が集まりやすい城下じゃ、きっと僕も珍しい能力なだけの普通の子ども。
騎士の兄ちゃんがいても、騎士の家系でも、……騎士団長と騎士隊長がいるこの家ではむしろ平凡なくらい。そう考えてみれた途端、今まで悩んでいたのが馬鹿みたいに明るい場所に立っていた。
僕は普通で、ちょっと制御がまだ下手なだけ。掃除もできるし料理もできるし家事は好きで得意で兄ちゃんより人付き合いだってもともと上手い。それで今、自分が本当に〝向いて〟いて〝やりたい〟ことが見つかりそうなだけ。
だからこれも、……村で嫌われて家から出ちゃ駄目で出たくなくて周りにも遠巻きにされて血筋を無視して騎士になることから逃げ続けた卑怯で弱虫で騎士以外何にも役に立たない特殊能力を持った死んじゃった方が皆の為になる筈だった僕にとっても、きっと、ただの。
普通の第一歩。
「……やっぱり明日から来たいなぁ」
思ったままうっかりそんなことを口に出したら、また大人達でわいわい言い合った。
どうぞとか、いきなり明日はご迷惑だろとか、今夜自分も手伝いますから引っ越し作業全部終わらせましょうとか。そんなやり取りを聞きながら、僕はずっと顔が笑ってた。
ずっとこの空間に居たいくらい、くすぐったくて優しくて落ち着いて明るい店内はやっぱり最初に見た時と一緒で懐かしい気がして本当に
馬車で転寝した後の冷たさが嘘みたいに温められきっていた。
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