終章 「初めてのキス 正しい居場所 後編」
最前線と化したレンヴィルから更に後方。
レムリアが未だ踏み入れない空域。よりラジアネスの領域に属する何処かの空域。
広大な蒼と白の雲海――
その一角に、途切れることなく延び、そして拡がる幾重もの真白い軌条――
『――速い! 第二小隊、後方を警戒せよ!』
『――こちら第三小隊、二時下方より敵一個分隊接近!――二番機がやられた!』
『――後方に食い付かれた!……駄目だ、引き離せない!』
疾走――空を斬るような爆音を伴ったそれは、接触時の優位から一転、忽ちにして下位に置かれたジーファイター編隊を追詰め、そして翻弄する。絶対的な下位を忽ちに逆転できるほどに「それ」の加速は良く、その上昇力は素晴らしい。
蒼空を背にした異なる銀翼の、生を賭したかのような数多の白い交差の中の、ひとつの交差――
機体の挙動に反応し揺れる照星――
照星を睨む、抑制された息遣い――
照準機の光点に横転中の機影が重なる――
反射的に押されるスロットルレバーのボタン――
敵機を捉え、封じ込めんとするかのように急速に狭まる光点――
「敵機」の翼幅に合わせた距離調整は一瞬――
「――発射!」
Fs-24ガンサイトの照準鏡内に収まったジーファイターの機影に眦を決し、何度もトリガーボタンを押し込む――それだけで勝負は片が付き、そして同時に作動したガンカメラの中に、ジーファイターの機影は彼の敗北の証明――あるいは、「それ」の勝利の証明として焼付けられる。
『――こちらグルーピング-リーダー、一機撃墜……一機撃墜』
通信の瞬間、四機の「それ」に対する仮設敵を演じたジーファイター一個中隊は、その戦力の半分を「喪失」した――
『――統裁官より全機へ、演習終了。直ちに母艦へ帰還せよ。』
『――チッキショウ! 勝てると思ったのに!……これで四敗目だぜ!』
『――グルーピング1、集合、これより母艦に帰投する』
声を荒げる仮設敵とはあまりに対照的な、抑制された青年の口調――
速やかに集合を果たした四機の「それ」は、教本通りの見事なフィンガーチップ編隊を組み、そして帰投針路指示装置の指示する方位へ向かい、一斉に漆黒の銀翼を翻す――
その全身は艦隊の作戦機の正式塗装たるミッドナイトブルーにこそ染まってはいたが、重厚の中にも一切の贅肉を筋肉に変えたかのような、精悍な姿にさえ映える。機体はジーファイターより一回り大きく、そして直径もその長さもジーファイターより大きな機首に包まれた高出力空冷エンジンは、四翅のプロペラブレードと、熊蜂の羽ばたきの如き轟きを以てその獰猛な回転を刻ませている――
睥睨せる雲海の一点――四機は、そこに彼らが還るべき場所を見出す。先年に新造成った中型空母――それが、彼ら「試験飛行中隊」の仮の棲家だった。
『――グルーピングⅠより全機へ、母艦が見えてきた。編隊を解く!』
『着艦誘導士官よりグルーピング1へ、着艦を許可する――』
ギアダウン――
フックダウン――
徐々に落ちゆく速度――それが速度計の中で一定の限界値をを超えた瞬間、自動的にフラップが下され、機は完全な着艦姿勢に入る。
天空に流れる神の采配――気流の乱れ――さえも無視したかのような、真直ぐで滑らかな降下――
上向きがちの機首に、飛行甲板が完全に隠れる――
ランディングミラーの角度は、自機が最適の角度で飛行甲板へと向け高度を下げていることを、操縦桿を握る青年に教え続けていた。飛行甲板上では、手旗を振る着艦要員の指示する機の態勢すら、着陸に少なからぬ影響を与える。それらに手引きされ、あたかも階段を優雅に下りる貴婦人のような優美さすら漂わせ、「それ」は空母の飛行甲板へと休息への一歩を踏み締める――
衝撃――!
着艦――!
着艦係止フックが捉えたワイヤーは、最奥の一本――
直後にエンジン出力を開いた「それ」は、再びエンジン出力を上げる。南方に近い雲海を行く母艦の飛行甲板上で、飛行の余韻ともいえる白いプロペラ回転痕を幾重か刻みながら、機体は甲板上を前へと向かい滑走していく――
長大な飛行甲板の半ばまで来たとき、油圧音を上げながら上へ、そして後方へ向かい折り畳まれる主翼――
待ち構えていた整備員たちが完全に静寂に帰した機体へと駆け寄る――
開かれたバブルキャノピーから覗く、ゴーグルと酸素マスクに覆われた顔――
「調子はどうでしたか?“デューク”」
整備員の呼び掛けを受け流すかのようにバンドを解き、酸素マスクを外す。ゴーグルを脱いだ後、端正さと肉体的な剛さを、絶妙の配列で漂わせた碧眼の美青年の顔が顕れた。口の周りに刻まれた酸素マスクの痕すら、その男伊達を損ねる要素にはなっていなかった。
「悪くない。好調だよ」
腰を上げながらに笑顔で整備員に応じるパイロット。それに続く、操縦席から下りるパイロットの動作がぎこちなく感じられるのは、おそらく彼の腹から下を覆う灰色の耐加速度服が、その長い脚に不似合いな程の中途半端さで彼の腰から下を拘束しているためであるのかもしれなかった。青年の着艦りた艦首の後方で、僚機の着艦作業が尚も続く。機械の様に円滑で、齟齬の予兆すら見えない着艦の風景がごく静かに続き、やがて終わる。
――青年だけではなく、やがて着艦を終え、格納庫の一角に集合を果たした中隊の飛行士はそのまま訓練後のデブリーフィングに入った。彼らの多くが若く、その若い表情から漂うのは、択ばれた者という誇りと、自らの技量と新しい機体の性能に対する圧倒的なまでの自信――
「――起立!」
一斉に立ち上がり、彼らが視線を向けた先――
彼ら――というより飛行隊そのもの――の指揮官らしき壮年の男が、技官の徽章を付けた一人の女性士官と連れ立って現れ、そして彼女は居残るかのように一隅で止まり、男の方はそのまま飛行士の眼前へと進み出る。男と、最前列に居る碧眼の青年の視線が交差し、その一瞬の中で一通りの意思疎通が為された直後――
「楽にしたまえ。ご苦労だった!」
一斉に着席した飛行士に無感動な視線を巡らせ、男は言い、そして続けた。
「まず……諸君らにはいい報せと、悪い報せがある」
と言い、彼は再び青年に視線を注ぐ、男のこれから話す話題の内容が、青年に関係のある事柄であるかのように、男は青年を一瞬凝視し、青年の方もまた、先刻までの柔和な顔立ちから一転、身構えるような目付きでそれに応じた。
「……じゃあ、悪い方から聞こうか」
と青年。その一言からして、場のパイロットたちの主導権が、この至って壮健さを漂わせる青年にあることは明白となる。
「ツルギ-カズマがまた10機撃墜した」
「……」
青年は押し黙った。無表情――報せに対し悔しさとか、不満とかを滲ませるような表情は、彼は見せかった。ただ、青年の背後にいるパイロットの間から、青年が秘す感情を代弁するかのように、舌打ちと不満の声が漏れた。
「――またか。何かの間違いじゃないのか」
「――まったく……よくやるぜ、旧型のジーファイターで」
「それも……撃墜したうち三機は、あの『黒狼三人衆』だ」
と、男は言った。
「――――!?」
その時初めて、青年は静謐の内に何かに思い当ったかのように男を見詰めた。平静さこそ見せてはいたが、それも見る者――例えば男たちの傍らに立ち、男たちの遣り取りを見守る女性士官のような――にとっては、その内面を揺れ動く感情の存在を青年に見出すことができるかもしれなかった。そしてパイロットたちの動揺もまた、さらに広がっていく。
「――やつが全部殺ったってのか? たった一人で?」
「――その分じゃあ、あの『レムリアの死兆星』も食っちまうかも知れねえぜ?」
「――めったな事を言うな。タイン-ドレッドソンは“デューク”の獲物だ。誰にも譲らせはしない」
その瞬間、男たちの視線が一斉に青年に集中する。それに対し、青年はただ涼風のような平静さで男たちに応じるだけだ。
「いい方は?」と、青年。
「……?」
「だから、いい方の報せは?」
青年の口調に動揺を感じられなかったことは、むしろ指揮官たる男にとって、満足のいく反応であったのかもしれなかった。それでも、あたかも場の気まずさを取繕うかのように、男は口を開くのだった。
「二週間後、わが第七艦隊は前線に進出する」
「――じゃあ、俺たちも……」
「――そうだ、前線に行けるぞ。新鋭機と一緒にな!」
――途端に、パイロットたちに広がる驚愕と高揚。それが明らかになった瞬間、彼らが実戦への参加を待ち侘びていたことは誰の目にも明らかとなる。それに続き、訓練の検討と反省に時間は一通り費やされ、そして男たちは満足のうちに解散した。
「――次の訓練開始予定時刻は1430である。パイロットは休養の後、一時間前にここに再び集合すること……解散!」
昼食の時間が近かった。パイロットの過半は食事を取りに食堂へ向かう一方で、ただ青年のみが彼らの誘いを断り、格納庫の外から拡がる雲海の傍に佇む。デブリーフィングの場となった格納庫の一角、そこから視点を転じれば、デブリーフィングの間に収容され、整備作業を受ける新鋭機の居並ぶ姿を眺めることができるだろう。
「……」
ツルギ‐カズマ――その名が、彼ら試験飛行中隊にとって共通の話題となって、すでに一ヵ月が過ぎていた。
突然に現れ、強力なレムリア軍戦闘機隊に対し劣勢に置かれた艦隊戦闘機隊の中で、一際異彩を放つ撃墜記録を、それも性能に劣る旧式機でただ只管に更新し続ける凄腕の男……それは只でさえ、択ばれた精鋭としての自尊心に溢れた彼らの対抗意識を喚起するのに十分な存在であった。そして近い将来、彼らは新艦隊を以て新鋭機を引っ提げ、ツルギ‐カズマのいる前線に赴くことになる――
――だが、次の瞬間には、青年の関心は今のところそこには無くなっていた。
舷側にもたれ、青年は呟いた。
「マリノ……おまえは今、向こうでどうしている?」
今ではその男と同じ前線にいるという、かつての恋人を思いながら――
その青年の姿を、遠巻きに見守るように佇む、女性士官の姿――
――そこに男が影を差し向けた瞬間、刻の蓄積の末に場を飾るに到った荘厳さすら、一瞬にして吹き飛ばされたかのようにその場に居合わせた誰もが思った。
レムリア軍制式の軍用コートに長身を包み、同じくレムリア軍高級士官常装にその均整の取れた体躯を包んだその男は、遠巻きに彼に目を奪われる将兵、文官には目も呉れず、その数歩背後に副官を従え、赤絨毯の敷き詰められたレムリア同盟国防軍総司令部の大広間を、機械的な、それでいて一片の隙すら見せない歩調で黙々と歩き続けた。
周囲の注目と戦慄――それらを一身に集中させられるほどに男の姿は異彩を放ち、そして彼の存在は、その戦歴と武勲において比肩する者の無いものとなっていた。目深に被られた軍帽から覗く金髪は長く、その一部は肩にまで達し、軍帽からはその表情の一切を伺うことができなかった――光と軍帽との織り成す影の加減ではなく、ただ純粋に、鈍い銀色の輝きを放つ仮面が、彼の顔全体を覆っていた。磁器人形のそれを思わせる、感情の消えた、だが近づき難さすら抱かせる仮面であった。
その仮面こそが、まさに男の異彩の象徴であり、敵にとっての恐怖の象徴――
――表情を強張らせた警備兵の敬礼を無視するかのように、仮面の男は傍らに立った副官に重厚なドアを開けるよう促した。無言のまま頷いた副官が前に進み出、ドアをノックする。
副官は女性であった。それでいて、美しかった。背の丈は仮面の男よりやや低かったが、決して低いというわけではなく、その身体つきもまた、戦いの場に身を置くべく節制と鍛錬の末に出来上がった、締りのある肉体であることを、その挙動の内に見出すことができた。蜂蜜色の髪を後ろに束ね、扉越しに部屋の主へ上官の名を出し取次ぎを頼む精悍な横顔からも、灰色の瞳の煌きの澄みようをしっかりと認めることができた。
「――入れ」
ドアが開き、仮面の男は進み出た。部屋の主は黒檀の机から男を顧みることもせず、ただ箱から取り出したばかりの葉巻を弄びながら、巨大な窓から広がる外の敷地へと視線を流していた。およそ軍隊の基地とは思えぬ、広範な庭園同然のそれを、主は愛していた。
「キャラトレン、参上いたしました」
「休暇はどうだったかね? 少将」
と、部屋の主は言った。重厚な造りで、かつ背後を将官旗に飾られた部屋の主と思うには彼の外見は若く、だが部屋の主と言うに相応しい威厳と才気とを併せ持っていることを、仮面の男ならずともその外見から印象付けさせることができた。階級章は――中将。
首を傾げるようにして少し考え込むと、仮面の男は言った。
「植民地での休暇も、悪くはありませんでしたな」
「……」
葉巻に火を点けることもなく、掌で弄んだ葉巻を箱に収め、中将は立ち上がった。
「近々、我が軍は地上人に対し一大規模の大攻勢に出る」
「フフ……こと戦況に関し、誇大な表現は好ましくありませんな。閣下。」
「いや、これでも十分に抑制された表現だと私は思っているけど?」
「つまり、『愛欲の女神』作戦……ですか?」
「……そういうこと」
開戦時より、軍の深奥部でその存在が囁かれていた計画が、ついに動き出したことを仮面の男は悟る。それは、膠着へと片足を突っ込みかけた戦況を一挙に打開する上で最も効果的にして、敵に与える衝撃も最も大きなものとなるはずだった。それにそもそも、その計画の創始者は――
「――中将が指揮をお取りになるのですか?」
「少なくとも、此処から現場には私が行くことになるだろうね」
「……」
仮面の男の沈黙――それが計画そのものと部屋の主に対する彼の興味の現れであることを、部屋の主が悟ったとき――
「セルべラはよくやってくれている」と、話題を転ずるかのように部屋の主は言った。
「地上人の艦隊は現在のところ、彼女の部隊に鼻先を引き摺り回されその対処に手一杯だ。十分に陽動の役割を果たしてくれている」
「彼女に自分が囮であるという自覚が無いというところが、些か気の毒ではありますが……」
「そこまで見ていたか……軍官学校開闢以来の秀才はさすがに一味違うな」
男は苦笑し、続けた。
「古人曰く、敵を欺くには、まず味方から……だよ少将。それに彼女にはいずれ十分に報いるつもりだ」
「フフ……それならば、異存はありません。ところで――」
「ん……?」
「――小官をここに呼んだのは。わざわざ世間話をするためではありますまい?」
「はははは……」中将は笑った。乾いた、だが話題の転換を歓迎する笑いだった。
「我々はこれまで、十分過ぎるほど味方を欺いてきた。そして今度は、漸く敵を欺く段階に至ったということだ。わかるかね?」
「……」
仮面の男の沈黙を、了解と受け取ったかのように、部屋の主は続けた。
「ラジアネス艦隊の主力を、一箇所に終結させる。その一箇所に彼らを釘付けにし、我々はその隙を突いて新たな前線を構築する」
「前線と言いますと、ついに『敵本土進攻』ですか?」
中将は頷き、言った。
「我々が地上人に対して優位にある理由は、何だと思うかね? 少将」
「それは勿論……我々は常に彼らの頭上に在るということでしょうな」
「そういうことだ――では少将、これより君に重要な任務を与える」
「――――」仮面の貌が、冷たく身構える。
「すまないが、向こうで撃墜した敵機の数を数えてきてくれないか?」
「フフ――では、我が隊も出撃ですか?」
「そうだ。君たちにも動員命令が下りた。」
そこまで言って、部屋の主たる中将は一息つき、言った。
「戦闘機と言えば、『黒狼三人衆』が戦死したことは君は知っているかね?」
「まさかとは思いましたが、やはり……」
「地上人の中にも、なかなか優秀な戦闘機隊がいるらしい」
「小官は、たった一人の名も知れぬ敵空戦士が、前線の我が軍戦闘機部隊の間で畏怖の対象になっているという噂を耳にしたことがありますが……」
「……では、確かめて来ればいい。君自身の腕でな」
「そうすることにしましょう……尤も、我が任務が終わればもう脅威は消失しているでしょうが……」
話はそれで終わった。
仮面の男は外で待っていた副官を伴い元来た道を再び戻っていく。彼の態度に釈然としない副官の様子を背中で感じた瞬間、男の足は止まった。
「何か言いたいことでもあるのか? クリュジナ」
「出撃ですか? 師団長」
「フフ……」
男は少し笑った。振り向きざまに伸びた手が、副官の軍帽より覗く金色の前髪に触れ、そして軽く引っ張った。
副官の頬に宿る、少女のような紅潮――それが仮面の奥、男の眼差しを哂わせる。
「それにしてもクリュジナ、また奇麗になったね」
「恐縮です」
「君にはまた、働いてもらうよ……私のために」
「はい……! キャラトレン様」
副官の瞳に宿る真摯――それが何よりも得難く、かつ自身の役に立つものであることを、仮面の男は知っていた。
「君こそが頼みだ。私のクリュジナ……クリュジナ‐レグ‐ス‐バクル――」
真白い渡り鳥は、何時しか広大な滑走路の傍らに集い、彼らの休息を謳歌している。
今のところ休息が訪れているのは、人間の側もまた変わらない。だが休息の終わりの先に待つものが、渡り鳥とこの基地の飛行機乗りとでは明らかに違う。今はそんな時代だった。
列線を形成していた戦闘機は、一機を残し全てが空に上がるか、あるいは回転するプロペラの勢いに任せ誘導路を滑走路へ向かい進み続けていた。
無益な戦闘とそれによって生じた犠牲の上に取り戻された、何時もと変わらない訓練の日常――それを遠目に見遣りつつ、飛行計画を記した帳面を読み耽るカズマの悠長なまでの態度に、操縦席傍に立っていたマリノの癇癪がまた爆発する。
「カズマ! 何やってんの!」
「イテテテテ……」
頬を抓り上げるのもまた、何時ものことだ。だが今日はそれだけでは気が済まないらしく、マリノはその長身を乗り出すかのように、カズマの横顔にその端正な顔を近づけ、さらに捲くし立てるのだった。
「さっきの事絶対上にチクってやる。チクってあんたを引き摺り下ろしてやるから……覚悟しろよ! あんたがでかい顔していられるのも今のうちなんだからね!」
「ハイハイ、わろすわろす……」
適当に受け流しつつ、始動――
『――管制塔よりゼロへ、離陸許可はすでに下りている。速やかに離陸準備を為し、滑走路に進入せよ』
管制塔からの再三にわたる指示を、ラジオの深夜放送に対するかのような軽々しさで聞き流すかのように、カズマは発動の鼓動に震える操縦席で離陸に向けたチェックを続けた。静から動へと転じた機体、不承々々下へと降りたマリノが、カズマの目の届く位置に立ち、操縦系統のチェックを行うように手信号で促し、カズマもそれに従う。
「ゼロ――?」
配置につきながら、マリノは思った。
あの戦い以来、カズマにはそのコールサインがすでに定着している。
ゼロ――その言葉自体、大した意味を持たないはずが、彼に限っては、実は重要な意味を秘めているようにマリノには思われた。
ゼロ――何故か身震いすら思い起こさせる、重い言葉。
ゼロ――それは、あいつの隠された過去に関係のある言葉なのだろうか?
躍動を取り戻したジーファイターの前に立ち、マリノは唇を噛締める――ごく近い何時か、あいつの昔話でも聞いてみようかと思いながら。
補助翼チェック――「――確認」
昇降舵チェック――「――確認」
方向舵チェック――「――確認!」
全ての舵の異状なしを確認したマリノが、打って変った笑顔で親指を高く掲げた。「発進よし」の合図だ。
押し開くスロットル――
前進し、ブレーキ操作で曲がりつつジーファイターは滑るように誘導路に入り、そして開放された操縦席に温かい南風を受けながらに、カズマは滑走路に達する。そのカズマの眼前では今まさに一機のジーファイターが機体を浮かび上がらせ、主脚の収納に掛かっていた。
「さあて、いっちょう行くかぁ!」
意気に感じ、見上げた蒼空――
その先で旋回と交差を繰り返す飛行機雲がひとつ、ふたつ、みっつ――
基地上空で高度を稼ぎ、仲間と合流して雲の海へ消え行くそれらを、カズマは暫く見送り、そしてジーファイターは全速でアスファルトの上を駆け始める――
上昇――
「――――?」
一面を滑走路に占められた島を脱した瞬間、カズマの注意は翼下に認めた無骨な船影に釘付けとなる。
あの船だ!――先日の空襲の際、バクルと共に自分を営倉から連れ出してくれた船員たちの操る巨船が、上下の煙突より濛々と黒煙を吐き出しつつ港外へ出ようと回頭を始める様に、カズマは目を奪われ、一方で俊足を得た愛機はそのままに甲板の上を通過していく――
あの船もまた「ハンティントン」と同じように新たな任務を得、再び戦場の空へと乗り出そうとしている――「アリサーシャ」という、その船の名をカズマが思い出したのは、機体がかなりの高度を得てからのことであった。
爆音を蹴立て、船上を航過する機影が一つ――
「ホウ! あの坊やの飛行機じゃないか」
と、双眼鏡を覗いていたイルク‐レイナス甲板長が弾んだ声を上げた。途端、船橋に詰めていた乗員の視線が、本来注意を注ぐべき水平方向から一斉に眩いばかりの蒼空へと向いてしまう。
「みんな見てみろ。あの戦闘機がレムリアンも裸足で逃げ出す艦隊の撃墜王だ。だがな、あれを操縦しているのは女の体も知らないような坊やなんだぜ?」
「坊やは止せ、いまじゃあ押しも押されぬ艦隊の英雄だ」
それまで雑務のため船橋を離れていたクルス‐フォルツォーラ船長が、いつの間にか開けたドアの傍に立ち、そして船橋の前へと歩み寄る。
「それにしても一瞬に近い針路交差だったのに、よく判ったな」
と、彼は甲板長に笑い掛けた。レイナスは照れ臭そうに応じた。
「なあに、船乗りの勘ってやつですよ」
それに苦笑で応じ、彼もまた微速前進を続ける船橋から身を乗り出すようにして、フォルツォーラは天を仰いだ。先程彼らの船の上空を通り去った戦闘機は、いまや青空の一点に延びた水蒸気の帯となり、その太く長い一条は島々の遥か彼方へと向かって若い船長の眼前から次第に遠退いていく――
――そして、カズマを見送るフォルツォーラの眼差しには、普段冷静な彼が滅多に見せることのない、熱い輝きがあった。
『――エル-トート……おれは遂に見つけた!――あんたとタエトの息子を』
『――エル-トート……あんたの息子は見事、この世界に帰って来たぞ……!』
飛翔に併せるかのように、島々より一斉に舞い上がる渡り鳥の翼――
その羽ばたきは未だ拙く、そして覚束ない――
今は巧くは飛べないが、それでも鳥は、何時かは風を知り何処か遠い蒼空を、思うが侭に駆け抜けるだろう――
そして、カズマの銀翼もまた――




