第二章 「フラウ‐リン」
SC‐14「ダニエルズ-バス」輸送機は細長い滑走路を真下に見、徐々にその脚を下ろしていった。
予備座席に至るまで客席全てが埋まった輸送機は、出力を落とすや存外に沈みが早く、それは操縦経験がまだ十分とはいえない機長を少し焦らせた。誘導電波の発する符牒をなぞって飛ぶには、操縦士の経験はまだ浅く、機体は客とその手荷物を多く積み過ぎている。離陸時に満載した燃料重量も含めれば明らかな超過重量だ。こういう飛行を十回繰り返せば内二、三回は何がしかの事故が生じた筈である。
飛行計画を見直すべきであった――やはり拙い方向舵捌きと誤ったタイミングが、右脚から接地した機体を滑走路のセンターラインから大きくはみ出させて上下に揺るがす。それから優に二分の時間を経て、「ダニエルズ-バス」は漸く従順さを取り戻し、左手に大型機用駐機区画へと通じる誘導路を見ながらにして円滑な滑走に入っていく。
「艦隊には優秀なパイロットはいないの? これじゃあ辺境航路を飛んでいる無免許の老人パイロットの方がずっと巧いじゃない」
クリーム色一色に覆われたスーツ姿の女性が、窓から差し込む日差しに遮光グラスのブラウンをぎらつかせながらはき捨てた。ウェーブのかかった髪の毛は、その豊かさを彼女の肩にまで侵食させ、それは薄暗い機内でも淡い栗色の輝きを放ち続けていた。同席の軍服の一団が、女性に一斉に隔意溢れる視線を向けようが、彼女にはまったくのお構いなしであった。
「そんなこと言うもんじゃないさ。シンシア」
後席に陣取る、ポロシャツ姿の男がとりなすように言った。肌蹴た胸元から、小麦色の肌ともじゃもじゃの胸毛が覗き、やや肥満ぎみの体躯の上にだいぶ薄くなった頭髪が、初老に達しかけた男の印象を却って活力豊かなものにしていた。着席を示すサインが未だ消えていないにもかかわらず、男は席から身を乗り出し前席の女性を覗き込むようにし、笑いかけた。
「もう少しの辛抱だよ。後十分もすれば、俺らは空調の効いた特別室でトロピカル-ジュースでも飲んでるさ」
「話には聞いていたけど、とにかく困るわ……こんな僻地」
そう言って、シンシアと呼ばれた女性は再び窓から広がる荒涼を苦々しげに見遣った。飛行機から外に出れば、咽返るばかりの熱風と煩わしい砂埃に苛まれることぐらい、容易に想像できた。これで「商売」になるのか……その思いを胸に、彼女は金色のシガーケースから煙草を取り出し、オイルライターを忙しげに擦って火を点けた。
「あの子の身体に何かあったら……どうするのよ? まだ巡演も残ってるっていうのに……」
「二三日の辛抱さ。この仕事が終わったら、ルグ-ヨークシェルトンのVIPルームでしばらく過ごそう……な?」
女性は笑った。まんざらと言う風でもないが、それでも彼女の心は別のところにあった。
「だめよ。帰ったらプラチナスタジオの代理人と話をすることになってるの。今度の映画主演の件でね」
「仕事熱心だな……シンシアは」
肩を竦め、男は席へと腰を下ろした。そしてにやけ顔とも区別の付かぬ会釈を浮かべたまま後席の人影を省みた。他人の同意を、男は欲していた。
「なあ、フラウ」
「……」
フラウと呼ばれた人影が少女の形となって、それは窓から広がる基地に向かい、一心に目を凝らしている。
「……」
嘆息――少女のことはすでに何年も見知っているはずの男ですら、日々端正さを増していくその横顔に見るたびに圧倒される。
場にあまりに不似合いな清涼感溢れる薄手のワンピース姿からは、細いながらも流麗そのもののボディラインをはっきりとそこに見出すことができた。さらに目を凝らせば、未だ延びる余地のある、低い背丈ながらも、その体躯が同年代の少女に比して抜群に近い発達を遂げていることをも見て取れるはずだ。豊かな黒髪は瑞々しい。大きな青いリボンで後ろに束ねられていても、少女の髪はややもすれば溢れんばかりに解けて、艶やかな光と芳香とを周囲にぶちまけてしまいそうに思える位に心許なかった。藍色の瞳は大きく、くっきりとした二重瞼と濃く長い睫毛とに飾られ、そうした目元のみでも少女らしい瑞々しさを十分に物語ることができた。
「――フラウ?」
「……?」
三度目の呼び掛け、だが唐突に呼びかけられたかのように、少女ははっとして男の顔を見上げるようにした。少女の藍色の瞳に、純粋な驚愕が宿っているのを男は見て取り、顔を曇らせた。短からぬ付き合いとはいえ、決して少女の繊細さを知っていたからではなかった。
「何を見とれてたんだ? 上の空じゃないか?」
「御免なさい……」
「もう到着だぞ。基地司令部の将校さんが出迎えてくれるそうだから、そんなぼうっとした表情は頂けないぞ?」
「わかってる……」
力なく、少女は頷いた。男はそんな少女の表情を見逃さない。
「フラウ、スマイル。ホラやってみろ」
執拗に促され、少女は渋々と笑った。それでも笑うと大きくなる口から、並びのいい歯が白い輝きを湛えていた。
薄暗い機内での溢れんばかりの笑み、宝石とでも言うべき笑み――男はそれがこの世でもっとも愛されている笑顔であることを知っていた。そしてそれを独占できる立場にあることを今更のように確認し、男は内心で満足を覚えるのだった。
「できるじゃないかフラウ-リン、もう少し我慢しろよ。基地のお偉方への挨拶が終わったら、すぐに休ませてやるから……」
微笑――フラウ-リンはそれ以外は無言で頷き、男は自分の席に腰を下ろした。着陸とそれに続く滑走の最中に、着席を求めるランプはすでに消えている。エンジンをカットした機内からは離陸してこの方、四時間近くに渡って機内から排除され続けてきた静穏が戻りかけている。
「……」
フラウ-リンは、内心で身じろぎした――
止め処ない緊張と不安とを要求する日常に、引き戻されようとしていることに――
ドアが開き、SC-14は長時間にわたり狭いキャビンに詰め込まれていた乗客を、解き放つように吐き出し始めた。それもまた、すでに前線基地の一部を為すファッショル島飛行場の風景の一部となって久しい。こうした輸送機による航空定期便は、レンヴィル泊地においてほぼ24時間稼動し、前線と後方とを繋ぐ基地員のローテーションは絶え間なく続いている。飛行船より搭載量は格段に落ちるが飛行船よりも早い定期便。それでも間に合わないから無茶な積載計画と飛行計画が横行し、事故もまた増えている……
「ダニエルズ-バス」が翼を休めて間もない駐機場――そこに、未だ17歳を出て間もないフラウ-リンがファッショル島の飛行場に一歩を標した瞬間。彼女を取り巻く一切の荒涼が、一辺に天界の花園と化したかのように、彼女の来訪を待っていた大人たちの少なからぬ数が思った。待ち構えていた若い司令部付将校が三人の前に進み出、恭しげに敬礼する。
「あなたをお迎えできて、光栄です。ミス-フラウ」
「お世話になります。将校サン」
と、フラウは一礼して笑った。控えめだが、多少の茶目もまた笑みの中には含まれていた。それがまた、少女に対する免疫に乏しい男どもの歓心をくすぐるのだ。だが彼女が発言したのはこのときだけで、あとは進み出た二人と軍側との「大人の会話」に場面は移り、少女は脇に追い遣られてしまう。
宿舎と今後のスケジュールに関する、フラウのための打ち合わせではあろうが、フラウにはそれが気に入らなかった。自分は丁重に扱われてはいるが、一方では邪険にされている。今のフラウにとっては、毎日がそういう風に過ぎていく……だが、それがすべて自分の生み出す破格の価値の為せる業であることを、フラウは幼心に理解しているつもりだった。
フラウ-リン――大衆消費文化の浸透したラジアネスの主要都市圏において、彼女の名を知らない者はもはや皆無と言っていい。
生来の美声と美貌とを引っさげ、綺羅星の如く出現した少年少女のアイドル。15歳のデビュー以来出す歌出す歌全てがミリオンセラーを記録し、いまやラジオの音楽番組では彼女の歌が流れない日は無いといってもいいほど。そして同年代の少女誰もが彼女の日常を羨み、彼女の嗜好に追随するファッションリーダー……それは彼女の一挙手一投足が常に注目され、あるいは絶え間ない監視下に置かれることをも意味していた。
連日のダンス及び歌唱のレッスン、新曲の収録、ラジオ番組出演、ナイトライヴ、各地を回りながらの公演……かつてはずっと緩やかで、旅行のような楽しさに溢れていたスケジュールが、気がつけば分単位の、多忙なビジネスマンにも似たそれに変わり、それを自然に受け容れていることに愕然としている自分がいた。彼女自身、それを望んでスターとしての途を選んだはずなのに……外面の華やかさに騙されたかのような違和感は、日々少女の内面に迫ってくる。
「あ……」
話しこむ大人たちを尻目に、飛行場の方向へ視線を転じたフラウの眼前を、脚を下ろした戦闘機が着陸に入ろうとしていた。今しがた彼女の乗ってきた輸送機とは違い、戦闘機は微塵の揺らぎも見せずに滑走路のアスファルトに吸い込まれるようにして接地し、そのまま滑るように軍用機の駐機場へ向かって行く。主翼を折りたたみながら滑走を続ける胴体に描かれた機番号が、フラウには何故か印象深く残った。
「フラウ、行くわよ」
背後から呼びかけられ、フラウは慌てるようにして踵を返した。専属マネージャーのシンシア-ラプカが遮光グラス越しに険しい眼光を向けていた。フラウのスケジュールを一手に預かる、フラウにとってある意味神にも等しい存在。フラウには、彼女の分厚いスケジュール帳には、ひょっとすれば自分が呼吸するタイミングまでスケジュールとして記されているのではないかと本気で思うことすらある。それ位、シンシアによるフラウの管理は徹底している。
飛行場の外では、司令部から差し回された、天蓋の無い無骨な軍用車が、アイドルとその一行に乗られるのを待っていた。機内で気合入れに笑顔を強いたポロシャツの男が、笑顔でフラウに車に乗るよう促す。舞台設営及び装飾担当のルイ-コステロだ。彼ら二人を中心にメイク担当、身辺の世話など常時4~7人の専属スタッフがフラウの周囲にはいた。それ位、彼女は「金の卵を産むニワトリ」として所属する芸能事務所では大切に扱われている。
三人はここからさらに連絡艇に乗り込み、司令部の置かれているタイド島へと向かわねばならない。おそらくそこでは、敵手レムリアに対し未だ劣勢にあっても、未だ圧倒的な陣容を蓄えたラジアネス航空艦隊の威容を目の当たりにできるかもしれない。
いささか不適切な言い方ながら、フラウたちのように芸能の世界に生きる者たちにとって、今度の戦争は絶好の稼ぎ時だった。映画や音楽に様々な題材を提供してくれることはもちろん、軍から依頼される前線への慰問活動で実際に収益を得られる上に、国家への貢献を周知されることで、大衆の知名度と好感度とを上げる絶好の機会までも与えられていたからだ。それゆえ彼女のような、いわゆるスターが各地を飛び回る頻度はこれまでになく高まっていたのだった。
そのフラウ-リンが最前線に足を踏み入れたのは今回が初めてのことだった。それ故にシンシアたちの様子もピリピリしたものになっているのかもしれなかったが、彼女がストリクトなのは普段からのことではなかったか……すぐにそう思い、フラウはマネージャーに同情するのをすぐに止めた。
巨大な連絡艇が埠頭ではフラウたちを待ち、車両も搭載できるそれは車から出ずしてフラウを自らの客にすることができた。
島々の間を流れる気流に翻弄され、左右に揺れる連絡艇の艇体、それに不安を覚えることなく、フラウの藍色の瞳は前を見据え続ける。彼女の円らな瞳と同じく、ファッショル島を脱した連絡艇の平坦な舳先は、この群島でもっとも大きな島を向いていた。
島の名はタイド島といった。
東西に細長いその島で最も高い山の中腹に、ラジアネス艦隊の前線司令部が置かれている。
左舷――ファッショル島から北東に位置する島を、その方向に見る場所にまで連絡艇は到達する。
マウリマウリ島というのが、その島の名前であった。
マウリマウリ島はレンヴィル泊地を構成する各島でも特別な存在意義を持っている。停泊する艦船の乗組員専用のレクリェーション-センターとして、将兵に娯楽と慰安とを提供する役割を担っているのだ。先着している設営班により、現在準備の進行しているフラウの慰問公演もそこで行われる予定になっていた。
輸送機と比べて連絡艇は遥かに低速だったが、目的地が目に見えているだけ心を許せる船旅であった。そして目に見える目的地は、それに近づくにつれ島を取り巻く艦隊の主力艦艇を、城郭の様な輪郭の連なりとして徐々に浮かび上がらせていく。
「こいつぁ凄い!」
連絡艇の舷側から身を乗り出し、ルイ-コステロが弾んだ声を上げた。軍艦のような、傍目から見れば鉄材の浪費にしか見えない巨大で重厚な文明の産物に、男は強く惹かれるものであるらしい。それでも、遊び道具を見出した子供のようにはしゃぐルイを間近にしながらも、女のフラウにはそれが何故なのか判らない。
「これほどの戦艦を目の当たりにすりゃあ、レムリアンのやつら目を回すかもしれんなぁ。エルグリムの方がずぅっと根性があるんじゃないか?」
そういえば――とフラウは沈思する。
フラウは歴史の授業で習った程度だが、ルイはあの「エルグリム戦争」に空兵隊員として参加していたんだっけ……今では見る影もないが、そのころのルイは紅顔の美少年で、勲章をもらったこともあったそうだ。なぜわかるかというと、ことある度に彼自身がそういう昔話をする。皆は話半分で聞いてやっているようだが、フラウはそう信じてやっている。ただ酒が入れば当時の古傷と称し、わざわざズボンを脱いで毛むくじゃらの下腹部にできた銃創を見せようとする癖には辟易させられてはいるが……
「勲章と言っても、傷痍勲章ね。そんなのあの時代の戦争に参加した人なら、誰だって貰っているでしょうに……」
と、シンシアは呆れ顔を隠さない。
島に近づくにつれて停泊する艦影は近づき、やがて連絡艇はそれを横目に見ながら専用の埠頭へと針路を変えていく。
「……!」
思わず、フラウは目を見張る。
藍色の瞳の先――浮標に繋がれたクロイツェルーメラティカーラ級戦艦の、圧倒的な威容。
灰色の船体の各所から生やしたかのように配された砲塔の連なりは、まさに空の要塞と呼ぶに相応しい。
船上の所々を行き交い、あるいは佇む乗員の白い作業服姿が、蟻のように矮小なものに感じられた。
そして、クロイツェル-メラティカーラ級の最大の特徴――全長700フィートに喃々とする艦体を貫く巨大な推進軸。その前後各一基ずつ配された12翅の反転プロペラは途方もなく大きく、お伽話の世界に出てくる巨人の風車をリンに連想させる。
巨大な推進器に前後を挟まれた艦中央部に艦橋、そして主武装たる三連装16インチ砲を上下に計8基搭載。これはラジアネス戦艦史上初の装備であり、これは艦全体を推進機構として使うことによる速力向上と、高い打撃力及び重装甲の両立を図るための、当時としては斬新な設計上の試行であった。初号艦が就工したのは「エルグリム戦争」末期のことであり、以後30隻に及ぶ同型艦が就役するに至ったクロイツェルーメラティカーラ級戦艦は、その奇抜な艦容もあいまって同戦争により確立したラジアネスの覇権を強く印象付ける存在として当時の人々に受け止められることとなったのである。
だが、実際に就役してみると、これらの試行は悉くが裏目に出た。
まず、速力と推進効率の向上の両方を狙って設計された艦体にも拘らず、速力こそ向上していたものの推進効率は従来の艦に比して決して卓越しているというわけではなく、むしろ悪化した。さらに、前後に配された主推進器が主砲の射界を著しく制限させ、稼動中の主推進器から発される乱気流は主砲の弾道特性をも著しく悪化させることとなった。特異なデザインはまた、全速時に主砲を稼動させると乱気流を発生させて艦のバランスを著しく乱す現象を引き起こし、それは程無くして速力21ノット/時以上の状態における主砲の運用禁止に繋がった。
巨大な推進軸を前後に通したせいで居住性も悪化しており、その上に推進軸に隣接する殆どの居住区画は、常に全力状態を強いられる機関部に起因する異常振動と高温に悩まされることとなった。結果として、「ラジアネスの覇権」を武力の面で象徴する存在になるはずの新鋭戦艦は、進空してわずか五年足らずのうちにオーバーホールと改装を受けるべく早々にドッグ入りすることになったのである。そして各所の改善を終えて同艦が再び艦隊に配備された頃には、艦の持っていた唯一のアドヴァンテージたる駿足は全くに失われていた。そのような艦でも30隻にわたる膨大な数が建造され、それなりに維持されてきたのは、単に新規に戦艦を設計するだけの財政的余裕が戦時では無いがゆえに抑制されてきたことと、「遅れてきた」この艦が以後一度として実戦の洗礼を経ることがなかったからに過ぎない。
だからこそ、艦の抱える根本的な問題はあえて見逃されてきた感があった……そう、再び戦争が起きるまでは。
連絡艇が接岸するや、車は再び走り出した。
艦隊前進基地の所在地として、タイド島は司令部設備が充実している。アスファルトの敷かれた道路の両側から広がる椰子林と芝生の組み合わさった風景は、これまでフラウが仕事や寸暇を使ってのバカンスで何度か行った海浜のリゾート地のそれと何ら変わらなかった。ただ一つ、区画ごとに敷地を分かつフェンスとそこを行きかう軍服を除いては――それこそが、フラウに前線に足を踏み入れたのだという感慨を強くさせる。
レムリアという正体不明の勢力との戦争が始まり、それは未だ続いていたが、ラジアネスという社会に暮らす大多数の人々にとって、戦争は新聞やラジオ、ニュース映画のような報道媒体の向こう側で起きている「事象」であるに過ぎなかった。軍の定数が大幅に拡大され、民間でもその強大な工場生産力を兵器生産に振り向けるために、普通乗用車の開発と生産が全面的に停止されたことを除けば、戦争であるにもかかわらず市民生活にはさして何の影響もなく、全ての経済活動も何ら滞りなく進捗し、繁華街は日夜ネオンサインと嬌声、明るい音楽とに溢れ、街々の道路には車の群れがヘッドライトの奔流を為している。
そんな市井の人々にとってレムリアとの戦争とは、時折ラジオや新聞における戦時国債購入の勧誘広告と兵士の死亡広告、そして学校や職場などで行われている軍への入隊案内で些末ながら伺える程度のことであるのに過ぎなかった。
戦争とは、いったい何処の世界の出来事なのか?
つい2、3日前のフラウにとっても、戦争とはやはりその程度の事件であり、そして出来事であった。少女が住み処としている地上世界から見上げた、空のずっと上で繰り広げられている戦争。その天空世界の三分の一近くがすでにレムリアの支配下に置かれ、彼らの征服の手はさらに伸びようとしている。一方で彼らの侵攻を迎え撃つべき政府軍が、意に反し苦闘を重ねているという事実を、前線慰問公演が決まったつい最近になって初めて知ったフラウであった。
「……」
思い出したように目を凝らした横――シンシアの仕事熱心ぶりはここでも変わらない。今後の予定を廻り、同乗している基地司令部の広報官と話し込んでいるのだ。その遣り取りがまた、少女を外見の華やかさと対になった沈鬱へと再び誘う。
少女は思った。
ただ唄い、皆に無垢な自己を演出して見せること――それが自分の仕事になってどれほど経つだろう?
そしてそんな生き方は、自分に何をもたらして来ただろうか?
そして自分は、本当に純粋な存在なのだろうか?
全ては……望んだ末の結果であるはずなのに。
望んだものを手に入れた結果、自分はそれとは別の、それも望んできたもの以上に大切な何かを失おうとしている。
「……」
再び目を向けた外の景色――雲の支配する領域よりやや高い位置にあるこの島々から、常に青々とした大気の海を見上げることができた。
「自由……」
何気なく呟いた言葉に、漸くに打合せを終えたばかりのシンシアが訝しげな視線を注いだ。
「フラウ……何か言った?」
「ううん……」
慌ててかぶりを振るフラウ。自由……だが、今それを得たところで、自分には何が待っていると言うのだろう? 自分を取り巻く「現在」から意を決して抜け出すには、フラウはあまりに「安定を保証された多忙」に慣れ過ぎていたのかも知れなかった。
そのとき、車が止まった。哨所に達したのだ。
そこからさらに先は、だだっ広いばかりの平地。だが車はすでに艦隊司令部の敷地だった。
大きくはあったが、何の飾り気もないプレハブ造りの、いかにも合理性と経済性とを前面に押し出した建物。それがタイド島の艦隊司令部であった。事前に表敬訪問した地上の国防省や艦隊司令部庁舎のような荘厳かつ重厚な造りを想像していたフラウにとって、天空の一大泊地にある簡易なそれは、新鮮な感動にも似た印象を催すものであった。玄関前で車が停まるや、警衛の兵士が駆け寄ってきてドアを開けた。
先に降りたシンシアに促されるままにフラウが車から足を降ろした瞬間、遠巻きにアイドルの到着を見守る軍服姿の男たちの間から起こる、どよめきとも歓声ともつかない声……そのような歓迎には、すでに慣れた。彼らに白い歯を見せて会釈し、歓声を煽るのもまたフラウの習慣のようなものになっていた。
これは答礼ではない。演技であり、仕事なのだ……昔は恥らいと戸惑いと嬉しさとともにそうした歓迎を受け容れていたフラウがそう悟るようになって、どれほどの時が過ぎただろうか?
「基地司令がお待ちです。こちらへ……」
シンシアたちに敬礼する応対の女性士官の表情は硬く、フラウたちをごく並の賓客としてしか見ていないかのようであった。むしろそれはフラウにとって、自分たちの歓心を惹こうとあれこれとつまらない話題を持ち出すよりもずっといい。余計な愛嬌を振りまく手間が省けるからだ。地方巡りやスタジオの仕事より、政府や軍の仕事はずっと楽だというシンシアのレクチャーが、今になって理解できるような気がする。
もはやフラウにとって、笑うことすらも労力の浪費を意識する動作になろうとしていた。心から笑えないことの、如何に哀しく恐ろしいことか!
先導され、あるいは周囲を固められながらに少女は歩く。
その白皙の頬には、もはや感情は宿ってはいない。
――再び、ファッショル島。
列線を形成するジーファイター戦闘機の一機に、ふたりの整備員が取り付いている。
「こいつ……すげえなぁ」
と、二人のうちの一方が目を丸くしたのは、コックピット付近の胴体を飾る20に喃々とする撃墜マークであった。主翼に乗り、塗料の感触を確かめるようにそれらを撫でながら、彼は感嘆の溜息を漏らすのだった。空母の飛行隊が進出し、多くの艦載機に混じりこいつの姿が駐機場に見えるや、この異形のジーファイターは地上の将兵にとって話題となり始めていた。開戦よりこの方、戦闘機の戦いでは劣勢と聞いていたのに、この「戦果」はどういうことなのだろう?
「……どんなやつが乗ってるんだろうなぁ」
半ば上の空でぼやく様に言う。途端に彼の隣、脚立を使いカウリングを開けたエンジン部を覗き込んでいた男が、オイル塗れの顔を上げて怒鳴った。
「コラッ、何サボってやがんだ? さっさと点検終わらせねえかっ!」
「あーあ……オッカネエ」
上官の叱責に不貞腐れた男が胴体部を点検しようと、渋々主翼から降り点検ハッチに近付こうとしたそのとき――
バンッ!
「……!?」
激しい音とともに胴体部の点検ハッチが破られ、男はいきなりにそれを全身で受け止める形になった。点検ハッチを受け止めながらに昏倒した男を、胴体から伸びた長い脚がパネル越しに踏みつける。突然のことに驚いた機首の男もまたバランスを崩し、絶叫とともに脚立ごと地上に叩き付けられた。
「な、何だ!?」
愕然とする男たちを尻目に、狭い胴体点検口から煩わしげに体躯を捻り出した長身。その巨大な影に男たちの視線が集中する。
「お……女!?」
青黒い髪の毛、それでいて金色に染められた先端が天辺で纏められていた。豊かな胸、美しく括れた腰つき……だが憤怒に逆立った柳眉、その下でも丸眼鏡を貫いて憤怒の光にぎらつく丸く茶色い瞳が、彼女の流麗な体躯以上に男たちの注意を惹きつける。
怒りに燃える長身の女性を前に、慄然として固まる男たちには目もくれず、周囲を見回し、女性は叫んだ。
「カズマァ――ッ! 何処だァ――!」
そして、憤然として歩き出した。
「あんのガキャー……あれほど揺らすなって言ったのに、マジでコロス。殺しきるっ!」
遠ざかり行く女の後姿を、二人の男は黙って見送る。
「な……何だありゃあ」
「さあ……」
二人は唖然として見送るしかなかった。




