第一章 「艦隊少尉ツルギ-カズマ」
ああ、あの娘の話か……確かに、あの娘は特別だった。
あの娘は操縦桿を握って飛び上がった瞬間から空を味方にしてしまう。
つまりは……あの娘の操縦する飛行機の周囲だけ流れる空気の質が違うんだな。
あの娘は天才だよ。そう……操縦の天才だ。
でもね……天才というのは陰翳と切り離せない存在だということもわしはあの時知った。
あの娘の飛び方には、わしでも修正しようがない陰があるんだ。操縦以前の問題だった。
何というか……世間から疎外された孤児にも似た哀しみとでも言おうか……
だから、あのときわしは思った。
あの娘には、理解者が必要だ。
わしのような凡人ではなく、あの娘より操縦が巧いことは勿論、人間的にも幅がある誰かが――
――とあるレムリア人老飛行士の回想より――
中部大空洋南方に位置するレンヴィル諸島は、直径約五十空哩にわたる環状の小島の連なりを持っていた。
諸島を構成する大小14に上る浮遊島は、ちょうど北と南にそれぞれ一つずつの環を作るように配され、それぞれの環は纏った数の艦艇を一度に通過させ、収容するのに適した間隔と広さとを併せ持っていた。それゆえに、「大空洋戦争」勃発と期を同じくして防勢に追い込まれたラジアネス艦隊総司令部が中部大空洋防衛、あるいは反攻の拠点として同諸島の地形に着目したのは自然の成り行きと言えたのかもしれない。
着目するのと同時に、あるいはそれよりもずっと前に、拠点としてのレンヴィル泊地の整備は始まっていた。おおよそ基地が設営されるに当たり、その土地の自然環境は完全に克服される必要があった。中部大空洋の、それも南端に近い空域に存在する浮遊島の宿命として、レンヴィルの島々は熱帯に属し、常夏の高温湿潤な空気がそこを支配する。当然それは熱帯特有の熱病やそれを媒介する害虫、そして病原体の温床となり、何の用意も無く侵入する人間を心身ともに蝕み、文明の進出を妨げる。それは即座に、天空世界に生活の基盤を構え、文明を構築していく上で克服するべき障害と看做される――
人類が天空世界への進出を始めてすでに2000年近くの時間が過ぎようとしていたこの時代、天空世界を開拓する手法としての土木技術、言い換えれば現地の風土を克服する方策はすでにその大半が確立されていた。人類は自らを育んだ地上に対するのと同じように、空にその豊潤な肢体を横たえた天空の大地とそれに付随する自然もまた、征服の対象と見做したのである。レンヴィル諸島もまた例外に漏れず、徹底した環境「改造」の対象となった。
まず、景観的に不必要で害虫の生息地となり得る潅木類や藪、そして草地はその悉くが伐採、あるいは焼却され、さらには除草剤や殺虫剤が上空から大量に散布される。それでも残った湿地帯はコンクリートで埋め立てられ、あるいは土壌ごと浚われ投棄されるなどして各種の熱帯病を誘発する要素は徹底して排除された。ざっと述べれば簡単であるように思われるが、これだけの事を成し遂げるだけで少なからぬ経費と人的資源、そして労力を必要とする。
それらを軽く動員し短日時の内に人間の居住可能な環境、そして前線基地整備の基盤を造り上げてしまうあたり、やはりラジアネスの国力は群を抜いて強大であった。そしてラジアネスの国力がそれ以上に威力を発揮するのは、基地を設営する下地が整えられた直後のことである。
指揮通信設備の充実した司令部施設。そして最大300機の艦載機を一度に収容し、整備し得る飛行場はもとより停泊する艦船の整備補修区画、さらには小型舟艇の整備補修工場や艦隊将兵用の娯楽及び休養施設までレンヴィル泊地には同時並行的に整備され、かつては極少数の入植者(後に莫大な立退き料と引換に退去)と、ラジアネス環境省の気象調査官数名が慎ましい生活を送っていた空の環礁は、瞬く内にラジアネスの戦争を空から支援する大空洋の一大拠点へと変貌を遂げた。
泊地自体の艦船収容能力は最大で600隻余り。およそ進攻型の艦隊を長期に渡り支援することを可能にするだけのインフラが、戦争開始まで一顧だにされなかった南方の空の小島に集中することとなったのであった。
――その、レンヴィル泊地へと艦首を向ける一隻の艦影。
『――当日を以て戦時階級の適用により、ツルギ-カズマ航空兵を少尉に特進させ、左記に準ずる待遇を与えしめることを得――』
この日、二枚目の命令書にサインを入れ、空母「ハンティントン」艦長 アベル‐F‐ラム中佐は遮るもののない日光の差し込む舷窓にさり気無く目を転じた。熱帯の空特有の刺すような日差しは、朝方だけに未だ柔らかく、ともすれば職務を投げ出してそのまま上甲板で爽やかな朝風に身を委ねたい衝動に駆られる。
「……」
溜息――
やっと入港か……決済に走らせるペンを止め、安堵交じりの感慨とともにラム中佐は椅子に凭れ掛かった。
思えば長く嶮しい道のりだった。ハンティントンを主力とするラジアネス機動部隊は、産声を上げた端から優勢なレムリア軍を前に苦闘を繰り広げ、その激戦の痕も癒えぬまま継続したリューディーランド周辺航路の警戒任務を解かれたのは三日前のことだ。それからの帰路は瞬く間に過ぎ去り、今日の昼過ぎにはハンティントンと彼女を守る艦隊は、レンヴィルの艦隊根拠地に滑り込む予定となっていた。
「……」
舷窓から目を凝らせば、ハンティントンのすぐ舷側で編隊を組むジーファイター艦上戦闘機の機影。
編成と訓練が始まった当初は航空機に関しては全くの素人に近かったラム中佐にすらぎこちなく、そして頼り無げに見えた機動部隊の艦載機は、今ではあの苛烈な実戦を潜り抜けたことも手伝ってか、一種の貫禄すらそのネイビーブルーの機影から漂わせているように見える。
そう……艦隊は、成長している。
寄せ集めの、名ばかりかと思われた機動部隊は、激闘を経て今やラジアネス艦隊で一、二を争う歴戦の部隊へと脱皮しつつある。
……翻って、空母艦長たる自分はどうか?
「……」
再び吐息――
もとは商船乗り、戦争の勃発により意図せずして踏み込むこととなった軍人としての勤務も、そして艦長としての勤務も決して長くは無いものの、だからといって自身の職務の重要さが軽減されるわけでもなかった。そして戦況は、彼の責務と立場を一層重いものとしている。
リューディーランドにおける迎撃戦の際、ハンティントンとペアを組む形で出撃した空母「クロイツェル‐ガダラ」は、100機を越えるレムリア軍の猛攻を一身に吸収し、空雷三本をはじめ夥しい数の銃爆撃を受け、遂にその力尽きた巨体を雲海の只中に沈めた。ハンティントンはといえば運命の悪戯か主戦域から離れ、さらには層雲に身を隠したかたちとなったが故に攻撃を免れた。
それでも、すんでのところで攻撃を逃れたハンティントンに、僚艦を襲った悲劇を悲しむ暇をレムリア軍は与えてはくれなかった。敵の攻撃は執拗を究め、その日の夜間の内にハンティントンと生き残りの艦艇は、選りすぐられた精鋭パイロットによる夜間攻撃に晒されることとなったのだ――
「ツルギ-カズマ……」
今しがたにサインをしたばかりの書類の主とも言っていい青年の名を、ラム中佐はか細い、気だるそうな声で口に出した。
それは飛行学生の身分ながら特例で艦に乗り込むことを許され、今次のリューディーランド方面の戦闘ではめきめきと頭角を現した一人の戦闘機パイロットの名前……名前と同時に脳裏に浮かんだ青年の容貌に、ラムは堅い表情をやや綻ばせる。
あの夜間戦闘においてこの青年は四機のレムリア軍攻撃機を撃墜し、さらには迫り来る空雷から身を挺して母艦を守りきった。書類の内容は、それらの戦功の結果としての昇進と叙勲に対する彼自身の推薦であったし、それに拒否や疑念を差し挟む意図をラムは持たなかった。
「少年だったな……戦闘機乗りとは思えないくらいに」
不時着したところを救助され、ずぶ濡れのまま、艦橋に詰める彼の前に立ったツルギ‐カズマの、頭から毛布を被った姿をラムは思い浮かべていた。上官の前にはにかんだ笑顔、子供のような仕草、海水に濡れて乱れた黒髪……気鋭の戦闘機乗りというより悪戯好きな少年を思わせる容姿の何処に、あの技量と闘志を想像出来るだろうか……?
沈思に傾きかける艦長を、現実に引き戻す内線電話のベル――不意に鳴ったその受話器を取ると、艦橋に詰める副長シオボルト‐ビーチャ少佐の声が耳に飛び込んできた。
『――艦長、所定の空域に達しました。艦載機を全てレンヴィルへ差し向けます』
「了解、細部は全て君に任せる。私も後から行くから」
さり気無く副長に仕事を押し付けて受話器を戻し、やはりさり気無く視線を向けた先で、カップに注いだまま未だ口をつけていなかったコーヒーは、すでに冷め切っていた。
入港の時間は、刻々と近付いている。
――この時点で戦闘の日々が安息の日々に席を譲り、すでに二週間近くが過ぎ去っている。だが戦争という事象そのものが続く限り、その中に生じたに過ぎない安息は永遠ではない。
それでもツルギ‐カズマ 航空兵転じて士官候補生にとって、その二週間は戦闘の日々と同じく瞬く間に、そして充実した内に過ぎていた。
「――これから君には、レンヴィル到着までずっと勉強をしてもらう」
戦闘が終了し、部隊の一時再編はもとより残務整理や負傷者の後送が一段落した後、艦長室に呼び出されたカズマを前に、空母ハンティントン艦長 ラム中佐は開口一番にそう言った。
「勉強……ですか?」
「そう、勉強だ」
そのときになって、カズマは初めて自分がすでに一航空兵から数階級を一気に飛び越え、士官として扱われていることを知った。その一方、戸惑いの表情を隠さないカズマにラムは思わず目を細める……まったく、この少年そのものの容姿の何処に、あれほどの勇気の持主たることを想像させる要素が見出せるだろうか?
「教材や指導教官の手配はすでに済ませてある。これから君は一日に最低四時間机に向かい、艦隊士官として最低限必要な識見を養ってもらう」
「でも……自分、まだ一兵卒の身ですけど」
「だからこそだ。君の昇進と叙勲はすでに内定している。本来なら一旦後方に下げてじっくりと教育課程を修了してもらうところだが、この戦況だ。後方でじっくりと学ぶ余裕は残念ながらない。君には悪いが、士官任官に必要な全てを、ここで培ってもらうことにする」
「……」
「不安がることは無い。幸いこの艦には教育部隊経験者も多い。彼らの講義は君にとって有益な時間になるはずだ。私が請合うよ」
「……」
言葉を失ったかのように黙り込むカズマに、ラム艦長は微笑みかけた。
「我々には、君の力が必要なんだ。ツルギ‐カズマ」
カズマは、講義を受けることになった。
戦局になんら影響を及ぼすことの無い即製士官であっても、任官前に学んで置かねばならないことは多岐に及ぶ。士官として必要な教養、戦略、戦術概論、さらには航空士官として必要な航空学、物理学に関する知識……この世界に身を投じる前、カズマの予科練の座学の成績は決して悪いものではなかったが、異なる世界の異なる学問に触れる機会が、当初カズマに少なからぬ戸惑いをもたらしたのは事実であった。
そして同じくカズマを戸惑わせたものは、ある意味個性的とも言える講師の陣容――
科学系を始め、教養課程の一切を受け持つこととなったブフトル‐カラレス軍医長は、カズマに刷り立ての練習問題の束を渡し、言った。
「なあカズマ、オメー飛行機を勘で飛ばすタイプか? それともちゃんと計算して飛ばすタイプか?」
「どちらかと言えば、勘で飛ばす方ですけど?」
「じゃあ、俺が口を酸っぱくして教えたところで、身に付くわけねえよな」
軍医はカズマの前にどっかと座り込み、ラフに着こなした白衣からブランデーの小瓶を取り出した。
「自習だ。俺もそうやって独学で医大に行ったもんだ」
こうして軍医は、三度の飯より好きな飲酒に関し、誰にも文句を言われない口実を作ることに成功したのだった。
続けて情報及び指揮統制に関する講義。ハンティントンCICチーフのシルヴィ‐アム‐セイラス大尉は、生徒の扱いに手馴れた女教師の姿をカズマに思わせた。
「ボク、この数式判る?」
黒板に描いた電子制御に関する数式、促されるがままに予習通りに式を解いたカズマの机に、セイラス大尉はその形のいい腰を乗せ、回答を一瞥して微笑みかけた。
「よく出来ました。ボク、飲み込み早いわねえ、お姉さん感心するわぁ……」
「いやぁ、大尉の教え方が上手いのかなぁ……」
「お世辞も上手……お姉さん、ボクにもっとイロイロなこと教えたくなっちゃった……」
「……」
内心で身構えるカズマに迫る微笑。何時の間にか肌蹴た襟元からは、真白い柔肌がその輝きを覗かせている。
「判らないことがあれば何でも言ってね? お姉さんが実地で教えてあ・げ・る」
「それはどうも……」
これでは恐縮というか気恥ずかしさが先に立って、講義にならないと思うカズマだったが、色目を使う大尉の目的が別のところにあるとまで考えが及ぶほど、カズマは世間慣れしてはいなかった。呆れて頭を振り、意識を黒板に集中させるようカズマは務めた。一瞬ののち、自ずと険しくなったカズマの眼差しに、年長のセイラス大尉もまた気色ばんだものだ。「あら? 意外と頑固ね」
ほんとうにカズマは思う――ラジアネス、あまりに男女の距離が近過ぎる。
「――空域Aに火力を集中し、敵艦隊の注意を牽き付けたところで別働の駆逐戦隊が迂回し、有効な射点を占めるものとする……この際、駆逐戦隊をその有効雷撃距離8空浬まで肉薄させ得るための必要な方策を述べてみたまえ」
数ある講義の中で唯一まともだと思えたのが、ハンティントン航法長ランベルク少佐の、軍事学講義であったかもしれない。二ヵ月後に艦隊大学校の受験を控えた少佐の講義は、かつては別世界の軍人でありながらもその系統の学問には疎かったカズマにも、明快さを以て受け容れられるものだった。
「駆逐戦隊に随伴し得るほどの速力を持ち、敵戦艦と最低20分ほどの交戦を可能とする程の火力と装甲を持った巡洋艦以上の艦を直援に随伴させればよいと思います」
「それは一考の価値があるな。では20分の根拠を述べてみたまえ」
「駆逐艦が時速35ノットの最大戦速で迂回し、肉薄しうるまでの最低時間と計算しました」
「正確にいえば23分だ。回答としては上出来だが、欲を言えば、直援する艦艇を引き抜くことが難しくなった場合についても考察を深めることが望ましい」
――そして午後。候補生の立場とはいえ、カズマには通例の訓練や警戒任務も容赦なく課せられる。飛行前のブリーフィングの最中でも、少なからぬパイロットがカズマに講義の様子を聞こうと囁きかける。
「どうだ? お勉強の進捗状況ってやつは?」
「まずまず……ですかね」
「一航空兵のまま終戦まで過ごすわけにはいかんだろうしな。せいぜい苦しんで、立派な士官になってくれよ」
「でも士官じゃ無くったっていいと思うんですけど」
「そいつは贅沢ってやつだ。一人でも多く士官を確保して拘束しとかないと、戦局が悪くなって大量に逃げられたら溜まったもんじゃない。それがお偉方の論理ってやつさ」
「拘束される側から見ても、溜まったもんじゃないなぁ……」
「そいつぁ言えてらぁ!」
パイロット達はゲラゲラ笑い、当然それは訓練時の飛行コースを説明していたジャック‐“ラムジー”-キニー大尉の見咎めるところとなる。
「喋るなそこ! レンヴィルを前にして迷子になりたいのか!?」
無駄話の環の中にカズマがいることに気付き、大尉は諭すように言った。
「坊やはもうすぐ少尉に任官だろう? それとも中部大空洋で機位喪失して一気に二階級特進が望みなのか?」
さらなる笑い……これでは「ハンティントンの英雄」もまったくの形無し、である。
「やれやれ……きついなぁ」
第187飛行隊のブリーフィングルームから格納庫へと歩を進めるカズマの肩を、背後から叩く手があった。振り向いた先に、クラレス‐ラグ‐ス‐バクルがその端正な顔から微笑を注いでいた。やや焦燥気味のカズマの様子を瞬時に見て取り、微笑は苦笑へと変わる。
「毎日家庭教師付きでお勉強か……ハンティントンの英雄も大変だな」
「これもレンヴィルまでの辛抱だから……」
「空想冒険物語みたいに、功績を上げてすぐ士官に昇進ってわけにはいかないからなあ」
「この世界も、空想の世界だったらよかったんだけど」
「おれたちは物語の最後まで生き残る主要な登場人物か、それとも物語の途中で簡単に死ぬモブか……」
バクルの軽口にカズマが答えようとしたそのとき、艦内放送が艦載機の発進準備を促した。期せずして、二人は並んで、足早に歩き出す――空戦訓練の待つ空へと。
最近、完全に味方の哨戒圏に入ったが故か、艦隊より前進しての哨戒飛行はめっきりその頻度を減らし、体力と神経とを磨り減らす空戦訓練の回数が一方で増大している。
カズマは知らなかったが、レンヴィル泊地には艦隊に先駆け、選りすぐりの教官パイロットで構成される戦闘航法学校の戦闘機隊が展開し、これまでの戦訓で編み出した対レムリア機の空戦技術を機動部隊のパイロットに徹底して叩き込むべく、手ぐすね曳いて待ち構えているという噂がパイロット達の間に少しずつ広がっていた。
「うちの隊長どの、最近ピリピリしてやがる。やっぱりFASがレンヴィルに展開してるって話は本当みたいだな」
「対抗意識ってやつか、FASに対する限りじゃ持つだけ無駄だろうに……」
FASというものに、当のカズマはといえばあまり興味を持てないでいた。どんなに強いパイロットでも、墜とされるときは墜ちる――少なからぬ戦場経験で培った「諦観」にも似た感覚が、彼から至近の未来への関心を薄れかけさせていたし、当初は興味の任せるがままに受けている講義も、難解な用語と数式の羅列を前に最近はめっきりと面白みが無くなってしまっている。
……それでも、訓練や講義により一日のスケジュールはこれまでになくぎっしりと詰っている。さすがのカズマも、ここで一息付きたい、といったところだった。
「いや……だめだ」
そしてカズマは慌てて自省する……おれ、本当はこんなに贅沢な人間じゃなかったのに。文字通りに身命を削って戦い、生き抜いてきたラバウルの日々に比べれば、こんなもの苦労の内には入らないだろう。
――それでも困惑は眠気を誘い、それは空戦訓練を経た午後の講義にも容赦なく襲い掛かる。
「コラッ……カズマ寝るな!」
立てかけたテキストに隠れて船を漕いでいたカズマを、マリノ‐カート‐マディステールは見逃さない。投げつけられたチョークは見事にカズマのおでこにヒットし、反射的にカズマは頭を上げる。
「あんたどういう神経してんのさ。あたしが折角機械論教えてやってんのにさァ」
「つまんねえんだもん。マリノの講義」
マリノは幅の広い肩を竦め、憐れむような眼でカズマを見下ろした。
「……あんたね、あたしが首振らなきゃ士官になれないんだからね。何ならこの場で赤点くれてやってもいいのよ」
「ならなくてもいいよ。そんなもの」
嘆息――だがマリノはすぐに気を取り直し、訳知り顔で口を開く。
「士官はいいわよー、なんせ給料上がるわ女にもてるわ、士官食堂でおいしいご飯食べられるわ、下っ端に威張れるわ……いいことずくめじゃん。ま、所詮あんたみたいな三下にはあたしらエリートの世界なんて理解できないのかもねぇ」
「ええっ、マリノと同じとこでメシ食うのかよ。それだけでもうダメじゃん」
柳眉を逆立ててカズマを睨み付け、マリノは言った。
「あたしゃこう見えても学位持ってんのよ。あんたなんかよりずぅっ……と高学歴なんだからね!」
「え?……何の?」
「航空工学よ! ひょっとしてあんた、士官学校がヘタな地方工科大よりランクが上ってことも知らないわけ?」
「……知らん」
「まったくもう!……これだから低学歴は」
更なる嘆息……眠気覚ましのつもりか、マリノは無作為に問題集から選んだ計算式を黒板に書き殴った。
「カズマ、これ解いてみー……」
「マリノ、そこの数式間違ってるよ」
「そんなわけ……あらホント」
過誤を修正しようとマリノが黒板消しを延ばしたとき、艦内電話が鳴り、送受話器を取ったマリノが苦笑交じりにカズマを見遣った。
「……あんた、運がいいわね」
「どうした?」
「バートランド隊長があんたをレンヴィルまで連れてってくれるって……」
「ほんとか?」
カズマの顔に、明るさが宿るのをマリノははっきりと見る――
矢継ぎ早に装具を整え、格納庫に駆け込んだ先では、先着していたマリノの手によってすでにジーファイターが発艦の準備を為されている。
第187戦闘飛行隊隊長カレル‐T-“レックス”‐バートランド少佐は、カズマを異世界の大空の戦場へと導いた張本人と言えるのかもしれない。当初は戸惑いこそすれ、現在のカズマにとってそれは決して悪い話ではなくなっていたし、少佐の指揮能力と人格は共にカズマならずとも部下隊員の信頼と尊敬を集めるところだ。
装具の乱れを直さずに敬礼するカズマを悪戯っぽい眼で一瞥し、少佐は言った。
「ようボーズ、お前さんを狭苦しい勉強部屋から解放してやることにした。感謝しろよ」
「……」
「何だ。不満か?」
「いえ!」
「じゃあ装具をきちんとつけてジーファイターに乗り込め。この狭苦しいフネから脱出の準備だ」
「はい!」
泊地への入港の間際、艦載機はその大半は事前に発艦し、専用の飛行場にいち早く進出を終えるのが通例となっている。そのまま愛機の待つ飛行甲板へと取って返した先で、完全に調整を終えたジーファイターが、マリノに乗られて待っていた。
そしてカズマは、改めて愛機に目を見張る。
操縦席付近に描かれた20の撃墜マーク――カズマの思いを他所に、それはジーファイターの機体で誇らしげ気に輝いている。そのマークが、カズマをハンティントン艦内である意味特別な存在にしていることも、また事実。
足掛けを使い主翼まで上ってきたカズマの姿を、コックピットから見守るように見つめているマリノがいた。
「ねえカズマ」
「……?」
「いや……何でもないわ」
「……?」
点検を終え、コックピットを変わる段になっても、マリノの物欲しげな表情に気付き、カズマは顔をやや曇らせる。
「……」
そしてカズマは、沈黙の内に彼女の意図を察し、微笑みかける。
「マリノも乗ってく?」
「いいの?」
「マリノがよければ……」
「乗る乗る!」
先程の表情から一変し、手荷物を取りに嬉々として居住区へ向かうマリノの後姿を追いながら漏れる苦笑――何時の間にか、自分の機の整備を一手に引き受ける彼女の表情から、カズマは全てを読み取れるまでになっている。そんなに親密な間柄ではないはずだが……
元から戦闘機、単座のジーファイターに操縦者以外の人間を乗せる余裕など設計上あろう筈が無い。だがちょっとした機転で、その太い胴体の中に余裕を見出すことが出来る。
発着艦誘導士官のハンドサインに従い、エンジン始動の後、飛行甲板上をゆっくりと滑り出したジーファイターの操縦席で、カズマは主翼折り畳み装置のロックが掛かっているか否かを確認した。そのカズマの座席の、装甲板一枚を隔てたすぐ背後の胴体で、長身を屈めたマリノが窮屈そうに畏まっている――
搭乗には、点検用のハッチから潜り込んだのだが、その際大きな尻がつっかえ、カズマはわざわざコックピットから下りて押し込むことを強いられたものだ。
「マリノ、押すぞ」
「コラッ! 何処触ってんの変態!」
「尻押さえなきゃ乗せられないじゃないか」
そんな遣り取りの末、手荷物とともにどうにか胴体内に収まったマリノは、カズマに感謝するどころか念を押すように言い放った。
「カズマ、ひと一人乗せてんだからね。着陸はゆっくりとやりなさいよ。急旋回なんかやったら承知しないから!」
「はーい……」
点検用ハッチに手をかけたカズマを、マリノは再び呼び止める。
「それとカズマ」
「ん?」
「もしも飛行機に何かあったとき……あたしを置いて脱出なんて、バカなことは考えてないでしょうね?」
「まさかぁ……」
ほぼ同時に、引き攣った笑みを浮べる二人――
ハッチが閉められ、そしてカズマは再びコックピットへと戻っていく――
四周に雲の壁を纏い、レンヴィルという名の泊地はその威容を拡げていた。
レンヴィルはその北と南に、それぞれ一つずつの泊地を持つ。その内、艦隊司令部の置かれているタイド島に近接する北泊地は戦艦や空母といった主力艦用に供され、南泊地は巡洋艦以下の小艦艇専用に使われる傾向にあった。
泊地に集結する艦艇は七月の半ばから急激にその数を増し、南泊地だけでもすでに100隻に達していた。内駆逐艦は56隻、四隻で一個戦隊を形成し、それが戦闘単位となる駆逐艦では優に14個戦隊もの戦力が集結したことになる。その点を挙げただけでも、ラジアネス軍の敵手レムリア軍に対する数的優位を推し量れようというものだ。
当然、それだけの戦力を整備し、維持するためには、それに比するだけの充実した後方支援態勢が必要となる。だがあくまで前進基地であり、恒久的な基地化など考慮されていなかったレンヴィルではその立ち位置上、費用対効果に見合った、常識とは全く異なる方式を取る途を選んだ。つまりは、設備としては最低限必要なものを除き、艦艇に対する燃料、弾薬、物資の補給、そして補修の際、補給艦や工作艦等それ専用の艦船を泊地内に配し、泊地に在りながら直接にそれらの支援を受ける方式を取ったのである。
さらに具体的に言えば整備補修にあたり、泊地の能力で修復不能な艦船は、その回航に必要な応急的な補修を施した上で設備の整った母港に後送する。燃料、物資の備蓄も止むを得ない場合を除き、通常は補給艦や油槽船を停泊させて備蓄し、必要に応じ接舷して直接に補給する方式を取る。敵手たるレムリア軍が地上戦兵力を乗せる輸送船の手配が付かずに、結局はリューディーランド本土への地上軍侵攻を断念した一方で、ラジアネス側には出来合いの前進基地を支え得るだけの船腹が潤沢に存在し、彼我の数量差は依然開き続けていたのだった。
――そのレンヴィル南泊地の片隅で、駆逐艦「アラガス」は大分年波の寄った肢体を浮べていた。
20年……当初は新時代を担う高速駆逐艦としてこの空に生を享けて以来、それだけの時間を彼女は生きてきた。その間艦長は11回変わり、彼女自身五度のオーバーホールを経験しなおも空域防衛の第一線に立ち続けた。
第201駆逐隊司令 ウォーレン‐W‐ダーク大佐は、この「アラガス」の10代目艦長にあたる。二メートル近い図抜けた長身ながら貧弱と感じさせない程度に厚い筋肉が全身を覆い、太い首に支えられた堅固な顎の骨格を持った精悍な容貌からは、水色の瞳がその柔らかな眼光を蒼空の彼方へ注いでいた。阿弥陀に被られた軍帽からはとっくに芯は失われ、歴戦の軍艦乗りとしての彼の風格を一層に引き立てていた。
22歳で艦隊士官学校を卒業と同時に理学士の学位を得たダークは、艦隊少尉に任官して以後、現在にいたるまでを艦船部隊を渡り歩くことで過ごしてきた。在学中はレスリング部の主将であったことを除けば特筆されるべき成績も素行も残すことなく、218人中215番目という卒業時の成績が、彼をして司令部勤務ではなく前線勤務へと追い遣ることとなったのである。
だがそれこそがダークを空の男として大成せしめる要素を形成したといえるのかもしれない。そして彼自身、そうした艦船勤務から大いに学び、軍艦乗りたることを大いに楽しんだ。元来が気さくな性格で、下級の下士官兵ともすぐに打ち解けることができたことも、彼の艦船勤務をさらに愉快なものとした。軍内における出世には何の興味も示さず、無能な上官に対する容赦ない直言もまた、彼を陸上の司令部勤務から遠ざけることとなった。
そして運命の航天暦1866年、ダークは士官学校出身者にしては通例より長い9年目の大尉生活を旧型駆逐艦の艦長として迎えた。
「50ノット‐ダーク」
指揮下にある乗員からは、ダークは親しみを込めそう渾名された。訓練中、本来なら機関出力の限界上35ノットまでしか速力の出ないところを、「50ノットまで上げてみせろ。」と檄を飛ばして士気を鼓舞したことが渾名の由来であり、それは決して侮蔑とか悪意に基づく響きではなかった。その後ダークは「大空洋戦争」の緒戦の激戦たる「アレディカ戦役」を巡洋艦の副長として戦い、レムリア軍の攻撃により大破し、艦長の戦死した艦を無事に安全圏まで退避させたことでその指揮能力の非凡なることを証明した。以後を彼は駆逐艦艦長として、そして駆逐艦戦隊司令として多くの船団護衛任務に従事し、それなりにレムリア軍との戦闘もまた潜り抜け現在に至っている。
「艦長、方位0‐8‐3より機影を視認」
見張員からの報告に、ダークは艦橋に設えたベッド椅子から反射的にシャツ一枚の半身を起こした。報告の対象が彼ではなく、11代目艦長のゲイリー‐R‐ジャクソン少佐であることに気付くのに時間は一秒もかからなかった。昇格に伴い、この間艦長職を辞したばかりで、艦長気分が未だ抜けないダークであった。彼自身、気持ちの切換が必要だと自覚もしている。
11代目艦長は……若い。大尉になってたった三年程で昇進している。彼と同じ時分のダークは未だ大尉、掃空艇の艇長であった。もちろん、生まれて初めて艦船の指揮を執った頃だ。少佐は卒業時の成績もダークのそれより遥かに良く、その体躯こそ立派だが、大人になりきれない、線の細い印象が士官学校出立てであることを雄弁なまでに物語っていた。
「BDウイングか……空母が来るって話は本当だったんだな」
蒼空に澄み切った茶色の瞳を凝らし、少佐は言った。外見も若ければその声も若い。ダークのような歴戦の軍艦乗りから見れば、頼り無い印象を抱いてしまうのは否めない。ダークとしても本命がいた。だが艦長時代の彼が最も信頼し、いずれはこの艦の艦長職を任せたいと思っていたかつての副長アレックス‐フォレス大尉は「コーラム島沖会戦」の後に辞令を受けて護衛艦の艦長となり、今ではレンヴィルより遥か2000空浬を隔てた北大西空で、護衛駆逐艦の艦長として船団護衛任務に従事している――
「……」
エンジンの轟音も高らかに航過する編隊。
高度はそれほど高くはない。
停泊する駆逐艦から見れば、分厚い主翼に描かれた識別コードが十分読み取れる。それほど高度は低く、編隊の速度は速くはなかった。
「ハンティントンか」
入港に先駆け、編隊を送り出した空母の名をダークは呟いてみた。その声には明らかに、友好的な響きは含まれてはいなかった。それもそのはず、巷に流れる、彼女にまつわる不名誉な風聞を聞けば、誰しも心穏やかではいられなかったろう。
「味方を身代りに生残った軍艦もどき」――それこそが、彼女こと空母「ハンティントン」に対するラジアネス艦隊の陰の評価であったから――
ジーファイターのチャート‐ボードに引かれた線は、一直線にレンヴィルの方角まで延びていた。そこからさらに伸びる見えない線が、レンヴィル泊地の南端にその先端を懸けようとしているのを、カズマはチャート-ボードの上で確信する。
陽光を受けた島影が、黒い影を下方の雲海に注いでいた。
思わず綻ぶ口元。
島影を見出すのと、編隊が一斉にスロットルを絞るのと同時。
『――ポイント-ファッショルより187戦闘飛行隊へ、滑走路を空ける。高度9000で待機されたし。五分ほど時間をくれ』
『187了解』
隣を飛ぶ僚機の刻むプロペラが、緩慢になりつつあるのをカズマは見る。着陸操作に備えプロペラピッチを落としたのだ。着陸を待ちきれないのだろう。気の早いことだと思う。
「……!」
機上で思わず息を呑む――すでに、銀翼は泊地上空。
島々の絶妙の配列により穿たれた環状の空間を埋め尽くさんとするかのように……というわけにはいかないが、虚空に居並ぶ大小の艦影は、着陸待ちのため旋回を繰り返すジーファイターから鳥瞰する立場のカズマの胸を、芯から震わせた。
震える胸の任せるままゆっくりと傾けた主翼……何時の間にかカズマは編隊から離れ、ジーファイターのコックピットから、引き寄せられるように泊地の全容に見入っていた。
『ボーズ、何見てやがる。いい女でもいたか?』
と、気を取られるカズマのイヤホンに入ってくる声。バートランド中佐だ。
「ええ……いっぱい」
『バカ、オレが言っているのはフネのことじゃない。生物学上の女のことだよ』
「ああ……それなら」
目を凝らすようにしたカズマ――
操縦席シートの防弾鋼板を隔てた遥か後方から、忍び寄るように数機の機影が迫ってくる――
カズマにとって発端は、コックピットのバックミラーに映えた微かな黒点だった。
「……!?」
殺気――?
反射――踏み込まれたフットバー。
姿勢は――一瞬で背面
カズマの眼前で一変する視界。
捻じ切れるかと思うほどに背後へ傾けた頭。
その眼の睨む先――いま先刻までカズマが飛んでいた処を、二機の機影が高速で航過していく。
ジーファイターか?――回避が遅れていれば追突されていた。その可能性は多分にあった。
不慮?
それとも故意?
二機はそのままカズマには目もくれず、遥か彼方へと飛び去っていく。
『ボーズ!』
バートランド中佐の声には、余裕が無かった。
『ボーズ! 大丈夫か?』
「はい! これより復航!」
姿勢を建て直し編隊に追従する。高度はだいぶ失われ、気がつけばカズマは港内の艦船をほぼ並行の視線に捉えていた。
「……!」
急に視界に入ってきた連絡艇に、カズマは咄嗟に操縦桿を引いた。泊地と同じ高度を、高速の作戦機が飛行することは港内通航の安全を確保するために禁止されているのだ。いきなりの闖入者に怒声を張り上げる艇指揮官を他所目に、カズマは再び機を上昇させ、港内から脱出する。
『187飛行隊へ、着陸を許可する。ようこそレンヴィルへ!』
『くそっ! FASめ、無茶ばかりする』
キニー大尉の吐き捨てるような言葉を耳に上昇を続け、眼前の一際大きな島を見下ろし、そして通り過ぎる高度に達したとき――
「……」
島を隔てた向こう側にも、泊地は広がっていた。だがそこに棲む艦影は、カズマが今しがた飛び過ぎた場所の住人とは、あまりに趣が異なっていた。
戦艦か?
クロイツェル-メラティカーラ級戦艦。座学の時間、そして少尉任官を目前にした講習でも、その艦影と写真とをカズマは見せられていた。巡洋艦や駆逐艦とは明らかに全長と全幅ともに異なる、要塞か城郭のような巨体に、飛行船というものに元々全く免疫の無かったカズマは内心でどれほど圧倒されたことか! ハンティントンですら、迫力ある容姿ではこれらの戦艦群に一歩譲るかもしれない。こうした艦が雲海に縦列を生し主砲の一斉射撃を行う様は、カズマにちょうど帝國連合艦隊の戦艦群を想起させ、手に余るほどの頼もしさもまた禁じえない。
その記憶と同じく、港湾内で縦列を作り停泊する戦艦の一群――それを遠方にはっきりと見出したとき、カズマが次に想起したのは不安であった。もし此処をレムリア軍が奇襲すれば、ラジアネス軍が蒙る損害は甚大なものとなるだろう――そのようなことを考えながらも、速度を落とした機首は、滑走路の所在する島へと向いている。
徐々に緩むスロットル。
左手でレバーを引き、フラップを少し下げた。同時に右手でハンドルを忙しく回して脚を下ろす。では操縦桿は?――両脚で挟んで抑えるに決まっている。横着だが、これはジーファイターをスムーズに着陸(あるいは着艦)させるのに欠かせない、いわば「コツ」のようなものだ。それらの操作が終わる頃には、更に滑走路が眼前に迫っている。理想的な着陸コースにジーファイターを持って行くのには、着陸待機の段階から思考と計算が必要になると言われる所以であった。着陸の準備に掛かる手順があまりに煩雑だ。この辺り、更なる改良が必要とも言える。
手に操縦桿が戻り、カウルフラップもまた少し開けた。そうしないと、着陸先が灼熱の地ならばエンジンがすぐオーバーヒートする。マリノに怒られる。
窓を半分開ける――吹き込む風は不快なまでにぬるく、部隊の展開するであろう島の気温の尋常ならざることを予想させた。
前方には、いままさに着陸態勢に入ろうとする僚機の後姿。
飛行場のある島――その名はファッショル島。
カズマのジーファイターは、その機首のすぐ下にアスファルトの地面を見下ろし、そして脚を踏みしめようとしていた。
『――こちらポイント‐ファッショル。着陸待て、民間機を優先させる』
「了解」
復航か! ついてない――すでに脚を下ろしたジーファイターを、カズマは再び上昇させた。着陸に備えフラップを完全に下ろし、重いハンドルを回して脚を上げる。苦行の末、出力を絞った機体が再び高度と速度とを取り戻すのには手間が掛かる。それでも上昇を果たしたジーファイターの、キャノピーを全開にしたコックピットから、身を乗り出すようにして背後へ視線を注いだカズマの眼前――
「SC-14だっけか……」
同じ単発機ながらより幅の広い、芋虫のようにずんぐりとした胴体の輸送機には、見覚えがあった。それが今まさにカズマに替わって着陸態勢に入ろうとしている。それに誰が乗り合わせているのか、カズマの脳裏には詮索する余地を持たなかった。着陸コースに入る輸送機のずっと鼻先では、先に着陸を終えたジーファイターやBTウイングが地上員の誘導に従いエプロンへと自走していく様子を眺めることが出来た。エプロンにはすでに列線が出来ていて、主翼を折りたたんだ艦載機が規則正しく横一列に居並んでいる。
『――着陸を許可する。復航し着陸コースへ再進入されたし』
やれやれ、苦行の繰り返しか――速度を取り戻したジーファイターの操縦席で、カズマは嘆息する。
先程の輸送機はすでに飛行場のアスファルトへ主脚を滑らせ、大型機用のエプロンの、さらに開けた区画へと鵬翼を巡らせていた。その区画が軍や政府の重要人物、いわゆるVIP専用の発着区画であることをカズマは事前のブリーフィングで知っていた。そして着陸時、そこへ乗機を接近させることは禁止事項であることをもカズマは教えられていた。禁止事項は現在のラジアネス軍における自分の立ち位置の儚さを彼に想起させる。地上でも、そして空の上でも、カズマは今のところ自分の下には誰もいない一航空兵でしかない。
「着陸する――」
絞るスロットル――
コックピットを揺るがす不快な振動――効きのいいフラップは、ともすればジーファイターの速度を失速寸前にまで押し下げる。
眼前に迫る滑走路のセンターライン――
接地――ゴムタイヤがアスファルトを擦る音。
ヒッチ角を上げたプロペラが空転し、そして土埃を巻き上げ、フットバーの微妙な足捌きがジーファイターを列機の待つエプロンへと導いていく。
滑走中、地上の整備員がカズマに向かい忙しげに手を動かすのに気づき、カズマは思い出したように主翼折畳みロックを解除する。飛行場としてはどちらかと言えば狭い部類に入るファッショルの飛行場では、より多くの機体を受け容れるべくスペースは有効に使う必要があった。ジーファイターの主翼折り畳みは地上要員が数人がかりで行う。コックピットからロックを解除しておくのは、彼らに余計な手間を掛けさせないための気遣いとも言える。
――そして、ジーファイターが彼のために空けられた狭い隙間に滑り込むのと同時。キャノピーを開け放ったコックピットに取り付く整備員が、カズマに笑いかけた。
「ようこそレンヴィルへ、撃墜王!」
「……?」
腰を浮かせたコックピットから臨む眼下には、すでに多くの地上員が物珍しげな表情もそのままに集まっている。何事か?……といぶかしむ間もなく、機から降りて疑問は氷解する。コックピット付近に描かれた撃墜マークはここに降り立ったばかりのジーファイター群の中でずば抜けて多く、それが皆の視線を集中させていたのだ。
「――噂には聞いていたが、これほどとはな……」
「――それにしても……まだ坊やじゃないか」
地上の連中は口々に噂しあい、それがカズマを少し戸惑わせた。
「坊や! こっちだ!」
すでに着陸していたキニー大尉の呼ぶ声、視線を巡らせた先で、パイロットの待機所へ向かうトラックの荷台には、すでにハンティントンのパイロット連中が乗り込み、大尉は手を上げてカズマを呼んでいた。喜色を取り戻したカズマがトラックへと駆け寄ろうとしたそのとき――
ブウゥゥゥォォォォオン……!
「……?」
突風の到来に似た轟音が、空の一点から一気に飛行場のカズマに頭上に駆け下り、それは無形の圧力となってカズマから躍動を奪った。そして彼が再び顔を上げたときには、それは瞳を向けた空の彼方で、二機編隊のジーファイターの後姿となって遠ざかっている。
さっきの奴らだ……と、カズマは不快に直感する。
だがそれも一瞬のこと――木々、山、高地……自然の手に為るすべての遮蔽物のない平坦な島に抱いた驚きが、カズマから不快さを奪うのに一瞬もかからない。
ここはレンヴィル群島――中部大空洋の要衝。そして艦隊の休息の地。
だが休息は訪れそうになかった――カズマには、そう思われてならなかった。
その思いを胸に、カズマは再び歩き出す。
「……?」
歩調が止まり、カズマはすでに整備員の手によってエンジンカバーを開けられた愛機を振り返った。
「……?」
おれ……何か忘れ物をしたっけ?
「ま……いいか」
逡巡の後、カズマは歩き出した。新しい土地の感触を確かめるような、確固とした歩調で。




