錆の記録 下
マリアは目の前の黒衣の男から目を離せずにいた。ただ、立っているだけだ。にも関わらずマリアを見つめるその男の瞳は。ぎらぎらと怪しい光を宿すその瞳のおぞましさに、マリアは恐怖に身を竦ませていた。
「以前、会ったことが無いだろうか、お嬢さん?」
優しげにも聞こえる声で、黒衣の男はマリアに問いかける。
「いつだったか……うん、うん。その佇まいには見覚えがある。似てるなぁ、そっくりだ。うん、気に入った。君にしよう」
そうして男がゆらりと一歩マリアに近づいた。
「おい」
黒衣の男が振り返った瞬間、轟音と共に黒衣の男が吹き飛び、地面に叩きつけられた。
「懲りねえ屑だな」
マリアは茫然と声の主――アルを見つめる。
「ど、どうして?」
「……だから運命だって言ったろ。何もこいつは無差別に選んだ人間を襲ってるわけじゃない。……マリア。こいつが狙うのは清廉な魂を持ってる人間だけだ。言ったろ、お前はエリザに似てるって」
アルはマリアをかばう様に自分の体でマリアを隠しながら呟く。
「……悪いな。ちょっとばかし、嘘をついた。この67年で、こいつの動きは把握済みだ。流れながら、一定の周期で人間を襲う。……おい、さっさと立てよクソ医者。今度こそ、殺してやる」
黒衣の男はむくりと立ち上がった。その動きにマリアは短い悲鳴を上げる。奇怪で、おぞましい、人間とは思えない挙動だった。
「……誰だ?お前は」
「……俺が、誰か知りたいのか?」
アルは唸るような声を上げる。
マリアはその姿を見ながら、目を見開いた。
アルの右腕が、ぱきぱきと不快な音を立てながら、膨れ上がっていく。
それはまるで闇を固めて創り出したような、悪魔の腕だ。マリアは息を呑んだ。
黒衣の男が、僅かに目を見開く。ぐしゃりと表情が潰れた。笑っている。
「……そうか、悪魔か。……実物は初めて見る。はは。儀式はこれからだというのに、気の早い奴だ。……だが、悪いが、もういい」
マリアは悲鳴を飲み込んだ。辺りを包んでいた霧から、じわじわと確かに広がっていくものがある。マリアはそれが肌を通して全身に染み込んでいくのを感じた。
これは悪意だ。
「もういい。今更用は無いんだ。無いだろう?だってだってだってなぁああ」
黒衣の男の両腕が膨らむ。みちみちと不快な音を上げながら、黒衣が裂けていく。
「食べて食べて食べていたら、ほらほらほら。私は完全になったのだがら゛あ゛ア゛ア!」
黒衣の男の上半身が露わになった。どくどくと脈打つそれは、まるで心臓のよう。赤黒い血管と青黒い血管が表面を這いまわっている。臓物を縫い合わせて、むりやり形作ったようなおぞましい両腕。それが、確かに脈を、打っている。
「……い、やぁああぁああぁああああああ!!!!!!」
マリアが叫んだのと同時に黒衣の男はそのおぞましい腕を、アル目がけて薙いだ。アルはとっさに右手でそれを防いだが、激しい衝撃音とともに吹き飛ばされ、地面に転がった。
「アル!!」
マリアは叫んだが、アルは地面に伏したまま動かない。
黒衣の男はたった今アルを吹き飛ばした右手を見つめながら首を傾げている。
「……?今の、感触。うん??どういうことだ……。お前、お前……人間か??お、お前……お前」
黒衣の男は跳躍するとあっという間にアルと距離を詰め、確かめるように。
その腕で倒れているアルの、胸を貫いた。
「いやあああああああああ!!!!!!」
マリアは泣き叫ぶ。叫びながら、黒衣の男がアルの体から腕を引き抜く姿を見た。
黒衣の男が、その手に真っ赤な心臓を持っているのを見た。
マリアの思考が止まる。
しんぞう?
どうして?
そうして気が付く。
アルの両足から、左腕から、真っ赤な鮮血が流れている事に。
「……ややややっぱりお前人間じゃあああ無いかあアアアアどういう事だだだだだ」
黒衣の男の声が苛立ち気に震える。そしてそのままぐしゃりと、手にしていた心臓を握りつぶした。
いやああああああああああ……。
絶望の悲鳴をマリアが上げる。
上げる。喉が潰れるほどに。悲鳴が止まらない。誰か、止めて。助けて。
……助けて、アインス。
その瞬間、マリアの小さな両肩を、誰かが優しく掴んだ。
「……おい、いくら何でも遅すぎるぞ……」
アルが、か細くとも、はっきりとした声を上げた。
「ちくしょう……やっぱり、この体じゃ、勝負にはならねえか……もう、ほとんど、人間だもんなぁ……」
マリアは振り返り、ぼろぼろと涙をこぼす。その涙は、すぐに目の前の相手に拭われる。
「決着を……つける時、だ。そうだろ?……アルノルド」
アルの問いかけに、アインスは静かに頷いた。




