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「聞いたか、モーリスのこと」
「あぁ、リディアーヌ嬢に変なちょっかいをかけて、騎士団長に取り押さえられたらしいな」
「俺、たまたまその現場を見ちゃったんだけど、完全にリディアーヌ嬢に愛想を尽かされていたよ。悪いけど、同情はしない。あんだけモーリスのことを気にかけてくれてたお嬢さんを蔑ろにしたんだ」
「そうだよな。……リディアーヌ嬢、いい娘さんだったのになぁ。もったいないよな」
「離れて行ってから慌てて取り戻そうとしても、もう無理なんだよな」
「気持ちが離れているからしょうがない。……俺たちがもっと真面目に忠告していたらよかったのかなぁ……」
「調子に乗って馬鹿な話をしなければ、あいつもリディアーヌ嬢に対してもっと優しく出来ていたのかな」
「……分からない。モーリスはどうなりたかったんだろうな」
「本気でリディアーヌ嬢を愛人にする気だったのかな?」
「愛人って、つまりただの浮気だろ?」
「俺たちのようなただの騎士がやったところでなぁ……」
「結婚する前に堂々と浮気宣言をする男なんて、女性から見たら無しだろ」
「リディアーヌ嬢は婚約者でもなかったわけだし。モーリスって、ひょっとしてリディアーヌ嬢が密かに人気のある女性だってことを知らなかったのかな?」
「じゃないのか?リディアーヌ嬢をマークス子爵に持っていかれてこっそり泣いていた男がどれほどいるか……!」
「おぅ!俺は、そいつらにも同情はしない」
騎士団の中では、そんな会話がこそこそとされていた。
「お前、東の砦に行け」
騎士団長の言葉に、モーリスは憔悴しきった顔で小さく返事をした。
あの騒ぎの日から数日経ったが、モーリスの顔色は悪いままだ。
同僚たちからも少し距離を置かれているらしく、それがさらに精神的にきているようだ。
モーリスは皇宮内で騒ぎを起こした。何の処分もなしには出来ない。
一応、リディアーヌを傷つける前に騎士団長自らが取り押さえたし、幼馴染同士の気持ちがすれ違った結果だったので、今後モーリスがリディアーヌに近づくことがなければそれでいいと言われたが、騎士団としてはそういうわけにはいかない。
モーリス自身の言動もあり、放置しておくわけにもいかない。
これから騎士団の中では、文官に対して偏見を持たないように指導していくことになっている。
「彼女に拒絶されたことが、相当ショックだったようだな」
「……あんな……あんな風に俺を見たことがなかったんです。いつも笑顔で、俺が無茶なことを言ってもちょっと困った顔をするくらいで……その目には、俺に対する信頼しかなかったんです」
「そうか。だが、昨日見た限りでは、彼女はもう自分の道を前に進んでいた。道が分かれた以上、彼女はもう取り戻せない」
「……はい」
「俺はリディアーヌ嬢のことを直接は知らなかった。だが、噂くらいは聞いていた。幼馴染の騎士に尽くしている女性がいるが、どうも騎士の方がいい気になっているようだ、と。女性を蔑ろにしている様子が見受けられるから、そのうち痛い目を見るだろう、そんな風に聞いていた」
「そんな……なら、なんで皆、教えてくれなかったのか」
「言っていたら自分の態度を改めていたか?現に何人かに忠告されていたはずだ。それでも行動に移さなかったのはお前の方だろう。聞いたところで、自分で体験しなければその重みも分からん」
騎士団長の言葉に、モーリスはうなだれた。
忠告されても、リディアーヌが会いに来た時に何か言えばいいと思っていた。自分から会いに行こうとは思わなかった。
「水がたくさん溜まった革袋は、小さな針の穴一つで破裂する。せき止められていたものがあふれ出したら、それはもう止まらん。最後の一滴まで全て外に流れ出る。残るのは、何も入っていない壊れた革袋だけだ。感情だって同じだ。ずっと我慢して溜まっていた思いは、たった一言で破裂するものだ。たとえそれがただの冗談だろうとも、お前の感情など関係なく、相手がどう思うかということが重要だ」
「……はい……」
モーリスにとっては同僚との軽い冗談のつもりだった言葉も、リディアーヌはそうは受け取らなかった。
リディアーヌがいないからこそ出た本音だと言われた。
確かに、あの時の自分はそういうのも悪くないと思って夢を見た。
もっと上の階級の女性と結婚して、出世して、けれどリディアーヌを手放すつもりはなかったから、彼女を愛人にして。
そんな馬鹿な夢を見た。
その結果、全てを失った。
「お前に次の機会が来たら、もう少し誠実に対応することだな」
「はい」
「出発は、十日後だ。それまでに身の回りを片付けておけ。当然だが、リディアーヌ嬢やマークス子爵に近づくことは許さない。いいな」
「はい」
ラフィーネとリディアーヌは、女官長にしっかりと怒られた。
そして、まだまだ指導が足りませんね、と笑顔で言われた。
特にリディアーヌは、マークス子爵の奥方になるのだから、もう少しお腹が黒くなってもいいのでは、と言われた。
女官長が、純粋に心配してくれたからこその発言だと分かってはいる。
けれどラフィーネと二人で、黒くなるための素養が私たちには足りないのよね、と青く澄んだ空を見ながら死んだ目で語り合った。
自分で言うのも何だが、そういうことは苦手だし、ラフィーネも苦手だと断言した。
貴族とは笑顔で企むもの、らしいが、駆け引きなんかも苦手だ。
「たまーに、恋愛的な駆け引きをしてくる人がいるんだけど、私、全然気が付かなくて。後で他の人に言われて、あーって思う程度よ。そういう人って、プライドが高いから一度スルーすると二度とは来ないから助かるけど」
「そうなんですね」
「それさえも気が付けない私に、お腹を黒くするのは無理だわ」
「同感です。私も幼馴染のことが分かりませんでしたから、女官長みたいにはなれません」
「そうねー。童顔で黒い人は一人で十分よ」
「オルフェ様のそういう部分もかっこいいですよ」
「はいはい。でも、よかったわね、幼馴染さん、もっと暴れるかと思ったわ」
ラフィーネが見た時のモーリスは、リディアーヌの後ろをすごく怖い顔をして追っていた。
だからラフィーネは、すぐに騎士に助けを求めたのだ。一番近くにいた騎士が騎士団長だと気が付いたが、不敬罪とかそういうのは後で罰を受けるから、とにかくリディアーヌを助けなくてはと必死だった。
さすがに何も言われなかったので、ちょっとほっとしている。
「団長様に押さえられていましたし、それに多分、私に言われて動揺していたんだと思います。その、私、今までモーリスにあんな風に言い返したことがなかったので」
「なら、ショックを受けたのかしらね。自分に従順だと思っていた女性が反抗したから。それも堂々と」
「かもしれません。でも、後悔なんてしていません」
「むしろ、あっちが逃がした魚の大きさに恐れおののいているんじゃないかしら」
「小魚の間違いではなくて?私、大きな魚だったんですか?」
「えぇ、リディアーヌは人気があるのよ。他にも悔しがっている人は多いんじゃないかしら」
ふふふふふ、と楽しそうに笑うラフィーネに、大きな魚であった自覚のなかったリディアーヌはさすがに戸惑っていた。
「あ、そっか。私にはうちで作っているシードルが付随して付くので、それも込みだとそれなりの大きさの魚になれるのかも……」
全く違うことを言い始めたリディアーヌに、さらにラフィーネはころころと笑った。
リディアーヌ自身に魅力があるなんて、思ってもいないのだろう。
あの幼馴染の騎士が傍にいたせいで、誰もリディアーヌを口説いたりはしなかったようだ。
「ラフィーネさん、シードルは好きですか?」
「えぇ、好きよ」
「なら、贈らせてください。色々とお世話になったので」
「いいの?」
「はい」
ラフィーネの他にも、ノアとドロシーにも贈らなくては。
あと、騎士団長にも。
男性は強いお酒の方が好きだろうけど、女性と一緒に飲む時には必要だろう。
「ありがとう。でもあなたのところのシードルは稀少だから、特別な日用に取っておこうかしら」
「特別な日、ですか。きっとすぐに訪れる気がします」
「そう?なら、その時にでも飲もうかしらね」
「はい。ぜひ」
そんな話をしながら、リディアーヌはいつも通りの仕事をしていたのだった。
「モーリス、どうしたの?」
突然帰って来て荷物をまとめ始めたモーリスに、母は恐る恐る声をかけた。
「東の砦に行くことになった」
「まぁ、いつまで?」
「……分からない。でも、長期間になると思う。寮はもう整理してきた」
母の方を見ることなく黙々と荷物をまとめるモーリスの姿には、不安しか感じない。
「……ねぇ、なら、リディアーヌさんとはいつ結婚するの?東の砦に行く前にしておかないと」
「リディアーヌとは結婚しない!」
母の言葉にカッとなってモーリスが声を荒げた。
「え?だって、リディアーヌさんは」
「リディアーヌはもう俺とは無関係の人間だ!いいか、リディアーヌの話はするな!」
「どういうこと?リディアーヌさんはあなたと別れたの?まさか、噂って本当だったの?」
「リディアーヌには恋人がいる。そいつといずれは結婚するんだろうさ」
「そんな……!」
モーリスは父親にそっくりだったから、結婚しても妻を家に置いて一人であちらこちらに行ってしまうと確信していた。
どうせ置いていかれるのなら、屋敷内で嫁姑でもめたくない。
だから、リディアーヌに来てほしかった。
昔から知っている子だったから、置いて行かれた者同士、仲良く屋敷で過ごせると思っていた。
本当は婚約してほしかったのに向こうが難色を示したから、幼い頃から二人だけになった時に少しずつモーリスの良さを吹き込んで、安心して傍にいるように言い聞かせてきたのだ。
それにリディアーヌは領地持ちの男爵家の一人娘だから、きっとその領地はモーリスが管理することになる。
そうしたら、自分も領地に行ってのんびり過ごせるかもしれないと淡い期待さえ抱いていた。
稀少なシードルを家で自由に飲めるかもしれないと思っていた。
いつも自分を見下してくる女性たちに自慢出来る、と密かに優越感に浸っていた。
けれどその夢は、たった今、消えてなくなった。
「ね、ねぇ、モーリス、リディアーヌさんはその方と結婚したわけではないのでしょう?だったら、まだ、取り戻せるのではなくて?」
「うるさい!何度も言わせるな!もう俺はあの二人には関われないんだ!そんなことをしたら、今度こそ騎士を除名される。いいから、母上ももうリディアーヌに近寄るなよ!」
モーリスの強い口調に、ただ震えることしか出来なかった。




