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リディアーヌにとっての日常は、少し前とは全く変わった。
ドロシーやラフィーネとは元々知り合いではあったけれど、仕事上の知り合いという割合が大きかった。
けれど今では、個人的な相談に乗ってもらっているし、オルフェとは自然体で付き合えている。
リディアーヌが無理をする必要がない状態の今は、とても心が楽になっていた。
「あれ?ハンカチがない。落としちゃったのかな?」
ポケットの中に入れておいたはずのハンカチがなくなっていた。
さっき食堂で使ったから、落としたとしたら食堂かその周辺のどこかだろう。
「ラフィーネさん、先に行ってもらってもいいですか?」
「一緒に行くわよ」
「いいえ、大丈夫です。食堂はすぐそこなので、先に行ってください」
「でも」
ラフィーネに一人でいないように言われて数日経ったが、今のところ危ない目には遭っていない。
だから、少しくらいなら一人でも平気だ。
「休憩時間ももう終わりますし、すぐに見つかると思います。なので、女官長に少し遅れることを伝えてもらえますか?」
「……分かったわ。気を付けてね」
「はい」
さすがにこんな皇宮のど真ん中で危険なことはないだろうと、リディアーヌは気軽に考えていた。
これが人気のない場所だとしたらちょっと警戒したけれど、ここは人も多く通る場所なのだ。
落としたハンカチは、リディアーヌが自分で刺繍した物だ。
モーリスにあげようと思っていたハンカチだったので、男性が使っても違和感のないように、緑の葉を中心にした柄を刺繍してある。
モーリスのために作り始めたのだが、完成前にあの話を聞いてしまったので距離を置いていた。
ハンカチもそのまま完成させずにおこうかとも思ったのだが、もったいないので自分で使うつもりで完成させた。
ただ、完成したハンカチを見て、糸の色がオルフェの瞳の色だと気が付いて一人で恥ずかしさに身もだえた。
出来はとても良くて、これが最初からオルフェのために作っていた物だったら、迷うことなく渡せたのに、と少々悔しくなってしまった。
関係ないと思って使っていたが、それを見たオルフェから笑顔でおねだりされたので、今、新しく刺繍をしている最中だ。
色々と思い入れがあるハンカチなので、出来れば失いたくない。
下ばかり見ていたリディアーヌは、目の前に人が来たことに気が付かなかった。
「……リディアーヌ」
「……久しぶりね、モーリス」
ハンカチを探すリディアーヌに声をかけてきたのは、モーリスだった。
どこか思い詰めた顔をしたモーリスに、リディアーヌは無意識に一歩引いた。
「……お前、最近、どうしてたんだ?」
「どうって。仕事をしていたわ」
「仕事?はっ!噂で聞いたぞ。お前、変な男にだまされてるんだってな」
「変な?だます?何を言ってるの?」
オルフェとの噂が広まっているのは、ドロシーやラフィーネから聞いて知っている。
けれど、その噂の中に、モーリスが言ったような「変な男にだまされている」なんて噂は一切ない。
何よりリディアーヌは、オルフェのことをモーリスより知っているのだ。
だますと言うのならば、むしろリディアーヌをだまそうとしていたのはモーリスの方だ。
「なぁ、リディアーヌ、お前と噂になっている男を見たけど、あんな何も出来なそうな男のどこがいいんだ?」
「……オルフェ様のどこが何も出来なそうなの?」
「だって、弱そうじゃん。文官なんて、あんまり役に立ちそうにもないし」
その言い方に、リディアーヌはむっとした。
どうして、そんなに文官を下に見ているのだろう。
腕力がこの世の全てではないのに。
「……だったら、私も、あなたにとっては役に立たない人間よ」
「お前は女だろ?アイツは男なのに、力もなさそうじゃん」
「一緒よ。男だろうが女だろうが、武官だろうが文官だろうが、戦っている場所や戦い方が違うだけ。あなたたち騎士が身体を鍛えている間に、文官の人たちは書類と戦っているのよ。あなたに小麦の収穫量や、軍を動かすのにどれだけの量の食料が必要なのか分かる?そういうものは、騎士が望めば無限にどこからか出てくるものじゃないのよ。きちんと文官の人たちが把握して振り分けているの。役割が違うだけなのよ」
「身体を張ってるのは俺たちだ」
「文官たちだって、命をかけて仕事をしているわ。あなたには何も見えていないのね」
リディアーヌの言い方に、今度はモーリスがむっとした。
「そんなのどうでもいいだろ!あー、もう、ほら、すぐに行くぞ」
「行くって、どこに?」
「お前の両親のとこ。帰って来てるんだろ?すぐに挨拶して、婚約でも結婚でもしてやるから」
モーリスのその上から物を言う言葉に、リディアーヌは、この人はどれだけ自分勝手な人なのだろう、と思ってすっと心が冷えていくのを感じた。
「馬鹿なことを言わないで。あなたと結婚なんてしないわ」
声が震える。
怒りもあるし、幼馴染だったモーリスという男性のことが全く理解出来なくなって、怖いという思いもある。
「何でだよ!お前は俺のことが好きなんだろ?ずっと変わってないんだろう?だったら、いいじゃねぇか!」
「……いいえ、私は変わったわ。あなたのことを好きだった私はもういないの。今の私が好きなのはオルフェ様だけ。……あなたじゃない!」
リディアーヌの明確な拒絶の言葉にカッとなったモーリスがリディアーヌに掴みかかろうとした瞬間、モーリスは地面に押さえつけられていた。
「な、誰だ!」
「うるさい。大人しくしろ」
モーリスは自分を押さえつけている人間を確認してぎょっとした。
「は?だ、団長?」
話をしたことなどない、雲の上のような存在の人物が自分を押さえつけていた。
「リディアーヌ、大丈夫?」
モーリスの視界の片隅で、同じ侍女の服を着た女性が、リディアーヌに駆け寄っていた。
「もう!だから、一人は危ないって言ったじゃない!変な男があなたの後を追って行ったのが気になって近くにいた騎士を呼びに行ってたんだけど、一番近くにいたのが騎士団長とか、どれだけ運がないのよ、私!話をしたことなんてないのに、震えながら声をかけたんだからね!」
「……ラフィーネさん」
「こんなに震えて、怖かったわよね。怪我はない?あったらすぐに殴ってやるわ!騎士団長様が!」
殴るのは騎士団長様なんだ、と思っていたらラフィーネにぎゅっと抱きしめられて、自分の身体が震えていたことにようやく気が付いた。
「私、震えてますね」
「そうね。震えてるわね。でも、もう大丈夫よ。騎士団長様がマークス子爵を呼びに行くように指示を出していたから、きっとすぐに来るわ」
「……はい……」
「リディ!」
息を切らしてやってきたオルフェが見たのは、先輩らしき侍女に抱きしめられているリディアーヌと、ヴァッシュに押さえつけられているモーリスという構図だった。
それを見ただけで、どんな状況か理解出来た。
落ち着くために息を一つ吐くと、まずはリディアーヌの元へと向かった。
「大丈夫だった?」
「はい。言い合いになっただけです。まだ、暴力は振るわれていません」
「ごめん、僕が油断してた。こんな人目がある場所で、馬鹿なことをする騎士がいるとは思わなかった」
「いいえ、私がラフィーネさんの言うことを聞いていれば、こんなことには……」
「遅かれ早かれ、君に接触してくるだろうとは思ってたんだ。君が気にすることじゃないよ。それと、ラフィーネさん、感謝いたします。ヴァッシュ様を呼んでくれて」
「一番近くにいた騎士が騎士団長様だっただけです。ちゃんと騎士たちを見張っているように、あの方にお伝えください」
侍女として皇宮勤めをしている以上、ラフィーネもきっと貴族なのだろう。
ただ、公爵でもある騎士団長に近付くほどの身分はないのかもしれない。
というか、皇宮以外の場所でも見かけてことがある気がする。
「えぇ、伝えておきます」
オルフェは、リディアーヌの元から離れて、ヴァッシュに押さえつけられているモーリスに近付いた。
ヴァッシュに押さえつけられながらも、モーリスはオルフェを睨み付けた。
「あなたとリディはただの幼馴染です。ずっとリディの気持ちに甘えてきただけなのに、失いそうになって惜しくなったのですか?」
「う、うるさい!俺とリディアーヌは結婚の約束をしているんだ」
「していませんよ。リディの両親にも確認を取りました。今のあなたは、お気に入りのおもちゃを取られた子供のようですね。癇癪を起こして駄々をこねれば、取り戻せると思っている。元に戻ると信じている。でも、戻るわけないですよ。一度壊れたものは、決して元には戻りません」
「うるさい!うるさい!自分じゃ俺を止められないくせに!」
「そうですね、僕は非力なので。でも、ヴァッシュ様に頼むことは出来ますよ。今回はあちらの女性の頼みをヴァッシュ様が聞いてくださったようですが、ヴァッシュ様が非力な僕たちに手を貸してくれている理由を考えた方がいいですよ」
一応、貴族なので剣術は習ったが、オルフェにはそちら方面の能力はあまりなかった。
最低限、何とかなる程度だ。
だからどうしても、武力は他人頼みになる。
それを恥だとは思わない。
ただ、今だけ、ほんの少しだけ、もう少し真面目に身体を鍛えておけばよかったかな、と思ったのだった。




