挿話16.護衛騎士のさらなる失態
そろそろか……と呟き、アンハルトは衛兵の控えの間の椅子から腰をあげた。
二十分後にと、フリードリヒから指示された時間だった。
新年早々、届いたメルメーレ公国君主重篤の報。その情報精査を怠った上に、一方的な決めつけを持って、フリードリヒの元を訪れて不興を買うといった大失態をやってしまった、アンハルトである。
それをこれから挽回しなければならない。
フリードリヒの冷ややかな空色の眼差しに、つい遠い昔を懐かしむだけに時間を使ってしまったが、無策で行くわけにもいかない。
「こう言ってはだが……ヴィリのところへ行っていたら、それはそれで大事になっていたな」
怠惰なフリードリヒとは正反対に勤勉で真面目なヴィルヘルムは、間違いでしたでは済まない面々に召喚命令を出しかねない。宰相のメクレンブルク公など呼んでしまったら……考えるだに恐ろしい。
おまけにあの怠惰なフリードリヒが再び話す機会をくれるというのだから、これはアンハルトにとっては僥倖かつ驚くべきことである。
「それはそれで別種の恐ろしさがある」
他者への関心や共感は、幼少の頃同様にいまもほとんどない。
しかし思考としては、実に高精度にそれらを理解できるようになっている。
むしろフリードリヒ自身は冷めているだけに、より客観的にはっきりした形で捉えているかもしれない。
“オトマルクの腹黒王子”、“晩餐会に招かれればワインではなく条件を飲ませられる”、そんなフリードリヒの評は彼を只者と思わせない無駄に整った美貌と、それをなにか意味ありげに見せる気儘な言動と強運だけではない。
その気になれば視線や声や言葉の調子、表情や動作ひとつで場の雰囲気を操り、人を動かすことができる。
第二公子との非公式の会談などまさにそうだった。
なにをしにきたのかわからない、へらへらした態度で第二公子を圧倒し、脅し、弄んだ。
「無邪気だけでもないからな……いまは」
人を動かせるということは、状況を作り上げることができるということだ。
善悪や人のことがわからないのなら、覚えるしかないとは言ったが、人の反応の傾向を蓄積し高精度で対応しろとまでは言ったつもりはアンハルトにはない。
「やはり、護衛を外されるわけにはいかない」
まだ結構怒っているはずだ、第二公子がやったことに……細い糸の繋がりで第二公子をけしかけたかもしれないアルヴァール連合王国にも。
彼が唯一執着するマーリカだけなく、楽隠居するのに大切なものを脅かした。安穏とできる大陸の均衡である。
ただフリードリヒは公正に、己の怒りは良くも悪くも正しく使うため、どう向けるか決めかねている。
「孤高の大国に……決まった後が困る。相手が嫌がることを見合った濃さでやるからな」
メルメーレ公国の第二公子を例にとれば、第一公子の立場の復活だ。
競える余地は残しつつ、絶対に正攻法以外に手は出せない状況をお膳立てした。選ばれない屈辱を与え、掴みかけたものを永遠に眺める立場に置くつもりでいる。
調査過程で知った第一公子の政策に興味を持ったと、第二公子に仄めかし、さらにそれを合同捜査の報告書にごく個人的な所感として添えた。
何ヶ月か忘れたように放置して、鉄道公社の共同管理者には、各地と人脈のある君主家の人間が必要と第一公子をひっぱりあげた。
自衛力を高め、大陸東側の経済的な中継点を狙う、第一公子の考えと主張に叶うことを見越して。
「……そういえば」
鉄道公社をやけに急がせてと、マーリカがぼやいていた。
工事に目処もついてきたからおかしくはないけれど、これまで放置気味だったくせにと。
鉄道は共同事業としているが、あくまで主導権を握るのは費用も技術も出しているオトマルク王国である。
だから第二公子がなにかしようにも手が出せない。それだけではない、輸送網を通じて経済と産業面でも、オトマルク王国の影響下にメルメーレ公国は置かれることになる。
あくまで経済と産業面での関係強化であるから、軍事的に帝国や大公国を刺激するには至らない。二国に少しばかり利便性を提供することになり、王国がお人好しに見えるくらいなのだ。
「〜〜っ! 私は馬鹿か……!」
アンハルトの頭の中で、ここ半年ほど見聞きした個々の情報が次々と線でつながっていく。
急に目の前の霧が晴れた気分で、やや荒っぽい足の運びで廊下を進み、アンハルトは第二王子と王子妃の私室の扉の前に再び立った。
深く息を吸って吐き出し、上着の襟を直し、姿勢を正す。
(本当に、度し難い……人も情勢も盤上で駒を動かす遊戯ではない)
フリードリヒは国王が休暇を取り、王太子ヴィルヘルムが国王代理を任されたことまで利用した。
兄の働きに、父親は世代交代を本格的に考えるだろう。その間に以前から仕掛かっていた手を揃えておく。
仮に公国の君主を重篤な状態に誰かが陥らせたとしたら、余計な混乱を招く最初の兆しだ。フリードリヒにとって問題にならないことではない。
(現状、存在する懸念はフリードリヒ殿下にとって楽ではない……なにか起きれば途端に面倒になる)
ああそうだ、それしか考えられないとアンハルトは胸の内で呟いた。
アンハルトが「独自に動いて……」と詰め寄ったのに被せて、「ないよ」と答えたフリードリヒの言葉に当てはまるものは複数ある。
本当になにも動いていない、と。
誰かと動いている、と。
誰かが動くかもしれない、と。
「……そのうち勝手に状況が動く」
扉に刻まれた重厚な彫細工の文様を見つめ、アンハルトはぽつりと呟いた。
目下、迷惑なのは隣国メルメーレ公国の後継者問題が、振り出しに戻ったものの片付いてはいないことだ。
当初オトマルク王国にとって後継者は誰でもよかったが、いまは違う。
ルーシー大公国との疑惑がある第二公子より、直情型で不器用な第一公子が望ましい。
そしてこの後継者争いは、近接するラティウム帝国とルーシー大公国に介入させず、二国を刺激せずオトマルク王国の影響下にメルメーレ公国を置き、アルヴァール連合王国の式典へ向かう前に決着させなければ意味がない。
大陸東側の均衡の揺らぎを鎮める最大の目的は、連合王国が水面下で動くのを封じることにある。
東側が安定すれば、西の大国フランカ共和国も介入する理由がない。
いくら連合王国王家が王女を嫁がせているからといって、どこの国も、理由も利益もなしに動くことはない。
(大陸の均衡は保たれ、アルヴァールにいる者だけに専念できる)
ほんの雑談でいい、鉄道公社の式典ついでに「休んでいる間に色々考えたようですよ」と軽く近況程度に伝えられれば、いまの公国君主には十分だ。
二人の息子の不祥事が続き、君主家は泥沼の体。後継者は白紙に戻したが一度は第二公子を指名してもいる。早期にはっきりさせなければ、君主家の求心力は確実に失われる。
(そうなるように作り上げられた盤上では、駒は限られた動きしかできなくなる……)
正妃の子である第一公子を後継に望み、深く悩んでいる公国君主に都合のいい状況へと導き、間違いなく成功するのを目で見せた、その瞬間に背中を押した。
公国君主は自ら重篤になった。いま一番公国に利益をもたらすだろう息子に、不在を任せざるを得ないよう。直情型だけにそれはもう奮起するに違いない。
(天の使い? 悪魔の囁きだろ)
フリードリヒの護衛は外部の危険から彼を守るだけではなく、彼の危うさに目を配ることも含まれている。
ヴィルヘルムは口にしないが、王太子で兄だから、最もしたくないことをアンハルトに委ねている。
以前、「君が私のことで口を挟むなんて。兄上の意向?」とフリードリヒに言われたことがある。
続けて「兄上と違って私を警戒する人」とも。
(当たり前だ。ただの私情でこんなこと、楽しむでもなく淡々と気取られもせずやる王族なんて危険すぎる)
扉の前にじっと立っているアンハルトは、衛兵の視線を感じて扉を複数回叩いた。
「フリードリヒ殿下」
声をかけるが、返事もなければ扉が開く気配もない。
衛兵が動かないのもアンハルトが再び訪れることに対してなにも指示していないのだろう。
(くだらない嫌がらせはしない人だが……)
もう一度、控えめに扉を叩き、アンハルトが扉に身を寄せれば、なにかぼそぼそ不明瞭な声が聞こえた。
どうやら「入って、入って……っ」とフリードリヒが言っているらしいのに、アンハルトは眉を顰める。あれほど冷ややかな様子だったのにどうしたのだと、訝しみながらアンハルトが静かに扉を開けた途端、部屋に響き渡るような叱責の声が耳に飛び込んできた。
「なにを考えてるんですか! 本当に!」
ものすごい剣幕で声を張り上げるマーリカの声量に、アンハルトは慌てて入室して扉を閉める。
長椅子のソファの上で、マーリカがフリードリヒを押し倒している。
間違っても夫婦間の甘やかなことでない。
両肩を押さえつけ、胴の中心に乗り、フリードリヒが上半身を起こせないようにしているのは流石だ。
たしか護身術の心得があるのだったか、とマーリカに関心しつつ、しかし第二王子の護衛としてこれは引き離すべきか迷う。
マーリカが文官の伯爵令嬢であれば、間違いなく引き剥がして拘束するところだが、いまは王子妃だ。
首に手でもかけていれば話は別だが、そうではない。フリードリヒが手加減してマーリカの好きにさせているのは明らかであるし、夫婦喧嘩の間に入る間抜けなことはしたくない。
「私はなにもしていないっ……っ!」
「大いにしてます! 一歩間違えたら内政干渉ですっ!」
はっと、マーリカの言葉にアンハルトは息を飲んだ。
フリードリヒが話したのだろう、おそらくはアンハルトが考えた通りのことを。
「……あ、アンハルトっ……」
マーリカに抵抗するようでいて、足も腕もあまり動かしていないのは、普段着のような彼女のツーピースドレスを乱さないためだろう。変なところで礼儀を守るのだこの王子は。そんなフリードリヒは室内着のような格好だった。
「君、私の護衛だよね?」
「……外される寸前だったかと」
「そういった気分にもなったけれど、いまはとりあえず助けてよ……」
現金なと、アンハルトはソファの席に近づいて、しかしフリードリヒの助けには入らず、じとっと彼を見下ろす。
「殿下! 二十分後にと言っていたのは、わたしが怒ると予測して……っ」
「違う! なに?」
違う、はマーリカに。なに、はアンハルトに向けた言葉である。
アンハルトは、肩を少しばかり落として、「殿下」と静かに言った。その声音にマーリカもフリードリヒを睨んで俯けていた顔を上げて、彼を押さえつけていた腕の力を緩めて上半身をまっすぐに起こす。
「まったく。結婚前なら、またアンハルトに床に跪かせられていたよ」
マーリカの動きに合わせ、実に自然に彼女の細い腕に軽く手をかけて身を起こし、胴から膝の上に座らせ、後ろから抱えるように体勢を変える。フリードリヒの動きの無駄のなさも見事だ。
抵抗されないよう、ちゃっかり前でマーリカの両手首を、手の指先を上向きにまとめて拘束している。
後ろから腕を回しついでに、マーリカの腕を両脇から肘までぴったりと胴につけて留めてもいる、身を捩ってもあれは外せない。
「っ……、殿下っ」
「緩いですが、外せないでしょうね」
「……変なことで感心していないで、なに?」
「妃殿下が殿下を叱責するのは、私も納得するところです。大公国は王太子殿下が睨みをきかせていますが、帝国は不十分では?」
先の事件とヴィルヘルムの警戒で、ルーシー大公国は迂闊なことができない。
だがラティウム帝国は別だ。そもそも歴史的な経緯もあって、オトマルク王国に五大国中で一番好意的ではない。メルメーレ公国を影響下に置こうとすれば妨害は必至。だがそれらしい動きはなく、静かすぎる。
「君さ、本当にどちらかにしたら? 目の前で見ていてわからないって、どう考えても働き過ぎだと思うよ」
「それは……」
アンハルトは焦燥に目を細めた。
一体、なにを見落とした?
「リアンヴェルク侯国です。クリスティアン子爵」
女性にしては低く落ち着いた声が、生真面目な調子でアンハルトに教えた。
リアンヴェルク侯国。
たしかにエスター=テッヘン家から王城へ先に戻り、マーリカが休暇を終える前にフリードリヒはリアンヴェルク庭園宮へ出かけた。王都郊外にある隣国リアンヴェルク侯国を治める侯爵家所有の屋敷。
オトマルク王国における侯国の領事館として外交や交流拠点も兼ねているが、まったくの私的な用事だった。
リアンヴェルク侯爵家は美術工芸品の蒐集が有名で、好事家としてフリードリヒと交流がある。
「ほら、エスター=テッヘン家で、マーリカのお父上殿に水晶杯を貰っただろ?」
エスター=テッヘン家に滞在中、フリードリヒは当主のカール・モーリッツを狩猟に誘った。獲物の数を競って勝ち、将来の息子に褒美をと強請って、当主に呆れられながら譲ってもらっていたものだ。
(金台の細工が施された水晶杯。見た瞬間、リアンヴェルク侯が目の色を変えたのには驚いたが……)
エスター=テッヘン家はそこらに貴重な骨董品が無造作に転がっている。アンハルトはたまたま目に留まった品が気に入って強請ったのかと思っていた。
だから、好事家仲間のリアンヴェルク侯に請われるがまま、法外な値で譲ったのに正直呆れたのを覚えている。
フリードリヒは金に困ってはいない。むしろ使い切れない私財を持て余している。
「あれは元々、リアンヴェルク侯爵家のものだ。旧帝国貴族になる以前から、一族の当主と次代が杯を交わす継承儀式の宝物で二つ揃わないと意味がない」
「そのような品が、わたしの家にあったなんて……」
「かなり古い時代に失われ、片方の杯と儀式を伝える書物が残っていたから、代々探して見つからずにいた。以前、侯爵家の片方を見せて貰っていたから、もしかしてと……でも似た物も多いからね」
なにか事情があって紛失して、巡り巡ってエスター=テッヘン家に渡ったのだろうねと、のんびりとした調子のフリードリヒの説明が、怪しい。
古くは各地の王を指名できたらしい一族であるという。継承儀式の宝物を取り上げ所有していてもおかしくない。
きっと偶然ではない。フリードリヒは二度、エスター=テッヘン家を訪れている。
「鑑定を頼んだら、驚くべきことに本物だった。とはいえ簡単には譲れないと伝えたら、リアンヴェルク候がどうしてもと頼み込んできて法外な額を提示し、私も候の事情は知っているから頷いた。君、側で見ていたよね?」
「……はい。帝国皇室の貸付金を回収してでも支払うと、尋常ではない様子で」
「だから帝国は動けないって、どんな額ですか……」
マーリカがぼやく。
アンハルトも同感である。だが先方にとっては、どうしても手に入れたいものだったのだろう。
「向こうから提示した額を下げろとは言えないよ。その価値はないと侮辱するも同然だ……以前から、候を財布代わりして散々無心していたらしいから、この機会にと思ったのだろう? ご先祖様の宝物も手に入る」
帝国皇室にとっては自分たちの知らないところで大迷惑な話だ。
そこまでリアンヴェルク侯爵の鬱憤も溜まっていたのなら、自業自得なのかもしれないが。
「半分くらいは流石に返済するのでは? 今後の付き合いもある……皇室は国庫から補填すればいいだけだ。でもいま冬だからねえ……帝国民が飢えて凍えないことを祈るよ」
「その前に暴動になります。まともな官僚なら、王国と張り合うために他国に構っている場合ではありません」
「なら安心だ。皇室はひどいものだけれど、帝国は臣下と官僚が腹立たしいほどしっかりしているからねえ」
「殿下……」
フリードリヒの腕の中で、マーリカはなんとも形容し難い複雑そうな表情をアンハルトに見せた。
黒い瞳が暗く見えたのは、目の錯覚ではないだろう。
「帝国は穀物の冷害が酷かったと聞いています。オトマルクで品種改良した苗はあまり流通していないので。アルブレヒト殿下が昨年最後の輸送に間に合うよう、国王陛下と王太子殿下に備蓄穀物から支援の話を通しましたが……」
「じきに必要でもないまとまったお金が増えるから、大祖母様の祖国の民を助けるのはやぶさかではないよ。大公国は暖のための燃料豊富だ。丁度、メルメーレ公国の鉄道も輸送に使える」
ここまで計算されていると、薄気味悪い怖さを覚える。
子供の頃、フリードリヒに恐怖した時と同様の背筋の震えを抑え込み、アンハルトは平静を装った。
(第二公子が公国貴族とバーデン家を操っていたのが、稚戯にも等しく見える……)
好意的ではない大国だが、オトマルク王家の女帝は帝国の皇女だった。国王ゲオルクはその孫に当たる。
近しい血縁関係にもあって手を差し伸べない理由はない。貸しも作れる。
大公国もずっと緊張状態では険悪になるばかりだ。人道支援の大量取引なら適度な緩衝材になるし応じるだろう。
あの国もまた帝国に貸しが作れる。
「さて、気は済んだ? アンハルト」
「……」
「言っておくけど、私は好きにしていただけだし……勝手にそうなっ、ぶっ」
ゴツン、と結構いい音がした。
見ればマーリカの拘束を解いて、フリードリヒが頭をぐらぐらさせながら顎と額を押さえ低く呻いている。
そういえば。あの拘束は上下には動ける……それに。
「……まーり……か、……あごは急所……、っ」
アンハルトとしても黙って見過ごすのは躊躇われた。
強打というほどではないが、ぐらっとくるほどの勢いはつけている。
打ち方が悪ければ意識を失い、頭を打つのと同じくらい危険だ。
「知っています。加減したつもりです」
「まあ……たしかに……」
舌も軽く噛んだのかもしれない。口元を押さえて顔を顰めながら、アンハルトにいいと伝えるようにフリードリヒはもう一方の手を軽く挙げる。
「フリードリヒ殿下。人や情勢は盤上で操る駒ではありません」
「……そんな大それたこと思っていないよ」
アンハルトは見た。
フリードリヒを振り仰ぎ、見せてくださいと口元に近い頬に手を伸ばすマーリカを見下ろす、空色の瞳が安堵するように緩んだのを。
ああ、そうだ。いまのこの王子には、彼がどのようでもその目に映る人間がいた。
マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン。長い名前と由緒ある古い血筋を持つ伯爵家から王家に嫁いだ、二十二歳の元文官の第二王子妃。
フリードリヒを何度となく諌め、その危うさもなにも関係なく彼を第二王子の役目に容赦無く強引に引き戻す。
文官組織の……いや、オトマルク王国の女神。
「唇を噛んだ……責任とって……」
「え」
あまり聞けない、年相応に澄んだ可憐な声を聞いたのと、アンハルトが「あ……」と遠慮の声を漏らしたのはほぼ同時だった。淡くきらめく金色と艶やかに黒い頭が重なる。その時、ガチャリと無遠慮な音で部屋の扉が開き、入室する足音と衣擦れの音が続いた。
「驚きました……これは……午後の支度に間に合う時間でよいとは、マーリカ様の心遣いと思っていましたが。まさか護衛騎士様を寝所に引き込んで……」
「いや待てっ、それは違う!」
言葉の割に驚きも起伏も感じられない、淡々と冷静な調子でアンハルトにとっても聞き捨てならないことを口にしたマーリカ付の侍女に、彼はすかさず打ち消しの言葉を返す。
「そうなのですか。しかし、クリスティアン子爵夫妻といえば……結婚当初から不仲説が……」
黙れ、貴様も同業だろう!
そう言いたいのをぐっとアンハルトは飲み込んだ。
確証はないがおそらく間違いない。時折フリードリヒの公務で共に行動することのある侍女だが、動きに無駄がなさすぎる。ヴィルヘルムの指示を受けている感じではなさそうであるし、武官組織とは別系統の雰囲気がある。
王家が手配したようだが、だだの護衛ではないものを感じる。
あくまでアンハルトの感覚的なものでどこがどうといったものはない。
得体がしれないため、極力、フリードリヒとは古い付き合いの近衛騎士の態度で接している。
「は、はハンナ……本当に違うから!」
顔を真っ赤にし、あわあわと動揺しながらマーリカが弱々しく叫ぶ。
これまた、新年早々至極珍しいものを見たと、アンハルトはしげしげと彼女を見つめる。
「それで? 新年の朝から来た君は、妻子を放っていつまでいるのかな……アンハルト?」
冷ややかな空色の眼差しが、それこそがさらなる失態だと言っていた。
まさしく、その通りだった。






