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3-9.新しい年を迎える前に(3)

 夜の薄暗い廊下を進んで、突き当たり。

 マーリカやフリードリヒの部屋よりも建物の奥にある、案内された部屋にマーリカは入ったことがない。

 足を踏み入れれば、まず小さな控えの間となっていて、マーリカの前方と左と右に次の間へと続く扉があった。

 前方の扉が開かれた途端、目の前が白く染まったように明るくなって思わずマーリカは目を細める。

 露出した肩や頬に触れる、室内の空気が暖かい。

 かつては翼棟など方々に分かれていた王族の私的生活の場は、いまは王宮で一番近い時代に増築された箇所に移されている。暖房のために熱湯を循環させる配管がされていて廊下も冷え切ることはない。

 暖炉にも火が入っているのは、寒さが苦手なフリードリヒのためだろう。

 白いクロスをかけたテーブルには、(まばゆ)いばかりの晩餐の席が用意されている。

 並んだ銀食器やグラスのきらめきの向こうに、白絹に金の装飾の施された装いもきらびやかな金髪碧眼の美貌の王子の姿に気がついて、マーリカは二、三度(まばた)きして彼を見た。

 夕食をマーリカと共にするだけであるのに、そのまま夜会にも出られそうだ。


「おかえりマーリカ。急に休暇を切り上げるなんて。私を気まぐれだと怒るのに、君も人のことは言えない」

「お言葉ですが、予定にない外出をされてつい先程王城に戻られたのは殿下です」

「じゃあ、ただいまマーリカ」

「おかえりなさいませ。わたしも数日前に戻りました」


 顔を合わせてすぐのフリードリヒの言葉に応じて、一歩進み出たマーリカは(なめ)らかな所作で淑女の礼をした。持ち上げた群青色のドレスの裾から黒レースを重ねたペチコートの縁が揺れて、編み込まれている極細の金の糸が鱗粉を撒くような光をマーリカの足元に散らす。

 艶やかな黒髪が白い首筋から滑り落ち、まさに麗しき“オトマルクの黒い宝石”と呼ばれるに相応(ふさわ)しいマーリカの姿を満足そうに見つめたフリードリヒの表情は、俯いて伏し目になっていた彼女の視界に入らなかった。

 マーリカが再びフリードリヒを見た時にはもう、平生の彼だった。


「お待たせしてしまいましたか?」


 用意されている席は親しい者に対してではあるのものの、思っていたよりずっとあらたまった晩餐の席だ。

 広さのある部屋に侍従や給仕の者も並んで控えている。


「そうだね。いや、時間通りだ」

「……どちらですか?」

「まあ、掛けて」


 柔らかな口調でいて、命じることに慣れた響きのフリードリヒの声だ。

 離れていたのはたった一ヶ月ばかりなのに、その声に少し懐かしさを覚えながらマーリカはフリードリヒの言葉に従い、彼女の席に着く。

 いつもと変わらず穏やかに微笑むような表情でいるフリードリヒの顔を眺め、こんな年上な感じの人だったかしらと思う。実際、マーリカの五つ年上で結構いい大人の歳ではあるけれど。

 久しぶりに見た姿が、やけに立派な第二王子然としたものだからかもしれない。


(あとは、部屋のせいかな?)


 入室してから軽く見回した室内は細やかな装飾が施され、王族の人々と昼餐をとる部屋にも引けを取らない。

 マーリカの支度をしたハンナの見立ても、フリードリヒの姿も、この場に合わせたものなのかもしれない。

 そう考えながら椅子にかければ、控えていた人々が給仕のために動き始める。


「予定より随分早くエスター・テッヘン家を出たね。鉄道で戻ったって?」

「はい」


 何故そんなことを知っているのだろうと出されたきじのスープを(すく)って、護衛対象だから報告がいくのかとマーリカは尋ねる前に思い至った。過去に二度危ない目に遭っている王子妃候補だから仕方ない。

 それにしても、なにも起きていないというのに逐一報告がされるものらしい。


「そうと知っていれば出掛けなかったのに」

「お招きを受けてだったのでは?」

「マーリカが帰ってくるなら考えたよ。報告が届いた時には出る寸前で取り止めできなかった」

「出る寸前? たしか、殿下が出られたのはわたしが鉄道で戻った日の昼過ぎとお聞きしたのですが」

「そうだよ」

「伝達が早すぎませんか?」

 

 昼過ぎといえば、まだ乗車手続きをして駅舎の部屋で待っていた頃だ。早馬でも鳩でも無理である。


「君につけた護衛が鉄道駅の電信を使い、王都の駅保安部経由で知らせが届いた」

「そうまでして……」

「君がわたしに、予定の変更を受け入れる側の都合を考えろとよく言ってるから、気を回したのかもね」

「そう……なのですか……?」

「君と行き違ってまで出かけたのに、肝心なリアンヴェルク侯は本国からの移動が遅れるし、侯の息子は離してくれないしで散々だった」


 少しばかり疑問を覚えないでもないけれど、()ねた表情を見せたフリードリヒの様子に不審はなく、それによく知る彼の表情になんだか肩から力抜けるのをマーリカは感じた。

 知らず緊張してしまっていたようだと、苦笑が漏れる。


「なに?」

「いえ、少しばかり気が張っていたと気がついて」

「一ヶ月ばかりで人見知り?」


 戻ってきたと思ったら、こんな晩餐の席に人を呼びつけてきらきらしい姿で現れるからだと思ったことは言わずに、マーリカは手元に置かれた前菜の皿へと手をつける。


「そんなことより、奥にこれほどの部屋があったなんて知りませんでした」  

「私と君の部屋だけど」

「は?」


 フリードリヒの口から出た言葉を、マーリカはすぐ理解できなかった。

 お互い部屋はある。それも廊下を一本隔てた向かいの近さで。

 切り分けられた(きじ)肉と鴨フォアグラのパイ包みの、綺麗な断面の模様に目を落としマーリカは首を僅かに傾げる。


「仰っていることがわかりかねますが?」

「だから婚後の」

「婚後?」

「うん。この食事室と居間と王子妃の部屋と、整ったから見せようと思って」


 王子妃の部屋。 

 耳を打った言葉に、マーリカは手にしたナイフを取り落としそうになって掴み直した。

 

「あのっ、ちょっと待ってください、殿下っ」

「えっ、なに? まさか別居したいなんて言わないよね!?」

「その前に、いつそんな部屋の用意を!?」


 食事を進めながら、マーリカがフリードリヒに説明を求めたところ。

 奥の間とそれに続く部屋は、第二王子と妃の部屋として使う場所であるといった話だった。

 そもそもフリードリヒの部屋より奥は、第二王子とその将来の相手に割り当てられた一区画であるらしい。


(わたしの部屋は、婚前であることに配慮して陛下が手配下さった客間だったはず。最初っから第二王子と妃のための一区画内って、なにをどのあたりで配慮をされたのかご説明いただけないでしょうか陛下?)


 事情を知らない人から見れば、婚約早々に図々しく王子妃扱いを王家に求めて居着いた人みたいではないか。

 思わず頭の中でマーリカは国王ゲオルクに詰め寄ってしまった。

 現実にやっているわけではないから、不敬罪にはならないはずだ。

 黙っているマーリカにフリードリヒはふふっと軽く笑ったが、笑い事ではない。


「心配ないよ。マーリカを持ち上げるだけ持ち上げるため、エスター=テッヘン家の王都屋敷が慈善施設と化していることも、君の王宮住まいは私が強く望んでのことも、クリスティーネが早くから社交界に広げてくれている」

「一部、初耳な話もある上に……言い方……」


 社交界は彼女の思うままだからねえ……と呟くフリードリヒにマーリカは呆れる。

 王宮と疎遠な伯爵家の三女を婚約者とするため、持ち上げるだけ持ち上げる必要があったのは理解できるが、そういったことは教えて欲しい。


「クリスティーネ様が何故そのような助力を?」

「利害が一致しているからね。彼女としてはマーリカが私の婚約者として揺るぎない立場でいて欲しい」

「はあ……なににしても次にお会いした時にお礼を言わなければですね」

「別にいいよ。頼んでもいない尾鰭(おひれ)をつけた噂を流して、勝手に“貸し一つ”と高笑いしてきたし」


 なにそれ、怖い。王子に勝手に貸し一つにして高笑いとは。

 凛として気高くたおやかで優しい淑女の(かがみ)とマーリカの目には見えていた、クリスティーネからは想像できない。それに一体どんな噂を……とも思ったが、いまさら言っても遅いことではある。

 王家の忠臣である公爵家の令嬢として、フリードリヒが困るような噂を流すとも思えない。


(よく中庭でお茶の席を設けて恋仲と誤解したこともあったけれど、いまはただのご友人だとわかる。互いに扱いが微妙に雑で、どこか(けん)もあるし……)


 深く考えないことにしようと、マーリカは手元の料理へ意識を向けることにした。

 淡白な身をふわふわの食感に仕上げた淡水魚のソテーは、二色のソースが見た目にも美しい。

 クリーム色のソースは玉葱と白ワインの風味豊かで、彩りに添えられた橙色のソースは杏と柑橘類を煮詰めた甘みと爽やかな酸味が洗練された味だ。

 書類の山を二日で処理した疲れを癒す、優しい味である。

 

「美味しいものはいいよね、人の機嫌が良くなる」

「……時間も経ち過ぎていて、もはや追及しても無駄なことと考えただけです」


 美食というより、幅広くおいしいものが好きなフリードリヒとの食事は、怒っているのがもったいなく美味しい。

 何度かこれで色々なことを誤魔化されているような気もすると、マーリカはグラスを口に運んだ。食事によく合う、美酒だ。

  

「話を戻しますが……この部屋を含む最奥の一画は使用せず管理されていたのですか?」

「そうだよ。いつか私とその伴侶の部屋として使われる時を待ってね」


 そういった言い方をされるとなんだかむず痒いような、妙に意識してしまう。

 小さな控えの間から、右側の扉に進めば王子妃の部屋、左側の扉を進めば寛ぐため居間がある。

 王子妃の部屋は、現在フリードリヒが使っている部屋と繋がってもいるらしい。

 伴侶……まあそうなるけれど伴侶かと頭の中で繰り返しながら、マーリカはフリードリヒが奥の一画について説明するのを聞く。ふと、そういえば王宮に越してきた際に、フリードリヒが彼の部屋の隣へゆくゆくはマーリカの部屋を移したいと言っていたことを彼女は思い出した。

 冗談や酔狂ではなく王子妃の部屋だった……と、マーリカが目を閉じて思っている間に魚料理の皿が下げられ、鴨のローストが乗った皿が供される。

 

「子供部屋は別の場所だけどね、私は二歳くらいまで母上と過ごしていたらしいのだけど」

「そこまで聞いていません」

「小さな弟君を構っていたから、気になるかなって」

「それとこれは違います……こんな準備だけ先へ先へと進まれても」

「そう言われてもね。“婚儀を終えるまで婚前”は、私とマーリカの間だけのことなわけだし」

「そうですが……」

「予定に向けて着々と準備を進めるのが王家というものだ。君もよく知ってるじゃない」


 薔薇色の鴨肉を口に運びながら話すフリードリヒに、そうですねとマーリカも肉を切り分けながら答えた。

 知っている。フリードリヒ付になる前は、あらゆる王宮行事の準備のため、関係各所の間の連絡や連携の調整に奔走していた調整官だった。公に決められた予定は撤回や変更がされない限り絶対だ。

 最悪体裁だけでも間に合わせなければ、王家の不手際となり失態となる。

 フリードリヒの言う通り。

 正式に王子妃ということは正式にフリードリヒの妻としても認められるということだ。

 部屋も変われば、私生活も共に過ごすのも当然。王子妃の権限や責任など仕事に関わることばかりに気を取られていて、マーリカはそのことをすっかり失念していた。

 すばらしく美味しいはずの鴨肉の味が遠くに感じる……仕事のことしか考えていなかったのは、流石に婚約者として申し訳ない。


「鴨よりグラスの進みが早いようだよ、マーリカ」

「あ……」


 フリードリヒに指摘されて、マーリカはグラスを繰り返し口に運んでいた自分に気がついた。

 当たり前のことを告げられただけで、なにを動揺しているのだろう。


「失念していたのは悲しいけれど……まあ、私も別にそれでよしとしていたから」

「そうは言っても」

「じゃあこれからは大いに気にして」

「子供ですか……」

「私の臣下で、婚約者で、まもなく王子妃だけど、いずれも私が最優先では?」


 大人気ないフリードリヒの言葉に呆れて、マーリカは鴨肉と添えられていた蒸留酒漬のいちじくを口に運ぶ。

 よく考えたら、別に動揺することでもない。

 婚約してからは仕事以外で過ごす時間も増えた。視察で遠出する時などはそれこそ寝る時以外はほぼ近くにいる。 マーリカがフリードリヒと一緒にいる時間は公私に渡り長い。

 ようやく落ち着きを取り戻して、マーリカは小さく息を吐く。


(それに殿下との婚前の節度の取り決めは有効であるわけだし……)


 デザートは、カットグラスの器に盛られた薄紅色の氷菓だった。 

 一口食べれば、濃い桃の香りと甘み、芳醇な風味が口の中に広がり、ついうっとりしそうになる。

 けれど、どこかで食べた気もする。


「婚約前にマーリカと一緒にお茶して、にこにこ喜んでいたものを作らせてみたのだよ」

「……秘書官の頃、殿下に付き合わされて、そんな楽しいことになった覚えはありませんが?」

「君と王立科学芸術協会(アカデミー)の噴水を見に行ったカフェの。いまは冬だからね、赤ワインで煮る桃は蜂蜜漬けを使い、煮崩して滑らかにしたものを冷やし固めて幾分か濃厚だろうけど」


 王立科学芸術協会(アカデミー)の噴水……マーリカがフリードリヒの秘書官になって間も無く一年が過ぎようとしていた夏も終わりの頃のことだ。王家が寄贈または貸与していた美術品横流しの不正が発覚した。


「ああ、殿下がどこにも根回しせず単独で動いたせいで、後始末がものすごく大変だった……」

「マーリカさっ、印象にあるのはそっちなの? 私は、夕暮れのカフェで初めて私の前で微笑んだ君なのに!」

「殿下に微笑んだ記憶もなく、立場の相違ですね」


 マーリカはにべもなくそう答えたが、もちろん覚えている。

 昼と夜の(あわい)。外は薔薇色に染まり、庭園の噴水が高く水を吹き上げる様は幻想的だった。

 フリードリヒに勧められた氷菓はとてもおいしくて……微笑んだのかもしれない。

 ふと目にした、夕暮れの色を映した彼の金髪と端正な横顔がとても綺麗だとも思った。


「ですが、美味しいです。どうしてまたそんなことを?」

「なんとなく。教授殿とエスター=テッヘン家で会ったからかもね」

「妙な連想ですね」

「食後のお茶を終えたら、王子妃の部屋を案内しよう」


 *****


 まるで甘美な夢のような部屋だ――。

 白い壁と淡い金の装飾に彩られた広い部屋に、一歩入ってすぐマーリカはそう思った。

 その段になった天井の縁に薄い青を置き、草花や果物や神話の神々をモチーフにした繊細優美な漆喰細工の天井装飾。天井から釣り下がる、貴婦人の首飾りのような白金に光を反射する水晶を連ねたシャンデリア。

 灯されている白い蝋燭は一体何本だろう。


「明るいですね」

「明るくないと部屋の様子がよく見えないからね」


 昼のように明るいとまでは言えないが、この明るさはマーリカに部屋を見せるためだけのもの。

 壁に取り付けられた燭台にも明かりが灯され、オイルランプが艶やかな木や石の模様を見せるテーブルやマントルピースやチェストを照らす室内は、心安らぐ美しさだった。

 優雅な金彩と美麗な青の絹地に装飾されたソファや長椅子、肘掛け椅子の、女主人を静かに待つ佇まい。

 南に面して大きく等間隔に取られたアーチ窓を半ば覆う、淡い黄色のカーテンが豪華なばかりではない温かみを添えている。詳しく聞かずとも王宮で指折りの部屋だとわかる。


「……思ったのですが、王城に戻ったばかりのお疲れもあるのに、整ったからといって今夜案内する必要が?」


 フリードリヒに誘導されて、部屋の中央まで進みながらマーリカは頭に浮かんだ疑問を口にした。

 ただ部屋を見るだけなら、別に昼間でもいい。

 戻ってすぐここまでの準備は無理だ。きっと今日、マーリカが仕事を終える時間も考えて、手紙かなにかであらかじめ指示していたに違いない。

 本来なら休暇だからと、仕事の大半をアルブレヒトが請け負ってくれたのもきっとそのためだ。


「いまは夏ほど忙しくないのですから、仰ってくだされば時間は工面できます」

「ただ見るだけならね。でもマーリカの部屋だ、合間で慌ただしくしたくない」


 ふと、マーリカがいま使っている居間と応接間をつなげたくらいの広さの奥に、柱と壁で少し空間を狭めて区切ったような場所と広い寝台を見つけて少しばかりどきりとする。

 寝台の頭部側をつける壁際の隅に小さな扉があり、おそらくその向こうはフリードリヒの部屋だろう。

 そう思うと肩が触れ合いそうな近さで側にいる彼を意識してしまう。見上げれば、澄んだ空色の眼差しとすぐに視線が絡んだ。

 甘く優しげで、静かに凪いだ深い湖のように考えの底が見えない。

 

「今夜はゆっくり話もできる」

「まあ、そうですが」

「新しい年を迎える前に、マーリカの認識も少し変えておきたいからね」

「わたしの認識、ですか?」

「うん。どういうわけか決定してから色々言い出す人がいる。母上も義姉上(あねうえ)も随分煩わされたし、“付け入る隙がありそう”だなんて心外だ」

「え?」

「そこ座る? 部屋全体も見渡せる」


 丁度、部屋の中ほどの床を大きく陣取っている、絨毯に設られたソファセットの長椅子を示してフリードリヒが手を差し出す。フリードリヒの物言いに少し引っかかるものを覚えたものの、手を取ってマーリカは頷いた。

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