3-9.新しい年を迎える前に(2)
庭園に面した窓から明るい光が差し、国章でもある王冠を戴く双頭の鷲を織り出すタペストリーが王家の威を示す。第二王子フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルクの執務室の風景。
休暇前と変わりない。
マーリカの机の上に三つも積まれた、書類の柱を除けば……。
「こ、れは……一体……」
「色々と、変えることになってしまったから、ね」
すべて、結婚手続きや王家に入ったマーリカが持つ権限に関する書類らしい。
マーリカが第二王子妃になっても彼女独自の権限をもって政務に関わり、フリードリヒの配偶者としてその執務の代行を平時においても認めるためのもの。
第三王子のアルブレヒトから一通りの説明は受けたものの、ここに来て何故こんなことにとは思う。
(しかも期限は、なるべく早くって!)
理由はわかっている。
マーリカを王子妃と国王が正式に認める手続きは、本当なら来年初夏に行う婚儀と同日だった。それをフリードリヒが年内に前倒ししたからにほかならない。
後の工程を担う人のことを考えると申し訳なさしかない。
一昨日に王城に戻り、ほんの三日ではあるものの休暇を早く切り上げ出てきてよかったとマーリカは思う。
「ほとんど、内容確認してもらってただ署名するだけのものだから」
「アルブレヒト殿下と思えない、気休めのお言葉ですね」
いくつか手に取ってさっと見たところ、その内容は契約書や誓約書の類に近い。
目を通して、内容を把握し、了承したと応えるための書類だ。
「一応、変えることは兄上のせいではないよ……マーリカが兄上付きになる以前から議論はされていたことで……」
「ええ、存じ上げております。国王陛下も頭を悩ませていたのですよね」
マーリカの席の前に立ったまま、彼女を気遣うアルブレヒトに淡々と答える。
変えることはともかく、処理を急ぐのは明らかにフリードリヒのせいだと言いたいのは飲み込んで、マーリカはペンを取り上げて書類に取り掛かった。ぼんやりとその量に圧倒されていても仕方ない。
「王太后殿下の身内贔屓が過ぎたのを、女帝と呼ばれたアマーリア陛下が抑えた弊害」
「うん?」
「他の四大国から新興国にして旧弊だと揶揄されることもあったと、フリードリヒ殿下からお聞きしています」
「そういった話もしてるんだ……」
五大国の中でオトマルク王国は、慈善活動や名誉職はあれど、女性王族や貴族女性が表立って活躍する事例が極端に少ない。とはいえ、他国とて当たり前とも多いと言えるほどでもない。
後から台頭してきて発展し続ける国への、やっかみ半分な中傷に近い。
「なにか?」
「ちょっと意外で」
少し驚いた様子のアルブレヒトの顔を仰ぎ見て、彼女はわずかに首を傾げた。
「意外ですか? 婚約する前から面倒だなんだと愚痴はよく聞いてますし、婚約してからは仕事を終えての雑談で王家のこぼれ話のようなものも時折」
「それって、雑談? 兄上も仕事にかこつけてなにをしてるのかと思えば……」
マーリカの言葉を聞きながら、頭に手を当ててうーんと目を閉じ呟いたアルブレヒトの様子が不可解だ。
とりとめない会話であるし、雑談としかいえないものだと思う。
近頃は、まったく脈絡なく口説くような言葉も囁いてマーリカを動揺させるけれど。
「わたしの上級官吏への登用が認められたのも、陛下と宰相閣下が段階的な変化をと考えての試みだったとか?」
「兄上、そんなことまで話してるの?」
「別に気にしていません。希望叶って官吏として働けているのですから」
眉根をわずかに寄せたアルブレヒトに、マーリカは数枚の書類を読み終えて小さく肩をすくめた。
気遣いと立ち回りの第三王子と評される彼からすれば、当人に伝える話ではないと思っているに違いない。
「ところでフリードリヒ殿下は?」
マーリカはアルブレヒトに尋ねた。
予定より数日早く王城に戻ったのに、仕事に戻った今日まで一度も顔を合わせていない。
実家に戻る途中で、人の休暇に便乗してきて気が休まらないと責めたことを気にしているのかと思ったけれど、執務室でも朝から不在で一向に姿を見せる気配もないのは少し変だ。
「リアンヴェルク庭園宮に出かけて滞在中」
「そのような予定はなかったと思いますが、急な公務ですか?」
リアンヴェルク庭園宮は、王都郊外にある隣国リアンヴェルク侯国を治める侯爵家所有の屋敷だ。
オトマルク王国における侯国の領事館として外交や交流拠点も兼ねている。
元はラティウム帝国の侯爵だったリアンヴェルク家が、その莫大な富をもって皇族に貸し付けた借金の帳消しと引き換えに独立した小国は、旧帝国領ではアレマーネと呼ばれるオトマルク王国と同じ地域の諸侯領の一つだった。
オトマルク王家とも親交はあるものの王国建国の際に迎合せず、帝国にも王国にも中立の姿勢を維持している。
味方でも敵でもないが友好的ではあるといった国である。
「向こうから招待されてだけど、公務よりは限りなく私用に近いかも? 侯爵家の宝物館でもあるから」
「ああ、そちらですか……」
「兄上が直接手掛ける案件もなく、社交もあまりない時期で暇だから。気が向いて応じたのかもね」
リアンヴェルク侯爵家は美術工芸品の蒐集でも有名で、そちらの面で個人的にフリードリヒと交流がある。
好事家同士の付き合いはよくわからないが、フリードリヒの興味を惹きそうな品を入手すれば招待状を送ってくるため今回もそういった話なのだろう。
フリードリヒもまったく無視するわけでもない。
アルブレヒトが口にした「暇だから」という理由は実にありそうだ。
「マーリカが夕方に王城に戻った日の昼過ぎくらいに出たかな」
「丁度、行き違ったのですね。どうりで静かだと思いました」
「アンハルトやそれなりの人員も連れているから心配ないし、二、三日もすれば戻ると思う」
「少々、遊びすぎでは?」
マーリカの実家に滞在していた時も休暇のようなものだった。
いくら繁忙期ではなく、大半のことはフリードリヒの筆頭秘書官で補佐を兼ねる第三王子のアルブレヒトの権限で処理できるとはいえ、第二王子で文官組織の長が公務でもなく王宮を空け過ぎである。
「マーリカが戻る前に帰る気ではいたけど」
「わたしがいるいないは関係ありません」
「じゃあ、帰ってきた兄上にそう言ってよ」
アルブレヒトがにっこりと人懐っこい笑みを浮かべて、うっとマーリカは言葉に詰まった。
彼がこういった笑みを見せる時は決まっている。以前は胃が悪そうな様子をしていたけれど、ある頃から急に吹っ切れて強かさに磨きがかかった。
「た、大変でした?」
「それなりにね」
それなり……とても大変だったらしい。
長期休暇を取っていた手前、久しぶりに顔を合わせて早々お説教めいたことは言いたくはない。
しかし、休暇中のマーリカの仕事を請け負ってくれたアルブレヒトに嫌だとは言えない。
「あははっ、冗談だよ。正直、平時は兄上いない方が現場は平和だからねえ」
「それもどうかと……」
「だけど兄上が戻ってきたら、この山ほどあるの処理するどころじゃなくなると思うよ?」
アルブレヒトが机の上の書類を指し、たしかにとマーリカは呟いて次の書類を手に取った。
多く見えるが、数枚から何十枚かの束で一件だから、件数として思ったよりは少ない。
アルブレヒトの話からフリードリヒは今日明日は戻ってこなさそうだ、そのうちに片付けようとマーリカは決める。
「マーリカだけが大変で不本意だって、大兄上も気の毒がってた」
「たしかに少し驚きましたが……目を通す書類の量と手間を考えれば、“豊穣祭の計画書などをまとめる仕事よりはまし”です」
「マーリカさ、調整官の頃を基準にするのよくないよ。実質、新人一人で回す部署なんておかしいから」
「ですが、それも第二王子付筆頭秘書官よりはまだ……」
「兄上がなんでもマーリカに任せてたからでしょう! 僕からしたら、いまさらだよこんな書類……」
軽く苦笑いしてアルブレヒトは、元は休暇だったのだから他の仕事は任せてとマーリカに言って執務室を出ていった。書類に専念しろということらしい。
「アルブレヒト殿下こそ、働き過ぎでは?」
第三王子としての公務やフリードリヒ不在時は代理も務め、マーリカの後任が見つからないままでいる第二王子の筆頭秘書官を兼任もしている。
(年が明けたら、筆頭秘書官はバッヘム主任秘書官になるようだけれど……)
マーリカが手にした書類には、彼女が正式に王子妃として認められた後の文官組織の体制が記されていた。
主任秘書官カミル・バッヘムは、上級官吏に昇格が決まったばかりである。
カミルは中級官吏登用後、公務に就いたばかりの第二王子付となって以来、その職務にずっと従事している。
一定年数以上の専門性の高い官職に継続して従事する中級官吏には、上級官吏への昇格機会を得られる制度がある。上級官吏二名以上の推薦でその実績と能力を問う試験や審査を受けられ、それに通れば昇格できる。
この制度で昇格する官吏はかなり稀である。推薦を得るのも難しい。
アルブレヒトが「カミルって、該当しない?」とマーリカとアンハルトに持ちかけ、たしかに次々と筆頭秘書官が辞めていく間の秘書官業務を支えていたのは彼であることは間違いないと、推薦状を書いた。
(側近らしい側近がいないフリードリヒ殿下付として、クリスティアン子爵よりも長い最古参の逸材って評価で昇格が認められたって聞いた。そう考えると彼以上の適任者はいないかも。まさかそのために昇格を……?)
マーリカは書類の内容を確認していく。フリードリヒが文官組織を管轄する長であることに変わりはない。
その下に、文官組織の内部管理を任せる第三王子、フリードリヒが直轄する政務の補佐と特務の監督を第二王子妃にといった体制になっていた。
第二王子付の秘書官や事務官達は、アルブレヒト監督下に置かれるようだ。
彼を補佐していた官吏も加え、新たに編成される王族付秘書室所属となっている。
(従来の文官組織の運営はほぼアルブレヒト殿下に任せて、フリードリヒ殿下でなければ動かせないものと新しく始めることはわたしの側に集めた体制……)
この書類は、マーリカの判断一つで失敗なんて言葉では済まない事態を引き起こすかもしれない権限と、それをマーリカの手に委ねる期待とその責任を形にしている。
これまで色々な仕事をフリードリヒから丸投げされ、“秘書が勝手にやりました”といった状況もあるにはあったけれど、結局のところ最終的な判断責任はすべて彼が負っていた。
所詮は王族の手間を省くための仕事の一つをマーリカは担っていたに過ぎない。
(こうして目に見える形で突きつけられると、殿下が背負うものの大きさと重さがよくわかる)
フリードリヒからすれば、マーリカが背負うのもほんの小さな一部分に過ぎない。
幼い頃は王太子に万一があった時の控えの王子であったし、万一がなくても将来は王を支える第一の王弟。
なにが気楽な第二王子なのだろう。
日頃の彼の言動が思い出されてマーリカはつい胸の内でぼやいてしまう。
どうしようもなく怠惰で気まぐれで、現場の官吏は大迷惑を被ることも度々だけれど、フリードリヒは王子としての務めは果たしている。
――こういってはなんだけど結構重責ではあると思うよ。
ふと、マーリカに求婚してきた時のフリードリヒの言葉が耳の奥によみがえった。
思えば気楽な調子で言ってくれたものだなと、彼女は背筋を伸ばした。
アルブレヒトが書類に専念させてくれたおかげで、マーリカは丸二日間かけてなんとかすべての書類を片付けることができた。
こうして、第十一の月も最終日を迎え――。
当初の予定でマーリカが休暇を終えて仕事に戻る前日の夕方に、フリードリヒは王城に戻ってきた。
定刻で仕事を終え、私室に戻ったマーリカは侍女のハンナからその知らせを聞いた。
「つい先ほど戻られたばかりですが、夕食をご一緒にとのことです。マーリカ様のお帰りが早くて助かりました」
「至極平穏無事に自分のことに専念できていたから……」
「心中お察ししますが、すぐお支度を」
平時はフリードリヒ不在の方が現場は平和といった、アルブレヒトの言葉が否定できないのが複雑だと思いながら、ハンナや部屋付きの侍女のされるがままに支度をすすめる。
緩く左右の髪を後ろへ結い上げ、露出した耳を仕上げに飾り、満足そうに息を吐いたハンナに礼を言ってマーリカは鏡に映る自分の姿を見た。
(深く濃い群青色のドレス。また見たことのない服が……でも、わたしの髪色に配慮して襟元から広く重ねられた黒いレースや、光が当たれば湖の表面のような艶を放つ絹地が綺麗)
それにしても。装飾控えめな全体を裏切る、胸元で光る透き通った水色の石が、大きい。
小鳥の卵くらいはある。
フリードリヒの有り余る私財で賄われているものではあるものの、毎度毎度、散財するにも程がある。
(殿下のお金だけれど、国庫を食い潰す王子妃なんて噂が立ったらどうしようっ)
「いつにも増して、おめかしし過ぎでは?」
「そうですか? 社交の季節も終わって、しばらくご実家で寛がれておりましたから、そのように思われるだけではないですか」
そうなのだろうかとマーリカが不思議がれば、鏡越しに目が合ったハンナがにっこりと微笑む。
ハンナに同調して他の侍女もうんうんと頷いている。
「お綺麗です。お仕事着でもフリードリヒ殿下は満足されるでしょうけど」
それならそれでよしとしたいが、伯爵家の娘として婚約者の王子に礼を失するわけにもいかない。
別に装うこと自体はマーリカも年頃の令嬢らしく嫌いではない。
ただ相手が美の女神に愛された無駄に綺麗な容貌をした王子なだけに、一生懸命飾り立てたところでとつい自意識過剰に考えてしまう。
その彼が見立てる贅を尽くした衣装をまとい、磨き立てられていることも少しばかり気恥ずかしい。
こういった時はただの主従関係が楽でよかったなと、思ってしまうマーリカである。






