3-9.新しい年を迎える前に(1)
「驚きましたね。まさか王都の一等地が……それを完全に明け渡すと?」
秋深まりしオトマルク王国、王都リントン。
栄える街を見下ろす高台に立つ王城の一室……ではなく。
広大な敷地内に立つ離宮に静養中の国王を訪ねた、現在国王代理を担う王太子ヴェイルヘルムは、寝室で痛めた腰を労る父親より渡された書類を読んで呟いた。
そこに書かれているのは、遷都の際に結んだエスター=テッヘン家が所有する土地に関するオトマルク王家との取り決めを廃し譲渡するといった内容であった。
「持参金の一部だそうだ。王家に嫁ぐのならということだろう」
「王太子教育でもそのようなこと教えられませんでしたが」
「国王機密だからな。爺様の曾祖父様がオトマルク国土の土台を固めて王都を移す際、まだ帝冠領貴族だったエスター=テッヘン家の所領の一部がかかっていたらしい。この国は元々帝冠領他属領の寄せ集めだからな」
「はあ」
「丁度、帝国から脱したかったエスター=テッヘン家と交わした密約だそうだ。その後、かの家はいまのあの当たり障りのない伯爵領を治める貴族として移っている」
それであの一等地に、かの家の王都屋敷があるのかとヴィルヘルムは得心がいった。
まったく家の歴史が古いだけの弱小伯爵家というのはなんなのだろうか、歴史の古さの重みが恐ろしい。
「まるで他国の王女を迎える気分です」
「似たようなものだろう。大体、エスター=テッヘン家がオトマルク王国に移ってきた際のどさくさと帝国皇女だった祖母様が持ってきた土地があのあたりの領土の大半を占めている」
「しかし無償とは。本来なら莫大な地代となるところ欲のない」
「そういった心休まらぬ富は不要とする家だ。これまでと変わらず互いに永代無償ということで書き送った。嫡男の誕生祝いにはなるだろう。どうせ慈善施設と化しているしな」
「フリードリヒはこのことを?」
「儂は教えておらぬし、あやつも教えなければ知らんだろう」
我が父ながら能天気なとヴィルヘルムは顔を顰めた。
持参金ということは、万一、婚約破棄や離縁となれば土地の返還で揉めるのではないのだろうか。
さすがにその後まで互いに無償を継続してくれるとは思えない。
「ヴィルヘルムよ」
「はい」
「お前、フリードリヒがマーリカ嬢を離すと思うか?」
父ゲオルクの言葉に、ヴィルヘルムは天井画を仰ぐように顔を上向けてしばし黙考する。
婚約した途端に王子妃待遇で王城内に囲い込み、仕事も私生活も彼女をほぼ独占し、有り余る私財で本当に彼女自身が所持する私物以外は言葉通りにボタン一つも譲らない。
さらに確定している結婚の前倒しまで交渉してきた。
妻への独占欲に関して人のことは言えないが、あそこまで徹底はしない。
自分は弟よりはましだなとヴィルヘルムはうんと頷き、そして父親の問いに答えた。
「いえ、まったく。取り上げたら我々を滅ぼすやも」
「だろう。連合王国もフリードリヒに任せるでよかろう……儂まだ死にたくないし」
「本気で息子に怯えないでくださいますか」
「まあとにかくだ。いまだ清い関係というのが不思議だが、マーリカ嬢もフリードリヒを受け入れてくれているようであるし、あやつも娘の結婚を許容してくれている」
「しかし、マーリカ嬢はフリードリヒのどこを気に入ってくれているのか」
「さあ、儂もわからん。妃が聞いたところによると“尊重してくれるから”らしい」
「あれで?」
(仕事では振り回され、私生活では息詰まるほど囲い込まれていて?)
もしや、マーリカは実家で冷遇でもされていたのではとヴィルヘルムが心配しかけたのを彼の父親は読み取ったらしい。あやつほど子煩悩な奴は知らんと呟いた。
「そういえば、テレーゼも意外とマーリカ嬢は惚気ると言っていた」
ヴィルヘルムは妻の言葉を思い出した。
王太子妃として王子妃となるマーリカの力になっているため、彼女も打ち解けているらしく色々と相談事なども聞いているらしい。
「ほう。詳しく聞かせろ」
「父上……」
「し、心配だろう。フリードリヒはともかく、マーリカ嬢はいまひとつ掴みにくい」
「私もそれほど詳しくは。なんでも“マーリカ嬢自身よりマーリカ嬢のことをわかっているからずるい”と恥じらいながら口にするそうで」
「……女心はわからぬな」
「ええ」
本当にわからない。全身の寸法まで計算され、ありとあらゆる情報を把握されては流石に怖がりそうなものであるのに。怒ってはいたらしいが、拒絶はしていない。
「まあとにかく、新しい年を迎える前に万事滞りなく進めよ」
「はい。手続書類はマーリカ嬢が大変なだけなのが心苦しくある」
「逃げられないよな?」
「フリードリヒは、“豊穣祭の計画書と比べたらまし”と言うくらいではと」
「……結婚休暇、既定の倍にしてやっては?」
「私も同じことを父上に提案しようと考えていました。結婚休暇は国の存亡に関わる事案以外は邪魔されない休暇。二人同時であればマーリカ嬢も心置きなく休めるでしょう」
国王と王太子が頷きあい、かくして結婚の認めと婚儀と両方で結婚休暇が付与される特例が定まった。
その話を得意げに聞かされた彼等の妃は、大いにマーリカに同情し彼等を叱ったという。
*****
北部の入口とはいえ、王都より冬の訪れは早い。
第十一の月に入って五日、エスター=テッヘン領に初雪が降った。
(殿下が王都に戻ったあとでよかった)
自室の窓から降る雪を眺めてマーリカは、十日間の滞在でエスター=テッヘン家を発ったフリードリヒのことを思う。まだ積もるほどではないが彼は寒さが苦手である。
(温泉地を気に入って、別荘を建てたいと言い出した時はどうしたものかと頭を抱えたけれど。お忍びの保養地としてはいいかもしれないけれど警備面が……いやいや、領内に王家の別荘は無理)
それにいつの間にか、北部の行政機関との共同事業となっている。
異国情緒が溢れる建物や大市を模した土産物通り、貴族も食べ歩き可能な路地が受けているらしく、じわじわと北部以外からの観光客も増えているらしい。
「マーリカ様」
呼びかけられて、マーリカは我に返った。
窓の外から室内へと目を向ければ王宮から随行してくれている侍女のハンナが、揃いの首飾りとイヤリングと腕輪の入って箱を持って立っていた。母の物だが、結婚する娘にと譲られたものだ。
元侯爵令嬢なのでそこそこ数を持っていて、姉二人もいくつか譲られている。
「こちらは持ち物に含めますか」
「ええ。すっかり主力ね」
「こちらの皆様が立ててくださっているだけです。皆様手際がよくて素晴らしいお仕事をなさいます」
そんなことはないと思うけれどと、褒められたわときゃあきゃあ喜んでいる使用人達を見てマーリカは苦笑する。
手続きを早めるにしても予定通りにしても、来年の新緑の頃には婚儀を行うことになっている。
今回のマーリカの休暇は、実家で必要な結婚仕度を進めるためのものだ。彼女自身が取得したというよりは半ば与えられたようなもの。期間も過去に取得した十日前後の休暇と違って一ヶ月半もある。
「そう。お母様が随分張り切ったみたい。ご自分の物からエスター=テッヘン家の代々の物まで色々と選別してくれているけれど、一番詳しいのは貴女だから任せていいかしら」
「わたくしでよければ」
よければもなにも、本当にハンナが一番マーリカの身の回りの物について詳しい。
フリードリヒが有り余る私財の散財先として、色々と贈ってくれるものを管理してくれているのは彼女だ。
「お願いします。目録は侍女頭のコリンナに任せてください」
「かしこまりました」
しばらくしてハンナと入れ替わりで、この家で一番年配の侍女のコリンナが来てマーリカにお茶を勧め、小テーブルの席で書類を確認していた彼女はありがたく休むことにする。
「お嬢様が王家に嫁がれるなんて、いまも夢のようです」
「行き遅れを心配していたものね」
「奥様などそれはもう張り切っていらっしゃいましたよ。本当はこちらでお嬢様と過ごすつもりが、旦那様が心配性なばかりに」
「ご実家から王都にいらっしゃると手紙にあったから。お父様も王城の部屋を手配したみたい。年越しの夜会にも出るそうよ」
「それは楽しみですね」
楽しみというより、気が重い。年越しの頃には王子妃と正式に認められている。
家族と過ごす時間は確保するとフリードリヒは言っていたけれど、叶うものなのだろうか。
第十二の月は王宮にとっては締めくくりの月だ。
駆け込みの書類が増える時期。
(お気遣いはうれしいけれど、年明けにいつにない仕事が控えているのを忘れているのでは?)
年が明ければ、フリードリヒがアルヴァールの式典に出席する準備がある。
アルヴァールは議会と社交の開始が第二の月からと早く、女王陛下在位四十年の式典もその時期に合わせて行われる。他にも、マーリカ自身が王宮で進めている“女性官吏の登用制度”導入の第一歩として、見習い官吏の受け入れも控えているし、婚儀の支度だってまだ細々したことが残っている。
やるべきことが多いとため息を吐きかけた時、マーリカの部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「マーリカ、いいかい?」
「あ、はい。マティアス兄様」
「おやおや、まるで店でも開くようだね」
今日は身につける物をまとめて整理すると決めていたため、マーリカの部屋はドレスや装身具などが並べられ、侍女達もいつになく楽しそうにしていて、部屋全体普段ない華やぎがある。
「お母様とコリンナがほとんどしてくれていたけれど、やはり確かめておきたくて」
「この手のものは殿下がほとんど用意してくれているのでは?」
「なにも持たずにというわけにはいきませんよ。お姉様の時も、結婚の支度は大変なものです」
じろりとマティアスを牽制するようにコリンナが口を挟み、マーリカは彼女を軽くたしなめるとマティアスのお茶を頼み、自分の向かいの席を彼に勧めた。
昔から少しばかり口うるさく保守的な彼女は、マティアスをあまりよく思っていない。
「マーリカはなにを?」
「財産目録の確認を」
「殿下が帰ったところで休暇とは名ばかりか」
「はい」
「私を前に、弟子は少しばかり元気がないようだね。殿下が戻って寂しいのかな」
顎先を美しい形をした手の指先で押し上げられて、マティアス兄様とマーリカは彼を咎めた。
こういうことをするから、コリンナが彼に目くじらを立てるとわかっていてやるのだから呆れる。
「寂しくはありませんし、一応わたしも婚約者を持つ身ですよ」
「一応とは随分と不確かだ。付け入る隙がありそうだよ」
「なんの冗談です」
「意思表示はしておこうと思ってね。気が重いようならいつでも私が弟子を引き受けよう。安心だろう」
「マティアス様! 結婚前はなにかと不安になるものです。冗談でもなんてことを!」
ガシャンといった音は立てなかったが、立てそうな勢いでお茶を置いたコリンナにマーリカはため息をついた。
正直、悪ふざけもお小言もどちらも勘弁してほしい。
室内にいるハンナを含む三人の侍女が、こちらに興味を向けているのも。
「二人とも……」
「コリンナ、冗談でこんなこと言うものか」
「マティアス兄様もっ……えっと」
マティアスの親指が頬を撫でている。
小テーブルに身を乗り出していた彼の目がじっとマーリカを見つめていた。
「私の弟子も、これが冗談に思うかい?」
「……どう考えても悪ふざけにしか思えませんが? コリンナもむきになってもマティアス兄様が喜ぶだけです。お給仕はいいからハンナのとこへ戻ってあげて」
「ですが……その、失礼しました」
まったくと、マーリカがマティアスを軽くにらめば、彼は手を引っ込めて肩をすくめた。
手強いと呟きカップを取り上げるマティアスにマーリカはため息を吐く。
(コリンナを揶揄ったのだろうけど……)
マーリカも一瞬、動揺しかけた。
しかし目の前の彼は、いつもの従兄だ。
「意思表示はやり過ぎです……それにもう子供の歳ではないのですよ」
「成人して一年過ぎてあのような切り返しでは、まだ可愛い弟子だよ」
「どう言えばよかったのです?」
「答えなくていい。誠実さなど求めていないからね……悪ふざけに動揺するほど殿下が好きかい?」
にやにやと笑んだマティアスに、答えませんとマーリカは窓の方向へそっぽを向いてお茶に口をつける。
降る雪を再び見ながら、使用人達にはわからない程度小さく頭だけを揺らす。
「やれやれ。視察であれだけ翻弄されて、どこがよいのだか」
「反対……ですか」
「いいや。ただ、殿下はマーリカに幸せな相手か心配している……とはいえ、止められないものだ」
止められない。
そうかもとマーリカは思う。こうして離れていてもふと考えてしまう。
彼が仕事をしているのかだけでなく、どうしているのだろうかと。
当たり前に触れる指や彼女を呼ぶ声も。
(毎日、しつこいほどだから急になくなると……落ち着かないというか。マティアス兄様に触れられてもそれとは違うというか。寂しいとも違うのだけれど)
「マティアス兄様が心配するほどではありませんよ。結構楽しくもありますから」
「私の言葉が通じていないね。まったく……まあ泣きつきたくなったら泣きつくがいい」
「はあ。以前から思ってましたが、マティアス兄様の中でわたしは十歳くらいで止まっていませんか?」
「実際そうだからねえ。私のかわいい弟子は……さて、これ以上邪魔するとまたコリンナの小言が始まりそうだから退散するとしよう」
「なにか用があったのでは?」
もう済んだよと立ち上がったマティアスに、マーリカは首を傾げてお茶を飲む。
その後、予定した整理はその日のうちに終えた。
翌日以降も着々としなければいけないことを進め、父親やマティアスと家族の時間を過ごし、雪が続く日が増えて地面や木々の枝を白一色になった頃に実家ですべきことは全部終わった。
思ったより早く終えられたため、休暇はまだ十日ほど残っている。
本格的に積もる前に帰ろうか、もう少しのんびり過ごそうか迷っているうちに一日が過ぎ、その翌日は弟と過ごしていたマーリカだったが、翌朝のよく晴れた天気を見て気持ちが固まった。
「王都へ帰ります。こういった晴れの日も少なくなってきましたし」
「まあすぐ顔は合わせる。構わんが我が家の馬車で鉄道駅まで行って手荷物以外は馬車に任せて帰りなさい」
朝食の場で父親に告げれば、そう言われた。
昨年の事故を心配してのことと思うと従うしかなく、マーリカは頷く。
「マティアス兄様は?」
「親父殿に留守の間を頼まれてしまってね。王都は年明けだ」
「そうですか」
ハンナ以外にもマーリカ付きで残った護衛の近衛騎士が二人いる。
彼等を引き連れて、マーリカはエスター=テッヘン家を後にした。出る前にもうしばらくは来ないだろうと屋敷全体を前庭から眺める。
「マーリカ様」
「初夏の眺めが一番いいのだけど。行きましょうか」
二度と来られないわけではないが、なんとなく感慨深いものを覚えながらマーリカは彼女の実家の馬車に乗り込むと父親に指示された通りに王都に戻った。






